2008年03月13日

ピーター・パン

e97128f9.jpgジェームズ・バリ/本多顕彰訳(新潮文庫)

 この本には、ディズニーのピーター・パンと違って、海賊やチクタク・ワニは出て来ない。あれは、この本の続編の戯曲『ピーターとウェンディ』をアニメにしたものだ。ディズニーのピーター・パンは本当によくできているアニメで、子どもが夢中になって見るし大人も楽しめる。ストーリーの展開のリズムがよく、思わず笑ってしまう個所が何カ所もある。
 しかし、この地味な『ピーター・パン』の本も、なかなか深いものがあって、「子どもはみんな生まれてくる前には妖精を知っていたし、赤ん坊のときにはまだ覚えていた」が、大人になるにしたがってみんな忘れてしまうというところなど、本当によく分かる。この本を読んだ人は誰でも自分の幼少年時代を思い出して微笑むだろうと思う。

2008年03月09日

不思議な少年

4076465c.jpgマーク・トウェイン/中野好夫訳(岩波文庫)

 マーク・トウェインといえば、「トム・ソーヤーの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」が名高く読んだ人も多いと思う。この本も、以前ちょっと読んでみようかなと思い「積ん読」しておいたものを何年ぶりかで「たまたま」読んだものであるが、大変面白い小説で、意外ともうけものをしたような気分であった。
 トウェインがこんな小説を書いていたのはまったく知らなかったのであるが、中野好夫氏の解説によると、晩年はかなりペシミスティックな人間観を抱いていたようである。
 3人のこどもたちの前に、あの悪魔の親戚である天使のサタンが現れ、いろいろ面白いものを見せて子どもたちを楽しませ、時空を超えて世界中を案内してくれる。その内容は、人間の愚かさ、残虐性をこれでもかと見せつけるものである。生きるためでなく「ただ残虐性のためだけに他人を殺す生き物は人間だけである」というサタンの言葉は説得力があり反論しようがない。
 中世の魔女刈りや戦争による大虐殺など、サタンの見せつける愚かな事例は、この小説の書かれた19世紀末の時代でも十分に説得的なのであるが、その後の20世紀に人類の経験した第一次、第二次の世界大戦や、ホロコースト、原爆の投下などの事例を見れば、サタンが罵倒してやまない人間の愚かさ醜さの事例は、さらに確実に例証されたと言わざるを得ない。

2008年03月08日

ジーキル博士とハイド氏

 Hydeスティーブンソン/田中西二郎訳(新潮文庫)

 ジーキル博士は、裕福で誰からも敬愛される紳士である。しかし、それは表の顔で自分の中に享楽的で背徳的な面が押さえつけられていることを自覚していた。その自分の内なる邪悪な面を解放する魔法の薬を発見する。そうして生まれたのがハイド氏である。この薬を飲むと、性格や形相だけでなく、からだの大きさや運動能力さえ変わってしまうのだ。博士は自分の享楽的な欲望を押さえつけられなくなり、我慢できなくなるとこの薬を飲み邪悪なハイドに変身し、悪徳の限りを尽くす。
 そして、ついに悲劇がやってくる。ハイドは、温厚で誠実だと世間の人に思われているもとのジーキル博士に戻れなくなるのだ・・・・。

 だれでも人間なら持っている二重性、世間に良い子に思われていたいという仮の自分というものを意識する瞬間があるものだが、この小説はその人間のもつ根源的な二重性を見事に形象化した傑作である。

2008年02月09日

モリのアサガオ 7巻

0854b936.jpg「モリのアサガオ」最終巻。

主人公と同年齢の死刑囚、渡瀬満の秘密が明らかにされる。渡瀬は両親を殺され、自分も傷つけられて野球ができなくなる。10年後に仇討ちを果たしたあと1年の放浪の後に出頭し逮捕される。復讐を果たすときに相手に抱かれていた子どもを偶然殺してしまうのだが、子どもの存在を知っていて殺したと嘘の証言をして死刑の判決を受ける。
なぜ渡瀬は嘘の証言をして死刑を受け入れたのか、その謎がついに明らかにされる。渡瀬は復讐の連鎖を立つため(自分の妹を復讐から守るため)死刑を受け入れたのである。
そして4年後、主人公の手によって、絞首刑が執行されてしまう。

この作品はなんとも不条理で矛盾に満ちた死刑制度の問題点に深く迫った作品である。果たして、国家の名のもとに人間が人間を殺すなどということが許されるのだろうか。しかし、被害者の家族のどうしようもない感情はどうなる。昔あった「仇討ち」を許さないためにも国家による合法的な復讐であり、仇討ちの代行である死刑は必要悪なのであろうか。
たくさんの解決できない問題を提起し考えさせる。

筆者の立場としては、誘導尋問や自白強要などの権力によって作られた冤罪の多さを考え、国家による犯罪を許さないという観点からも、死刑は廃止すべきであると思う。再審制度を充実させたうえで、死刑に代わる究極の極刑としての本当の意味の「無期懲役」の導入がのぞまれる。
モリのアサガオ 7―新人刑務官と或る死刑囚の物語 (7) (アクションコミックス)

2008年02月05日

モリのアサガオ 5巻

0745d1f3.jpg 新人刑務官と或る死刑囚の物語、「モリのアサガオ」は5巻にいたって急展開を見せる。
 主人公の直樹は実は死刑囚の子どもであり、すでに執行されてしまった実の父親は冤罪だったことが明らかされる(親友を守るために、罪をかぶって死刑になってしまう)。その事情を知っている検察官の養父によって主人公の直樹は引き取られ、育てられる。そして拘置所の死刑囚舎房に新人刑務官として配置されるという運命の必然が語られる。
 なんという偶然、そして必然の展開なのであろう。主人公は、死刑の現実をみて、「死刑廃止論」と「必要論」の間で揺れ続けるが、読者もまた衝撃的な展開の前に揺さぶられ、安易な結論をためらわせられるのだ。


2008年02月04日

カロッサ「ルーマニア日記」

 NHKテレビで藤沢周平の紹介をしていて、藤沢周平が青年時代に読んで大きな印象を受けたと語っていることを知った。全集で当たってみると「青春の一冊」というエッセイ(別冊文藝春秋平成元年10月号、新潮文庫「ふるさとへ廻る六部は」所収)である。
 カロッサはドイツの医師で、「ドクトルビュルゲルの運命」という医師を主人公とした作品があり、「ルーマニア日記」は、第一次世界大戦に医師として従軍した話である。淡々とした詩的で静かな自然描写であり、主人公が死者のノートから発見したとする断片の文章など、観念的・神秘的で理解するのか難しい。ただ、戦争というどうしようもないあまりの悲惨・残虐に対して、神秘的・超越的なものしか人間には頼るものがないのではないかという感覚はよく出ている。
 同じ第一次世界大戦をドイツ軍の側から描いた「西部戦線異状なし」(レマルク)と比べるとその対比は鮮やかで、「西部戦線」の方はもっと描写が即物的で、活動的である。38歳で医師として従軍したカロッサと、10代で学徒出陣したレマルクとの違いともいえるが、根本的ところでは、詩人であるカロッサと、ジャーナリストであったレマルクとの視点・文体の方法上の違いが大きいようだ。
ルーマニア日記 (岩波文庫 赤 436-2)


2008年01月23日

サッカレー「虚栄の市(Vanity Fair)」

三宅幾三郎訳/岩波文庫
 レベッカとアミーリアという二人の学友が女学校を卒業して去るところから物語が始まる。アミーリアは、幼なじみで許嫁のジョージをいちずに恋しているが、ジョージはお金持ちの商人の息子であるが、少し軽薄なところがある。ジョージの小学校時代からの親友であるドビンはひそかに親友の許嫁であるアミーリアを恋している。レベッカはいやしい生まれだが、持ち前の才気と美貌で上流社会へのし上がっていく。
 ジョージは遊び回っているお金持ちのぼんぼんであるが、アミーリアの家が破産して没落した時、親友のドビンに説得されてアミーリアと結婚する。アミーリアはただいちずでジョージの俗物根性も見抜けないし、ドビンが密かに自分を慕っていることにも気づかない。ドビンは、風采のあがらないどんくさい大男なのだ。
 社交界を牛耳り、男を振り回すレベッカに、ジョージが逢引きの約束を取り付けようとしているとき、ジョージに召集令状が来る。そして、ジョージは戦争で死に、アミーリアのお腹に男の子が残される。
 4人が主人公であること、ドビンと「戦争と平和」の主人公ピエールの性格の類似、ナポレオン戦争が背景にあることなど、トルストイ「戦争と平和」にシチュエーションが似ている。20年後に書かれた「戦争と平和」は「虚栄の市」の影響を受け、トルストイはこの本を読んでいたと思うのだがどうなのだろう。
 アミーリアはジョージの遺児を育て、ドビンは経済的にも親友の残された母子の面倒を見る。しかし、アミーリアはドビンが以前から自分を慕っていたことを気づいていながら知らない素振り、ドビンの愛を受け入れない。ついに、ドビンはアミーリア母子のもとから去っていく。ドビンの真価に気づいていたのはレベッカで、レベッカは出征の直前にジョージからもらった付け文をアミーリアに見せる。しかし、その前からアミーリアの決意は固まっていたのである。
 ついにドビンが船に乗って帰って来る。ドビンになついていたジョンが双眼鏡の中にドビンを発見して叫ぶ。「わあい、ドップだドップだ」ドビンはアミーリアのもとに帰って来たのである。
 最終章に近いこのシーンでは思わず泣いてしまった。ぜひお薦めしたい名作である。

 私の読んだのは、三宅幾三郎訳(岩波文庫、全6巻、1940年)であるが、現在手に入るのは、中島賢二訳(岩波文庫、全4巻、2004年)である。


2008年01月22日

アベ・プレヴォ『マノン・レスコー』(Manon Lescaut)

河盛好蔵訳/岩波文庫

 18世紀のフランスを代表する長編小説。
 17歳の主人公はふとしたきっかけで、修道院に入ろうとするマノンに出会い、駆け落ちする。マノンの主人公への愛はけっして変わらないものでありながら、マノンは豪華な服や装飾品、食事、オペラ鑑賞などがなくては不安で生きていけない人間である。そのため、悪気もなくある金持ちの貴族の妾になる。それは主人公のお金が尽きたせいでもある。
主人公はマノンを妾宅から連れ出し、結果的に二人は詐欺行為をして大金を巻き上げたことになってしまい、牢獄に入れられる。主人公は、親の口利きですぐに釈放される。「悪い女にたぶらかされただけだ」と大人たちは判断するのである。
 彼は監獄からマノンを救い出す。その過程で殺人を犯すが、それもなかったことにしてもみ消されてしまう。主人公の青年は有力者の息子だからである。
 そのような事件が繰り返され、ついにマノンはアメリカ大陸へ流刑になってしまう。主人公はアメリカまでマノンを追っていき、その地で死んだマノンを土に埋める。

 17歳の若さを考えるとこういうこともあるだろうと思える。いや、何歳になっても恋の本質は変わらず、無軌道で見境なくあらゆる困難を乗り越えていくものであるともいえる。社会的にみれば、つまり周囲の分別ある大人たちの目からみれば、悪い女にだまされて夢中になっているだけに見えるかもしれないが、マノンはちっとも悪くないし、主人公への愛も真実のものなのである。騙そうなどとこれっぽっちも思っていない無邪気なものである。ただ、ちょっと贅沢な暮らしをしていないと不安で、お金がなくなることが心配なだけなのだ。
 女性の本質と、究極の愛を描いた傑作小説。


2008年01月21日

ヘンリー・ジェイムズ「デイジー・ミラー(Daisy Miller)」

西川 正身訳/新潮文庫

 たとえば、衛星中継を通じて、日本とアメリカの若者でリアルタイムの討論会があったとしよう。日本人はおおむねきっちりとイスに座っている。アメリカの若者は、ガムをくちゃくちゃ噛みながら、ジーパンの足を高く組み上げてラフなスタイルで討論にのぞんでいる。こんなシーンがあったとして、アメリカの若者に対して「行儀が悪い、失礼だ」と感じるか、「自由で気楽な感じでいい」と感じるか、あなたはどちらだろう。いずれにしろ、このときアメリカの若者に「悪気」はないのである。文化と歴史の違いであり、行儀作法などをうるさく言わないアメリカ人のとらわれのなさ、無邪気さには良いところもある。
 19世紀の終わりに発表された「デイジー・ミラー」を読んでこんなことを考えさせられた。アメリカ人の大金持ちの二十そこそこの娘デイジー・ミラーは、ヨーロッパに遊びに訪れ「初対面の男に声をかけられて、口をきき」、男友達と街中のあちこちを遊び歩く。それは当時のヨーロッパのアメリカ人の社会で顰蹙を買う。ただ、本人はいたって無邪気で何の悪気もなく、ただ自由に振る舞っているだけなのである。歴史の古いヨーロッパ社会と歴史の浅いアメリカ社会との落差がここにある。
 主人公のアメリカの青年は、若く美しいデイジー・ミラーに惹かれるのだが、イタリアの美貌の青年と遊び歩く彼女に対してやきもきと心配する。しかし、月の光に照らされた夜中のコロッセウムを見に来て熱病にかかり、デイジー・ミラーは死んでしまう。後に謎と神秘と虚無が残される。


2008年01月20日

コンスタン「アドルフ(Adolphe)」

3914e941.gif大塚幸男訳/岩波文庫

 フランス文学の古典で、心理主義小説の先駆けとし知られている。
 主人公は、あるフランスの貴族を紹介され訪問する。そこで貴族に保護された愛人であるポーランドの亡命貴族の女性を恋するようになる。主人公は女性に思いを寄せ、ついにその愛を獲得する。女性は無一文となって亡命していたところをその貴族に助けられ、保護されていたのである。その恩を忘れ、恩人との間にできた子どもまで捨てて、女は若い主人公にすべてを捧げようと決心し、主人公と暮らし始める。
 その頃から、彼にとってその女性がいろいろな意味で重荷になり始める。しかし、彼は別れを言い出すことができない。
 別れることをすすめる父の友人である地元の有力者に当て、彼はその場の言い逃れにすぎない「別れる決心」の手紙を書く。有力者は前途ある若者を救い出すため、よかれと思ってその手紙を彼女に見せてしまう。女性は打撃を受け病気になって死んでしまう。主人公はすべてを捨てて放浪の旅に出る。
 愛の本質を深くえぐって感動的な作品である。愛は失ったときに初めてその深さ、ありがたさを感じることができるという意味で、幸福と似ている。主人公は、職にも就かず仕事もせず、愛人の元でぶらぶらしていたわけであるが、父の友人の地元の有力者が、父の意を受けて主人公を窮地から救い出そうとおせっかいを焼くわけである。「いい若い者が、愛人のくびきの元でなにもせず無為な生活をしているのはよくない」というのである。
 これほど深く強く愛された男というものは、それで本望でそれ以外何も要らないと思わないのだろうか。それでも男は愛が重荷であり、愛から逃れたいと思うことがあるのだ。人間は愚かで迷うものであり、失って初めて誤りに気づくものである。そこにまた愛の本質がある。
    アドルフ (岩波文庫)    アドルフ (新潮文庫)