2023年03月06日

受験シーズンも終わった

やっと受験シーズンも終った。医学部を3浪中の知人の結果は如.何だったかと気掛かりだ。合格なら天にも昇る気持ちだろうが 不合格ならもう死にたい気分だろう。受験失敗で失意の底に落ち込んでいる学生も多いことだろう。超高齢の私も 大昔の受験時代を思い出した。難問の数学が解けず、試験会場の2階から投身しようかと思いつめたこともあった。
                                    
しかし受験はまだ人生のほんの入口で、これから長い一生が始まるのだ。真面目に努力すば幸運も必ずやって来る。受験失敗で人生を諦めることは絶対不可。私も色々な幸運と不幸に遭遇したが、総じていえば不幸より幸運が多く、受験会場から飛び降りなくてよかったと思っている。
                                                               
学生時代の級友達は優秀で、私は楽な大学生活ではなかった、なんとか4年生になり、就職相談の時期を迎えると、級友達は成績順に次々と就職担当の教授室に呼び込まれ 住友化学?or 三菱化成? 東レ? or 帝人……と超大手会社を学生に選択させたが 私だけ何故か声がかからなかった。疑問に思い、就職係に問い合わせると、就職担当のK教授は 私には就職指導しないと言っているとの返事で仰天した。半年前にK教授担当の燃料学目の試験で不合格になった私は, 採点内容の説明を求めてK教授室に伺ったが、学生の身分で教授の採点にケチをつける と激怒されて追い帰された事件があった、そのK教授が就職の責任者だったとは私は全く知らなかった。
                                                                  
結局 私だけ就職先が決まらず このままでは夏休みに帰郷もできないと、一人寂しく研究室で居残り実験しながら悩んでいた。その頃 日本に進出したばかりのJRCコーポレーションという米国系会社の常務が大学にやってきた。採用活動に出遅れた 。もし誰か残っていたら紹介してほしいとの話だった。一人だけ残っていると紹介された私は即座に入社を受諾した。誰も知らない無名会社で 級友達には話せず、有名会社を望んでいた親兄弟も落胆したが、大手より新進企業の方が思いっきり働けるだろうと私は内心では喜んでいた。
                                       
そして尼崎駅前のJRC研究所に就職した私は5年間夢中で働いたが、東京に行きたいと思い始め、渾身の論文を書いた提案が認められて、30才の私は憧れの東京本社の企画課長に脱出することに成功したのも大企業ではありえないことだった。私は夢中になって働き続けて40才代半ば、全く偶然に慶応大学病院神経内科の懇意な先生が 私の脳腫瘍を発見して、即時 慶大病院に入院して摘出手術を受けた。もし尼崎研究所生活が続いていたら、脳腫瘍の発見も遅れて 確実に半身不随の後半人生になっていただろうと思う。
                                             
しかし会社中枢の企画部長が 脳腫瘍患者ではシャレにもならないので、私は本社企画部長を辞めて、社外に出ることを決意し、米国医療診断薬メーカーD社との合弁会社NDPC社を設立して出向し、50才で合弁会社社長として、未知の臨床検査業界に飛び出した。そして10余年間、世界を股に活動して退職したが、まだ元気満々なので 半導体製造機器メンテ会社を設立し、自営会社の社長として存分に働き、家族運にも恵まれて 85才で完全引退した。
                                    
受験生諸君にアドバイスしたいことは、大学受験は人生のほんの入口である。窮屈な医師で我慢しなくても、ITエンジニアなどもっと自由に働き稼げる。人材の詰まった大企業より中堅企業のほうが存分に動ける。民間企業なら東大卒でなくても 何不自由なく持てる力を発揮できる。長い人生では次々と不幸の嵐も吹くが、諦めなければ幸運もやってくる。 忍耐心をもって努力すれば道は必ず開け、チャンスも見えてくる。大切なことは、親しい友人知人網を多数持ち、仲間の意見を聞き相談しながら難局に対策することだ。相談すれば素敵なアイデアも生まれて、人生の大嵐は殆ど乗り切れるということである。



mh3944 at 10:59│Comments(0) 雑感 

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