2011年01月01日

「ふらり道草―季節の往来―」へ移行しました。

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2010年12月24日

12月の詩(4)「枇杷」

今年また枇杷の花咲き憂いあり






















  子供の頃の私は、枇杷の花の咲くのを長いこと知らなかった。田舎の庭に大きな枇杷の木があった。だが、朱色に熟れた楕円形の実ばかりが、いつも気になっていた。
  そんな枇杷の木に白い花が咲くことを知ったのは、中学校の2年生の頃だった。冬休みに入ったクリスマスの日に、同じクラスの同級生の家へ遊びに行ったことがあった。
  それは、全く偶然からの出来事だったのだが、私にはそれまでの生涯で最も楽しい出来事として残った。そんな事のあった翌朝、庭にでて見ると、いつも目の前にある枇杷の木に、白い花が咲いているのを見つけた。
  花は白い色をしているのに、生い茂る葉の蔭に隠れる様に咲いていて、あまり目立た  なかった。当然のことながら、花が咲かないと実は生らないはずである。その年から、私は枇杷の花が沢山咲いてくれることを願うようになった。
  あの楽しかった中学2年生の冬休みの出来事は、今では遠い夢の中の事の様に朧に霞んでしまったが。


いつしかに枇杷の花咲く頃となり





















「枇杷の花」    室生犀星

蒼じろい枇杷の花が咲いてゐる
褐色のくたびれ過ぎた垣根に添うて
幽かで
遠慮ぶかく
いつもわたしどもの華麗な風景から
ひつそりとぬけ出し
糀(こうじ)のやうに寂しく咲いてゐる

何か話し忘れたやうな気がして
ふいと目にとまり
豆のやうに
つぶつぶに哀れな匂ひのあさい花だ
うつすりと冬日のなかで
ひと知れずあたためられ咲いてゐる花だ

誰の目にもはひらうとせず
そしておまへは陰影のある暗い枝の
枇杷の花である

いつしかに枇杷の花咲く頃となり





















「宵月夜」
    三好達治

宵月夜あはきかげふみ
木枯しに帽をかたむけ
ひととせの老をぞ重ぬ
枇杷の花さけるうら路


知らぬ間にほろりと散りし枇杷の花冬の日の午後にやうやくさし来れどさす光うすき枇杷の木の花
   岡  麓

枇杷の花白きをあはれと知りそめて少年はひと日沼に遊びき
   扇畑忠雄

枇杷の花少年肘をあげて泣く
 島田まつ子

誰か来さうな空が曇つてゐる枇杷の花
    種田山頭火




古里の便りはあるや枇杷の花





















「枇杷の花」    永井荷風

  顔を洗ふ水のつめたさが、一朝ごとに身に沁みて、いよいよつめたくなつて来る頃である。昼過に何か少し取込んだ用でもしてゐると日の短くなつたことが際立つて思ひ知らされるころである。暦を見て俄に其年の残つた日数をかぞへて見たりするころである。
  菊の花は既に萎れ山茶花も大方は散つて、曇つた日の夕方など、急に吹起る風の音がいかにも木枯らしく思はれてくる頃である。こずえに高く一つ二つ取り残された柿の実も乾きしなびて、霜に染つた其葉さへ大抵は落ちてしまふころである。百舌や鵯の声、藪鶯の笹鳴ももうめづらしくはない。この時節に枇杷の花が咲く。

  枇杷の花は純白ではない。その大きさもその色も麦の粒でも寄せたやうに、枝の先に叢生する大きな葉の間に咲くので、遠くから見ると、蕾とも木の芽とも見分けがつかないほど、目に立たない花である。八ッ手の花よりも更に見栄のしない花である。


「十日間」    長塚 節

  火事は下妻の中學校であると、かみさんがどつからか聞いて來た、秋山が損をするだらう氣の毒だなどゝ話をする、
  歸つて來たのはまだ日の高いうちだが風呂が沸いて居た、風呂の中から窓を明けて見ると木小屋の前がよく片付いて心持がよい母が手づから片付けたのださうだ、百舌が一羽下りて枇杷の枝へ飛んだ、枇杷の花はまださいてゐる、
  井戸流しで頭を洗ふ、乾いた手水盥の底に鷄の足跡が二つ、
  夕方新聞來る、昨日の分と今日の分と一所である、暫くは目うつりがするやうに落付かない、


幾年を生きてあるのか枇杷の花


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2010年12月15日

12月の詩(3)「南天」

南天の赤き実今も同じ色





















   南天の木は細いのに、いつも沢山の実をつけて重く垂れ下がっている。花は夏の始めに咲くが、実が赤くなった頃に寒い冬がやって来た。だから、南天は子供の頃から冬の象徴の様に思えた。原産地の中国では漢名は「南天燭」と呼ぶ。赤い実が「燭(ともしび)」に見立てたてられたのだろう。
  雪の積もった裏山で、山鳥を捕る罠を仕掛けた。その餌は稲の穂が最適だった。だが、非農家の我が家に稲などは無い。庭先の赤い南天の実を一房千切って餌にした。南天の餌はいつも鳥に食べられてしまって、私が山鳥を捕まえたことは一度もなかったが。
  それでも、南天の実は、鳥が食べるのだろう。庭の隅の思わぬ所から芽を出すことがある。今は鳥を捕る仕掛けなど作らなくなった。娘らが小さい頃は、雪兎の目にしたものだが。その雪、娘らが大きくなった今は降らなくなってしまった。
それでも、石垣の隙間から伸びた南天の実が、赤い実を重そうに垂れている。


「赤い木の実」    竹久夢二
 
雪のふる日に小兎は
あかい木の実がたべたさに
親のねたまに山をいで
城の門まできはきたが
あかい木の実はみえもせず
路はわからず日はくれる
ながい廊下の窓のした
なにやら赤いものがある
そつとしのむできてみれば
二の姫君のかんざしの
珊瑚の珠のはづかしく
たべてよいやらわるいやら
兎はかなしくなりました。


冬の日に南天ひときわ赤くして



















「ゆきうさぎ」
    鹿島鳴秋

赤いおぼんの 雪うさぎ
お眼のないのが かなしいか
ながいお耳を ふるはせて
ぢつとしやがんだ
いぢらしさ
 
赤い南天 おにはから
ふたアつとつて つけたらば
お眼ができて うれしいか
ぴよんぴよんはねる
ゆきうさぎ


雪の朝南天の実は顫えいて新室を踏み鎮む子が手玉鳴らすも玉のごと照らせる君を内へと申せ
    読み人知らず(万葉集)

年越すがひとつ願ひの父と見る霜おく庭に南天赤し
    君山宇多子

億年のなかの今生実南天
   森 澄雄

おもひつめては南天の実
    種田山頭火




今年また南天赤く染まりけり




















「小鳥」
    宮本百合子

  午後から日がさし、積った白雪と、常磐木、鮮やかな南天の紅い実が美くしく見える。
  机に向っていると、隣の部屋から、チクチク、チチと小鳥の囀りが聞えて来る。二三日雪空が続き、真南をねじれて建った家には、余り充分日光が射さなかった。寒さや陰気さで縮んでいた彼等は、久し振りに障子もあけて置ける暖かさでさぞ嬉しいのだろう、雨だれの音、小鳥の声が、入り混り優しく響く。
  全く、彼等の天候に支配されることといったら、私以上の鋭さである。紅雀、じゅうしまつ、きんぱら、文鳥などが一つがい、二つがいずついる。少し空が曇り、北風でも吹くと、元気な文鳥以外のものは、皆声も立てず、止り木の上にじっとかたまって、時雨れる障子のかげを見ているのである。


「美術論・画論」    小熊秀雄

  小さな赤い南天のたつた一粒の実が語る、この自然物の運命といふものは、なかなかに興味の深いものがある。
  桂月氏の作品をみる楽しみは第三者は、さうしたところに求めなければいけないやうに思ふ。また画壇の後進者も、その点を認めなければいけないと


「千曲川のスケッチ」    島崎藤村

  驚くべきは南天だ。 花瓶の中の水は凍りつめているのに、買って 挿した南天の実は赤々と垂下って葉も青く水気を失わず、 活々( いきいき )と変るところが無い。君は牛乳の凍ったのを見たことがあるまい。淡い緑色を帯びて、 ...



「月令十二態」    泉 鏡花
      
   西日に乾く井戸端の目笊に、殘(のこ)ンの寒さよ。鐘いまだ氷る夜の、北の辻の鍋燒饂飩、幽に池の石に響きて、南の枝に月凄し。一つ半鉦の遠あかり、其も夢に消えて、曉の霜に置きかさぬる灰色の雲、新しき障子を壓す。
  ひとり南天の實に色鳥の音信(おとづれ)を、窓晴るゝよ、と見れば、ちら/\と薄雪、淡雪。降るも積るも風情かな、未開紅)の梅の姿。其の莟の雪を拂はむと、置炬燵より素足にして、化粧(けはひ)たる柴垣に、庭下駄の褄を捌く。


冬の日に何を憂ふか赤き実は


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2010年12月07日

12月の詩(2)「柊木」

柊の香に誘われて一回り






















  柊は花の少ない侘しい時期に、何処からともなく薫って来る。柊は大抵が裏庭や日当りの悪い所に植えられていて、いつもは見忘れがちである。
  それが、小春日和の中で甘い香りがふと漂って来ると、何か新しいものでも見つけた  ようで嬉しくなったものだ。まるで星屑の様な小さな白い花は余り目立たない。柊は葉に刺があるので近寄り難いためか、余計に花は慎ましく隠れている様に思える。
  小さくて目立たなくても、香りは金木犀にも負けていない。冬は空気が乾燥するから、一段と香りが強く感じられるのかも知れないが、嬉しくなるような好い香りである。
  刺のある葉を親指と人指し指に挟んで軽く息を吹き掛けると、葉はくるくると回った。柊の風車は、玩具などほとんど買ってもらえなかった頃の楽しい遊びだった。実が赤くなる頃は、もうそんか遊びも忘れて、初夏の野山を飛び回っていたが。

柊の白き花にもいのちあり




















「雪の朝」    小畠貞一

なかば埋れたひひらぎの
葉陰の雪のうへに
をさな子の貌がいくつも印されてゐる。
小猫や犬の貌も交つて
ひそびそと微笑みかはしてゐる。

もれ陽がさすと一層ひつそりとする。
ときをり どこからか群童のさわやかなこゑが
青穹にこだまし
無心の假面のうへに匂ひこぼれる。


「ぼくは置こう……」
    フランシス・ジャム

ぼくは置こう、窓辺に白いヒヤシンスを。
コップのガラスをすかせば
青く見えるほどの 澄んだ水にさして。

ぼくは置こう、小川の小石のように
白くかがやくお前の胸に
ひいらぎの 真赤な実を。

ぼくは置こう、目にしみのある
皮膚病にかかった不幸な犬の
あわれな 頭に

心をこめた愛撫の手を。
その犬が、ほんのすこし満たされて
いつも のどをならしていられるように。

ぼくは置こう、ぼくの手をお前の手に。
お前は連れていってくれるだろう、
秋の葉が、くるくる落ちる木蔭の下を。

草やわらかな 牧場のなかの、
やさしい雨が 穴をあけた
泉の砂のところまで

……………………
…………ほそい雨
霧雨のようにやさしい わが想い。

ぼくは置こう、めえめえ鳴く仔羊の頭に
みどりなるが故に思い
にがい きづたの枝を。



柊の香り訪ねて古里へひひらぎの白き小花の咲く時にいつとしもなき冬は来むかも
    斎藤茂吉

なんとなく泣きたくさえなっていた柊の花は白かりにけり
    山崎方代

柊の花一本の香りかな
    高野素十

柊挿す娘は嫁にゆくものか
   樋口ただし







柊の赤き実成っていじらしく




















「旅日記」
 -道中記- 種田山頭火

四月一日(昭和十四年)   曇、澄太居。

  澄太居のよさを満喫する、澄太君には大人の風格がある、私は友人として澄太君をめぐまれてゐることを感謝する、考へて見ると、私のやうなぐうたらに澄太君のやうな人物が配せられたといふ事実はまことに意義深遠なものがあると思ふ。
  私は友達にさゝへられて今日まで生きて来た、ありがたいことではないか、私は低頭し合掌して私の幸福を祝福せずにはゐられない、澄太居の前にはよい柊がある、といふわけで柊屋といふ。
朝の鏡にうつりて花の大きく白く
旅の或る日の鼻毛ぬくことも


「幼き日」(ある婦人に與ふる手紙)  島崎藤村

  すこし見慣れないものが有ると、私は子供心に眼をとめて見ました。そして不思議な恐怖に襲はれることが有りました。太助がよく働いて居た木小屋の前を通り拔けて、一方の裏木戸の外へ出ますと、そこには稻荷が祭つてあります。葉の尖つた柊、暗い杉、巴丹杏などが其邊に茂つて居まして、木戸の横手にある石垣の隅には見上げるほど高い枳殼(からたち)が立つて居ました。
  あの棘の出た幹の上の方に、ある日私は大きな黒い毛蟲の蝶を見つけました。田舍で荒く育つた私の眼にも、その蝶ばかりは薄氣味の惡いほど大きかつた。そして毒々しい黒い翅を震はせて居ました。私は小石を拾つて投げつけようとしましたが、恐ろしくなつて、そのまゝ母屋の方へ逃げて歸つたことが有りました。


「鬼を追い払う夜」    折口信夫

  「福は内、鬼は外」と言うことを知って居ますか。此は節分の夜、豆を撒いて唱える語(コトバ)なのです。此日、村や町々の家々へ、鬼が入り込もうとするものと信じて居ました。それに対して、豆を打ちつけて追うのだと言います。今年はそれがちょうど、二月四日に当るのです。これは家々ですることですが、又社や寺でも、特別に人を選んで、豆撒き役を勤めさせます。
  又豆を年の数だけとって喰うこともあります。地方によっては、一つだけ余計に喰べる処もあります。これはもと一つはからだを撫でたものなのです。つまりからだについた災いを其にうつすつもりだったのです。門(カド)には前もって、柊の小枝を挿して置き、それに鰯の頭――昔は鰡(ボラ)の子のいなの頭――をつき刺して出しておいたものです。


「柊の垣のうちから」 -柊の垣にかこまれて―   北條民雄

  それからまた十五六分も歩いたであらうか、私達の着いたところは病院のちやうど横腹にあたるところだつた。真先に柊の垣が眼に這入つた。私は異常な好奇心と不安とを感じながら、正門までぐるりと垣を巡る間、院内を覗き続けた。
  以来二年、私はこの病院に暮した。柊の垣にかこまれて、吐口のない、息苦しい日々ではあつたが、しかし二十三になつた。私はこの中で何年生き続けて行くことだらう。今日私は、この生垣に沿つて造られた散歩道を、ぐるりと院内一周を試みた。そしてふと『死の家の記録』の冒頭の一節を思ひ出した。
  「――これがつまり監獄の外囲ひだ。この外囲ひの一方のところに、がつしりした門がとりつけてある。その門はいつも閉めきつてあつて夜昼ぶつとほしで番兵がまもつてゐる。(中略) 柊の垣に囲まれて、だが、私は二年を生きた。私はもつと生きねばならないのだ。


今年また柊の花に逢えしかな


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2010年12月01日

12月の詩(1)「八つ手」

見る人もないのに咲きし八つ手花






















   家の蔭になった日当たりの悪い場所なのに、球状の白い花が咲いていた。それほど太くないがよく伸びた木に、団扇の様な大きな葉が広がっている。指を一杯に伸ばしてもはるかに大きい葉は、「天狗の羽団扇」と呼ばれていた。絵本で見た天狗の団扇にそっくりである。
  冷え込みが強くなって庭の木々の葉は散ほとんどが散ってしまい、その時期に咲いている花は少ない。正式な名称は「八つ手」と呼ぶと、隣家の小母さんに教えてもらった。薄陽の射す日などは、その白い花に蜜蜂がやって来た。
  冬篭りの蜜を集めているのだろうか。八つ手の花は私にはんど香りがしなかったのに、蜜蜂は敏感に感じるのだろう。本格的な冬になる前のほんのひと時。そんな暖かい日の中で、八つ手の花は小さな生き物に甘くて優しい花なのだろう。
  春になれば黒い実の成る八つ手は、古い発音で八手(はっしゅ)と呼んだことからきていると言う。だが、裂けた葉を数えて見ると、それは7つか9つで、8つの葉は見つけることが出来なかった。


八つ手花誰に想ひを秘めて咲く




















「八手を描く」    内藤鐘\策

八手の枝に
八手の葉をすげる
その くりくりと
きりくまれた つけねがおもしろい
そこを見てゐる

私は八手の葉の
つけねばかりを見てゐる


ひそと咲く八つ手の花に触れてみる 窓の外(と)に白き八つ手の花咲きてこころ寂びしき冬は来にけり
   島木赤彦

すぎし日はさみしかれども花八つ手み冬に近く色たちにけり
  村野次郎

日向より日蔭が澄みぬ花八つ手
   馬場移公子

ひつそりとして八ツ手花咲く
    種田山頭火



古里の庭にも咲きしや八つ手花






















「八つ手」 ―パリにてー    杉本秀太郎


  ああ、八つ手の花。目立たないが、よく見ると、精巧な電波受信装置のような花。八つ手は冬虻や冬の蝿には香りを発信して彼らをあびき寄せて、真っ黒な、つぶつぶの実を結ぶ。
  八つ手という木は、八つ手を苗字とすれば、名は冬蔵というのにちがいない。
  八手冬蔵。どこかの質屋の番頭にでもありそうな名前の木が、軒深い日本の家の庭に、青白い花をつけている。日本は遠い。パリは花ひとつない暗い冬。


「早春」
    豊島与志雄」   

  梅の木を植える手伝いだった。物置小屋を廻ってゆくと、鍵の手になってる建物が、わりに広い庭をかかえている。庭師の手にかけた庭ではないが、百日紅や野薔薇や八手や檜葉や椿などが、広場の向うを限っている。
  その片端のところに、穴が掘りかけてあり、大きな梅の木が塀に立てかけてあった。背は低いが、手入れの届いたみごとな古木で、散り残った花がまだ少し残っており、根廻りを大きく取ってあって、北川さん一人ではとても扱えそうになかった。そこへ持ち込むにも、板塀を越させたんだろう。


「追憶」
 (三) 庭木    芥川龍之介

  新しい僕の家の庭には冬青(もち)、榧(かや)、木斛(もっこく)、かくれみの、臘梅(ろうばい)、八つ手、五葉の松などが植わっていた。
  僕はそれらの木の中でも特に一本の臘梅を愛した。が、五葉の松だけは何か無気味でならなかった。


「八つ手の葉と天狗の扇」    石川県能登の民話

  むかし、むかし、爺々と婆々がおったと、二人の間には子供がなかった。どんだけ神様に子供が授かりますようにと願までかけたができなんだ。そして願のあける時に神様は「おまえら二人はもう年もいっとるもんで子供は授からんわい。そのかわり米が欲しいと言えば米、銭が欲しいといえば銭、何でも欲しいもんいえば出る宝物の天狗の扇をやっさかい大切に使えよ」といって扇をおいていった。
  「子供授からんのやさかい、もうあきらめよう」本当に欲しいもんいうたら出るかなと思うて、扇をふって「銭出ろ」「米出ろ」というたら、銭や米がザアーザアーと、出てくる、何から何までいうたもんで出るわ出るわ、もう欲しいもんがないがになってしもたもんで退屈になってきた。
  そこで天狗みたいに鼻を高うしてみっかちゅかになったげと、「鼻高なれ」と一あおぎしたらグンとのびた、二あおぎしたらまた高くなった。あおぐたびに伸びるのでしまいに天まで伸びた。
  下の村では枯れ草を焼く野焼きがはじまった。けむたくてけむたくてどんこならん。「鼻低くなれ、鼻低くなれ」とあおいだが問に会わず、爺々はとうとう焼けどをしてしまった。
  この天狗の扇がおそろしくなって神様に奉納したと。この天狗の扇が八つ手の葉によく似ているもんで、八つ手の木は神様の宿る木やさかいに神様などのあらたかな所に植えるもんやと。Font size=2>


短か日を八つ手の花咲き暮れてゆく


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