2014年08月01日

140801 私の高校時代

私は山口県の奥深い熊毛南高校を卒業した。本当に熊が出たかどうか知らないが、兎に角田舎の高校で昔からスポーツもダメ、進学も最低レベルで有名大学への進学も稀で、時折東大合格者が一人でも出るともう町中が大騒ぎになった。近年は学区制も廃止されて、更にレベル低下が進み、国立大学や有名私立大学には全く合格できなくなったらしい。                               
しかし今夏の高校野球地方大会で突然私の母校が変身した。初戦を突破して連勝に連勝を重ね、遂に決勝戦まで進んで、あわや県代表になるところだったが、春夏連続出場を狙う強豪の岩国高校に僅差で敗れた。当然と言えば当然だが、今までは地方大会の初戦に勝つことが目標だった弱小高校なので驚いた。青春時代の私が小さな胸を痛めた母校であり、久し振りに半世紀以上昔の、私の苦い高校生活を思い出した。   
母校に輪をかけて私も田舎者だった。普通高校と専門高校の区別さえ十分には理解せず、単に姉の嫁ぎ先に近くお米や野菜の運搬に便利だという理由で進んだ高校だった。3年生なって始めて大学受験をどうするかを真剣に考え始めた。お金が無かったから修学旅行には参加できず、京都大学に進学するから京都旅行は行きません、と言訳して参加を断ったが、何とも大胆な言訳をしたものだと、今ごろになって恥じている。           
父親が早逝して貧乏な我が家は、兄や姉も進学せず、兄が私の大学生活費や学資を出してくれるかどうかも分からなかった。小遣銭にもヤミ米を運んで売っていたから、金がないことだけは確かで、相談すれば否定的な結論は見えていた。しかし相談しない訳にもいかず、遂に意を決した試験だけでも受けたいと兄に申し出た。3男坊主の私は、家業の農家を継ぐことはできず、進学しない場合、兄嫁が務めていた近くの、塩田会社に就職することがほぼ確実だったので, 恰好を言っている場合ではなかった。

3年の同級生達は、受験勉強する素振りを殆ど見せなかった。彼らも進学する筈だが、受験勉強している姿を仲間に見せるのが恥ずかしいらしく、如何にも受験勉強なんか気にしない振る舞いだった。しかし私にはそんな余裕はなかった。失敗すれは牢獄行きではなくとも、炎天下の砂浜に海水を散布して乾いた砂をかき集める超厳しい製塩作業が待ち受けており、懲役刑以上の苦役になるのは目に見えていた。私は暇さえあれば旺文社の英単語豆辞書を取り出して丸暗記に務めた。私がガリ勉する近くで、友人達は如何にも余裕あり気に雑談しながら冷やかに私をみていた。  

当然のことだが、友人達や先生達も私をガリ勉野郎だと軽蔑していたと思う。愉快に談笑する友人達の冷たい視線はヒシヒシと感じていた。しかし私は無視した。その内に必ず見返してやると心に決めて、脇目も振らずに赤尾好夫の豆単を小声で音読し続けた。Abandon捨てる、Ability能力 Abolish廃止 …と。学習塾などが田舎にある筈が無く、精々100円の豆単を覚える以外に有効な受験対策を知らなかったから。

いよいよ3年秋になり、大学に受験願書を出す時期になった。担当の加藤先生は、私が超難関のK大学工学部を受験するなんて無茶苦茶だ、合格する訳がないと大声で反対したが、押し切って願書を出した。そして早春の寒い日に片道5〜6時間かかる電車に乗って受験に出掛けた。流石に難問ばかりで加藤先生が言った通り、やはり私には無理だったかと後悔の念に駆られ、サクラサクの電報さえ申し込まなかった。

しかし私は合格した。高校の同級生殆どは不合格で浪人生活に入り、これから受験本番だと話していたが、私は浪人生活には無縁となったが、多感な高校時代を屈辱のガリ勉生活で過ごした頃から、私の偏屈な性格は磨きがかかり、友人との付きあいは苦手で、志を内に秘めて行動する私の暗い性格が形成されていった。
               
大学に入ってからも授業のレベルが高く苦労した。大学同期の仲間は受験勉強から解放されて彼女達と楽しんでいたが、私にはそのような心の余裕は無く、更にお金も無かった。バイトで少しでも生活費を稼ぎたいと思ったが、朝から夕方まで予習復習に追いまくられた。やはり加藤先生の判断通り、私の頭脳は精々標準レベルで、一流大学の厳しい授業には追いつけなかった。人の何倍もの努力しなければ、私は人並みになれないことを何回も思い知らされた。
                
それほど大胆でもないのに、次第に私は他人や周囲の目を気にしないようになった。最後に勝利を掴むことさえできれば、少々軽蔑されたり仲間外れにされても我慢して、忍耐強く頑張り続ける性格が身についた。またワイワイ騒いだり、軽快な会話に軽く応じることも苦手で、いつも腹の底に落して判断しながら会話する重苦しい性格になった。私のこの反骨精神は社会に出てからも益々磨きがかかり 少々の逆境にも平気で立ち向かえるようになった。
                            
その内、私は努力してやっと他人に追い着くだけでは満足できなくなった。他人を乗り越えて見返してやりたいと挑戦する気持を抑えられなかった。例えば工学部を卒業して技術研究所に入社した後、夜間の経済学部に再入学した。上司や仲間の妨害を我慢しながらも遂に卒業し、更に工学部、経済学部の両分野のマスターした成果を仲間にみせてやろうと、社内の懸賞論文に投稿して一等賞を獲得したり、本社企画課長に任命されても旧来の社内調整役から脱皮して、新規事業の企画立案へと方針転換し、PPSなど大型新製品の導入に突進した。
しかし何を計画しても社内の現業部門や管理部門から横槍が入り、はかなか思い通りに仕事ができないので
本社とは離れた別会社を作ることを思い立ち、病院ドクターへ診断薬を直販する合弁会社を設立して自分が社長になった。果敢にみえる私の諸々の行動は、実は自分の能力不足を挽回したい一心で、目を瞑って無鉄砲に突進したのが実情だった。  
                   
大きな波乱に煽られながらもサラリーマン生活を終えて、私は定年退職したが、今度は自分の出資で小さな機械メンテナンス会社を設立した。田舎の親兄弟は反対したが迷惑はかけないからと押し切った。元気がもあったが、周囲の殆どの友人は、無謀過ぎる、負債で自宅も財産も失うぞ!と繰り返し警告した。私も多分倒産するだろうと予感して、家屋敷を妻に生前譲渡し名義を変えて備えた。そして何とか15年間を切り抜けて、今は安定した経営に落ち着き、幸い家族と健康に恵まれて、娘息子や孫達も各々自分の持ち場を作り、相応に活躍している生活に落ち着いた。私は見栄を張る気は殆ど無いが、毎日ウロウロしながら長い余生を如何に時間潰しするかに汲々としている自宅周辺の同輩達の哀れな姿を見ると、私は勝ったのだとも思う。しかし何とも危ない橋ばかり転落することもなく渡ってきたことは運命の女神に感謝しなければならない。 





mh3944 at 09:05│Comments(0)TrackBack(0) 雑感 

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