僕は文学部に所属しているんだけど、文学部と言えば「かび臭い」「腐ってる」「ニートの巣窟」などと言われているかはわからないけれども、なんかそんな感じのイメージが漂っている気がしなくもないので、敢えてここで肯定してみたい気になってきた。

 

いきなりだが、工学部や経済学部と比較すると文学部のやってることには全く実学性がない。心理学とかは多少実学性はあるかもしれないけれども、実学だと思って行ってる人間よりも、興味で行ってる人間の方が多い気もする。国文学や史学、思想なんかは何の役に立つのか解らないことを延々とやっている。

 

で、この「役に立つ」という判断基準なのだが、これがそもそも大学でそこまで重視されるべきなのかという疑問を僕は呈するわけだ。

 

大学というのは営利を追及するところではなく、どちらかと言うとインテリジェンスのインフラストラクチャーを開発、発展させるところに社会的な使命を追っている。この「知の基盤整備」なるものに必要とされる大きな要素に「社会における趨勢的価値を相対化する」ということが挙げられると思うのである。

 

具体的に言うと、みんなが「ゼニ大事、ゼニ一番」と言っているときに、「いや、ゼニ以外のものが社会的に尊ばれた時代や社会もあったわけで、もしかすると現代は特殊なだけなんじゃないの?その特殊性を相対的に枠組みに当てはめて冷静に検討してみましょうよ、といったことをやるべきなんじゃないの?大学は」ということである。

 

この役割を果たせる領域は、実は「ゼニに繋がる領域」ではない。自分が立っている地面の裏側を見ることは不可能だからである。むしろ、時代の趨勢的価値に絡め取られない領域にこそ可能性があるのである。

 

要は「役に立つ」ことが時代の趨勢的価値である現代において、「役に立たない」ことをやっているような学問領域にこそ、現代の特殊性を客観視できる可能性があるわけである。(余談だが、現代の特殊性を客観視することが何の役に立つの?っていう問いは愚問である)

 

だからこそ、わけのわからんことをやっている文学部はもっとも大学らしい学部だ、と言うわけなのであるが、もうちょっと踏み込んでみていいですか?

 

 

 

 

進化論というか生存戦略というか、要は結局どういう生物が生き延びるかというのを考えたときにやはり「多様性を持つ、変化に対応できる」という要素がある。こういう要素というのは、極度に効率化された領域からは発生しにくい。何を言ってるかというと、コーヒーが儲かるからと言ってコーヒーだけに特化した農園は、コーヒー価格が暴落したり、天候不良が起こった場合に壊滅するということである。

 

「うちの大学は就職後即戦力になるようなIT・経理に特化して学べる学科を新設しました」というような学科に入ってしまうと、下手するとちょっとした変化で駄目になるような即死力が逆についてしまうかもしれないのである。

 

実際にパラダイム転換が行われるときなどは、今まで趨勢を誇っていたものほど、価値を暴落させる。今見えているものが世界の全てだと思って生きていると、転換時には致命的で、そうではなくて、今見えないものも世界には存在していていずれは光があたる可能性もあるんじゃないのか、わからんけれども、ぐらいに思って生きていると、転換時にばっとスポットを浴びたりするわけだ。

 

難しいけれども、世界に対する畏怖みたいなものを持たせることや、理解不可能なものが存在する、見えないものが存在するという可能性の感覚というものを学生に体感させることが、大学の大学性なのではないのかな。

 

僕としては、現在ちょっと特化しすぎている面があると感じているので、大学にいる間にもっとわけの分からんもんに触れたいなということかな。ニュートラルにね。