理屈じゃなかなか説明できない「手触り」みたいなもんが、人の嗜好とか選択に大きな影響を与えてる。
そういうことを最近、じわじわじわじわ実感している。

「好き」とか、「嫌い」とか、「気分」とか、「なんとなく」とかそういうものは因果関係で説明できるものでは、たぶんない。

コアになる本質みたいなもんはなんとなく特定できるんだが、それだけを再現すればおんなじことを起こせるかというとそうじゃなくて、ディテール同士が絡み合ってなんやかんやを醸成しているからだ。双子の同級生がいても、二人の間でなんかが決定的に違うことが見分けられるのが人間。

ブルータス(※1)でも、橋本治氏が
「戦後日本の国語教育では簡にして要を得た平明な文章を理想としてきたために、人々が書く文章に美しさがなくなってきた」
という主旨のことを言うていて、ああ僕らは教育によって「意味」を過剰視してきたんかもしらんなと思う。

本質だけ、骨格だけ、論理だけ、意味だけを掬い取る練習ばっかりをさせられてきたせいで、それら(=本質とか)が世界で実際に作用しているぶん以上のパワーを持っているものと勘違いしているんだ。きっと。

ひとつの物事に丁寧に取り組むことでしか、意味の周りにある神(※2)に触れることはできないんじゃないかなどと、思うわけである。






※1…マガジンハウス・BRUTUS・11月1日号「美しい言葉」特集
※2…神は細部に宿る。建築家ローエの言葉から。