2009年01月09日

CO2で地球は温暖化するのか?−

 CO2で地球は温暖化するのか?−
 CO2で地球は温暖化するのか?−

CO2温暖化論の唯一の『証拠』として挙げられるのが、スーパーコンピュータによるシミュレーションである。

 これは私だけがこう言っているのではない。他ならぬCO2温暖化論者がこう言っているのである。
 『(略)現在までに得られた知見を基に、気候モデルを構築し、それを用いた将来の気候のシミュレーションに基づいて、将来の影響を判断するしか合理的に将来を予測する方法はないのです。最近発表されたIPCCの第四次報告書の「人間活動による地球の温暖化はほぼ確実である」という結論も、気候モデルの信頼度が増したことによっています。』(さらに進む地球温暖化/住明正<ウェッジ選書>)

 日本だと、横浜にあるスーパーコンピューター『地球シミュレーター(2002年)』がよく知られている。これは海洋科学技術センターと当時の宇宙開発事業団(宇宙航空研究開発機構)、当時の原子力研究所(日本原子力研究開発機構)がNECと共同開発したものであり、スーパーコンピューター640台をつなぎ、毎秒40兆回の計算が行えるという、当時としては世界最速のものだった。(もっとも、その後アメリカ勢に抜かれてしまい、それを挽回すべく『京(けい)速コンピューター』の開発が進められているという。参考までに、地球シミュレーター開発に投入された金額は約470億円、さらに年間の電気料金が数億円というシロモノだが、この『京速コンピューター』の開発予算は約900億円という。その資金は結局は税金ということになる)。

 これだけの巨費を投じたプロジェクトで、ここで為されたシミュレーションがIPCCの報告書にも反映されていると聞けば、普通の人ならそれで未来の気象がわかると考えるのも無理はない。数字の大きさと、IPCCという、なんだかわからないけど中立的に見えて権威もありそうな組織に対する信頼感が、多くの人のCO2温暖化論に対する『コンセンサス』の大きな要因となっている。

 けれども、毎秒40兆回とか、京速であるとかの計算速度と、未来の気象(気候)の姿を予測できるかどうかは本質的には関係のない話であることをまず強調しておかれなければならない。地球シミュレーターは早い話が『超高速計算機』にすぎないのであって、別にコンピューターが『地球温暖化の原因は人為起源の二酸化炭素である』という結論を出すわけではないのである。あくまで、人間の入れたデータをもとに計算を行い、そのデータをもとに、人間の設定したプログラムにのっとってグラフィック化するというだけのことである。かつて第5世代世代コンピューターという、『推論』するコンピューターを開発するプロジェクトが結局上手くいかなかったように、コンピューターに未知の事案に対して推論する能力をもたせることなど本質的に不可能なのである。

 そうなると、計算に際して入力する情報こそが問題になる。しかし、その入力する情報の『質』はつまるところ人間のフィルターを通すしかない。どうもここのところが誤解されているようで、人間が気象に関する森羅万象に通じているわけでは『絶対に』ないのである。大気、海洋、その相互作用、さらには環境と生物圏の関係など、結局はよくわからないことだらけのまま未来を予想しているのであって、そもそもスタート時点で無理がある。

 温暖化予測に関して、気象のモデル化ということが言われる。これは、気象に関わる物質の多くが固体ではなく、流体(液体と気体)であることから、これらを一般のニュートン力学では説明できないことに鑑み、ナヴィエ・ストークス方程式と呼ばれる流体についての運動方程式を用いて、これを熱力学の法則と組み合わせて地球大気の状態を表現しようとしたものである。こうしてできたものを気象(大気)モデルといい、いってみれば地球大気の数学的表現である。そして、これらの作業を実際に行う人を一般にモデラーという。ちなみに、先の日本の地球シミュレーターは『大気大循環モデル』『海洋大循環モデル』『(両者の)結合モデル』によるシミュレーションを行うものであるという。こうしてモデル化した地球(数値化された地球)を未来に向けて『走らせ』て、50年後、100年後の気候を予測しようとする。

 しかし、ここで『常識』にのっとって考えていただきたいのが、天気予報でアテにできるのはせいぜい48時間後ぐらいまでといわれているということなのだ。明日、明後日の天気なら相当程度の確率で予測できても(それでも外れることは少なくない)、週間予報ともなるとむしろ『当たるも八卦、当たらぬも八卦』の世界になってしまい、まして長期予報(3ヶ月予報)ともなるともうメタメタで、気温が『平年より高い』『平年並み』『平年より低い』の三択問題でさえしょっちゅう外れてしまう(2007年の夏の長期予報が『猛暑⇒平年並み⇒猛暑』と2転したことを忘れないで欲しい)。こんな状況で、50年後、100年後の『気温』の高い低いを言われてハイそうですかと信じてしまう人は、私に言わせれば『自然に対する謙虚さが足りない』ということになる。

 前述の『さらに進む地球温暖化』の著者である住氏は、シミュレーターは50年後、100年後の天気を予測することはできなくても、気候の傾向を予測できるという。けれども、シミュレーターは時間追跡で順番に1年後⇒10年後⇒50年後と計算していくのだから、短い時間でも現実と合わない現状を考えれば、長い時間になればますます合わなくなるのは自明のことであって、これで遠い将来の気候傾向がわかるというのは強弁も甚だしい。これは、今以上に気象に影響を及ぼす現象を人間が把握できたとしても事態は変わらないというか、変数が増える分むしろもっと悪化することになる。

 さらに、このテーマにおいて、観測から導かれた事実により、CO2の変化⇒気温変化ではなく、気温変化⇒CO2変化であって、一般に言われているのとはむしろ相関が逆であるということはすでに述べた。つまり、事実としては存在しない事象がシミュレーション内の世界には存在することになる。けれども、先に述べたとおり、これはシミュレーターがそう判断したのではない。人間が『(事実がないのに)CO2が増えれば温暖化するという前提においてプログラムした(パラメーター化)』ことに基づいて、コンピューターが計算したというだけの話である。つまり、気候変動におけるシミュレーション予測というのは自然現象を予測する方法として土台からして間違っている。

 簡単にいうとシミュレーションというのは、『相似計算』ということであって、「事実があって、それを真似る」ことにより、実物を使うことなく事実に迫ろうというものである。だから、建築などの構造計算などでは大変有意義なのであって、シミュレーションという手法そのものを全否定することにはならない。問題は、あまりにも膨大で人間がその全てを把握するのが不可能な気象現象というものを、しかも事実として存在しないパラメーター(前提)を使って計算するということにある。

 パラメーターについてはまだある。そもそも、CO2が遠赤外線(つまり熱)を吸収、発散するというそれ自体は事実ではある。けれども、それはあくまで分子レベルでの話しであって、それと現実の大気がCO2によって言われているほどの(平均気温を2〜6度にもわたって)押し上げるほどの温室効果があるのとはまた別の話なのだ。実際の大気において圧倒的な温室効果を持つ物は、実は水蒸気であることを認識しなければならない。そして、それは変動が大きすぎて(相変化が激しすぎて)、シミュレーションの中でうまくパラメタ化できないという。だが、肝心の水蒸気の温室効果を取り込まずに何故CO2の温室効果をパラメタ化できるのか?

 モデラーの人たちがいい加減なことをやっている、とまではいわない。彼らなりにいろんなことを『誠実に』考えて、プログラムしているのだとは思う。けれども、原理的に人間の手に負えないものは負えないのである。維持するだけでも数億円という『巨大計算機』に予算や人手を使うぐらいなら、減らされているという観測所とそれに伴うマンパワー、さらに個々の災害対策にこそそれを投じて欲しいと心から願う。

          ***

 一応、まとまったエントリーとしてはこれで一旦このシリーズを終えます。ただし、環境問題は非常に関心の強い分野ですので、これからもCO2温暖化論を含めて散発的に取り上げるつもりでいます。このどうでもいいネタに多くの人の目が曇らされ、肝心な問題に注意が向かない現状を真剣に憂いています。


 

michihiro206 at 00:50コメント(0)トラックバック(0)環境問題 

2009年01月07日

政治的ですが、何か?

 東京日比谷の派遣村が、何故厚労省のすぐ傍の日比谷公園に存在するのか、それは政治的な意図があるからではないのかという意見があるようだ。(例えばここ

 これに対する返答は簡単であって、『多分そうだと思いますが、で?』という一言だけ。

 よく考えて欲しいのだが、彼らがひっそり=といっても500人を超える大所帯だから、そう簡単にはいかないだろうけど=どこか人目につきにくい場所で年を越したら、果たしてこれほどのニュースになったか、これほど皆の注視を集めたか。

 仮に彼ら約500人が無事でも、その背景にはここに来る事すらできない無数の失業者が存在する。さらには、まだ顕在化していない、8万5千に上るという非正規社員の失業予備軍(政府予測)がいる。この人たちの存在をどう政治家に、キャリア官僚に、マスコミ関係者に、そしてとりあえず現時点では失業と縁のない無数の人々に届け,『明日はわが身かも知れない』と考えてもらうか。

 『政治的な意図』は当たり前なのである。

michihiro206 at 23:56コメント(0)トラックバック(0)時事(日本) 

2009年01月06日

イスラエル・ガザ

 あまり中東情勢にコミットしたことはないが、今のガザの現状を見ると、もう少し深くこの近辺の事情を歴史的経緯踏まえて把握したいとやはり思う。

 先日までロスチャイルド家に関する本(ロスチャイルド家と最高のワイン)を読んでいたばかりだが、イスラエル建国にあたってはロスチャイルド家の総意というよりは、一族の熱心な人間が本業からはみ出す形で関わっていた面が強いと、少なくとも本の内容からは感じられた。

 ふと、今のこの事態をロスチャイルド家はどう捉えているのか、気になった。

          ***

 田中宇氏が語るように、このガザへの地上軍投入が結果としてシリア・イランとの全面戦争を招いたとしたら、いかにイスラエル軍が精鋭ぞろいといっても最終的には歯が立たない。

 自分自身がハマスという組織について理解ができていない現状で軽々しく口を出すべきことではないだろうし、また、イスラエルの強硬派・穏健派が、政権内部でどんな綱引きをしているのかまで立ち入って調べようとは思わないが、結局その綱引きで首を絞められるのは、逃げることのできないガザの住民であることだけは忘れないようにしたい。

 そして、おそらく日本はイスラエルにも、アラブ諸国にも本来フリーハンドでものが言えるはず・・なのだが、こういうときの外交の米国頼みはなんとも悩ましい。

michihiro206 at 23:50コメント(0)トラックバック(0)時事(海外) 

2009年01月05日

派遣村から=新自由主義という不自由

派遣村








↑社民党の保阪展人氏のブログから。

 ・・いや、今の日本において、地震や台風からの避難という理由以外で、まさかこんな光景を目にするとは。『新自由主義』というのは結局『雇用調整の自由』というだけの話であって、働く側にとってはひたすら不自由を強いるものだと改めて。

 派遣村のボランティアの方には頭が下がる思い。あと、ここに避難してきた方々には、『自己責任』などという言葉には耳を貸す必要など全くないことだけは強調したい。

 

michihiro206 at 03:09コメント(0)トラックバック(0)時事(日本) 

2009年01月03日

年頭によせて

 実に約半年ぶりの更新。せめて週に一回くらいは更新したいものとは思いつつ。

 2009年という年はいろいろな意味で日本、あるいは世界にとってのターニングポイントになる一年になりそうな感がある。

 一言でキーワードを探せば、『縮小』ということになるだろうか。

 そもそも、今の世界各国の政策基盤の前提となっている『経済成長』自体が、ネズミ講のようなもので、永遠に続くわけがない。どこかで止まるし、また止めなければならない。

 経済成長は単純化すれば人口の増加とセットだから、成長しているとき(人口が増えているとき)は幸福なように思えるが、無限の成長を保証するほど環境は大きくないので、いずれ停滞し、更にはマイナスに転じる。そして、人口が減り、経済が縮小するときは人類は一般に不幸になる。

 問題はその縮小の仕方。どう緩やかに、混乱を減らす方向で、マイナス成長の社会に軟着陸させるか、だろう。その意味で、日本における自然な少子化は、原理的には良い兆候である、はずなのだが、これをチャンスと捕らえる意見はまだ少数派なように見受けられる。

 場合によっては、最大の公共事業である『戦争』によってこの停滞、マイナス成長を打破しようということになりかねない。現に中東ではキナ臭い動きが起こりつつある。

 そしてそうなった場合、真っ先に被害を受けるのが社会的弱者であることは明白である。

 アフガンもそうだが、中東での動きにアメリカが噛んだ場合、おそらく日本もそれに同調するようにもっていかれる。

 最近の右派論壇の劣化=中山氏や田母神氏などはそのあまりにくだらない典型だけど=は少なくともWEB上ではあちこちで指摘されている通りだが、しかし多数の庶民というのは、その単純さと劣情に訴えかける言葉に同調しやすい弱さを持ち合わせていることは事実として認識しなければならないだろう。特にTVのバラエティ的報道で社会問題を認識した気になっている人についてはそうである。

          ***

 一方、環境そのものに目を向けてみれば、どうも世界的な温暖化はピークを過ぎたようで、私の知る限り、温暖化の危険を訴える記事は随分と減った。

 元々がCO2温暖化論そのものが事実に基づかない、仮定のシミュレーションの上に築かれた砂上の楼閣だから、そう遠くない未来に過去の遺物として、ジャンクサイエンスとして取り扱われる日がくるだろう。そのこと自体には期待するし、そうあって欲しいものだが、だからといって皆から無視されてそれでよし、というのではなく、そもそもこういう科学の仮面を被った『宗教』が何故世界的な『信者』を獲得するに至ったのか、きちんと検証しないと、ネタを変えておそらくまた同じような『他人の不安につけこんで巨額の金を動かす』世界的プロジェクトが現れ、またそれにお人よしがだまされる現象が繰り返される。

 戦争も、環境問題に対する煽りも、多くは他人の不安に付込む形でなされる。その両者とも国家、あるいは国際的機関に対する信頼感を利用する。

 これに対する対処法に特効薬はなくて、結局はできるだけ多くの人が一歩立ち止まって考えられるか、『健全な猜疑心』をもつことができるか、ということに尽きるだろう。勿論、猜疑心は無限に担保されるものではなくて、まずはその対象の主張を正しく理解することから始めるべきであることはいうまでもないが。

          ***

 当ブログでは、『自然と人間』、『過去の歴史』を見据えることによって『現在と未来』を考えるというスタンスで、これからもやっていく予定です・・って、とりあえずもう少し更新頻度あげなくっちゃあ!

 

michihiro206 at 19:47コメント(0)トラックバック(0)エッセイ 

2008年06月16日

雑感

 私は朝日新聞という『反日アカ新聞』(爆笑)を買うことが多い(定期購読はしていない)のだけれど、その08年6月15日づけの紙面で、『写真が語る戦争』の連載記事が目を引いたので記しておく。

 今回の特集は1928年、ちょうど80年前の『張作霖爆殺事件』についてだったのだが、その首謀者である河本大作大佐の孫である桑田冨三子さんが取材に応えていた。

 今、彼女は日本国際児童図書評議会が開く絵本展『ハロー・ディア・エネミー!(こんにちは、敵さん!)』に関わり、国内を巡回しているという。彼女にとって「優しいおじいちゃま」だった河本大佐を一体何があんな行動に駆り立てたのかと考えた結果、「人を『戦争向け』に染め上げる教育に問題がある」と考えるようになったことが、ルフトハンザ航空を定年退職した彼女をして現在のような行動をとらしめている下地になっているとのこと。

 
 この記事を読んで、ふと考えたのが東條由布子さんのこと。彼女は東条英機元首相兼陸相の名誉回復と、靖国神社のA級戦犯分祀に一貫して反対する活動を続けている。

 彼女は終戦後、東条英機の孫というだけでひどいイジメにあったという。そのことについては全くもって心が痛むというか、そのイジメの当事者に対する腹立たしさを禁じえないのだが、だからといって、アジア太平洋戦争を「自衛のための戦争だった」と言われると、やはりちょっと待ってくれよといいたくなる。

 この軍人2人のそれぞれの孫がとった全く異なる戦争への接し方、果たしてこれは彼女たち個人の資質によるものか、それとも周りの環境によるものか、実質的に国のトップだった祖父と、関東軍といういわば出先機関の参謀だった祖父の立場の違いによるものか、それとももっと違う何かが存在するのか。

 佐官クラス以上の高級軍人たちはすでにこの世を去り、彼らと直接接触した人たちも多くは高齢化が進んでいる現状からしても、彼らの軍人として、あるいは政治家として、さらには家庭人としての振る舞いを直接見聞によって想像できる余地は、もうあまりない。

 その上で、思う、末端兵士だった人がもう随分と数は少なくなったとはいえまだ存命であり、遺族も存命である今、祖父たちの為したことに対して対照的な評価を持つ彼女たちを含めて、まだ戦後は終わっていないのだと。

michihiro206 at 12:20コメント(0)トラックバック(0)歴史認識 

2008年05月16日

CO2で地球は温暖化するのか?−

 前回、『気温変化が先でCO2変化は後である』ということを論じたのだけれど、そう言うと必ず『短期的には気温変化が先行するが、長期的には「蓄積した」CO2が原因となって気温が上昇する』という意見が出てくる。こういう人は、例えば「キーリングはずっとCO2温暖化論を訴えていた」と主張した上で、こう論ずる。

マナウロアのCO2観測値





 ↑図6.)(クリックで拡大:同じく近藤邦明氏によるグラフ)このグラフは各年における大気中のCO2濃度そのものを表すが、短期的には気温変化が先でCO2濃度がその後だとしても、キーリングの図3.あるいは前記の近藤氏のグラフ図4.図5.からはこのCO2濃度の上昇そのもの、つまり『CO2の蓄積』は説明できないではないか、というものである。
 例えば、この図6.グラフだと1970年から2004年にかけて、CO2濃度は約50ppm以上も上昇している。しかし、図3.図4.図5.のグラフからはCO2濃度と気温の『各年ごとの変化』は読み取れても、トータルのCO2濃度の上昇、つまり図6.を説明できない、というものである。

キーリングのグラフ
図3.)再掲


近藤邦明のグラフ
図4.)再掲




近藤邦明のグラフ
図5.)再掲



 
 仮にそうだとしても、この図6.からその蓄積したCO2と気温変化の関係については結論の出しようがない(気温のデータを対比していない)から、『長期的にはCO2が原因で気温はそれに影響される』という結論には至らない。この辺り、CO2温暖化論は根本的に勘違いをしているようで、CO2温暖化論を正当化しようとするのなら、この『蓄積した』CO2が原因で気温が変化したということを事実でもって示さなければならないのである。にも関わらず、そのような事実はいつまでたっても出てこない。

 それだけではない。そもそもこの図3.4.5.のグラフの内、キーリングの図3.については当のキーリング自身が『長期的傾向を除く』と断っているのでここでは脇に置くとして、図4.5.についてグラフの縦軸をよく見てみると、CO2濃度/年(年変化)と気温/年(年変化)の基準点の場所が違うことに気付く。つまり、気温/年のゼロ点はCO2濃度/年の1.5に対応している。このグラフは気温、CO2濃度共にある年の前年度に対する変化(年変化)を微分したものをグラフ化しているので、そのトータル(長期的変動)を考える場合には、微分が積分の逆演算であることからして、横軸(年)の分だけ積分(定積分)しなければならない。

 そうすると、気温はゼロ点のまわりを上下していることから、積分しても大きな変化はなく、CO2濃度は1.5を基準にずっとプラス変化だから、それを積分するとどんどん『蓄積』することになって、図6.と対応するのである。(実は、CO2濃度について、図4.あるいは図5.のグラフを定積分した結果が図6.である)。
 

 こうして、『蓄積したCO2によって気温が変化する』という『珍説』もまた、事実によって否定されることとなった。

 ここで新たに疑問が出てくる。何故に大気中のCO2濃度は上昇し続ける(蓄積する)のか?と。そこで改めて図4.5.をよく見てみると、CO2濃度変化のゼロに対応するのは、気温変化の−0.3℃/年であることがわかる(気温偏差の図5の場合。海面水温偏差の図4の場合はー0.25℃)。ここから、少なくともこのグラフに示された1970〜2004年までの34年間において、主として海面(勿論陸上からの放出もある)から大気中に放出されるCO2と、逆に大気中から海面(陸上)に吸収されるCO2濃度の釣り合いが取れている(±0)状態を仮に『基準温度』とすると、この基準温度より少ない時でも0.3℃(海面水温の場合は0.25℃)高い状態にあると推定できる。つまり、CO2濃度が変化しない状態よりも0.3℃以上高い気温が継続しているために、主に海面から放出されるCO2は吸収されるそれよりも多くなって、故に大気中のCO2濃度は上昇しつづけるのである。
(注:これは槌田敦氏の説によるが、後に値が0.6℃に変更された。この詳しい経緯についてはここを参照されたい。実際は0.3℃とか0.6℃とかの具体的な数字にあまり意味はなく、気温が基準温度より約1℃未満高温状態が続いていたということがご理解いただければ充分である。)

 このように、過去の観測記録からはCO2温暖化論を否定する事実はあっても、裏付ける事実は存在しないことがお分かりいただけるかと思う。それでも、CO2温暖化論は今尚世界において信じられ、それに基づいて各種の政策が立てられている。事実に基づく根拠がないにも関わらず、である。

 では、CO2温暖化論者が『証拠』ととして採用するのは何か?それは『観測結果』ではなく、スーパーコンピューターによる『シミュレーション』である。このシミュレーションについては本来あまり深入りしたくはないのだが、『CO2温暖化の証拠は?』というとCO2温暖化論者は必ずこれを持ち出してくるので、次回に少しだけこれについて触れる。それはとりもなおさず、自然科学的な『認知の方法論』につながる問題でもある。

michihiro206 at 17:40コメント(0)トラックバック(0)環境問題 

2008年05月05日

別件逮捕

私がよく訪問し、参考にさせていただいているApeman氏のブログから。
毎日新聞の記事を孫引き。


『映画「靖国」:抗議の右翼活動家逮捕 虚偽の車登録容疑


 街宣車の名義を虚偽登録したとして、警視庁公安部は2日、神奈川県秦野市南矢名、右翼団体代表、小林俊文(71)と東京都世田谷区等々力8、同構成員、野沢大(21)の両容疑者を電磁的公正証書原本不実記録・同供用の疑いで逮捕した。野沢容疑者は3月下旬、映画「靖国 YASUKUNI」の上映に反対し、東京都中央区の映画館に抗議行動を行い、テレビ出演などもしていた。


 調べでは、2人は昨年8月、渋谷区の別の右翼団体が使う街宣車なのに、小林容疑者の所有名義で湘南自動車検査登録事務所(神奈川県平塚市)に車の登録をした疑い。名義上の車庫を提供していたとみられる。』



 以前ここでも取り上げた、大阪国際陸上の時と同じく、『公安』による『車庫飛ばし』の容疑における別件逮捕。何故別件かといえば、公安が本来交通課の仕事である車庫飛ばしの容疑で容疑者を逮捕する必要性は?ということから。

 右翼の抗議活動がどうしても目立つ今回の映画「靖国 YASUKUNI」にまつわる一連の動きだが、まず第一に指摘されるべきはやはり稲田議員をはじめとする国会議員の『検閲』要求であって、右翼の街宣活動を取り締まるのは、それとは離れて例えば威力業務妨害などによるべきでは?まあ、私は刑法に詳しいわけではないので、彼らの一言で言って『騒々しい』街宣を止めるべき刑法、民法上の根拠を今のところよく知らないのだけれど。

 今回の摘発が、あるいは政治的配慮によるものかどうか、私は断言しないけれど、こういう別件逮捕の不当性はやはり看過できないので(おそらく起訴されないだろうという前提に立ってもなお)、この逮捕された2人の即時釈放要求を発信しておく。それは彼らの主張に共鳴するからではなく、別件逮捕の不当性を訴えることは私たち『左派』にとって当然守られるべき『タテマエ』であるからに他ならない。

michihiro206 at 13:13コメント(0)トラックバック(0)時事(日本) 

2008年04月28日

ホッとした事と、孤独感と

 ―葦〇蓋2区の補選において、自民党候補が敗れた。まず、そのことは素直に喜びたい。後期高齢者医療制度やガソリン税などの問題であれほど失点続きだった自民党ではあるけれど、選挙区の特徴として地縁血縁がモノをいう場所だとの報道もあったし、自民党の締め付けも極めて厳しく、事前調査でも随分肉薄しているとの報道もあったので、あるいは・・・などと考えていたが、とりあえずはホッとはしている。

 もっとも、この結果を受けても自民党は政策を見直すつもりは全然ないらしい。暫定税率はやはり再可決する腹づもりらしいし、後期高齢者医療制度も改める意志はゼロである。安倍前総理以来の自民党の末期的体質ここに極まれリ・・・というか、おそらく政権内部にあってももうどうしようもないというのが実情ではないだろうか。福田政権にできることは、なんとか解散を一日でも先延ばしにすることぐらいだろう。

 しかし、ここで私たちが今一度考えなければならないのは、今の私たち庶民の生活を根本から厳しくしたのは、福田総理でも安倍「敵前逃亡」元総理でもなく、私たちが熱狂的に支持した小泉元総理その人だった、ということである。彼が絶叫した「自民党をぶっこわす」という言葉は、まず私たち庶民、特に若年労働者層と、そしてそれに続いて高齢者の生活を「ぶっこわし」、その結果として今の自民党の惨状を招いたという点において、確かにウソではなかった。しかし、あの時小泉氏を支持した人たちも、まさか、これほど多くの人が不安定な雇用に悩ませられ、不確実な年金に苦しめられるとは考えもしなかったろう。しかも、その不安定さが韓国や北朝鮮、中国に対する警戒心を通り越した蔑視、偏見に基づくタチの悪い排外的ナショナリズムを拡大する土壌になってしまったという点においても小泉元総理の罪は重い。(今回の後期高齢者医療制度も小泉政権下で決定されたことを忘れてはならない)

 ともかく、政局はさらに混乱することになるけれど、政権交代に向けて野党、特に第一党である民主党には手綱をゆるめることなく攻勢を強めていって欲しい。今の日本という国に必要なのは、何よりも政権交代そのものであり、私が民主党に感じる違和感などは政権交代の必要性の前では「風の前の塵」程度のものでしかない。

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光市の母子殺害に問われた被告に対して、死刑が言い渡された。最高裁が差し戻しを命じた時点でこうなることは予想はできたので、判決自体に驚きはないけれど、被告退廷後に法廷で拍手が沸き起こった、というくだりには本気で気分が滅入った。まだそれが遺族ならば理解もできるけど、ただ単なる傍聴人たちの間で湧き上がった拍手のようで、早い話、この人たちは遺族の立場に立つフリをして単純に死刑判決を聞きたかった、そして願望どおりの判決を聞いて喜んだ、というだけのことではないか。死刑制度に私は反対だが、もし認めるとしても、「最悪、やむを得ない」判断を厳粛に下すものではないのか。たとえ遺族の心情を最大限考慮するとしても、死刑判決とは「拍手で喜ぶ」ことなのだろうか。当の遺族である本村さんは判決自体は妥当であるとしつつも、こう述べている。
 「遺族にとっては報われる思いがあるが、被告、妻、娘の3人の命が奪われることとなった。これは社会にとって不利益なこと」。
 この判決に拍手する人たちには、彼の葛藤など思いもよらないのだろう。

 もうひとつ、この件については、弁護団が「死刑廃止にこの事件を利用しようとしている」という意見が(未だに)存在する。違う!このような少なくとも一般の目には奇異に映るような弁護団の主張が世論に対して「制度としての死刑廃止」をアピールするのにになんの役にも立たないどころか、完全に逆効果にしかならないのは誰の目にも明らかだろう。「死刑制度の廃止」に「利用」するならば、冤罪を疑わせる事件をこそ「利用」すべきであって、被告が少なくとも自分の手によって2人を死に至らしめたという事実関係に争いの余地がないこの事件において、このような主張に「利用」価値などあるわけがない。弁護団がこのように主張するのは、つまりは被告がそのように主張しているからに他ならない。1、2審において、事実関係についてはまったく争わず、ひたすら情状酌量を勝ち取るという「戦術」が、最高裁の「死刑勧告」によって破錠した以上、例え一般社会からみて奇異に写るとしても、被告の主張に基づいた主張を行うことはごく自然なことであって、弁護団は単に弁護士としての「誠実義務」を果たしているだけである。

 ・・・ともかく、日本においては8割の人が死刑制度を積極あるいは消極的に支持し、今回の判決についても、拍手をするような人間は論外として、おそらく支持する人達が多数だろう。それにしても、こう圧倒的多数の「善意」が死刑を支持する現状に、私は強烈な「孤独」を感じる。勿論、付和雷同であるよりは、自分が正しいと思えばたとえ孤立してでも自分の意見を大切にすべき・・・と考えてはいるのだが、少数派でいるというのは想像以上にシンドイことである。恐らく、世論を一定の方向に導きたい人はこの「孤独感」を利用しようとするのだろう。メディアはこうして直接の暴力を使うことなく、世論を一方向に向けていく。そして、私たちも半ば自ら進んでその一方向に向いていく。「異端」を排除しながら・・・。

michihiro206 at 16:08コメント(0)トラックバック(0)時事(日本) 

2008年04月07日

中国でのもうひとつのできごと

 今、中国について話題になることといえばチベット問題であり、それに絡めたオリンピックの話ということになるのだが、このことは他のブロガーの方が散々取り上げているので、違った視点から今の北京政府についての問題点を取り上げる。民主活動家の胡佳さんのことである。

胡佳氏













 朝日新聞4月6日付け『風』(4面)より
>06年2月、北京。民主活動家の胡佳さん(34)は突然、当局の車に連れ込まれ、黒い布袋を頭からかぶせられた。連れて行かれたのはカーテンで閉ざされた部屋。仲間の動きを尋問され、殴られた。抗議の絶食をする胡さんに、男たちは「死なすわけにはいかない」と、チューブを鼻から差し込んだ。41日間続いた拘束で、体重は10キロ減った。
 北京五輪を控える中国では活動家の拘束が続き、胡さんは昨年末、「国家政権転覆煽動容疑」で逮捕され、今月3日に懲役3年6ヶ月の実刑判決を受けた。<

 彼の妻であり、同じく活動家である曹金燕氏と、二人の間の生まれて間もない子供も当局の監視下(当局は『保護』といっている)に置かれているという。彼は欧米では割と名の知られた活動家であって、だからあえてこう言うが、まだ『この程度』で済んでいるともいえる。もし、国際的に無名な存在だったら彼も家族もどうなっていたか、多少の想像は許されるのではないか。
 
 胡錦濤国家主席はそもそも、かつてのチベットにおける強圧的な姿勢で現在の地位の基盤を作った人だという。その政治的本質が強権、強圧だとするならば、彼とその周辺にとって、活動家の一人や二人の生活、さらには場合によっては生命さえも、取るに足らないものとしか考えられないのだろうか?

 私たちの日本においても、政治的権利の行使ということは実は容易ではない。政治的なビラのポストインだけで逮捕されたり、気に入らない映画の上映に国会議員が事実上の圧力をかけたりと、今日的な価値観からすればあってはならない出来事が起こっているわけで、まだまだ私たちの社会も個人の意見表明についての環境は未熟である。しかし、中国の現状はそれすら霞んでしまうくらいにひどい。こういうインターネット上での意見表明でさえ当局が口も手も挟んでくる。ましてや、政府に反対するようなふるまいを実際に行おうとすれば文字どおり『命がけ』である。

 世界において、今『Tibet Free!』の合唱が盛んだとのことだが、チベットのような多数の人命が奪われる出来事は勿論、それ以外においても異論の存在を事実上認めようとしない中国政府のやり方は看過できるものではないだろう。私は決して『反中国』ではないが、悲しいことだが現状においては『反中国政府』たらざるを得ない。強圧的でなければあの広大な国土を統治できないというのであれば、今のような中央集権的な体制ではなく、もっともっと各地域に広大な自治権を認めるべきではないか?その上でゆるやかな連合国家を模索すべきではないか?「一国二制度」をさらに突き抜けて「一国多制度」こそを目指すべきではないか?残念ながらこういった考えが現時点で夢想にすぎないことを自覚しつつ、しかし私はチベットを含めた『China Free!』をこそかの国の政府に求めることを、世界の片隅の一ブロガーとしてここに表明しておく。続きを読む

michihiro206 at 11:39コメント(0)トラックバック(0)時事(海外) 
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