意識の高い学士ブログ

140字では表現できないこと。

人工知能によって働く時間が減るなんて寝言を誰が信じているのだろうか

先日、教育系の知人の界隈で「これからはAI(人工知能)によって社会が激変する」みたいなスライドが話題になっていた。その内容を読んでいて、何だかよく分からないけれど猛烈に吐き気を催した。感想は色々あるが、今日はひとまず「労働時間が週に15時間程度で済むようになる」みたいなスライドについて思ったことを書く。

人工知能に限らず、何らかの技術的革新によって「労働時間が激減するだろう」という予言は、今まで何度も口にされてきた。確かに、今と同じ労力で、今までよりも遥かに多くの仕事をこなせるようになれば、それだけ働く時間を減らすことができそうに感じられる。

しかし今までも新石器の発明や蒸気機関の発明、石油燃料の発見や電気の実用化、コンピューターの登場やインターネットの普及等によって、生産性は爆発的に上昇してきた。それが今になってなぜ急に人類が労働から解放されると信じられるのだろうか?

例えばオフィス用の印刷機や電話、ワープロ等によって我々は今までより遥かに多くの仕事をこなすことができるようになっている。それなのに、なぜ労働時間は減っていない、むしろ増えてすらいるのだろうか?

冷静に考えてみると、「生産性が上がれば労働時間が短縮する」という予想には、いくつかの前提があるように思える。

1つは「今と同じ仕事量を、今より少ない時間で達成できたら、それ以上の生産をせず余暇に時間を費やすだろう」という前提だ。しかし実際には「余った時間でもっと仕事をしよう」となるのではないだろうか。この場合、生産性が上がっても労働時間が減ることは無い。

2つ目は「今と同じ時間で、今までより多くの仕事をこなすことができたら、それだけ利益や給料が上がるので、今までより長く働く必要性が薄くなる」という前提だ。しかし多くの仕事をこなせるようになるということは、それだけ「1つの商品を作るために必要な時間」が減ることになる一方で、今までより多くの客に商品を売る必要が生まれる。もちろん競合他社も同じ技術を利用して、安く多くの商品を作って売り始める。そうすると、商品の量が増えすぎて売れ残り、自然と価格が下がることになる。結局、作れる商品の量は増えたが価格が下がるので給料や利益は大して変わらない。

今までと給料が変わらないとしても、世の中に生み出されている商品の数が増えたり、品質が高まったりはしているので、社会は豊かになっていると言ってもいいだろう。だがそれは、別に労働時間が減るという結果にはならないし、むしろ企業が従業員に求める生産性(能力)の水準が上がり、それに達さない人間はどんどん給料が減っていくことになる。結局、技術革新によって誰が幸せになっているのだろうか?と疑問に思わざるを得ない。

巷でよく見られる「技術革新によって働き方が変わる」系の議論は、全く牧歌的で非現実的なものか、個人主義的で独善的なものが多い。彼らは「シンギュラリティ時代を個人がいかに生き抜くか」と考えやすいようだが、僕からすれば結局「個人」という視点の中に囚われすぎているなという印象を免れない。「シンギュラリティ時代を生き抜くためには、個人が○○といった能力を身につけ、○○として生き抜いていくしかない」。これは「そうすることができなければ生きていけない状態を黙認する」という考え方と表裏一体だ。

あなた自身が生き抜けるかどうか不安で、生き抜くための方法を知りたいと思っているのであれば、そういった情報に縋ってしまうのも分かる。しかし、もっと社会的に議論されるべきことが別にあるのではないか、と思ってしまう。

これから社会が人間一人一人に求める生産性の水準を上げるにつれて、それに能力がついていかずに十分に稼げなくなる層が出てくる。求められる水準が上がれば上がるほど、その層は増大する。そんなシンギュラリティ時代にますます生き難くなる人々を、どのような社会システムで包摂すべきか。今、それこそが問われるべきなのではないだろうか。

「それを教育で解決する」などという妄言は聞きたくない。いま「暗記中心」として批判されている教科教育で覚えた用語や公式やイディオムのうち、あなたは何割を覚えているだろうか。せいぜい1割〜3割くらいのものではないだろうか。教育の力なんてものはせいぜいそんなものであって、いくら崇高な理念を歌おうと、その理念の5割も実現しないのが現実だ。教育によって経済問題を解決しようという考え方は、結局のところ自己責任論と変わらない。社会が変わることに対応するための武器は教育ではない。より包括的な社会経済システムの議論を、とっとと始めるべきだと思わないだろうか。

就活は「好きなこと」「やりたいこと」重視のままで本当に良いのだろうか

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就活は、「好きなこと」「やりたいこと」重視のままで本当に良いのだろうか

「就活」においては「自己分析」から始まり、経験等から「好きなこと」「やりたいこと」を探し、それを仕事にするのが幸せであるとされている。その根拠は「1日に9時間も10時間も、また約40年に渡り続けるのだから、興味ややりがいが無ければ続かない」というものだ。

「本当はやりたくないけれど、どうせやらなければならないのなら」という前提付きで、それまでのなけなしの人生経験から無理やり「好きなこと」「やりたいこと」をひねり出さなければならない。このようなマゾヒスティックな所業がスタンダードとされているとは、日本の若者の悲劇と言わずして何と言うのだろうか。

もちろん一部には、「強烈な原体験を持ち、自ら掲げた目標に対して、偶然ぴったりハマった仕事が世の中に存在し、人生の目的としてフルコミットできる」というタイプの人間もいることだろう。しかし、そういったごく一部の「仕事に向いた人間」を除けば、仕事とは多くの場合、「生きるために必要なのでうまく自分なりに楽しさを見つけながらやっていきたいもの」くらいのものなのではないだろうか。少なくとも、仕事こそ我が人生といった姿勢でフルコミットするような対象ではない。

というわけで、従来の「好きなこと」「やりたいこと」重視路線の就活には昔から疑問を抱いていた。特段「好きなこと」「やりたいこと」など無いという「普通」の人間にとって、業種や職種を絞るために使える別の軸は無いものなのだろうか。

「好きなこと」「やりたいこと」重視は「経済にとって」好ましいのだろうか

一応、僕は労働経済学専攻ということになっているので、「好きなこと」「やりたいこと」重視路線が「経済にとって」良いことなのかどうかという視点に言及しておきたい。

経済学において、人が職を選ぶ基準はたった1つしかない。それが「賃金率」、つまり時給換算した時の給料である。要するにカネだ。

「好きなこと」「やりたいこと」を無視してカネだけを目当てに職を選ぶなど、非人間的な仮定だと思われるだろうか。しかし実は、仮に人々がカネを目当てに職を選ぶようになると、ある「良いこと」が起きると考えられている。

給料が高い/低い仕事とは、どのような仕事だろうか

給料が高い/低い仕事とは、どのような仕事だろうか。そもそも給料は、会社の売上を元にしているが、売上はその会社が顧客の幸福にどれだけ大きく貢献したか、に基づいている。

例えば1枚100円のステーキより、1枚1,000円のステーキの方が、食べる人の幸福に資するため、高くても購入される。また、ある会社の提供するシステムを使った場合、それまでに比べて売上が上がる/コストが下がるとしたら、その増加分/減少分のお金を支払ってシステムを購入する価値がある。このように、会社の売上は、その会社の商品/サービスが顧客の幸福にどれだけ役立っているのかを表すような部分がある。

給料は売上に基づくと言ったが、より正確には「従業員1人あたり付加価値」に基づいている。付加価値とは、売上から原価を差し引いた金額のことで、粗利と言うこともある。

例えば原価100万円で120万円の売上を立てるよりも、原価50万円で80万円の売上を立てたほうが、付加価値が高い会社であるということになる。付加価値とは、元々50万円の価値しかなかったものに、その会社の生産活動が加わることによって、30万円の価値がプラスされて売れた、という意味で「付加価値」と呼ばれる。それだけ多く世の中に価値を生み出したと考えられるわけだ。

また、例えば従業員10人で100万円の付加価値を生む会社よりも、従業員5人で60万円の付加価値を生む会社の方が、「従業員1人あたり付加価値」が高い。給料は付加価値の中から分配されるものなので、1人あたり付加価値が大きい方が給料の原資は多くなる。

カネ目当ての職選びは価値の生産を効率化する

経済学において、製品を生産するための原料も、生産に必要な労働力も、或いは生産設備やそれを購入するためのお金も、全て等しく「生産に必要な資源(リソース)」であると考えられる。世の中の資源はもちろん有限であり、有限の資源を最大限効率的に使って世の中に多くの価値を生産できた方が望ましい。人材という有限の資源も、より高い付加価値を生むことができる会社に配分された方が、世の中に大きな価値を生むことができる。この時、給料が高い会社というのは1人あたり付加価値が高い会社と見ることができるので、カネ目当ての職選びは「より効率的な会社に人材という資源を配分する」という社会最適化の方向に作用するのだ。

それなのに、「自己分析」その他の儀式によって、他よりも待遇が低い会社に就職してしまった場合、「より多くの価値を生産できたはずの人材という資源が、非効率に浪費された」ということになり、社会的に「勿体無い」と言うことができる。

人間は本来、普通に生きていれば「自分の人生をかけてやりたいこととぴったり合致した仕事」など存在せず、大体は入社した後からなんだかんだと理由を付けながら自分なりに楽しみを見つけていくことが多い。もちろん自分では興味があると思っていた分野も、実際に従事してみたら予想外の辛さやつまらなさがあったという場合もあれば、「好きなこと」「やりたいこと」と仕事を関連させなければならないという強迫観念に入社後に苦しむという場合もある。であれば最初から「好きなこと」「やりたいこと」という幻想を取っ払ってしまえば、その幻想があったが故に今まで実現しなかったマッチングが生まれるようになり、今まで苦しんでいた層のうち一定数が救済されるのではないだろうか。

「給料は低いが社会的に必要な仕事」をどうするか

こういうことを言うと、すぐに次のような反論が考えられる。例えばNPOや福祉職のように、お金に結びつきにくい一方で社会的に必要な事業は多くある。そういった事業が、前述までの文脈では「社会的に無駄」ということになってしまう。それではいかんだろう、というものだ。

もちろん、ビジネスは万能ではないので全てを解決することはできない。特に上記のような「社会的に必要なのに、受益者が事業の必要経費を負担できない」というケースは、ビジネスによる解決が難しい。

しかし、その場合を考慮しても、やはりカネ目当ての職選びは全体の幸福に資すると考えられる。なぜなら、通常「社会的に必要なのに受益者が事業の必要経費を負担できない」場合、そのサービスを提供すべきは政府ということになるが、社会的な生産の効率性が高まっていれば国民の税の負担能力も高く、社会的に必要な事業の必要経費を国民全体で広く支えられるからだ。

政府の役割は、この文脈で言えば、「社会的に必要な事業」の費用を国民全体の負担で運営する、ということになる。国民の負担能力が高ければ高いほど、つまり経済が効率的であればあるほど、「社会的に必要な事業」を十全に提供することができるというものだ。

(余談)公務員の給料をどうするか

少し余談になるが、この文脈で次のような疑問が浮かんでこないだろうか。一般に公務員の給料は民間企業よりも低いとされている。もしカネ目当ての職選びが横行したら、誰も公務員に応募しなくなるのではないだろうか。

これについて結論は単純で、必要な量の人材を雇える水準まで公務員の給料を上げれば良い。その水準は、中央省庁のように極めて優秀な人材を求める部門を除き、次のように決定することができる。「労働市場において、全ての人材資源が最も効率的な会社に配分された場合、その中で最も効率性が低い会社と同じ水準」だ。

そうすることで、「公務員より給与が低い会社は人材資源を無駄遣いする非効率な会社」という一種の目安になり、そういった会社に人が集まらず市場から淘汰される効果を見込める。非効率な会社がいつまでも市場に残って新しく人を採用していると、日本経済全体の効率性を落としてしまうため、さっさと淘汰してしまった方が良い。こうして公務員の給料は、経済が正常に運転されていくための最低賃金機能を担うことができるようになる。

実際、地方公務員の給与は、その地域の民間企業の一般的な生産性を見て決定されるという話を聞いたことがある。それが地域内の最低賃金機能になっているわけではないようだが、今後そういった役割を目指すような方向性もアリではないかと思っている。

労働経済学の非現実的な仮定がなぜか成立する新卒市場

経済学において、ヒトはカネを求めて会社と会社の間を移動し、業種・職種を問わずより効率的な会社に向かって流動する。だが現実的に考えて、今まで建設業で穴掘りをしていた者が、急にキャビンアテンダントになろうとしても難しい。この労働移動の完全な自由という前提は、経済学の中でも特に非現実的な仮定の1つである。

そんな中、日本の新卒市場が持つ「それまでの専門性に関わらず」入社した先で研修や実務経験を積んで専門性を身につけていくという特徴は、実は上記の非現実的な仮定にかなり近い様相を実現している。一度、非効率的な業種や会社に入ってしまうとなかなか抜け出せず、労働資源の再配分は難しいが、新卒の就活の時点であれば、その時点の専門性に関わらず効率的な業種に進むという道を選択しやすい。つまり日本の労働市場を効率化するための流動性が最も機能しやすい場所こそが、新卒市場なのではないだろうか、というのが僕の仮説だ。

そして、その機能を阻害している最大の要因が「好きなこと」「やりたいこと」という呪縛である。やはり就活ビジネスの立場から見れば、効率性が低い会社であってもきちんと学生が集まるように細工しなければ、彼らにナビサイトへの広告費を払わせることができない。そこで「効率性」以外の軸として「好きなこと」「やりたいこと」なる曖昧なものを持ち出したのだ。これを武器に、効率性の部分を覆い隠して「入社すべき会社」を提案することで、彼らは事業を存続している。

そのおかげで就活生は食品会社や広告会社、旅行会社といった「分かりやすい業種」に殺到し、名前が知られていない優良企業が人不足に喘いでいる。元々存在しない「好きなこと」「やりたいこと」を探し続けることに固執せず、きちんと効率性の高い会社に目を向けて就職活動をすれば、経済は効率化するし本人の待遇も上がる。皆が幸せになれるのではないだろうか。

「好きなこと」「やりたいこと」以外で業種・職種を選ぶ方法

話は長くなったが、そろそろ当初の論題に戻ろう。「好きなこと」「やりたいこと」以外で業種や職種を選ぶ軸は、もちろん会社の「効率性(従業員1人あたり付加価値)」であり、それは大部分が事業選択の時点で決まってくる。

また効率性は当然、常に変動する。そのため長く働くことを前提とするのであれば、効率性が伸びそうな業種を選ぶべきである。例えば少子高齢化により市場が縮小すると考えられる教育やブライダルは効率性が落ちていくだろうし、逆に医療や葬儀といったビジネスは市場が拡大していくだろう。またテレビを中心に若者のマスメディアの利用率が落ちているなら、今後はマス広告の市場は縮小し、インターネット広告の分野が伸びていくだろう。そういった大局的な視点で業種を選ぶことがまずは必要だ。

また職種という観点で見た場合、自らが生み出せる付加価値が経験によって積み上げ可能かどうか、という視点は考慮した方が良い。例えばレジ打ちの仕事を10年続けても、10倍の客を捌けるようにはならないだろう。一方、業界歴10年目の営業職が、新卒1年目の営業職の10倍の売上を立てるということはありうるし、10年目のプロジェクトマネージャーが新卒1年目の技術者より10倍規模のプロジェクトを回せるといったこともありうる。このように、長く続けていることがアドバンテージになるような、技術の積み上げが可能な職種の方が、後で困る可能性が低くなる。

あとは、より正確に言えば「1人あたり付加価値」よりも「労働時間あたり付加価値」が大事なので、給料を労働時間で割った時給換算で求人を比較してみると良い。注意すべきなのは、次の2点だ。

1つは、給料について。新卒採用の求人情報には「月給」表記で書いてあることが多いが、その月給が「基本給」なのか、それとも「月間X十時間の残業代込み」なのか、また賞与(ボーナス)がどのくらいなのか、等について書いていないことが多い。大体、中小企業では月間20〜60時間分の残業代込みの「月給」を表示しており、大手メーカーの求人情報より給料が高いかのように見せている。実際には大手メーカーでは残業代が追加で支給され、また賞与も中小企業とは桁が1〜2桁ほど異なるので、蓋を開けてみたら年収に百万円以上の差があった、という話も珍しくない。

2つ目は労働時間、特に休日・休暇だ。「休日・休暇なんてどの会社も殆ど変わらないでしょ」と思われているフシがあるが、お盆休みや年末年始の休暇の日数は企業によって驚くほど差がある。年収が一緒でも休日・休暇の日数が多ければ、当然「時間あたり付加価値」は高くなる。加えて有給の消化率も会社によって全く異なるので、どうせ一緒やろと思わず、調べてみてほしい。

とはいえ、日本の労働法制上、求人情報の細部の公開が十分に義務付けられていないので、入ってみないことには分からないというのも実情だ。最近は電通だけでなく三菱電機やパナソニックといった大企業でも長時間労働で従業員が死亡した事例が報告されており、まさにロシアンルーレット状態だ。そんな時は、単純に有効求人倍率の高い職種を選ぶという手も1つの道だろう。なぜなら、いざロシアンルーレットに当たってしまった場合、求人倍率が高い職種は恒常的に人不足な企業が多くあると考えられるため、転職という逃げ道を選択しやすいためだ。

「やりがい」の呪縛から解放されよう

最後に確認しておきたいのは、この文章があくまで「好きなこととかやりたいこととか特に無いんだけど、それを仕事にしないと幸せになれないらしい」と言って溺れている就活生たちに向けた文章であって、「俺は猛烈にやりたいことがあるのに、それを否定して給料の高い仕事を選べと言うのかオラァァアア」みたいな文句は一切において的外れだということだ。そういう人が実際にいること自体は知っているし、好きにすれば良いと思うのだけど、別に「やりたいこと」なんて無くたって幸せになれるし、なれるべきであると僕は思う。そういう話である。

特に業種に関しては、特に興味なんて無くても、十分な休養と待遇をもらえる仕事であれば、続けることはそこまで難しくない。むしろ「元からの興味」などあろうとなかろうと、どうせどんな職場にも、入社前には予想もしていなかった楽しさや辛さがある。誰しもそういったことと付き合いながら、自分の選択を「事後的に正解にしていく」しかないのだから、就職前から「好きなこと」「やりたいこと」みたいなことをうだうだ悩んでんじゃねーぞと思う。

就職活動がもっとドライに「志望動機は御社の成長性です」と言えるようなものになることを、陰ながら願っている。

この春から社会に出る君へ

cherry

新しい環境に移る人が多くなる季節だ。SNSのタイムラインは、この春から晴れて社会人になる人の声がよく見られる。僕が大学4年生だった頃に1年生だった、学生時代が被る最後の世代だ。数こそ少ないものの、昔から知っている後輩たちなので、一人一人に「頑張れよ」と声を掛けたくなる。

共に学生時代を過ごした後輩が社会に出るなんて機会は、(大学院に進学した人を除けば)もはやそうそう訪れることもないだろうと思い、彼らに掛けるべき言葉を探してみた。

これから社会に出る君たちは、希望に満ち溢れているだろうか?それとも、不安に駆られているだろうか。まあ大抵は両方だろうと思うけど、慣れれば大抵のことは大したことはない。物知り顔の大人が「社会は厳しい」だの「学生時代には比べものにならないくらい大きな挑戦ができる」だの「常に成長しなければならない」だのと無責任なことを曰うだろうが、慣れればそんな劇的な差は感じないので受け流しておけば良い。

僕から言っておきたいことがあるとすれば、頑張りすぎるな、といったことだろうか。どうしても真面目で優しい性格の後輩が多いので、周囲の要求に素直に応えようとしすぎて潰されないか、それだけが心配だ。

僕はまだ働き始めてから3年も経っていない新人の域だけども、それでも友人・知人の中には既に何人も「潰れた」人はいる。いずれも学生時代にそんな兆候は無く、優秀で明るく、行動的な人物だった。「自分はこの人には敵わないな、出世したら高い酒でも奢ってもらおう」くらいに思っていた人も含まれている。聞いた時には「まさかお前が」と思ったものだ。

もう毎日のように顔を合わせたり連絡を取り合ったりするわけではないので、そうなったことを知るのはだいたい事後のことだ。その度に、大切な友人や後輩が潰れるまで何も気付かなかった、何もできなかった自分に無力感を覚えた。仮に事前に分かっても、いや分かった後の今も、何かしてやれたわけでもないし、専門家でもない個人に何かができると思っているわけでもないが、どうしようもない気持ちだけは残ってしまう。

あれだけ優秀で、然るべき環境であれば社会にとってたいへん有益な貢献を果たせただろう友人たちが、今やこれから何十年も残る職業生活をボロボロになりながら過ごしていかなければならない。働くほどにHPが減っていた生活の中で、HPを回復させながら働くことができるようになるまでの転換は、なかなか大変なことだ。喩えるなら、暮らしているだけで借金が増えるような生活から、借金を返して貯金ができるまで収入と支出を逆転させ続ける生活に転換させ、長く維持していかねばならない。一度、借金を負ってしまったら抜け出すのが難しいように、一度すり減ってしまったところから回復させるのは至難の技だ。

幸いなことに、まだ若くて能力も高いので、しっかり場所を選び直せばやり直しが利く位置にあった。それでも毎年、また後輩たちが「社会に出る」時期になると、僕の知らないところで傷付いて消耗してしまうのではと、勝手にこっちが不安になっている。

そういう環境にいると、やはり最初に出てきてしまうのは「頑張りすぎるなよ」という言葉だ。別に人間、仕事のために生まれてきたわけではない。生きるために仕事をしているだけに過ぎないのだから、仕事をした後に「生きる」ことをする必要がある。どこかの誰かのために使う時間は最小限で切り上げて、自分のために生きる時間を大切に持ってほしい。その余裕が無ければ自分の異常に気付けないし、誰かに相談することも、逃げるための準備をすることもできなくなってしまう。

仕事のために生きたいと思う人がいること自体は仕方ないと思うが、それを美談にすると、そうでない人の自由を奪ってしまう。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に毒されてしまった人間だ。仕事のための成長、仕事のための考え方、仕事のための勉強。そんな仕事に最適化された人生がお望みなのか?何処かの誰かのためではなく、自分と自分の大切な人のために生きることの方を「本当は選びたい」。そう思うことが「悪くない」ことを、しっかりと共有していきたい。

そんなことは言っても、必死に働かなければ会社が潰れてしまうかもしれない。将来、使い物にならなくなって生活できなくなるかもしれない。僕も楽観論者ではないので、それは事実だと思う。しかしだからこそ、成長は「会社のため」ではなく「自分のため」になるかどうかを常に見極めながら働かなければならないと思う。

いま使っている時間が、会社の成長のためなのか、自分の成長のためなのか。前者のような時間の使い方を続けて、会社が潰れても誰も責任を取ってくれない。人間が市場経済で生きていくために必要なものは、会社で得られるとは限らない。少なくとも、その全てを得られるように会社が配慮してくれるようなことは無い。自分の責任で自分の方向性を考えた結果、長く働かないことが良いという結論になることは多いはずだ。会社はあなたの人生のためにあるのでは無いのだから。

周囲が求めるままに辛くても働いてしまう原因の1つに、貢献実感の薄さというものがある。自分が会社の役に立っていると実感することができず、会社から得ている給与その他に比して不足しているのではないか。もっと働かないとマイナスだと思われてしまうのでは無いか。そういう真面目な人の考え方は、いとも簡単に利用される。実際の貢献度よりも低く評価していると伝え、より一層の貢献を引き出そうとする。周囲が悪人だと言っているのではない。全く悪人ではなくとも、意図せずしてそういう構図を作ってしまうことはままある。

こういう場合に必要な態度は、2つある。1つは、他人からの評価ではなく自分で自分の働きを評価することだ。周囲との相対評価ではなく、「自分がいない場合に比べて」プラスなのかマイナスなのかという基準で評価することだ。雇っておいてマイナスにならない人間を悪く言う会社は、こちらから辞めて別の会社に貢献した方がお互いにとって幸せになれる。

もう1つは、自分という社会的資源を投入する先として、その会社・その仕事が本当に適切なのかどうか見極めることだ。成果が出ていないことは、あたかも「本人の能力」に問題があるかのように語られがちだが、より大局的な視点で考えれば「本人の能力」なんて卑小な誤差程度に過ぎない。社会において求められているAという事業とBという事業があり、事業Aには100万円の価値が、事業Bには10万円の価値があるとしよう。この時、同じ能力を持った人間を両方の事業に投入した時、事業B側の人間が10万円の成果しか上げられなかったとして、本人の能力のせいだろうか?

市場規模や成長性といった指標で事業を評価した時に、そもそもその事業選択の時点で間違っている会社で頑張り続けるよりも、より高い成長が見込める分野に転換した方がよほど効率的な社会的資源の利用だと言える。真面目で素直な大卒者に穴掘りの仕事をさせるよりもExcel仕事をさせた方が生み出せる価値は大きい。そういう「使用者側の責任」に追求する会社など普通は存在しない(なぜなら建前上、労働者の側も望んでその会社を選んでくるわけだし、事業選択ミスを認めたとしても解雇というわけにもいかないからだ)。だからそういうことは自分で見極めて、自分で最適な環境を選びとっていかなければならない。

今は久々の安定的な政権のおかげもあって景気も良く、人材が足りていない企業は数多く存在する。新卒で入社してから3年以内に転職する人は「第二新卒」と呼ばれるが、今は新卒よりも第二新卒を採用したいと言う企業も多くあり、「第二新卒市場」のような言い方も生まれている。1社目で自分の合う・合わないを経験し、また基本的なマナー研修等も住んでいることから、即戦力一歩手前くらいの戦力として重宝されている。自分を評価しないくだらない企業などより、自分という資源を最大限に活用してくれる会社に移る方がよほど幸せになれる。そうやって、どこかの誰かのためではなく自分のために強かに生きる、という強さを身につけてほしい。

苦しいことがあれば、Twitterの鍵アカで呟くだけでもいいし、事前に誰かに知らせてほしい。僕も後から知らされるくらいなら「最近ちょっと辛いんだよね」と先に言ってくれた方が嬉しい。もう後から「鬱になって仕事を辞めた。」とか聞くのはしんどい。別に何とかできるわけじゃないけど、君のためなら、自分自身がその後に後悔しないための行動を必ず取るだろうと思っている。だから、頑張りすぎないで、幸せになってほしいな、というのが「この春から社会に出る君へ」贈る言葉かな。

自己肯定感のパラドックス、あるいはメンヘラ貨幣論

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1.自己肯定感の循環論理構造

自己肯定感が低いと、自分を不当に安く売ってしまうことがある。労働分野で言えば、自分が生んでいる価値を適切に評価することができず、貢献感を求めてサービス残業を受け入れてしまったり、恋愛で言えば、周囲から「他の人には相手してもらえないけど、この人なら受け入れてくれそう」と思われて変な人ばかり寄ってくる状況になってしまったりする(謎の中年男性が自己肯定感の低い女子大生に言い寄っている光景は珍しくない)。いずれにせよ本来の価値よりも極めて安く買い叩かれてしまうので弊害も多い。

それでは「どうしたら自己肯定感を上げることができるのか」という話になる。僕もよくそう聞かれることがある。しかし、この問い方そのものが、そもそもミスリーディングなのではないかと感じることも多い。

「自分に自信が無いのは、何らかの成功体験に欠けているからだ」と考えれば、その成功他県を積めば良いという結論になる。しかし、その成功体験を積むには何らかの挑戦(しかも、自信になるだけの適切なハードルが設定されているもの)が必要になるわけで、それには自信が要る。ああ、自信を身につけるためには自信が要るという無限循環構造になってしまった。アホみたいな話だが、いつまでもこの論理構造から抜け出せずにドツボにハマっていく人間というのは多いものだ。

これを乗り越えるには、物事に挑戦する時に「自信があるかどうか」以外の軸、例えば「やりたいかどうか」「やるべきかどうか」といった判断軸で挑戦するかどうかを決める必要がある。なんだ、結局は精神論かと思われるかもしれない。しかし、そうだとしても、少なくともこれは論理的に突き詰めて考えた末に至った精神論である、と言うことはできると思う。その論拠は、僕が経済学関係で最も感銘を受けた岩井克人『貨幣論』に由来する。

1.2.クレタ人のパラドックス

岩井克人『貨幣論』は、「クレタ人のパラドックス」に代表される自己言及パラドックスに着目し、「言語」「法律」「貨幣」の「社会的性質」(物理法則や遺伝子といった自然に規定された存在にも、人文学のように人為的に作り出された存在にも回収されない性質)を明らかにしていくという内容だ。

あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言った。この時、もし本当にクレタ人が嘘つきなのであれば、このクレタ人が言った「クレタ人は嘘つきだ」は本当のことであるということになり、正直者ということになる。他方、本当はクレタ人は正直者だったとすれば、このクレタ人の言った「クレタ人は嘘つきだ」は嘘であるということになり、嘘つきということになる(なお、「嘘つきは嘘しか言わない(決して本当のことを言わない)という前提が間違っているのではないか」と突っ込むことは、ここでは禁止されている)。

真偽どちらを仮定しても矛盾が生まれる、この自己言及的な命題を前に、我々が論理的に導出できる結論は何か。それはこの命題からはクレタ人が嘘つきなのかどうか論理的に結論することはできないという結論である。

3.貨幣はなぜ貨幣になったのか

アホか、屁理屈をコネやがってと思われるだろうか。いや、僕は(あるいは、岩井克人は)至って真剣である。

『貨幣論』は、この論法を使って貨幣の起源について説明しようとする。

今こそ貨幣が日常的に流通していて、それを使うことに何の不安もないだろうが、最初は「本当にこれでモノを買えるのか?」「みんな自分の持つモノと貨幣を交換してくれるのか?」「貨幣を受け取って自分のモノを渡した後、誰も貨幣を受け取ってくれなかったら損になってしまうのではないか?」と考えてしまうものだろう。(この「誰も受け取ってくれないのではないか」という不安こそ、貨幣の根源的な不安定性であり、ハイパーインフレの根本原因であると岩井は言う。)

元来、「どのように貨幣の根源的な不安が払拭されたのか」という問いへの答えについては、貨幣商品説と貨幣法制説の二説が有力だった。貨幣商品説とは、「そもそも貨幣が牛や純金のように、誰もがその価値を認める(欲しがる)性質を有していたため、最終的に交換されないという不安を生まなかった」という説。貨幣法制説は「王や神といった権威がで貨幣の流通を保証することで不安を払拭した」という説だ。これらに対して、岩井はそのどちらでもなく、「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからだ」という自己循環論法で貨幣を定義しようとする。

いま現に貨幣が流通しているのは、それが貨幣として広く流通しているという事実に由来する安心感があるからだろう。日本でも、かつては「貨幣が流通しなくなっても最終的には政府が純金と交換する権利を保証する」という金本位制を取っていた。それが正式に廃止されたのはなんと1988年と、たいへん直近である。それでも貨幣が貨幣であることが揺るがないのは、「それが貨幣である」という事実を使用者が揺るぎないものと「認識しているから」である。

1.4.自信はなぜ自信になったのか

「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるという事実があるからである」。これは、貨幣の根拠が「有用だから流通するのか、流通させるために(法制によって)有用化するのか」といった議論の次元では決して辿り着けない、1つメタ度が高い結論である。喩えるなら、地球儀を見て「赤道の東側には何があるのだろう」と言いながらグルグル回している人に「赤道は、上から見ると円になっているのだから東側とか西側とかは無いんだよ」と教えてあげているようなものだろうか。

さて、そろそろ当初の問いに戻ろう。元々は「自己肯定感はどうしたら上げることができるのか」という話だった。

僕は自己肯定感とか自信というものに対しても、岩井の論法が使えるように思う。つまり、人が自信を持つための根拠は「自信があると感じているから自信がある」ということになる。逆に自信が無いと感じている人も、その根拠は「自信が無いと感じているから自信が無い」に過ぎない。恐らく何かしらの成功体験を積んだとしても、「自信が無い」の真の根拠が経験ではない以上、その不安を拭い去ることはできないだろう。

結局、根拠を積み上げるのとは別の方法で「自信がないと感じているから自信がない」を「自信があると感じているから自信がある」へジャンプする必要がある。この続きはもはや霊感を根拠に言うに過ぎないが、そこには他者からの無限の承認という幻想が必要なのではないかと思っている。

幼児が何ら成功体験を持たないにも拘らず自己肯定感に満ち溢れている理由は、親からの無条件な承認を自然と内面化しているからだろう。つまり、「どういう理由かは知らないが、自分は承認されている、肯定されている」という感覚があり、それを自然なこととして受け入れている。いつの間にか「自信があるのは、自信があるからだ」という状態にジャンプしている。

しかしもちろん、親だって人間なのだから無限に無条件に我が子を愛せるわけではないだろう。要は本人への見え方が大事なのであって、たとえ真に心の底から愛せない時があっても、そう見えなければ上記の状態は実現できそうな気がする。

幼少期にその状態へジャンプできなかった場合は、親以外にその承認の源泉を求めざるを得ない。その結果、無条件かつ無限(かのように見える)承認を与えてくれる中年男性の元に身を寄せるメンヘラ女子高生・女子大生が生まれるのだろう。しかし、その経験を経て循環論法の中にジャンプすることができるのであれば、人生において必要なステップだったと言うことができるのかもしれない。

結局、自己肯定感が無限下落するハイパーインフレーションに苛まれるメンヘラ諸氏は、無条件かつ無際限(かのように見える)承認を与えてくれる相手を見つけ、無限循環ろう方の中にステップアップすることが、「自己肯定感が低い理由」を探し出して解決しようという思考法よりも有効なのかもしれない。そういう意味では、自己肯定感の低い女子学生に言い寄る怪しい中年男性を非難するより前に、彼らしか拠り所を見つけられない環境しか用意できなかった社会を何とかした方が建設的なのかもしれない、とは思う。

教育国債発行の問題点と大学無償化の盲点

昨日、こんなニュースを見かけた。

自民党は、大学などの高等教育の授業料を無償化した場合の財源として、使い道を教育政策に限定する「教育国債」発行の検討に着手する方針を決めた。

自民、高等教育の無償化を検討 「教育国債」創設を想定 - 朝日新聞

まだ自民党内で検討を始めただけなので現実味のある話ではないが、思ったことを書いておくことにする。

1.教育国債は、誰から誰への所得移転なのか。

ニュース記事の内容だけだと曖昧なので、仮に今回の政策の内容を予想で定義しておくと、大学無償化の費用を、教育政策に使途を限定した国債の発行によって賄うというものだ。

これについて細かい疑問点は最後に軽く触れる程度に回すとして、まずざっくりこの政策が誰から誰への負担移転になるのか考えてみよう。

受益者はもちろん現在の大学生もしくは保護者であり、大学生自身は将来的に自分の教育費を自分で支払う格好になる。

ただし、現在の大学生は教育費の全額を将来的に自分で支払うのではなく、負担するのは将来世代の国民全員であるから、「現在の大学生(将来の大卒者)の教育費を将来の国民全体で負担する」ということになる。つまり将来の大卒者は、自分で全額を支払うはずだったものを全員で分け合って負担することになるため、この政策は端的に言って非大卒者から大卒者への所得移転であると言って差し支えない。

普通、大学教育の無償化は「学費を払えない貧困家庭の子弟であっても大学進学が可能になるように」という目的で語られることが多く、その背景に「大卒者の所得が非大卒者よりも低く、貧困家庭の子弟が低所得な職にしか就けないため、貧困が再生産される」という指摘がある。仮にこの前提を真とするならば、大学無償化のために非大卒者から大卒者へ所得を移転するということは、低所得者から高所得者へ所得移転しているということに他ならない。果たして、欧米諸国の大学制度と比較して見栄を張りたいがためだけに、こうした逆進的な政策を実行するべきなのかどうか。僕にはそこまでの価値が見出せない。

2.貧困家庭からの脱出と経済効果について

こういうことを問題にする時、必ず「それでも貧困家庭の子弟が大学無償化によって高所得な職に就くことにより、貧困を脱出できれば経済効果もある」と言う人間が出てくる。しかし冷静に考えてみると、大学の定員(つまり大卒者の数)が一定であるならば、貧困家庭出身の誰かが大卒の資格を手にする時、別の誰かが大卒の枠から漏れているはずなのだ。今度はその大卒から漏れた誰かが専門卒ないし高卒の資格で働くことになるだけであって、総体で見ると大卒の資格を持つ人が入れ替わっただけである。これを「努力すれば貧困家庭から脱出できる」という美談として語るためだけに逆進的な所得移転を断行すべきだとは思えない。

そもそも、大学に進学すれば高所得な職に就けるので貧困家庭の子どもも大学に進学させようという話の背後には、「大学に教育効果がある」という前提が隠れている。それも、高校を卒業した時点で就職して4年間働いた後の社会人5年目の人間よりも、大学生活4年間を経た後の新卒1年目の人間の方が、より高い「高所得を稼ぎ出すために役に立つ能力」を有しているという前提だ。

しかし現実には、大学教育を修了する毎年100万人以上の大卒者の中でも、高度な技術や能力を身につけることができる者はごくわずかだろう。いや、仮に大卒者の全員がしかるべき技術や能力を磨くことができたとして、世の中の側にそういった能力を必要とする高度な職が不足している限り、やはり誰かが非大卒者と同水準の所得の職に就くことになるだけでなく、大学生活4年分の所得が失われてしまう。極端な話、日本人全員が大卒資格を得たとしても、今度は大卒者の中で高所得な職と低所得な職に分かれるだけなので、大学を無償化するかどうかといった問題は貧困問題にとって全く本質的ではない。その出口となる労働市場を何とかしなければならないのだ。

3.大学教育の目的から経済的な自立・成功を切り離した方が良い

この文脈を受けて、では大学が学生の経済的な能力を十分に伸ばすことができれば、大学無償化により貧困問題は解決すると論じる向きもある。しかし、そもそも人の能力をそんな簡単に伸ばせるはずがないだろうという話を横に置いておくとしても、大学や社会にとってあまり幸福ではない結果を帰結するのではないかと思っている。というのも、大学に「役に立つ教育」「役に立つ研究」が求められることによって、大学が守るべき価値が失われてしまうのではないか、という話だ。

大学の教員の能力は、社会で役立つ論理的思考力やプレゼンテーション能力、文書作成やプログラミングのスキル、さらには交渉術や発想術といったものを教えるために最適化されているわけではない。あくまで、ある分野の専門家として、研究成果を上げるために知識や能力を積み上げているはずである。そういったスキルセットを持つ人材を、抽象的な「役立つ」教育のために使うことが、果たして日本の学術研究や大学生たち自身にとって本当に有用なことなのかどうか、疑わしい。

もちろん理想を言えば、フンボルト式高等教育の理念に則り、大学教授の研究の背中を見ながら学生自ら研究を進め、実験・調査成果をまとめたり論文を書いたりすることで、自然と論理的な分析能力や物事を正確に伝達する能力が磨かれることを期待するべきなのだが、現実には自ら厳密な研究に必要な能力を開発することができる者など一握りだろう。

そういった意味で、大学教員の能力は元々最適化された研究活動に費やしてもらい、日本の学術研究の成果や高度な文化の継承といった価値を守ってもらいたいと僕は考えている。

なお、大学教員の中にはそういった「社会に出て役立つスキル」を育てたがる者が一定数存在することも事実だ。しかし、彼らがそれを前向きに受け容れることで「大学は社会に出て役立つスキルを育てるところ」という社会的な通念が生まれてしまい、本来の研究活動に打ち込みたいと考える教員の活動にまで影響が出てしまいかねない。

話は逸れるが、これは中学校・高校における部活動に熱心な教師のようなもので、部活に熱心な一部の教師が積極的に部活を行うことで、「勉強を教える」という本務に集中したい教員まで「ほぼ無給で部活動を行うことが当然」という通念を押し付けられてしまっている。これにより教育現場に大きな支障をきたしていることは今や広く知られるところであり、大学教員に「社会に出て役立つ能力の教育」を求めることも同じ結果を生むような気がしてならない。

4.まとめ

以上、大学無償化のために教育国債を発行するという案について考えたことをまとめると、次の4点に要約される。

  • 教育国債は、非大卒者から大卒者、引いては低所得者から高所得者への所得移転である。
  • 貧困家庭の出身者が大卒資格を得たとしても、別の誰かが大卒資格を得られなくなるだけで意味が無い。
  • 仮に大学教育を受けられる人が増えても、その高度な能力を必要とする職の数が不足していれば、大卒者の中で高所得者と低所得者に分かれるだけになる。
  • 大学を社会人予備校にするより、学術研究と文化継承の拠点にした方が、社会的な価値を発揮できる。

教育国債というのは、現在まだ一般会計からの予算を割くほど優先度が高くないにも関わらず、数年後もしくは数十年後の世代に大学無償化のための追加の負担を約束させるという選択である。大学無償化とは単年度の予算で終わるものではなく、継続的な支出になるため、国債償還の期限を過ぎても翌年の教育国債を利子含め支払わなければならない。将来世代からすれば、「なぜ優先度が高くない政策のために、一般予算に加えて特別に支出を増やさなければならないのか」と憤らざるを得ない。

「部活で人間性が成長」にせよ「大学生活を経て考え方が成長」にせよ、人間は感動できる物語を目の前にすると、その周囲や背景が見えなくなる。「教育は大事だ」という無内容なスローガンを唱和する前に、我々は教育の出口にある労働市場の問題を直視しなければならない。いくら高度な教育を施しても、そもそもその能力に見合った職が無かったり、過労で1年も経たずに亡くなってしまうこともある。誰の幸せのために「教育」に注目しているのか。本当に今「教育」に注目するべきなのか。そこを問い直して、より広い視野で教育や貧困といった問題を捉え直してほしい。そのためにも是非、経済学の新書でも手に取ってみていただけたら、何か別の視点が生まれるかもしれない。

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