2017年02月19日
船村徹さんの訃報に涙
拙が五十代になって大きく変わったことは、目や首を病気で悪くしてからというもの、休日の遠出の外出がめっきり減ったことである。電車を乗り継いで遠出するなんてことは、恐らく年に一度、亡き母の法事のときくらいだ。
先週の休日に、久しぶりに新宿のディスクユニオンに行ってきた。新宿本館、昭和歌謡館、新宿ロックレコードストアを小一時間ほど覗いて、発売日前に入荷したレココレ最新号を買ってきただけだったが、わが家からは電車1本で行ける場所であるものの、往復の車内が思いのほか混雑していたこともあって、帰宅したときには仕事帰りのようにすっかり疲れ果ててしまった。
徹夜してもひと晩寝れば元気になるような若くタフな体ではなくなったことを痛感している。かつてはどんなにオーバーワークで疲れ切ったときでも、休日ともなればレコ屋を何時間もかけてハシゴして回り、そのあとロックバーで痛飲するなんてことを平気でやっていた。
そんな荒療治で心身ともに回復した気になっていたわけだから、今から考えるとどれだけ無鉄砲な行為だったのか。もしかしたらそのときのツケが、今の目と首の病気に繋がったかもしれないと思うと、あのときからもう少し養生しておくべきだったと後悔することしきりである。
土日休日のきょうは2日目の日曜なのだけど、まだまだ疲れが抜けず体の節々が痛い。こんなときは多少は散歩しながら体をほぐしたほうがいいのだろう。新たな疲れを重ねない程度にね。
さて、作曲家の船村徹さんの先日の訃報に涙を禁じ得ない拙であります。2月16日逝去、享年84歳とのこと。
昭和歌謡の大家である船村徹さんはテレビにもよく出演されていました。美空ひばりやちあきなおみの特番で、的確な解説をする氏の姿が目に焼き付いている方も多いのではないでしょうか。ビートたけしの司会する番組では、たけしに促されて、ちあきなおみを「いい女」だとお茶目な笑顔で語っていた姿は忘れられません。
美空ひばりの「ひばりの佐渡情話」、ちあきなおみの「矢切の渡し」「紅とんぼ」しかり、村田英雄「王将」、北島三郎「なみだ船」、鳥羽一郎「兄弟船」と、いずれもそのシンガーの特性とパーソナリティーを極限まで引き出してみせた名曲の数々は、日本の大衆音楽が生んだ文化遺産といってもいいのではないか。昭和歌謡が単なる流行歌の枠を超えて後世にまで語り継がれる価値を築き上げた、文字通り立役者であった船村徹さんのことを、拙は記憶の中にしっかりと刻み込み、生涯忘れることはないでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。
追伸:船村徹さんの素晴らしさは作曲にとどまらず、ギターと歌の才能もずば抜けていたことをここに記しておきます。
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この記事へのコメント
お久しぶりです。悲しい記事でした。
話は変わりますが、この方が若かりしころ
ロンドンのEMIにて、オーディションを見学された記事を読みました。
その時に、バンドスタイルでは1バンドだけだったらしく、4人組。
唯一、あのバンドは良かったとコメントされた様ですね。
1961年の事。
> 話は変わりますが、この方が若かりしころ
> ロンドンのEMIにて、オーディションを見学された記事を読みました。
う〜ん・・・どうなんでしょうね?ビートルズが他のアーティストと一緒にEMIのオーディションを受けたという話は史実としてあったことなんでしょうか?というところから疑問だったりするんですが。ネットにもそういう意見がありました。いずれにしても船村先生がブリティッシュ・インベイジョン以前の時代に、英国の音楽シーンの一端に触れられたという事実はすごいことだと思います。