ふらり道草―幻映画館―

映画が最大の娯楽だった時代があった。昭和20年代から30年代に掛けてである。田舎の小学校の講堂で、固唾を飲んで熱中した巡回映画。場末の映画館で熱くなった3本建ての4番館・5番館。フィルムに雨が降っていても、途中で何度も切れても、スクリーンに映る名画は変わらない。
≪他のブログ≫
「ふらり道草―季節の往来―」 http://blog.livedoor.jp:80/michikusa05/「ふらり道草―南丹今昔―」 http://blog.livedoor.jp/umagasetouge/「峠の向こう」

2011年08月

幻映画館(108)「雲ながるる果てに」

「雲ながるる果てに」タイトル
















『雲ながるる果てに』   1953(昭28)年  大映/新世紀映画・重宗プロ   
1953(昭和28)年キネマ旬報ベストテン12位

「雲ながるる果てに」<監督>家城巳代治
<製作>重宗和伸・伊藤武郎・若山一夫
<撮影>中尾駿一郎
<美術>五所福之助
<録音>空閑昌敏
<照明>若月荒夫

<シナリオ>
「雲ながるる果てに」シナリオ<脚本>八木保太郎・家城巳代治・直居欽哉

「雲ながるる果てに」単行本<記録>『雲ながるる果てに 戦歿飛行予備学生の手記』





<出演>
鶴田浩二・木村 功・高原駿雄・清村耕次・田中和彦・沼田曜一・金子信雄・沼崎 勳・織本順吉・加藤 嘉・神田 隆・原 保美・岡田英次・西村 晃・山岡久乃・山田五十鈴・朝霧鏡子・利根はる恵


「雲ながるる果てに」











<粗筋>

  昭和20年春。本土の南端に位置する特攻隊基地では、空襲を受けて仲間の秋田(田中)が戦死し、深見(木村)は負傷した。不精者で外泊名人の松井(高原)は町の芸者富代(利根)を愛していた。また、深見は女教師の瀬川(山岡)を想っていた。
  秋田の妻町子(朝霧)は夫の死も知らずに基地を訪れ、位牌の前に泣き崩れた。雨続きの一日、笠原(沼田)が戦艦大和の撃沈を報じたが、軍人精神の権化を自負する大滝(鶴田)は、頭からそれを否定した。

「雲ながるる果てに」-2  無垢の生命を国家に捧げようとする大滝と、死を前に好きな女と自分の最後の人生を愉しむ松井は、時には激しくやり合う。
  雨が上り出撃の時は来た。松井は富代に別れを告げ、深見に「戦争のない国で待っているよ。なぁ」と言い残して飛立ったまま、2度と再び帰らなかった。
  彼の残した川柳である。「雨降って 今日一日を生きのびる」「不精者 死に際までも垢だらけ」。

「雲ながるる果てに」-5  深見は瀬川と夕闇の道を歩いている時、片田飛行長(神田)に見つけられ散々に殴られた。彼は空襲で片腕を負傷したため特攻から外されるが、出撃を強く申し出て仲間と供に出撃して行く。仲間が、彼の飛行服を着るのを手伝った。
  基地では激しい訓練が続けられ、山本(沼崎)は機上機が空中分解をおこして死んだ。彼を葬むる煙を見つめながら、深見は大滝に特攻隊の非人間性をしみじみと諮るのだった。
  その大滝を、父母と従姉妹が訪れると言う便りがあった。しかしその喜びも空しく、大滝達は出撃の時を迎えた。
  「どうも話がうますぎるよ」と大滝は明るく笑うが、裏山の松林の中で独り泣き叫ぶ。常は豪気な彼も、本心は生き伸びたいのだうか。

「雲ながるる果てに」-3  それを怪我で出撃から除かれていた深見が見て、彼もまた出撃を願い出る。軍の幹部達(岡田・神田ら)は、「これはいくらでも特攻隊の志願者はいる」と笑って喜ぶ。
  負傷の癒えない深見も、「君らと一緒に死ぬ」と共に空中へ舞上った。大滝の両親が駆けつけた時、すでに機影は遠く白雲の流れる果てに飛び去っていた。
大滝の残した遺書である。「お父さん、お母さん、よっちゃん  あと1時間で死んでいきます・・・」

大滝のナレーションが重なる。
「ぼくの大好きなすべての人、なつかしい山河、そして平和な日本、それを思い浮べながら死んでゆきます」。

画面にスーパーが入る。
−昭和二十年四月十六日、神風特別攻撃隊第三御楯隊、海軍中尉大滝正男、身長五尺六寸、体重十八貫五百、極めて健康。−


「雲ながるる果てに」












<一言>

  若くして死ぬことを運命づけられた特攻隊員達の思いとは、どのようなものだったのか。画面に描かれている彼らの生活はかなり呑気なものに映る。
  もちろん時には空襲があり、それで一人が命を落とすという場面が映画の冒頭に描かれる。だが、それ以外では食べ物も充分にあり、夜は兵舎を抜け出しても咎められず、訓練もそれほど厳しくなさそうに見える。
   彼らは目前に迫った死そのものを、それほど深刻に捉えていないようにさえ思える。出撃命令が下るまでの命。映画の冒頭で大瀧中尉(鶴田)が手紙を書き送る様に、今は20年の人生のお釣りのようなものなのか。

「雲ながるる果てに」-7  しかし、全く未練がない訳でもなさそうである。それがあからさまに表れるのは、やはり彼らの年頃のせいかからか、女に対する気持ちに強く感じられる。
  馴染みの情婦を持ち毎夜兵舎を抜け出して逢いに行き、情交を重ねる松井中尉(高原)の行動は、現世に対する未練を象徴するものと言えそうである。しかし、そんな彼でも自分の運命には粛々と従い、抵抗もしないし不満も全く見せない。
   主人公の大瀧中尉は常に自分自身を鼓舞し、説得しているように見える。銃創を受けて出撃することが出来なくなった戦友の深見中尉(木村)に、「大義のために死ねるのか」と訊かれる。
  それに対して彼は、「個人の生死を越えた民族的な自己統一」のために自分1人の命は惜しくは無いと言う。そして、自分の命は「天皇陛下からお預かりしたものだ」と断言する。

「雲ながるる果てに」-4  やがて出撃命令が下り、本当に死に直面した時も歯を食いしばり、泳ぐことによってエネルギーを発散させてその死を受け入れる。
  また、出撃の日に松井中尉が女の所にいて遅刻しそうになると、戦友の一人が「自分が代わりに行きます」と名乗り出る。
そして彼らは出陣する時、戦友達に「先に行く」と伝える。更には、事ある毎に、先に死んだ者を引き合いに出す。
  これらの態度を見ていると、彼らは大義などの為ではなくて、戦友の為に死んで行くのではないか、とさえ思える。
  先に行った戦友達の死を無駄にしない為に、そし後に残る戦友達に希望を与える為に、彼らは死んで行くのではないのか。
  それこそ、お国の為とか天皇陛下の為などと言う抽象的な大義名分よりも、遙かに自分を納得させ易い考えなのだろうか。もちろん大瀧中尉のように、後に残された家族の為と言う場合もあるかも知れない。
  しかし、大義の為であれ戦友の為であれ家族の為であれ、それらのいずれであっても、軍国主義の制度によって用意され意味付けし教育された、洗脳の結果なのではないか。
  この映画ではそうした愚行を分かりやすくする為に、飛行長(神田)を特攻隊員を道具としてしか考えていない悪人に仕立て上げ、言葉だけの軽薄な人物として描いている。
  そして、不成果に終わった出撃に対して、「特攻隊員は幾らでもある」などと平然と言わせている。
  続いてその直後に、教室で歌を歌う子供達のカットを繋ぎ、次の特攻隊員がその子供達であると言うことを明確に表現する。この場面は、背筋も凍るほどぞっとする。

「雲ながるる果てに」-6   こうした上官の卑劣さによって、戦死した特攻隊員達の死は浮かばれないものになってしまう。
  特攻隊員の1人が出撃の直前に、「俺達は死ななきゃ文句も言えないもんな」と呟く場面がある。ここに於いて、彼らこそが犠牲者である、と訴えていることが明確になる。
   究極的には、特攻隊員達は日本の軍国主義の犠牲者である。その事実を淡々と伝えているのが、この映画なのだろう。
  最近は、事ある毎に靖国神社参拝が問題化する。A級戦犯と国家による犠牲者を同じ場所に祭祀する事の是非が問われる。
  靖国神社が日本国神道の頂点にある神社なら、軍国主義の犠牲者を祀ることにも問題があるのではないのか。そんな素朴な疑問をも提示する作品である。

※家城巳代治監督
  主観的には純粋でありながら、客観的には無駄であった特攻隊の死。その矛盾をはっきりとらえられたとき、はじめてかなしさが無駄でなくなる。

「雲ながるる果てに」-3※山田和夫(映画評論家)
  戦後日本映画は今日まで反戦平和をたゆむことなく訴え続けてきた。そのなかでとくに記憶したいのは、特攻の悲劇と向い合った作品群である。
  学徒出陣で戦場にかり出された学徒たちの手記を集めた『雲流るる果てに』が家城巳代治監督によって映画化(1953年)され、学徒出陣によって海軍予備学生になり、特攻隊員と死んだ若者たちの遺書がドラマに再現された。特攻を描いた最初の劇映画作品である。
  「きけわだつみの声」もそうだが、「雲流るる果てに」でも、1943年10月の徴兵猶予打ち切りで学園から出征した学徒兵たちは、陸軍士官学校や海軍兵学校を出たエリート職業軍人から露骨な差別と屈辱を受けた。
  「雲流るる果てに」の学徒出身兵たちもそのなかで、優先的に特攻隊に送り込まれた。彼らは複雑な矛盾をはらみつつ、死への出発日を待った。出撃予定日が悪天候で日一日と延びる。「特攻待機」と呼ばれるこの耐えがたい日日の隊員の日常が映画の大部分を占める。
  「何のために死ぬのか?」、もう知識人の訓練を受けていた彼らには、思い悩むことは絶えない。家族への思い、妻や恋人への愛情、故郷の山河への郷愁。
  家城監督は自分の戦争体験を土台に、出撃を待つ隊員たちの人間像をあたたかく描き分ける。
  ついに空は晴れた。「特攻待機」は終わった。二度と還ることのない出撃に彼らは旅立つ。その機影が遠くに消えていった積乱雲の大空にテロップの字幕が浮ぶ。「きわめて健康」と。
  隊員の一人が父母にあてた遺書の一節である。そう、彼らは健康な身体と若々しい精神を持った青年たち、その「きわめて健康」の人生を突然断ち切られた無念の思いが、このラストカットに溢れていた。(「前衛」07年9月・「特攻を描いた日本映画の歩み」)


「雲ながるる果てに」














<参考>

  ベストセラーとなった学徒航空兵の手記集「雲ながるる果てに」を「山下奉文」の八木保太郎の他に家城巳代治と直居欽哉が共同脚色した。太平洋戦争末期の昭和20年春、本土南端の特攻隊基地を舞台に、様々な思惑を胸にした学徒航空兵の短い青春が綴られる。反戦映画の代表作。
  松竹退社以来はじめての家城巳代治監督作品である。「岸壁」の鶴田浩二・「プーサン」の木村功・「韋駄天記者」の沼田曜一・「魚河岸の石松」の金子信雄・「ひめゆりの塔(1953)」の岡田英次・「やっさもっさ」の山岡比佐乃・「赤穂城」の山田五十鈴その他が出演している。
  家城監督は、特攻隊の学徒航空兵と言う後戻り出来ない悲運の青春群像を通して、淡々としたタッチで戦争に対する怒りをぶつけた。戦争の匂いがまだ生々しく残っている時代だけに、鶴田浩二・木村功その他の出演者が実にリアリティあふれる学徒兵振りである。

「雲ながるる果てに」-2※佐藤忠男(映画評論家)

  敗戦後の日本人に残されたひとつの思想的感情的な課題は、戦場で戦って死んだ父や兄や息子の死をどう意味づけるかということだった。
  祖国への忠誠とアジアを西洋の植民地から解放するという大義のために死んだのだと教えられ、ある程度そう信じてきた人々にとって、あれは侵略者としての無意味な死であり、暴虐の限りをつくしたうえでの愚劣な死でさえもあったと突然考えを改めることは困難であった。
  そこに戦死した学生兵士たちの手記集が二冊出版されてともにベストセラーになった。「きけわだつみの声」と「雲ながるる果てに」である。
  大学から戦場に行った彼らは、国家主義の教育どおりの考え方しか持っていなかった職業軍人たちや低学歴層の兵士たちとは違って、戦争で死ぬことの意味を求めて悩んでいる者が少なくなかった。
  思想の自由のない軍国主義時代に成長した彼らは戦争反対の立場にまでは容易に至らず、結局みんな戦って死んだのだが、その手記には祖国の将来を憂え、平和を願う文章もあって、少なくとも愚かではなかった。
 
  この二冊は映画化されてともにヒットした。「きけわだつみの声」(1950年)はビルマのインパール作戦の無残な大敗走の中でフランスの哲学を語りながら死んでゆく知識人の兵士たちを描いていた。
  「雲ながるる果てに」は太平洋戦争末期に沖縄に襲来したアメリカ艦隊に対して、絶えず体当り攻撃のために還らぬ出撃をしていた南九州の飛行場の特別攻撃隊員たちを描いていた。
  彼らは名誉ある死の出撃命令が下るまで、どう考えたら納得して死ぬことができるかと苦しみつづける。回想の中で彼ら学生兵士たちを愛国心の足りない軟弱な連中だと侮辱して、意地でも特攻隊を志願せずにいられない気持に追い込んだ職業軍人たちの優越感むき出しの威丈高な態度が思い出される。
  家族の思い出や飛行場の近くの人々との交際は彼らの心をなごませるが、もし彼が戦争から逃げたら国賊として指弾され、家族などは残酷な状態に追い込まれるこをになるだろう。

  この映画はそこまで問題をつきつめているわけではないが、結局彼らは卑怯者になりたいと思ってもなれないからあたかも英雄のように出撃してゆくのである。
  そのあいまいな心情があいまいななりに描かれ、彼らへの同情をひき起したのである。
  この映画はその後多く作られた特攻隊ものの原型となった。脚本を書いた直居欽哉は特攻隊員として出撃して故障のために生還した経験を持っている。(「日本映画300」(朝日文庫))

「雲ながるる果てに」-4※松本章男(作家・文筆家)

−私は日本をほんとうの意味の祖国として郷土として意識し、その清らかさ、高さ、尊さ、美しさを護(まも)るために死ぬことができるであろう。−林 憲正(遺文集より)

  太平洋戦争とは何だったか。みずからの意志に反して戦闘行為に駆り立てられた学徒兵の遺書が、その体験を血のような肉声で伝えてくれる。
  戦後六十五年が経過した。青年は何のために戦ったか。国家の戦時体制に大義名分を見出せなかった。すべてと言ってよい学徒兵が、郷土と肉親を護るという目標のためにのみ自己を止揚し、戦死している事実に、現在なお衝撃を受ける。京大出身の林尹夫も、「おれが血肉をわけた愛(いと)しき人々と、美しい京都のために}と手記にしるして、大空に散っていった。
  それぞれの郷土をそれぞれが慈しむ。胆に銘じたい。(東京新聞・「今週のことば」8・14日付)


「雲ながるる果てに」タイトル

















<海軍飛行予備学生> 

  大学の学部または予科・高等学校や専門学校の卒業生(卒業見込み含む)が志願し、海軍の飛行搭乗員として採用された。昭和9(1931)年の第1期生から19(1944)年第14期生まで約1万人。
  昭和17(1942)年ミッドウエー海戦で搭乗員が極端に不足した為、昭和18(1943)年9月に5,111人が第13期飛行予備学生として採用され、土浦・三重の航空隊に入隊した。
  僅か10カ月の訓練で戦場へ出され、1,616人が戦死した。その内、神風特別攻撃隊の士官戦没者は652人。第13期予備学生は447人である。いずれも、20〜25歳の前途ある青年達だった。
  紙一重で生還した同期生が、遺族とともに『遺族会』(白鴎遺族会)を結成、昭和27(1952)年6月、遺稿集『雲ながるる果てに』を発刊した。

「雲ながるる果てに」新書『雲ながるる果てに 戦歿飛行予備学生の手記』
−概要−
本書の発行は1952(昭和27)年。本書は、社団法人白鴎遺族会によって編集され、刊行に向けて、第13期を中心に各期の海軍戦歿飛行専修予備学生の遺族・関係者から450通余りの遺書・遺詠・遺文が集められた。緒方徹・神島利則・緒方襄・植島幸次郎・西田高光・植村真久・小島博らの遺稿60数編[1]が収録されている。
白鴎遺族会の杉暁夫初代理事長による「序」では、学徒兵の手記集の先駆けとなった「きけわだつみのこえ」と同名映画とは立場を異にすることが表明されていた。西田高光の鹿屋基地からの出撃を見送ったという当時、海軍報道班員で作家の山岡荘八に対する謝意が付加されている。
−新版−
『雲ながるる果てに 戦没海軍飛行予備学生の手記』 河出文庫1985年7月(各サブタイトルに「海軍」が付加)。
『雲ながるる果てに 戦没海軍飛行予備学生の手記』 河出書房新社1995年6月・新たな手記・写真を追加した増補版。
「雲ながるる果てに 戦没飛行予備学生の手記」 日本図書センター〈「戦争と平和」市民の記録〉1992年・初版復刻単行本。

「雲ながるる果てに」遺稿集<遺稿集>

※古川正崇(大阪外語・奈良県出身・神風特別攻撃隊振天隊・昭和20年5月29日97式艦攻撃機に搭乗・沖縄にて戦死。23歳)(46〜58頁)*「雲流るる果てに」の呼称は本遺文から採られた。

−出発の朝−(入隊に際して)

二十二年の生
全て個人の力に非ず
母の恩偉大なり
而もその母の恩の中に
又亡き父の魂魄は宿せり
我が平安の二十二年
祖国の無形の力に依る
今にして国家の危機に殉ぜざれば
我が愛する平和は来る事なし
我は此の上もなく平和を愛するなり
平和を愛するが故に
戦ひの切実を知る也
戦争を憎むが故に
戦争に参加せんとする
我等若き者の純真なる気持ちを
知る人の多きを祈る
二十二年の生
只感謝の一言に尽きる
全ては自然のまゝに動く
全ては必然なり

「雲ながるる果てに」特攻隊−死の覚悟−

  人間の迷ひは実にたくさんありますが、死に対する程、それが深刻で悟り切れないものはないと思ひます。之だけは幾ら他人の話を聞いても、本を読んでも、結局自分一人の胸に起こる感情だからです。

  私も軍隊に入る時は、決死の覚悟で航空隊を志願したのですが、日と共にその悲壮な謂わば自分で自分の興奮に溺れてゐるやうな、そんな感情がなくなって来て、やはり生きてゐるのは何にも増して換え難いものと思ふやうになって来たのです。
  その半面、死ぬ時が来たなら、それゃ誰だって死ねるさ、と云ふ気持を心の奥に常に持つようになります。然し本当に死ねる死ねると云ってゐても、いざそれに直面すると心の動揺はどうしてもまぬがれる事は出来ません。

  私の今の立場を偽りなく申せば、此の事なのです。私達は台湾進出の命を受けてジャカルタを出ました。いよいよ死なねばならぬ、さう思ふと戦にのぞむ湧き上がる心より、何か、死に度くない気持の方が強かったりするのです。
  わざわざジャワから沖縄まで死ぬ為の旅を続けねばならぬ、その事が苦痛にも思へるのです。自分の前面に敵が見えるならとも角、南の端から死出の旅に毎日をあくせくすると云ふ事は何か嫌な気もします。
  然し之は地上の話で、飛行機の上では人間の頭は所謂下界と異って、只無心に自分の任務だけが心を支配するやうになります。

  不思議なものです。兎も角、私は海南島まで来ました。死の覚悟と云ふやうな悟りは私には出来ません。地上では、生きてゐたい、生きてゐたいと云ふ気持が私の心の全体です。
  然し、私は死を覚悟して、今出発するのです。(昭和20年4月8日、海南島海口にて)
 
−求道−
 
  戦死する日も迫って、私の短い半生を振り返ると、やはり何か寂しさを禁じ得ない。

  死と云ふぃ事は日本人にとってはさう大した問題ではない。その場に直面すると誰もがそこには不平もなしに飛び込んでゆけるのだ。

  然し私は、私の生の短かさをやはり寂しむ。

  生きるという事は、何の気なしに生きてゐる事が多いが、やはり尊い。何時かは死ぬに決まってゐる人間が、常に生に執着を持つと云ふ事は所詮自然の妙理でる。神の大きい御恵みが其処にあらはされてゐる。

  子供の無邪気さ、それは知らない無邪気さでる。哲人の無邪気さ、それは悟り切った無邪気さである。そして道を求める者は悩んでゐる。死ぬ為に指揮所から出て行く若い搭乗員、それは実際神の無邪気さである。
  然し、私は私自身の気持ちに比べて、それはやはり子供の無邪気さであると思ふ。死と云ふものは勿論、生についても深く考へない者の無邪気さである。

  それは勿論尊い。然し私のやうに道を求めて迷ふものは今更そんな無邪気さを願ふ事は出来ぬ。私の願ふのは哲人の無邪気さである。それは余りに大きな理想ではある。

  然し、私は苦しみながらもその道を求めるものだ、死を問題外として・・・・・・・・・・・・。
 
  書を読むと云ふ事は私にとっては人生の一目的でもある。読書は目的でなく手段であると云ふのが常識だ。然し私には目的である。私にとってそれは運命的なつながりでさへある。
  それは求道そのものである。軍隊に入って以来、私は哲学の書をひもといた事はない。然し、私の書斎には数多い書物が私を待ってゐる。私は常にそれを思ふ。
  死に直面してゐる今もそれら書物の数々を思ふと、溢れるような歓びが湧く。読書と人生、そんな言葉がよくあったが、私にはそれは切実なものの一つであった。昭和20年4月23日(台湾新竹基地戦闘指揮所にて)

「雲ながるる果てに」特攻隊−赤道を越ゆ−

今ぞわれ赤道を
南より北にむかひて
大いなる地球の道を
遥けくも下に見つめつ
今ぞわれ赤道を越ゆ

出で立ちしジャカルタの街
あの運河、あの並木道
人々のざわめきの声
今は只その思ひ出も
振りすてゝ想ふ事なし

わが征くは台湾の基地
沖縄に醜虜つどふを
体当り撃ちてし止まむ
我が命すでにかろきも
我が務め重きを知りて

今ぞわれ赤道を過ぐ
湧き上る雲をはらひて
島々の緑の上を
わだつみの濃藍の上を
今ぞわれ赤道を越ゆ

雲切れし島の入口に
軍ぶねうかぶ見えつゝ
淡霧のかぎらふ上に
うす月のほのかに細し
今淡々の雲海をすぐ

大空は遥けく廣し
エンジンの高き轟き
早や月に飽きはすれども
昭南もあとは真近ぞ
機は徐々にスコールを避く

今ぞわれ赤道を過ぐ
大いなる決意のもとに
大空の中にありては
土の上の思念の事も
何一つ想ふ事なし

遥けくもわれは征くなり
ふるさとの老ひし母上
わが散るを嘆き給うふな
大君の命のまにまに
われは今雲を渡りて
赤道を越えゆく

大いなる地球の道を覆ふ雲
その上遥か我は征くなり
ゆきゆきて南の国にありし身も
再びは越ゆ赤道の上(20年4月24日 台湾新竹基地)

−雲湧きて流るるはて−

  出征の日に私は友の前で、「大空の彼方へ我が22歳の生命を散華せん」と詠った。さうして今その24歳の生命をぶち投げる時が来た。

  出征の日に私は机に「雲湧きて流るゝはての青空の、その青の上わが死に所」と書いて来た。さうして今その青空の上でなくして、敵艦群がる大海原の青に向かって私の死に所を定めようとしてゐる。

  而も人生そのものにやはり大きな懐疑を持ってゐる。生きてゐると云ふ事、死ぬと云ふ事も考へれば考へるだけ分らない。只分ってゐる事は、今、日本は大戦争を行ってゐると云ふ事、神州不滅と云ふ事、その渦中に在る日本人としての私の答は只、死なねばならぬ、と云ふ事だけである。

  絶対に死なねばならぬ。我が身が死してこそ国に対する憂ひも、人間に対する愛着も、社会に対する憤懣も云ふ事が出来るのだ。死せずしては、何事も為し得ないのだ。

  今、絶体絶命の立場に私は居る。

  死ぬのだ。潔ぎよく死ぬ事に依ってこのわだかまった気持ちのむすび日が解けると云ふものだ。(昭和20年4月25日、新竹基地)
 
−出撃を前にして詠う−(抄)
 
 二十四の我が命絶つ日なり 雨あがりつゝ青空の身ゆ
 特攻を待ちつゝ日々の雨なれば 生きる事にも飽きたる心地
 マフラーを結べば何か暖かく 今日のかどでも楽しむ気持ち
 あと三時間のわが命なり 只一人歌を作りて心を静む
 トランプの一人占ひなどしつゝ 出撃までの時を過ごしつ
 下着よりすべて換ゆれば新らしき 我が命も生まれ出づるか
 ふるさとの母の便りに強き事 云ひてはをれど老ひし母はも
 死ぬ前のゆふべのんびり湯にひたり たんねんに垢を洗ひ落す我
 死ぬ時の延び延びになりてをれば 日々あきて遊ぶすべもなし
 海の上を泳ぎおりつゝ どうともなれと思ひし事も二三度
 島民に助けられつゝ灯台を 仰ぎし時の心たひうよ
 服ぬぎてたらひに座り熱き湯を かけて貰ひい生きたる心地
 我が命十日の雨に長びけば 暮らしにあきて昼寝などする
 爆音の高き機上の人となり 帽子を固く締むるたしかさ
 ふるさとの我を慕ひし子供との事 今にして思ひ出づるあはれさ
 ペンとりて歌しるしつゝこの夕べ 我は新らしき命を得るか
 死といふ怖し事とは今も思へど 命のまにまに安んじてゆく
 我が命今日にせまりし朝の眼覚め 日はうらうらと既に照りたり
 人はつひに死ぬるものなれば二十四の 我が命のありがたきかな
 花一つ手折らむ事もなきまゝに 櫻は春の風に散るなり
  
以上の遺稿の外に高村光太郎の「必死の時」が同封してあった。

「雲ながるる果てに」遺稿集※三宅精策(神戸高等工業学校・東京都出身・昭和20年1月6日神風特別攻撃隊旭日隊・フィリピン〜リンガエンへ向け北上中の空母を攻撃中戦死。搭乗機彗星・22歳)

母上へ   

17・10・26(手紙)

 お母様お風邪をお召しになったさうですが、もう宜しゅうございますか。お忙しい時に僕が行くのでお気をお使ひになったからですね。
  不断は手紙を出さなかったり、時々憂鬱になるだけで好い子の積りなんですが、お母様の御側へ行くと駄々っ子になってしまふのです。これから段々に寒くなる一方ですから御無理をなさらぬやう随分御注意下さい。

 今夜から秋宗さんへ行く時だけ衿を着ることにしました。部屋の内はそれでも未だ暖かなので、衿は比較的長い間着きますから、家では当分「セル」を着てゐます。護の方は円満に解決が附きました。

 高工生活は充分意義があると思ひます。

 「あの我儘が何を云ふか解りはしない」とおっしゃるかも知れませんが、お母様のお側にゐると全く駄目なのです。
 では今日は、これで。充分御身体お大切に。

 母上様               精策

 二伸

 風邪ももうすっかり癒りました。

18・9・27(葉書)

 御気嫌如何、私は至って元気。適性検査合格愈々海鷲の卵と決定。引きつゞき当隊に在隊。当分面会謝絶。小包は一切送って下さいますな。時節柄御身お大切に。
 
19・5・20(葉書)
 
  前略 突然こんな手紙を出して、さぞかし驚きになる事でせう。いよいよ決戦の大空に雄飛する事が出来ます。三宅学生は某地に向ひました。彼もやるでせう。
  前線で再び会う日を楽しみにして待って居ります。お母さまも御安心下さい。いづれ又御会ひする機会もあると思ひます。天候不順の折、お身体に萬々の御注意を! 
 
19・6・20
 
 無事
 
19・10・25
  
  極めて健康

*「極めて健康」のフレーズが、映画のラストシーンで雲の向こうに小さく消えて行く。  

「雲ながるる果てに」遺稿集※神林睦夫(東京第三師範?東京都出身・昭和20年3月18日南九州上空にて迎撃戦で戦死。搭乗機は零戦・22歳)(「雲ながるる果てに」208〜212頁)

死生の問の願ひ

  父上のお風邪は如何ですか。重曹もなかなか手に入らず、栄養食とて思ふに任せぬ状勢故、充分御注意下さる様お願ひ致します。例年にない大雪であったとか、今日此頃は如何ですか。
  海域一年の冬が懐かしく偲ばれます。進出の二日前、真理ちゃんから父上のお心を伺ひ、現在としては只日毎の軍務に精励致して居ります。それにつきまして、今日は、私の現在の心境を語らせて下さい。

  進出前に一回でよいから家へ帰れたらと思ひましたが、それも適はず遂にお暇乞ひもせずに参ってしまひました。今これから申上げること、何卒誤解のないやうくれぐれもお願ひいたします。
  如何なる時に、如何なる場所に、如何なる境涯に在っても、父上が育てられた睦夫は他の睦夫ではありません。この点は確かと信じて頂きたうございます。
  或は父上に叱られるかも知れません。しかし現在の心境としては、このまま胸に秘めただけでは居られないのであります。

  前にも申したやうに、お会ひ出来れば何事もありませんが、現下の状勢に在っては、再び懐しい我家の門を潜ることも難く、我が身はただ祖国にのみ捧げるのではないかと思われます故、父上のお気持ちをお聞きしたのに更に申上げるは誠に心苦しいのでありますが、この辺りは御寛容くださるやうお願ひいたします。

「雲ながるる果てに」短歌集<遺稿短歌集>

古川正宗(大阪外語ー奈良)
雲湧きて流るるはての青空の その青の上我が死に所
故郷の母の便りに強きこと 言ひてはをれど老いし母も
二十四の我が命を断つ日なり 雨あがりつつ青空の見ゆ
あと三時間の我が命なりただ一人 歌を作りて心を静む

西田高光(大分師範ー大分)
この土のつらなる果てに母ありて 明日の壮挙の成る祈るらん

小城亜細亜(立教大ー東京)
ただ征かん生命を受けて二十年 晴れて空への御召しありせば
きみ想うこころは常にかわらねど すべてを捨てて大空に散らむ

石川延雄(法政大ー岡山)
身に浴びる歓呼の中に母一人 旗を振らず涙ぬぐい居り
人混みに笑みつつ送る妻よ子よ 切なさすぎて吾も笑みつつ
人前に吾見せざりし涙なれば 夜は思うままに泣きて明しぬ

遠藤益司(日本大ー福島)
とても世に逢い見むことの難ければ 夢こそ今は頼みなりけり
春されば祖国のさくらに魁けて 咲いて笑って散る吾身かな

緒方襄(関西大ー熊本)
いざさらばわれは栄ある山櫻 母の御もとに帰り咲かなん

宅島徳光(慶応大ー福岡)
たらちねの母わびすまふよみのくに いくさのいさを待ちてはべらむ

時任正明(中央大ー鹿児島)
特攻の前夜を戦友と飲み収む 実に豊かなる生を残しし

内海進(明治大ー岩手)
紅のリンゴを数多喰ひしは かの出撃の前夜なりしかな

「雲ながるる果てに」歌詞<決別の詩>

「訣別の歌」  西田高光(昭和20年5月11日特攻戦死。23歳)
  山岡荘八の「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?負けても悔いはないのか?今日の心境になるまでにどのような心理の波があったか…」の質問に対し、  
  西田高光は「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに…」と答えた。
  
言ふ勿れ君よ
別れを世の常をまた生き死にを
海原のはるけき果てに
熱き血を捧ぐる者の大いなる胸を叩けよ
満月盃に砕きて暫したゞ酔ひて勢へよ
吾等征く沖縄の空
君も亦これに続け
この夕べ相離れまた生死相へだつとも
何時の日にかまた萬朶の櫻を共に見ん
言ふ勿れ君よ
別れを世の常をまた生き死にを
空と水うつところ
悠々として雲は行き
雲は行けるを 

「雲ながるる果てに」タイトル
























「雲ながるる果てに」   泉 恵子作詞・曲/近藤 浩・C合唱団歌(昭和27年・白鴎遺族会選定)        

1.大空に 微笑みて征きし
  我が子の 笑顔が
  今も瞼に 消えぬ切なさ
  悲しむまい 嘆くまい
  母の願ひは 安らかに眠れ
  雲ながるる 果てに

2.爐父様瓩筏方の 吾子の
  呼ぶ声ききませ
  共に心に み名を叫びつ
  悲しむまい 嘆くまい
  雲ながるる 果てに

   爐錣祖国千代やすらけくと
    ますらをは 雲のかなたに
    今日も祈るらん

3.思い出を 慕いて仰ぐ
  あの空 あの雲
  永遠に心に生きているのよ
  悲しむまい 嘆くまい
  強く生きよと
  なつかし み声が
  雲ながるる 果てに

 *泉 恵子はペンネーム。「城ケ島の雨」を彷彿とさせる哀愁を帯びた旋律。


「雲ながるる果てに」記念碑

幻映画館(108)「雲ながるる果てに」(捕逸)

「雲ながるる果てに」ポスター「雲ながるる果てに」 付属映像

―主観的には純粋でありながら、客観的には無駄であった特攻隊の死。その矛盾をはっきりとらえられた時、はじめて悲しさが無駄でなくなる―家城巳代治



「雲ながるる果てに」VHS「雲ながるる果てに」DVD


















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「雲ながるる果てに」白鴎遺族会「雲ながるる果てに」単行本
















   
―発刊の言葉―
 
 終戦以来七年、今漸くにしてこの書の発刊をみるに到りましたことは洵に感慨無量なるものがあります。

 そして、今この本に収録するために集められました四百五十通に餘る遺書、遺詠、遺文の数々は嘗っての戦争によりこの地上から消え去って行った多くの人々の、真實や、愛情や、知性が、新しい歴史のために如何に高價な代償を支拂ったかといふことを、聲なき聲を以て私達にひしひしと迫ってくるのを痛感いたすのであります。

 何故ならば、こゝにある「神風特別攻撃隊員」を含めた総ての人々の遺稿が、我々の過去の清算のためではなくて、明日のために、よりよく生きるために、そしてまた人間を人間らしく取扱ふ明るい生活のために、自らがこの運命を選び對決したことを物語ってゐるからであります。

 こゝにある総ては、大學及び高専を卒業若しくは在學中に、海軍飛行専修豫備學生を志願して散華して行った人々の手記であります。

 戦後、戦没学徒の手記として「きけわだつみのこえ」という本が刊行され、そしてそれが当時の日本の青年の気持ちの全部であったかのような感じで迎えられ、多大の反響を呼んだのであります。確かにあゝした気持ちの者も、数多い中には相当居った事と思います。

 しかしながら、それが一つの時代の風潮におもねるが如き一面からのみの戦争観、人生観のみを画き、そしてまた思想的に或は政治的に利用されたかの風聞をきくに及んでは、「必死」の境地に肉親を失われた遺家族の方々にとっては、同題名の映画の場合と同様に、余りにも悲惨なそれのみを真実とするには、余りにも呪われた気持ちの中に放り出されたのではないかと思います。
 
 勿論私達は現実を直視し、事実に眼を開くのにやぶさかではありません。それだけに、本当に紙一重の生活の中から生還した者達として、当時の散華して行かれた方々の気持ちはもっと坦々とした、もっと清純なものであったことを信じて、これを世に訴えるべきだと思ったのであります。

 「私はかうして作戦した」「わたしはかうして特攻隊を作ったのだ」といふことのみであり、その戦ひに殉じた人々の真の心情について触れるところが少ないやうに思ふのであります。それが史実であり本当の意味での戦記として残されるべきものであるならば、もっとこのやうな点でも真実が現はさるべきであり、遺族の方々の身になってみれば、遺族がほんたうに望んでゐる亡くなった人々の叫びを偽りなく出すべきではないかと思ったのであります。

 私達は徒らに死を讃美するものではありません。しかしながら死という人生の最終の段階迄に到達した時に脈々とわき上がってくる気持ちこそ、真実の叫びだと思ふのであります。或る者は「天皇陛下万歳」と叫び、或る者は死の一瞬に「お母さん」と叫んで突入してゆきました。

 附表にありますように、軍隊といふ一つの組織の中にはめられ、就中「神風特別攻撃隊」といふ枠の中に押し込められて無理矢理に突入させられたかのやうに言われて居りました特攻隊員の中の准士官以上即ち指揮官の実に八割五分迄が学徒出身の飛行予備学生であったといふ事実は、歴史の記述においても重視せられるべきだと思ひます。この人々の遺した心の記録こそ現在の日本の国民の一人一人が夫々の立場から自分自身の血とし肉とすべきものを汲みとるべき重要なものを含んでゐると思ひます。その為にも主観を交えへずにありの儘の姿で出すべきであると思ふのであります。

 集められた原稿はどれ一つとして割愛することの出来ないものばかりでした。そして当初はそれを全部収録するつもりにしてをりましたが、今日の出版事情その他の条件によりまして私達の計画は到底不可能なことを知りましたので、止むを得ず慎重審議の結果その中から六十余編を選出致したのであります。また今回の遺稿を集めることにつきまして、出したくとも戦災等のため何一つ残されてゐない遺族の方々も数多くにのぼられましたので、付記のやうな戦没者の名簿をつけたことにより、収められなかった方々へもお詫び申上げ、またそれらの方の声はこの中の誰かが代わって叫んでゐてくれるのだというやうに感へていただくことによって御諒恕下さいますようお願い申し上げたいのであります。

 この中に盛られた総てのものが、内には今日を予言しつゝも、飽くまでも私達の国土を愛し、人間を愛し家を愛する魂によって、あの当時の私達に課せられた歴史的現実を直視し、「母性」のやうな生と死を一つに把握する隊大愛の精神に生きたことを物語ってゐるのであります。
 
 最後にこの本を編纂致すことになりました社団法人白鴎遺族会につきまして一言申述べさせていただきます。この会は当初「第十三期遺族会」として、昭和18年の九月に第十三期海軍飛行専修予備学生として三重、土浦の両海軍航空隊に入隊した者の、同期生とその遺族の方々の心のつながりから終戦後直ちに発足したものであります。その後、戦没者遺家族としては全国に唯一つの社団法人としての認可をうけた組織なのであります。

 5,000人もの多くの同期生の中、約三分の一の者が比島沖、台湾沖の航空戦、就中沖縄をめぐる決戦で散華致しましたので、生き残った私達が「後は頼むぞ」「引き受けた」との戦友との固い約束を守って、終戦後のあらゆる苦難の中より遺族の救援へと立上がったものであります。

 従来の遺族団体といふものは、遺族自身のみの手によって形成されてゐましたので、殆んど力弱い存在となり、或は政治的に利用されたりすることが多かったのですが、この会はその遺族の方々を中心にして、三十歳前後の私達が国民の一人として、また人間としての道から、右だ左だなどと傾くことなしに、もっと大きな、もっと美しい魂のふれあひの中に育って来た会であります。

 美しい友情にかこまれたこの会の中で、私達は或る時は優しく、或る時は激しく、亡き人々達の声をきゝながら、彼等が望んでゐた平和と愛による人類社会の建設を目指して努力してゐるのであります。いつ如何なる時、またどんな主義思想の中にも、そこには共通一貫した美しい愛の精神の宿ることを信じます。

 またこの本は、亡き方々とその遺族の方々に捧げるために作られたものでもあり、若し幸ひに少しでも利益が出た時には全て戦没者遺家族の援護のための資金と致すといふことも会のためによく御了解いただきたいと思ふのであります。
 
 苦しい各々の生活の中から、また忙しい夫々の務めの傍ら、終始尽力して下さった同期生諸君と、終戦以来特攻隊の真の姿の表現に種々お力添えいたゞいた作家の山岡荘八先生、及び第二復員局の越後郷子さん、並びにこころよく出版を引き受けて下さった日本出版協同株式会社の福林社長に深甚の敬意を表するものであります。

        昭和二十七年初夏        編集者代表 社団法人 白鴎遺族会
                                                理事長 杉 暁夫


神風特攻隊












「雲流るる果てに」 (抜粋)

神島利則(大正13年生まれ)旧満州・公主嶺小学校を卒業後、新京(当時)一中に入学し、その後拓殖大学へ。昭和18年9月、第13期飛行予備学生として土浦海軍航空隊に入隊し、飛行訓練を受ける。19年12月11日聯合艦隊布告第八五号により神風特別攻撃隊第七金剛隊に命ぜられた。12月15日神島中尉フィリピンで戦死。
 
  第七金剛隊には澤本祐嗣中尉・織田真伉中尉・神島中尉(いずれも十三期予備学生)若林良茂上等飛行兵曹・佐藤国一上等飛行兵曹の5人の名前がある。
  昭和19年12月15日、午前6時30分、第七金剛隊は特別攻撃機として、250キロで爆装のゼロ戦3機、直援のゼロ戦2機の編成でセブ島の飛行場を発進。目標はレイテ湾のアメリカ軍中型輸送船団だったが、戦果は不明で。未帰還機は5機。神島も帰還せず。享年21歳。20年5月、中尉から少佐に2階級特進。
   
神島利則君をしのぶ  三村 勉(小学校の同期生)
  昭和20年4月、私は特別幹部候補生として千葉の騎兵学校に在学中、病気のため千葉陸軍病院に入院。そこで「とんちゃん」こと神島利則君が神風特攻隊の一員として戦死したことを知った。
  同じ公主嶺に生まれ育ち、小学校まで共に過ごした。私とは全く対照的な性格の持ち主であったが、何となく気が合って、よく一緒に行動した。
  彼は新京一中と進み、汽車通学をしていたが、よく車中で私の所へやって来て数学の質問をしてきた。商業科目が余り好きではなかった私にとって、彼と数学をやることは大変楽しいひとときだった。
  彼は小柄ではあったが、からだ一杯にあふれるような精気に満ちていて、その独特な身構えが実に見事であった。その生き方も憎めない暴れん坊といった調子であった。
  中学四年の終わりごろ、その大暴れが原因となって、中学を退行処分となる騒ぎとなった。彼は教室に机、椅子を積み重ねて抵抗した。私は単身、中学に乗り込んで説得した。学校側との話し合いで、彼は中学四年終了の資格で拓大の三年制予科の一年に入学した。昭和15年の春のことであった。


 時は敗色濃厚のころ、1945(昭和20)年8月10日、前日、9日のソ連参戦で危険地域になったとして、旧満州(現中国東北部)では有数の公主嶺の陸軍飛行場から海軍の中型攻撃機・一式陸攻が三機飛び立った。

空陸あげての「惜別の会」に
 
内山光雄海軍中尉以下6人の13期海軍飛行予備学生が率いる若者たち。南満州・公主嶺市の私の家の上空を超低空で3度旋回、機上では挙手の敬礼、下ではおふくろをはじめ在住の日本人は、手をあげ、シーツを振りかざして空陸あげての「惜別の会」になっていた。

涙こらえてうたう「同期の桜」

  これより先七月下旬、いよいよ迫る本土決戦に備え、温存のため海軍機が遠く満州に退避していた。明日をも知れぬ若者たちの日常は尋常ではなかった。紛らわすのは酒、任務以外の日は飲み明かしていた。
  到着するやいなや、街に繰り出した。「この街にも特攻隊で戦死した人がいるのよ」と「カフェー」で聞いた内山中尉ら六人の同期生たちは「よもや」の思いで神島家に駆けつけた。感動の対面。いきさつを聞いたおふくろは同期生を抱かんばかり。
  彼らは遺影の前で言った。「オオ やっぱり!」「あいつだ!」「神島だ!」と。そして、涙こらえ天を仰いで『貴様と俺とは 同期の桜/同じ航空隊の 庭に咲く」と歌い、酔いつぶれていった。

神戸の空に灯りがついていた

  しかし、8月15日、宝塚の海軍の飛行場に降り立ったのは内山中尉搭乗の一機のみ。他の二機は「島根上空に差しかかった時にみた六甲の先、神戸の灯りを見ずに」10日、北朝鮮・金剛山上空で米軍戦闘機P51に遭遇、山中に撃墜されていた。終戦5日前のことだった。
  奇(く)しくも内山光雄氏は石川県・金沢市の住職の長男、おふくろの郷里も金沢。再会を果たしたのは九月も半ば、手をとりあって涙、涙だった。内山氏は、それからその年の暮れまで岐阜県境の『白山』にこもった。

同期の桜は賛美歌 
 
  昭和21年10月30日、第13期海軍飛行予備学生戦没者の法要が築地の東本願寺で行われた。その時の様子をある生還者はこう述懐している「広い本堂は、遺族、同期生で埋めつくされ、空しさにうち沈む遺族の姿に、あの友この友の顔がうかび、「申し訳ない」想いが込み上げた。そして、愛息を憶い、友を偲び、溢れる涙に咽びながら『同期の桜』を歌ったと。
  法要後、「同期の桜」の斉唱について、GHQから詰問され、あれは日本の賛美歌であると説明し、事なきを得たという後日談がある。それ以来慰霊祭では必ず奉唱されている。少なくとも十三期は、巷間の酒席では歌わないだろう。いわんや手拍子を打つなどもっての外である。(第13期海軍飛行予備学生誌より)


神風特攻隊







清水正義慶応義塾大学ー東京都出身神風特別攻撃隊第三御楯隊員として菊水一号作戦に参加、昭和20年4月6日、直援機・零戦に乗って出撃、南西諸島にて戦死・24歳。


海軍志願のこと

 7月31日発59信拝見しました。58信に同封の写真ではとても健康さうで、大部若返ったやうですね。福知山へ行く前と同じやうだとお母さんも云って喜んでをります。当方一同相変わらず元気ですが、兄さんが廣島に転任になってから丁度1月、大部慣れて来ましたが、毎日淋しいです。

 昨日お父さんの手紙と一緒に来た便りに依ると、愈々待望の窓口へ出られるやうになったとか、本格的な銀行員になった訳ですね。張り切って刻苦勉励してゐることと思ひます。

 前便でお知らせしました海軍予備学生志望の件ですがこれは主計志望でなく(勿論経理の予備学生もありますが・・・・・・)、兵科を志望したものです。
 先月(7月)26日、越中島の高等商船学校で身体検査並びに口頭試問を受けましたが、
 第一志望 航   空 B合格
 第二志望 一般兵科 B合格
となりました。

 飛行適といふことになってをりますから、多分採用されるだらうと思ってゐますが、飛行適の者は九月中旬にもう一度、身体の精密検査及び性能検査を受け、これに不合格の者は一般兵科に廻され、10月1日に入校することになるやうです。

 お母さんは飛行機などと云って心配しえゐますが、死ぬ時はどんなことをやってゐても死ぬんですし、今、日本の要求してゐる最大の武器は飛行機であることを思へば、僕も体で間に合うのならば喜んで飛行機に乗りたいと思ってゐます。

 何れにしても、もう一度精密検査を受けるので、もし身体に異常があればはねられる訳ですし、採用されることになれば、自分の体にも充分自信を持つことが出来、大いに張り切ってやりたいと思ってをります。

 この半月程前から、朝晩体操をやったり、日曜日には海へ行ったりして、錬成に努めてゐます。調子が段々良くなるような気がします。
 
 今度の海軍志願の件に関しては、池田辺りでいろいろ意見があったやうですが、兎に角、自分で自分の途を行って見たいと思って受験しました。
 決して一時的な昂奮状態で志望した訳ではなく、種々考へた上でやりました。
 唯、僕が行ってしまふと、お母さんが一人になるので、家の問題に関連してどう処置すれば良いかゞ心配ですが、これも、僕に召集があったと思へば、止むを得ないことと思ひます。

 兄さんの嫁さん、なかなか良い候補者がありませんが、廣島で盛り飯なんか食べさゝれて不自由してゐるらしいですし、また人一倍気を使ふ方ですから、矢張り早く嫁さんを貰って、一日の疲れを治す家庭が必要だらうと思はれます。尤もお母さんが廣島まで行けると一番良いのですが。

 今年も、もう10日で秋になります。
 虫に鳴き出されたりすると、暑かった夏もなんとなく名残惜しいやうな気がします。
 お父さんの愛唱歌? 「埴生の宿」がしっくり来る季節が来ます。この間の写真では、まだまだの歌を唄っても可笑しくない元気があります!
 体を大切にして貰って、孫にもあの歌を教へてやって欲しいと思ひます。左様なら。

 8月20日         御様父上


神風特攻隊







矢野 昇中央大学ー長崎県出身ー昭和20年4月23日、沖縄方面にて戦死・25歳。搭乗機・零戦。


お母様の眼
 
 お母様、先日御出で下さいましたのに何等お話も出来ませず失礼いたしました。淋しいお心持のまゝお帰りだった事だらうと想像いたし、なぜもっとやさしく応対しなかったか、今更後悔して居ります。

 平素御便りに申しました通り、国内も雲行が悪くなって参り、日と共に我々同志の者も次々に飛び立ってゐます。同期の者を見送るとき、いつになったら自分もあの感激が味はえるのかと、先立つ友を恨む気になるのです。しかし待つ甲斐あって、私にもいよいよ飛躍する秋が刻一刻と近づいてまゐりました。日曜日にお出下さる約束でしたが、それもはや不必要と存じます。すでに飛んだ後かと思ひますので、この便りを認める次第です。

 お母様だけなりと飛び立つ我々の勇姿を一目みていたゞきたかった。それも今となってはかなひますまい。むしろ見送って下さらぬ方がいゝかとも思ひます。

 お母様、考へてみますに、今日まで何一つ御恩返しのまねごとすら出来ず、不幸ばかりの数々・・・・・・お許し下さい。苦労して大学を卒へようとする私の信念に母さんは敗けて、私の学資の事については一切関係しないと固く云はれた母さんでしたけれど、上京してみると不安をいだいてゐた私に細々としたお心づくし、在学中に病気を知らせれば早速上京、夜を徹しての看護に、あゝ、母さんなればこそと、嬉し泣きにないた事はまだ私の頭にこびりついてゐて、終生忘れることが出来ないのです。

 予備学生入隊の時にも母様にはきつい御意見でした。年取られたお母さんにしてみれば無理もない事で、心ではすまぬと存じ、陰ながら合掌致した自分でした。今の私共若人にとってはこの道を進むことによってのみすべてが解決されるのです。いつでしたか、小生休暇の折、母様のおそばにゆきましたね、そして士官姿の自分を見られたあの時のお母様の眼、お母様のお顔が今も心に浮かんでみえるやうです。よし! これで安心して飛べるぞと思ひました。万が一戦死いたしませうとも、涙もろい母様に泣くなと云ふ事は無理かと思ひますが、何卒ぐちをこぼさぬ覚悟でゐて下さい。昇、最後のお頼みです。

 幸ひにして任務をはたして帰隊出来ますれば、又お母さんにも会へませうが、とにかく強く生き抜いて下さい。

 千葉にゐる叔父さんにも会ふ機会がなく、休暇にでも帰られましたら呉々も残念だったとお伝へ下さい。陽子の事は本人の意志におまかせ下さるやう御願ひいたします。書けばつきませんので今日はこれで失礼します。必要のない品はみんな送りました。同封の貯金通帳お受け取り下さい。今の自分等は無我の境とでも申しますか、心にかかる何物ももありません。たゞ特攻精神あるのみで、晴れの門出を待つばかりです。よろこび勇んで飛びたつ昇の姿を御想像下さい。

 ではお母様! 征って参ります。
 4月16日

 お母様へ                            昇


土屋 浩拓殖大学ー岡山県出身ー神風特別攻撃隊第26金剛隊、昭和20年1月9日、フィリピンのリンガエン湾にて戦死、22歳。搭乗機・零戦。


櫻花を贈られて
 
 前略 母上よりのお手紙実に嬉しく拝見致しました。めったに筆を持たれぬお母さんよりの便りだけに、それを読む時の喜び、到底筆舌に尽し得ません。

 父上も相変らずの御多忙で殆んど家に居らるゝ事なき由、益々母上の務め頻繁となり、さぞお疲れの事でせう。

 文二兄さんの入隊による母上のお喜び、さぞ大変なものだったことと思ひます。兄弟四人、皇国に生を享けし感激に応へ奉るべく、大いに奮闘致す日もさほど遠くないことなれば、私はこの日を唯々楽しみに致して居ります。

 同封の櫻花、母上の真心こもるものだけに心より嬉しく思ひました。
 私もこの櫻花の如くありがたいとは、学生時代より常日頃思ってゐただけに、今、家の庭の櫻花も手にし、感慨一入なるものがあります。
 
 佐久良東雄先生の歌にも

   ことしあらばわが大君のおほみため
   人もかくこそ散るべかりけれ

といふのがありますが、何といっても良いのは櫻花です。
 この贈物は、今後、私の良き師良き友となることでありませう。
 城山の櫻も、今年は不順のため少し遅れたらしいですが、こちらは、寒いといっても九州だけに十日程前が満開でありました。今頃あちこちの櫻が潔く散りつゝあります・・・・・・
 (中 略)
 今度家族一堂に会す日は、何時のことでありますやら。兄弟四人美酒酌み交すことも、もはやないと思ひます。しかし私達は常に偉大なる父上、母上の心の中に生きてゐるのですから、今更何の未練もありませんが・・・・・・。千屋の祖父様も御元気とのこと何よりです。母上もどうか体にだけは注意なされて元気に御送日下さい。また暇をみつけて御様子致します。
  
  母上様  浩

神風特攻隊














■及川 肇―盛岡高工ー岩手県・昭和20年4月6日南西諸島にて戦死・23歳。■遠山善雄ー米沢高工ー山形県・昭和20年4月6日南西諸島にて戦死・23歳。■福知 貴ー東京薬専ー島根県・昭和20年4月11日南西諸島にて戦死・23歳。■伊熊二郎ー静岡県ー昭和20年4月11日南西諸島にて戦死・23歳。

川柳合作 (百首)

昭和20年3月25日、210航空隊は愛知県紺碧海郡明治基地に於いて神風特別攻撃隊第三御楯隊として編成さる。◆同年3月28日、沖縄島菊水一号作戦参加の為、鹿児島県出水基地へ進出。◆601空指揮下に入る為、同県国分基地に終結、4月20日迄3回の出撃あり、全機消滅の為解散。その当時前記四名にて合作せしもの。

予備士官宿舎にて

生きるには良いものと気付く三日前
後三日、酔うて泣く者、笑ふ者
ジャンケンで羊カン喰って腹こわし
未だ生きてゐるかと友が訪れる(他隊の同期と久々の対面なり)
能筆は、遺書の代筆よくはやり

する事のない今日、明日の死が決まり
明日死ぬと覚悟の上で飯を喰い
沈んでる友、母死せる便りあり
悩みある友の気紛れ我黙まり
女とは良いものだぞと友誘ひ

雨降って今日一日を生きのびる
雨の日は飲んでれば良いひとり者
宿の窓、今日は静かに雨がふり
明日の空、案じて夜の窓を閉め
雷撃機、月をかすめて飛んで行き
 
人魂を見たぞと友の青い顔
人魂ものたくって飛ぶ十三期
女房持ち、人魂行きつ、戻りつし
幽霊はあるぞないぞと議論なり
明日の晩化けて出るぞと友脅し
明日征くと決まった友の寝顔見る
神様と思へばおかし此の寝顔
人形を抱いて寝てゐる奴もあり
人形へ彼女に云へぬ事を云ひ
真夜中に、遺書を書いてる友の背
 
待機中、指揮所にて
 
諸共と思へばいとし此のしらみ
殺生は嫌ぢゃとしらみ助けやり
体当りさぞ痛かろうと友は征き
痛からう、いや痛くないと議論なり
これでかう、ぶつかるのだと友話し
最後まで大物(空母)くひと小物(輸送船)くひ
十三期特攻専門士官なり
死ぬ事に馴れて特攻苦にならず
特攻も予備士官なる意地があり
アメリカと戦ふ奴がジャズを聞き
ジャズ恋し早く平和が来れば良い
最後まで娑婆気のぬけぬ十三期
予備士官なる辛抱に口惜し泣き
よい天気、今日特攻機何機出る
一人前成った処で特攻機
出撃の時間くるまでヘボ将棋


「雲ながるる果てに」遺稿集

幻映画館(107)「用心棒」

「用心棒」スチール-2

















『用心棒』
   1961(昭和36)年   東宝   

1961(昭和36)年キネマ旬報ベストテン2位・男優賞(三船敏郎)/第22回ヴェネツィア国際映画祭男優賞(三船)/シネマ・ヌオーヴァ金額賞(三船)/第12回ブルーリボン賞ベストテン10位・男優主演賞及び特別賞(三船)・音楽賞(左藤 勝)/NHKベストテン3位・NHK映画最優秀撮影賞(宮川一夫)/シナリオ賞

<黒澤 明監督>
黒澤 明監督<監督>黒澤 明
<製作>田中友幸・菊島隆三
<撮影>宮川一夫・斉藤孝雄
<美術>村木与四郎
<照明>石井長四郎
<音楽>左藤 勝
<録音>三上長七郎・下永 尚
<監督助手>森谷司郎・出目昌伸・吉松安弘・和田嘉訓
<剣道指導>杉野嘉男
<剣技>久世 竜
<振付>金須 宏
<スチール>副田正男
<記録>野上照代
<編集>浜村義康
<現像所>キヌタ・ラボラトリー
<製作担当>根津 博

「用心棒」シナリオ
「用心棒」シナリオ<脚本>菊島隆三・黒澤 明


<出演>
三船敏郎・仲代達矢・司 葉子・山田五十鈴・加東大介・河津清三郎・志村 喬・太刀川寛・夏木陽介・東野英治郎・藤原釜足・沢村いき雄・渡辺 篤・藤田 進・山茶花究・西村 晃・加藤 武・中谷一郎・ 堺左千夫・谷 晃・羅生門綱五郎・土屋嘉男・清水 元・ジェリー藤尾・佐田 豊・大友 伸・広瀬正一・天本英世・大木正司・大橋史典・寄山 弘・大村千吉・本間文子・西条竜介・桐野洋雄・草川直也・津田光男・千葉一郎・・広瀬正一・西条竜介・草川直也・桐野洋雄・津田光男 高木新平・大友 純・草間璋夫・小川安三・高木 弘・向井淳一郎・熊谷二良・坂本晴哉・緒方燐作・小串文夫・照井洋子・峯丘ひろみ・河美智子


「用心棒」













「用心棒」-1<粗筋>

  残雪の見える峻険な山脈を背に、1人の浪人(三船)が時々肩を揺すりながら峠道を歩いていた。
  何処へ行く目的もない様子である。二股道へ来ると、浪人は枯れ枝を思い切り放り上げて、落ちた枝の指す方向へと気侭に脚を向けた。
  途中の百姓家で井戸水を貰おうと立ち寄ると、若い農夫(夏木)が父親不差に(寄山)の止めるのも聞かずに、博打打ちになって男を上げるのだと家を飛び出して行った。
  黙黙と糸を紡ぐ母親(本間)は諦め切っているのか。浪人は、父親に宿場町の様子を聞いて、気を引かれた様子だった。

「用心棒」-2  馬目の宿は、縄張りの跡目相続を争って1つの宿湯に2人の親分が対立し、互いに用心棒や兇状特を掻き集めて睨み合っていた。浪人の脇を、人間の腕を啣えた野良犬が小走りで駆け抜けて行った。
  周辺には胡散臭い連中がうようよしており、浪人を睨み付けたり挑発する様に寄って来る。番太の半助(沢村)まで擦り寄って来て、1分の手数料で用心棒の口利きを引き受けると言う。

「用心棒」-3  宿場の中間地点にある居酒屋へ入った浪人は、鍋の煮物を食べながら親爺の権爺(東野)からその様子を聞くと、この宿場に腰を据えることに決めた。
  権爺は思わず目を剥いて叫んだ。「金はいらないから、食ったらさっさと何処かへ消えてくれ!」
  浪人は、先ず馬目の清兵衛(河津)に売り込もうと考えた。そして、対立する新田の丑寅(山茶花)の子分(藤尾・中谷・大橋)を挑発して3人叩き切った。それを手土産に乗り込んで来た浪人を、清兵衛は50両で傭うことにした。

「用心棒」-4  用心棒を引き受けた浪人は名前を訊かれて、裏手に広がる桑の畑を見遣りながら「桑畑三十郎」と答える。
  「そろそろ四十郎だが」と続ける浪人に、「ご冗談を」と言いながら、清兵衛が酒を注(つ)ぐのだった。
  そこへ、女房のおりん(山田)が相談がある、と清兵衛と倅の与一郎(太刀川)を呼びに来た。
  彼らが別室へ消えた間に、三十郎は家の中を見て回った。おりんは女郎屋も営んでいるらしく、厚化粧をした多勢の女達が居た。
  また、僅か1両2分を不服として、これから喧嘩が始まると知った前用心棒の本間先生(藤田)が、裏の屏を乗り越えて逃げ出す姿を目撃する。
  おりんは強突く張りで、半金だけ渡して喧嘩の後で浪人を殺せ、と清兵衛をけ嗾(けしか)けた。これを立ち聞きした三十郎はあっさり清兵衛の用心棒を断わり、居酒屋に戻って居座りを決めた。

「用心棒」-5  三十郎は、両方から高い値で傭いにくるのを待つ作戦を取ることにしたのだ。絹問屋で名主の多左衛門(藤原)は清兵衛に肩入れし、造酒屋の徳右衛門(志村)は丑寅に着いて次の名主を狙っていた。
  宿場の四辻では、清兵衛と丑寅一家が色めき立って、一触即発の睨み合いが始まった。三十郎は、火の見櫓の上から高見の見物と決め込むことにした。折しも関八州の見回り役が宿場へやって来た。

「用心棒」-6  決戦は一時お預けとなり、名主の多左右衛門は裃で正装して見回り役(大村)に小金を握らせた。
  一方の清兵衛は、女郎を提供することにより無法な宿場を見逃してもらう画策をする始末だった。
  丑寅には、乱暴者だが少し足りない弟の亥之吉(加東)が居た。そこへ、下の弟の卯之助(仲代)が戻って来た。
  優男で長い首巻きをした洒落者の彼は短銃を持っており、平身低頭してへいこら出迎えた番太の前で、火の見櫓の半鐘を打って見せた。
  俄然、丑寅側が優勢になった。清兵衛と丑寅が手を打つと見せ掛けて、子分をお払い箱にしているのを知った三十郎は一計を案じた。

「用心棒」-7  まず、丑寅の子分(西村・加藤)を捕まえ、清兵衛に売り付けて小判をせしめた。続いて、丑寅と掛け合い、子分が敵に捕まったと報せて金子を受け取った。
  ところが、丑寅は清兵衛の倅の与一郎を人質に取り、掴まった子分と交換する、と持ち掛けた。しかし、相手が解放した子分を殺してしまい、人質の倅を返そうとしない。
  清兵衛も負けておらず、丑寅の金の供給源である徳右衛門が妾にしている百姓小平(土屋)の女房ぬい(司)を攫(さら)ったのである。
  双方は四辻を挟んで頻りに啀(いが)み合いを繰り返した末に、互いの人質を四辻で同時に交換することになった。
  宿場一の美人であるぬいは、小平から博奕の借金の形にして、丑寅が取り上げてしまったのである。
  小平と息子の金助の情ない様子を知って、三十郎は取り戻してやろうと画策する。その為に、丑寅の子分になると持ち掛けて、先ず30両をせしめた。
  そして、人質交換で返され保護されている様子を見に行く、と出掛けた。着いて来た亥之吉を騙して帰し、三十郎は見張りの子分(広瀬・西条他)6人を叩き斬った。

「用心棒」-8  その後で、部屋中を荒らして大勢に襲われた様に見せ掛け、ぬいに30両をやって親子3人を逃がしてやった。居酒屋の権爺は、そんな三十郎に段々好意的になるのだった。
  やがて、多左右衛門の絹問屋の土蔵に火が放たれた。次いで、徳右衛門の酒蔵の樽に穴が開けられ大量の酒が流れ出すなど、争いは泥仕合の様相を呈して来た。
  三十郎が居酒屋で飲んでいると、権爺が小平とぬいから預っていた感謝の手紙を渡した。そこへ卯之助と亥之吉がやって来た。その寸前に、三十郎が徳利の下に隠した手紙を、権爺が慌てて持ち去ろうとした。

「用心棒」-9  それを目敏く見付けた卯之吉に見抜かれ、短銃を突き付けられて三十郎は拉致されてしまった。そして、凄惨な拷問を受けて瀕死の状態に陥った。
  しかし、丑寅が徳右衛門を連れて来てぬいの居場所を白状しろと迫ったが、三十郎は口を割らなかった。
  再び拷問に掛けられ半殺しにされて蔵の中へ閉じ込められた三十郎は、見張りの子分(谷・羅生門)の目を盗んで長持ちの中へ隠れ、逃げ出したと見せ掛けた。
  必死の思いで、隙を見て何とか縁の下から脱出した三十郎は、居酒屋へやっとの思い出転がり込んだ。
  そして、権爺と鄰家の桶屋(渡辺)の助けで、棺桶に入って隠れ場所へ運ばせることにした。権爺は、せめて護衛用にと1本の出刃包丁を棺桶の中へ入れた。その途中で、三十郎は棺桶を下ろさせて、泥試合を続けている広場の争いを見物すると言い出した。
  丑寅一家は清兵衛の家に火を放ち、逃げ出して来る子分や女郎を片っ端から斬り捨てている。逃げ出す女郎を追って出て来たおりんは卯之助に撃たれ、倅も清兵衛も短銃で殺された。

「用心棒」-10  それを見届けた三十郎は、桶屋がいつの間にか姿を眩ましてしまったので、近くへ来た亥之吉を権爺に騙させて棺桶を墓場へ運ばせた。そして、念仏堂へ身を隠し、権爺に食事を運ばせながら、怪我の回復に努めた。
  かなり元気を取り戻した三十郎が、風に舞う落ち葉を出刃包丁で刺したりしていると、権爺が丑寅一家に掴まった、と桶屋が報せに来た。
  出刃包丁を懐へ入れ、桶屋が持って来た死人から取り上げた刀を差して、三十郎は宿場へ急いだ。権爺が後ろ手に縛られて軒下にぶら下げられ、苦悶の呻き声を上げている。

「用心棒」-11  三十郎を見付けた丑寅一家が一斉に飛び出して来て、大勢の子分達が刀を構えた。卯之吉は短銃を抜いて迫って来た。
  それを見た三十郎は、足早に彼らに近付いた。そして、懐から出刃包丁を出して、一瞬の早業で卯之吉へ投げ付けた。
  包丁は短銃を持つ卯之吉の腕に突き刺さり、思わず空に向けた短銃が火を噴く。三十郎の刀が一閃したと見る間に、卯之吉は斬られて地面に倒れていた。
  丑寅も亥之吉も子分達も、三十郎の早業に抵抗すら出来ずに斬られ、全員が徐々に倒れて行く。
  逃げ惑う1人の若造が居た。三十郎が、峠の百姓家で見掛けた息子である。「温和しく百姓をしていろ」と三十郎に一喝されて、息子は這々の体で逃げ出した。

「用心棒」-12  卯之助が最後の頼みに短銃を持たせてほしい、と三十郎に頼む。悠然と構える三十郎。そして、卯之吉は断末の力を振り絞って三十郎を撃とうとするが、果たせずに事切れて死んだ。
  名主の多左右衛門は発狂して、団扇太鼓を叩いて歩き回っている。徳右衛門を見付けると、取っ組み合いの喧嘩になった。恐らく、両者とも共倒れに違いない。
  桶屋に地面へ下ろして貰ったものの、未だ縛られたままの権爺を見ると、三十郎は腰の刀を一閃した。一瞬、固唾を呑む桶屋。権爺の縛られた縄は、見事に切れていた。
  刀を鞘に収めた三十郎は、「おい親爺、これでこの宿場も静かになるぜ」「あばよ」と一言残して、肩を揺すりながら何処へともなく去って行った。

「用心棒」













「用心棒」-1<一言>

  実に痛快極まりない娯楽映画である。何よりも浪人の三十郎が滅法強いところが面白い。瞬く間に5人10人とならず者を叩き切ってしまう。まさに、目にも止まらぬ早業が極悪人相手に、見事に光って見える。
  そして、単に強いだけではなく、狡猾な策略家でもある。しかし、掠り傷一つ負わないロボットの如き超人ではなくて、捉まって拷問を受け瀕死の重傷を負うなど、生身の人間味がある。

「用心棒」-2  また、生命を張って人質を救出する人情味もあれば、居酒屋の親爺や女郎に垣間見せるユーモラスな一面を兼ね備えている。
  かなりシリアスな画面が連続する中に、全体を流れる喜劇仕立ての滑稽感が漂う。宿場へ着くと、人間の手首を加えた犬が走り去る画面からして、リアルさを超えて笑える場面ではある。
  狭い宿場の縄張りを、争って啀み合う2組の博打打ちの親分。それを支援する宿場の2人の名士も、大袈裟で滑稽感に溢れている。また、本格的な喧嘩が始まると知って、さっさと逃げ出す前用心棒の姿は戯画感に溢れている。

「用心棒」-3  さらに、瀕死の重傷の三十郎が棺桶で逃走を図る途中で、彼を探す破落戸(ごろつき)の亥之吉に、棺桶の片棒を担がせる所など、爆笑ものの最たる場面である。
  また、三十郎の最大の敵役となる新田の卯之助が、短銃を持ち首に長いマフラー(スコットランド製のスカーフとか)を巻き、颯爽と風を切って登場するなど、時代考証よりも登場人物の造形を優先させた演出と思われ、破天荒な面白さがある。
  最後に、世話になった居酒屋の親爺を助けると、癖の肩を揺すりながら未練気も無く去って行く後ろ姿は、数ある侍映画の中でも、最高に格好の良い人物像ではないか。

「用心棒」-4  「この映画(続編的存在の椿三十郎も)の最大の魅力は殺陣のシーンではなく、主人公の三十郎の特異なキャラクター設定にある」と、黒澤監督本人が主張している。
  この作品の殺陣の特徴は、三十郎が相手を斬る際に、必ず1人に付き2度斬っていることである。それが、過去の映画にはないリアル感を高め、一層の迫力を増大させている。
  「1度斬ったぐらいでは、すぐには死なないだろう」という黒澤と三船の考えにより完成した殺陣である、とのことである。

  なお、最初と最後に、博打打ちに憧れて家を飛び出したものの、結局は懲りて家へ戻る百姓の若者が登場する。
  一見、黒澤監督のメッセージとも思えたが、それほどの強い訴求性は見られず、全体としては飄然とした英雄像を描いた作品と思われる。


「用心棒」








<参考>

  これまでの時代劇の殺陣は、東映作品に象徴されるような従来の舞台殺陣の延長にあった。いわゆる「チャンバラ映画」である。
  黒澤監督は、そうした現実の格闘ではあり得ない舞踊的表現を排除したリアルな殺陣の表現を探っていた(「羅生門」「七人の侍」や脚本を書いた「荒木又右ヱ門 決闘鍵屋の辻」など)。それは、この「用心棒」で一つの完成形を見せ、観客を大いに驚かせた。
  この作品では、「七人の侍」以来多用していた望遠レンズの効果が遺憾なく発揮され、殺陣をより効果的に見せている。

「用心棒」-1  撮影は宮川一夫の存在が大きいが、3台のカメラによるマルチカム方式で撮影されている本作品ではクレジットされていないものの、斉藤孝雄の貢献も大である(完成作品には、斉藤の撮影分の方が多く使用されている)。
  また、この作品はダシール・ハメットのハードボイルド・アクション小説「血の収穫」の影響が大きいことは、黒澤本人が、「血の収穫」だけじゃなくて、本当はクレジットにきちんと名前を出さないといけないぐらいハメット(のアイデア)を使っている」と認めている。(「黒澤明語る」より)

「用心棒」-2  なお、「ある町にふらりと現れた主人公が、そこで対立する2つの組織に近付いて双方を欺き、最後には全滅させて去っていく」というアウトラインは、多少の違いはあるものの他の東宝映画にも見受けられる。
  例としては、当作品の前年に公開されたギャング・アクション映画「暗黒街の対決」(1960年 岡本喜八監督)や、本作の9年後に公開された任侠パロディ映画「日本一のヤクザ男」(1970年 古澤憲吾監督)などが挙げられる。

「用心棒」-3  現在ではよく見られる演出だが、侍同士の対決シーンで、すれ違いざま刀を振り下ろし、いったん静止して片方がゆっくり倒れて死ぬという描写や、効果音として刀の斬殺音(ぶら下げた牛肉の塊を叩き切る)を使用したのは、本作が最初である。
  ただ、この作品では最初の試みということもあって、音量は、次作の「椿三十郎」よりは控えめである。
  劇中の斬り落とされた手首は、俳優としても出演している大橋史典不差に(斬られる兇状持ち役)が造形した。あまりのリアルさに、黒澤監督はそばに寄ろうともしなかった、とのエピソードがある。

「用心棒」-4  また、卯之助役は、当初、三橋達也がキャスティングされていた。ちなみに、かんぬきを持った丑寅の子分の大男は元相撲取りの羅生門綱五郎で、まさに嵌まり役である。

  黒澤監督の作品は厖大な制作費が掛かるため、東宝は黒澤プロダクションとの共同製作方法を導入した。
  その最初の作品「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)は、制作費8,254万円に対して、配収5,228万円に終った。
  決して悪い収入ではないものの、独立プロとして発展するためにはさらに強大な配収が必要とされた。
  その第2作として痛快な娯楽作品が作られ、9,087万円の制作費に対して、3億5千万円の配収を超える空前の大ヒットなった。


「用心棒」
















<リメイク>

「荒野の用心棒」ポスター「荒野の用心棒」   1964(昭和39)年   イタリア

<監督>セルジオ・レオーネ
<製作>アリゴ・コロンボ/ジョルジオ・パーピ
<脚色>ヴィクトル・A・カテナ/ハイメ・コマス/セルジオ・レオーネ
<撮影>マッシモ・ダラマーノ
<美術>カルロ・シーミ
<音楽>エンニオ・モリコーネ
<編集>ロベルト・チンクイニ


「荒野の用心棒」<出演>
クリント・イーストウッド/マリアンネ・コッホ/ジャン・マリア・ヴォロンテ/ヨゼフ・エッガー/ヴォルフガング・ルクシー/ジークハルト・ルップ/ホセ・カルボ/アントニオ・プリエト/ジークハルト・ルップ/マリオ・ブレガ/ウォルフガング・ルスキー/マルガリータ・ロサノ/ラフ・バルダッサーレ



「荒野の用心棒」  本作品は映画の筋書きや登場人物、演出、台詞など黒澤明の「用心棒」の翻案である。クリント・イーストウッドに出演依頼を行う際に「日本映画のリメイクを作る」と伝えている。 しかし、監督のセルジオ・レオーネと製作会社は公開にあたり黒澤明の許可を得ていなかった。
  そのため、「用心棒」の製作会社がレオーネ達を著作権侵害として告訴、勝訴している。この裁判の結果を受けて「荒野の用心棒」の製作会社は黒澤達に謝罪し、アジアにおける配給権と全世界における興行収入の15%を支払うことになった経緯がある。
  また、セルジオ・コルブッチ監督の「続・荒野の用心棒」との作品も存在するが、日本公開に際して配給会社によって付けられた邦題に過ぎず、本作品とは何らストーリー上の繋がりは無い。


「ラストマン・スタンディング」「ラストマン・スタンディング」 1996(平成8)年  アメリカ

<監督> ウォルター・ヒル
<エグゼクティブプロデューサー>サラ・リッシャー/マイケル・デ・ルカ
<製作>ウォルター・ヒル/アーサー・サルキシアン
<脚本>ウォルター・ヒル
<原案>黒澤 明・菊島隆三
<撮影>ロイド・エイハーン
<美術>ゲイリー・ウィスナー
<音楽>ライ・クーダー
<編集>フリーマン・デイヴィス
<衣装(デザイン)>ダン・ムーア
<字幕>岡田壯平
「ラストマン・スタンディング」<出演>
ブルース・ウィリス/クリストファー・ウォーケン/ブルース・ダーン/カリーナ・ロンバード/デイヴィッド・パトリック・ケリー/ネッド・エイゼンバーグ/アレクサンドラ・パワーズ/ネッド・アイゼンバーグ/マイケル・インペリオリ/マイケル・インペリオリ/レスリー・マン/R・D・コール/ケン・ジェンキンス


<その他>
  リメイクではないが、アメリカ映画「ボディガード」で、主人公達が映画館で見るのが「用心棒」であり1シーンがそのまま使われている。
  また「ボディガード」の題名自体がアメリカ公開時の「用心棒」の英語タイトルであり、この作品内では「用心棒」を含む黒澤映画へのオマージュが多々見られる。


「荒野の用心棒」題字











「用心棒」-2












「用心棒」ポスター
























「用心棒」ポスター

























「用心棒」ポスター
























「用心棒」ポスター「用心棒」ポスター

















「用心棒」ポスター「用心棒」ポスター
















「用心棒」ポスター「用心棒」ポスター












「用心棒」ポスター「用心棒」ポスター

















「用心棒」ポスター「用心棒」ポスター

















「用心棒」ポスター「用心棒」ポスター







「用心棒」パンフ「用心棒」パンフ

















「用心棒」CD「用心棒」CD「用心棒」CD









「用心棒」CD「用心棒」CD

















「用心棒」SD「用心棒」LD












「用心棒」CD











「用心棒」DVD「用心棒」VHS



















「用心棒」DVD「用心棒」DVD

















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「用心棒」DVD

















「用心棒」DVD
















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「用心棒」DVD「用心棒」DVD










「用心棒」DVD「用心棒」DVD







「用心棒」DVD



















「用心棒」VHS



















「用心棒」VHS

幻映画館(107)「用心棒」(写真集)

「用心棒」題字












「用心棒」タイトル














何処からか、ふらりとやって来た1人の浪人

「用心棒」-1「用心棒」-2








「用心棒」-3「用心棒」-4








「用心棒」-5

















行き先は、空へ放り投げて落ちた木の方向

「用心棒」-6「用心棒」-7







博打打ちになる、と家を飛び出す百姓の倅

「用心棒」-8「用心棒」-9








「用心棒」-10「用心棒」-11








馬目の清兵衛と新田の丑寅が争う宿場へ到着

「用心棒」-1

















「用心棒」-2「用心棒」-3






「用心棒」-4「用心棒」-5







「用心棒」-7「用心棒」-6「用心棒」-8






用心棒の口利きは1分(いちぶ)、と擦り寄る番太

「用心棒」-9「用心棒」-10









「用心棒」-1居酒屋の親爺権爺から、宿場の状況を聞き出す浪人







「用心棒」-3「用心棒」-2「用心棒」-4






宿場に屯する破落戸(ごろつき)達の群れ

「用心棒」-1






「用心棒」-4「用心棒」-3「用心棒」-2










用心棒として売り込む腕前を披露

「用心棒」-5「用心棒」-6







「用心棒」-7「用心棒」-8







「用心棒」-9一瞬にして叩き斬った3人の兇状持ち












「用心棒」-10「用心棒」-11









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「用心棒」-14「用心棒」-15「用心棒」-16












「用心棒」-1まず、優勢な清兵衛の陣営へ売り込み











「用心棒」-2「用心棒」-3「用心棒」-3







「用心棒」-750両で用心棒決定。姓を訊かれ、桑畑三十郎と名乗る。








喧嘩が始まると知って逃げ出す、前用心棒

「用心棒」-9「用心棒」-10








女房のおりんが、丑寅に勝った後で浪人を殺そうと提案

「用心棒」-4「用心棒」-5








「用心棒」-6「用心棒」-8








その密談を立ち聞きして、用心棒を辞退する三十郎

「用心棒」-11






居酒屋へ引き揚げた三十郎

「用心棒」-1「用心棒」-2






噂を聞いて、丑寅が三十郎を雇いに。おりんも再勧誘に訪問

「用心棒」-3「用心棒」-4「用心棒」-5







両陣営を戦わせて共倒れにと、策を練る三十郎

「用心棒」-1







「用心棒」-2「用心棒」-2











「用心棒」-3






丑寅の弟乱暴者の亥之吉と兇状持ちの子分達

「用心棒」-3「用心棒」-2









「用心棒」-1「用心棒」-10









丑寅陣営へ乗り込み、売り込みと供に煽動の開始

「用心棒」-4「用心棒」-5






いよいよ一触即発の、両陣営の激突態勢

「用心棒」












「用心棒」-1「用心棒」-2







「用心棒」-5「用心棒」-3










火の見櫓の上から、双方の争いを高見の見物と洒落る三十郎

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「用心棒」-6「用心棒」-7









「用心棒」-9「用心棒」-8









双方きめ手が無く、延々と続く小競り合い

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「用心棒」-12「用心棒」-11








「用心棒」-13



















「用心棒」-14「用心棒」-15












八州回りの役人視察により一時休戦

「用心棒」-1







「用心棒」-3「用心棒」-4










「用心棒」-2






清兵衛の息子と造酒屋(丑寅の黒幕)の妾との人質交換

「用心棒」-1







「用心棒」-3「用心棒」-2










「用心棒」-4「用心棒」-5










「用心棒」-6百姓の妻ぬいは、夫の博打の形に造酒家の妾に取られていた











「用心棒」-1末弟卯之助が宿場へ戻り、丑寅陣営に加わる









「用心棒」-3「用心棒」-2







「用心棒」-5「用心棒」-4









三十郎は多勢の襲撃に見せ掛け、ぬいを救出

「用心棒」-1







「用心棒」-2










「用心棒」-3






居酒屋へ情報を探りに来た卯之助

「用心棒」-1「用心棒」-2











「用心棒」-3「用心棒」-4













「用心棒」-5「用心棒」-6








「用心棒」-7「用心棒」-8








「用心棒」-9「用心棒」-10






ぬいの手紙が見つり、三十郎は丑寅陣営へ拉致

「用心棒」-11










凄惨な拷問を受け、瀕死の重体になった三十郎

「用心棒」-1「用心棒」-2

幻映画館(107)「用心棒」(写真集)

清兵衛親子は卯之助の短銃で撃たれて絶命し、丑寅一家の勝利

「用心棒」-3











「用心棒」-4






三十郎は棺桶に隠れて墓場へ、念仏道で治癒に専念

「用心棒」-4






権爺が丑寅に掴まった報せに、単身乗り込む三十郎

「用心棒」-1






「用心棒」-2






「用心棒」-3「用心棒」-4






「用心棒」-5「用心棒」-6






待ち受ける丑寅一家、短銃を構える卯之助

「用心棒」-7











「用心棒」-8「用心棒」-9







「用心棒」-10「用心棒」-11










「用心棒」-12懐手のまま接近する三十郎










「用心棒」-13






「用心棒」-1「用心棒」-2









短銃を持った卯之助の右手を射貫いた、三十郎の出刃包丁

「用心棒」-3「用心棒」-4








「用心棒」-5「用心棒」-6









「用心棒」-7縛られた権爺の繩を切り、また何処へともなく去って行く用心棒













「用心棒」終





















<字幕>

「用心棒」タイトル(三船)







「用心棒」タイトル(三船)「用心棒」タイトル(仲代)











「用心棒」タイトル(縦)

















































<ロケ風景>

「用心棒」ロケ


















「用心棒」ロケ

















「用心棒」ロケ






















「用心棒」ロケ

















<DVDラベル>

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