意識の高い学士ブログ

140字では表現できないこと。

【読了】伊東光晴『ガルブレイス−アメリカ資本主義との格闘』

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読了した後に、再び主要部分を読み返してしまった本は本当に久しぶり。以下に気になった部分を6つ挙げる。

1. 依存効果

通常、経済学において需要曲線と供給曲線は独立で、その交点で価格と取引量が決まるとされているが、ガルブレイスはここに依存効果という概念を持ち込んだ。物質的必要が満たされた現代の「ゆたかな社会」において、生産者は広告によって消費者の欲望を刺激し、需要曲線に影響を与える。これによって、消費者はいつになっても欲望が満たされない精神的窮乏を抱えることとなった。

2. 私的財と公共サービスの不均衡

市場が提供する財は容易に生産を拡大するが、それによって同時に需要が増す公共サービスは拡大しづらい。例えば乗用車が増えると道路の必要が高まるが、乗用車の生産拡大に比べて道路の建設拡大は緩やかである。
こうした、私的財の生産拡大に応じた公共サービスの需要増に対応するために必要なのが売上税(消費税)である。売上税は生産の拡大に比例して伸びるため、こうした需要に対応しやすい。

3. 経営支配権の資本家からテクノストラクチュアへの移行

かつて企業経営の舵取りは企業の所有者たる資本家が一手に担っていたが、株式の分散所有が進み、科学技術や市場環境が高度に複雑化した現代において、実質的に経営の舵取りをしているのは経営者の下で各部門の専門知識を有するマネージャーたちである。ガルブレイスは彼らをテクノストラクチュアと呼ぶ。
こうした環境において、株主や一部の経営トップが桁外れな報酬を得ている状態は前時代的であり、経営への寄与度と比べて余りに多くの不当な利益であると言える。テクノストラクチュアは結集してこれに対抗し、拮抗力を行使するべきである。
この拮抗力が、大企業によって競争の自己調整機能を削られた寡占市場において、新たな調整機能として役に立つ。

4. マーシャルの労働曲線

日本やアメリカで標準的な経済学の教科書には、労働供給曲線を右上がり曲線として描いている。
つまり、賃金が上がれば労働者は喜んで働くようになり労働時間を増やすが、賃金が下がれば労働を提供する価値が減り労働時間を縮小するというものである。
しかしケインズの師匠とも言われるマーシャルが描いた労働供給曲線は、逆に右下がり曲線になっている。
つまり賃金が下がれば現行の収入を維持するために長く働き、或いは自分がこれ以上働けなければ家族の別の者が働くことで労働供給を増やすといったような行動が想定されている。こちらの方がかなり現実的ではないか。
こうした行動を仮定した場合、労働市場は賃金の下落により労働供給を増やし、供給過剰となってさらなる賃金の下落を招く。つまり労働市場は自己調整機能を持たず、政府による最低賃金や長時間労働の保護が必要になる。

アメリカ経済学の仮定は財市場や金融市場と同等の「商品」として労働を捉え、同様に自己調整機能を有するという「美しい仮説」であるが故に、その他にありうる現実的な仮説を見えづらくしてしまっていたのではないか。(例えばワルラスの均衡市場論などは美しさのあまり鼻血が出そうなほどであるが、それが実証的に論証されたものであるかどうかについて十分に関心を払っていなかったように思う。)

こうした労働市場観を前提にすれば、政府は労働組合の組織化を責任持って推し進めるべきであるし、実際、ニューディール期にはそうした政策が功を奏した。
一方で、2009年にゼネラルモーターズが倒産したのは労働組合による硬直的な費用のせいだったとも言われている。
ガルブレイスは「政府・経営者・労働者の代表同士で話し合って理性的に解決しなさい」のようなことを言っているらしいが、現在の安保やら何やらに対する左翼の行動を見る限り、そうした交渉能力があるとは思えない。
労働組合はあった方が今より良いと思うが、どこまで推し進めるべきなのかについてはまだ見えないのが悩ましいところだ。

5. 国内産業保護のための数量制限

ガルブレイスおよび市場原理主義に批判的な経済学者の間では、国内産業保護のためには関税保護より輸入数量制限の方が効果的であると考えているらしい。その理由について詳説されていなかったのが残念なところなので、そのうちどういうことなのか調べてみたい。

6. 投資銀行による売り崩し

北海道拓殖銀行と山一証券が倒産した背景に、アメリカの某投資銀行による大規模な売り崩しがあったという話が載っている。
当時の日本には売り崩しを防ぐための法律が無く、投資銀行は拓銀の大きな不良債権に目をつけ、保有していない株を前借りして売る(後で買い戻して返す)ショートという方法で拓銀の株価を下落させ、資金繰りに窮した拓銀を倒産させた。続いて、拓銀に資金を供給していた山一證券に拓銀を救済する余力が無いことに気付くと、同じ手法で山一を倒産させた。
倒産した企業の株は、1株1円、2円といった価格で買うことができる。倒産後にこういった価格で株が購入された記録が、拓銀で6億株以上、山一で18億株以上にも及んだ。前借りした分をそうした価格で買い戻した投資銀行は、前借りして売った際の価格(67円〜)との差額で、拓銀で360億円以上、山一で1,800億円以上を得たことになる。
こうした売り崩しで企業が倒産すれば取引企業まで損害を受け、連鎖的に不況に突入することもある。私欲による投機が多くの人々の生活を犠牲にすることを防ぐため、金融市場への規制は厳しく続けなければならない。

Togetterまとめ
https://togetter.com/li/1175405

Booklog
http://booklog.jp/item/1/400431593X

戦争を止めたいのは誰か

昨年は秘密保護法や集団的安全保障関連法案、今年は共謀罪などが注目され、現在では誰も憶えていないと思うが、当時は戦争が始まるぞ始まるぞと騒がれたものである。「国民の自由と財産そして生命を理不尽に奪う戦争を、私たちは絶対に許さない」という具合だ。

まあ確かに、戦争が起きてほしくないことには僕も同意する。ただ彼らの「戦争は悲惨であり、誰にとっても絶対に避けたい事態であるはずだ」という前提を信じて疑わない上での言動・行動には、正直、違和感を覚えることが多い。

彼らが守りたい対象である「家族や恋人」「仕事や友人」「家や財産」「命」、つまり総じて「幸せな生活」というものは、今や誰もが持っているものでは決してない。

現代の日本は、非正規雇用比率37%、週60時間以上労働している人が460万人、労災認定件数が年間2,000件、ワーキングプア1,100万人、相対的貧困率16%、生涯未婚率23%、人工妊娠中絶件数が年間18万件、児童虐待の相談対応件数は年間9万件、孤独死が年間2,000人、うつ病患者が100万人以上、自殺者が年間2万人の世界である。そんな世界に、「守りたい幸せな生活」を持つ人など一体どれだけいるものだろうか。

自殺者が年間2万人いるということは、背後に「死にたい」「死んでも良い」と考えている人がその10倍くらいいてもおかしくはない。「幸せな生活」を守りたい人が思い浮かべる「戦争で奪われる恐れのある生活」と、過労死直前まで働かされている65歳未婚年収200万弱のバス運転手とでは、だいぶイメージが異なってくるのではないだろうか。そんな状況で、「幸せな生活」を守りたい人が後ろから肩を組んできて「なあ、俺たちの幸せな生活、一緒に守りたいだろ?」と声を掛けてきたとしたら、どう思うだろうか。

「希望は、戦争」と言った赤木智弘の「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。は、今やあまりに有名である。

我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。

識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう。

そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。

戦争は悲惨だ。

しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。

こうした人々を放置して、あるいは知らないまま、自分が持っている幸せをあたかも誰しも持っているものであるかのように振る舞い、他人を総動員してまでそれを守ろうとする姿勢は、決して褒められたものではない。「戦争を止めよう」よりも、もっと先に取り組むべき課題があるのではないだろうか。自分の命惜しさにそれを無視し、見て見ぬ振りを続けながら振りかざす正義感に、何の説得力もありはしない。

参考資料

冷静に考えると、これは「人手不足」ではない

冷静に考えると、これは「人手不足」ではない

先ほど、こんな記事を見た。

有効求人倍率の上昇や失業率の低下など労働市場が逼迫するなかで、求職者側では明るい材料となっている。一方で、企業にとって人手不足の状態が続くことで人件費上昇などコスト負担の高まりに直面し、今後の景気回復に足かせともなりかねない。こうしたなか、人口減少と産業構造の変化で、働き手の奪い合いが生じており、アベノミクスの成長戦略を進めていくなかで、人手不足が大きな懸念材料ともなっている。

参考資料: 帝国データバンク、人手不足に対する企業の動向調査(2017年10月)結果を発表

「人手不足の状態が続くことで人件費上昇などコスト負担の高まりに直面し、今後の景気回復に足かせともなりかねない」。

直観的には「人件費上昇=労働分配率の向上=所得が増える」、つまり景気回復の好材料になりそうな気がするが、それが足かせになるとはそういうことなのだろうか。この筆者は「景気回復=企業の業績回復」と考えており、国民生活を圧迫して企業の利益が向上すれば景気が回復したことになるのでめでたしめでたし、と思っているのだろうか。

いや、恐らくそうではない。この一文が言いたいのは、仮に景気が回復し、企業が生産量を拡大しようとした時、労働力を追加的に調達するコストが高い場合、思うように生産を拡大することができず、景気回復のスピードが鈍化するのではないか、ということだろう。

しかし、労働力を追加的に調達するコストが高い場合、経済学の常識に照らして考えれば、企業は労働力の代替財としての資本投資に向かうというだけの話ではないか。つまり、人を採用するコストが高いのであれば、少ない人数でも生産を拡大するための設備や技術に投資することで賄おうとするだけで、それはそれでそういった業種の企業に資金が分配されるので好景気の材料となるはずだろう。

そもそも本当に「人手不足」で労働の調達コストが上がっているのであれば、労働者の賃金は上昇しているはずだが、実際にはそのような傾向は見られない(それどころか下がっている)。

参考資料: 雇用が回復しても賃金が上がらない理由

人手不足であるのに企業が給料を上げない理由

現在の日本経済は「好景気による人手不足」と説明されることが多い。確かに企業は大手を中心に採用数を増やしており、中小企業が採用予定人数の確保に息を切らしていることは事実だ。有効求人倍率は今や1.5倍を超え、過去最高を更新し続けている。

参考資料: 有効求人倍率の推移

そんな中でも、企業は従業員の給料を上げない。上げなければ貴重な労働者を他社に奪われてしまうかもしれないにもかかわらず、である。それはなぜか。「給料を上げたら会社が潰れてしまうから」である。「人手」不足ではなく、「一定の給料以下で働いてくれる人手」不足、というわけだ。

給料を上げたら潰れるということは、つまり売上が伸びていないということだ。もっと言えば、需要が増えていないからだ。これは「好景気による人手不足」などではない。単純明快一目瞭然の「需要不足不況」である。

果たして「戦後最長の景気回復を超える長さの好景気」とは何だったのだろうか。

政府は財政出動による有効需要を創出するべき

需要不足不況時に政府がすべきことは何か?それは有効需要創出のための財政出動と金融緩和政策である。

しかし現在の日本において、これ以上の金融緩和は無意味だ。

<そもそも金融緩和というのは、利子率を引き下げることでお金を借りた時の返済額を減らし、企業が新たなビジネスを始めやすくするための施策である。今までの利子率では成立し得なかった低収益性ビジネスも、利子率が下がれば成立し、新たなビジネスとして投資が始まり、資金が世の中を巡るようになる。景気回復の発火剤になる、という算段だ。しかし現在の日本では、ゼロ金利政策に引き続きインフレターゲティング政策と、これ以上金利を引き下げることができない水準まで来ている。この状況で有効な金融政策など存在しない。/p>

となれば、残っているのは財政出動だけだ。「機動的な財政出動」とか言ってないで、国土強靭化でもスマートシティ構想でも何でも良いから全国に金と仕事をばら撒けば良い。プライマリーバランスが心配?そんなもの国債の日銀引き受けでインフレ起こして債務を圧縮してしまえばどうとでもなる。地方のヤンキーが額に汗を流してダムを建設し、高給をもらってホンダやトヨタのバイクや車を買い、本田技研工業やトヨタ自動車の社員が高級料亭なりゴルフクラブなりで遊び倒し、子会社への発注も増えて従業員が潤って結婚して家を購入し、こうして増えた税収から財政支出分を回収すれば良い。民間が不況にあえいでいるんだから、そういう努力をするのが政府の仕事でしょうが。

大学卒業後4年目の今でも覚えている、講義で聞いた教授の言葉3選

よく「大学の講義なんてつまらない、大学の外に出て色んな経験を積んだ方がよほど良い」なんて話を聞く。

確かに僕も勉強したことの殆どは正直すっかり忘れてしまったが、それでもなお未だに記憶に残っている言葉が3つある。

大学を卒業してもうそろそろ3年半になるけれど、真面目に講義に出席していて良かったなあと思うこともあるので、そういった学生の励みになればと思い、書き記しておくことにする。

若干うろ覚えなので、実際に言った言葉と異なったらごめんなさい。

人は「役割」を通して社会に参加する。(産業社会学 井原久光先生)

これは大学4年生の頃に受講した井原先生の産業社会学で聞いた言葉。確か本籍は別の大学で、講義だけ来ていた教授だったと思うが、本務校で持っていたゼミ合宿での様子を例に挙げて話していたことが印象的だった。

ゼミには活発な学生もいれば、大人しい学生もいる。普段は周りに馴染めず友達も少なそうな学生が合宿でうまく過ごせるのか不安に思っていたが、いつもと違ってすんなり溶け込むことができた。なぜならゼミ合宿には、普段と違って「役割」があったからだ。例えばバーベキューでは、買い出しや火起こし、調理や皿洗いなど、多くの仕事が発生する。その仕事を受け持つという「役割」を通して、ゼミという「社会」にうまく参加し、馴染むことができたのだ。

この話は当時の僕にとって実に印象的で、「なるほど社会と個人とを仲介するインターフェースとは「役割」だったのか」と思ったのを覚えている。確かに、特に目的もない交流会などで、シンプルに知らない人と話して新しく仲良くなるのは難しいが、バーベキュー等の「役割」が発生する会であれば、そこに偶然いた知らない人とも自然に打ち解けて仲良くなりやすい。それ以来、自分も交流会に近いものを企画する際は、何らかの役割が生まれそうな設計を意識したものだった。そういう意味では、たいへん影響を受けた言葉だった。

大学4年間で磨くべきは、世界観・倫理観・価値観の3つである。(企業倫理 梅津光弘先生)

これは確か大学3年生の頃、現代企業経営各論(企業倫理)という講義の最終講で梅津先生が話した言葉だったと思う。大教室の講義であるにも関わらず周囲の学生とディスカッションさせるような形式の授業で、対話型の進め方を好む先生だった。確かサンデル教授の白熱教室が流行っていた時期だったからかもしれない。

学生の意見を真摯に受け止め、その話題を切り口に体系的な倫理学の系譜もきちんと話してくれる先生だったので、バランスが取れていて好きだった。その梅津先生が、最後に慶應義塾を卒業する学生に伝えたいこととして話してくれたのが、この世界観・倫理観・価値観という話だ。

世界観は、まず事実・現実がどのような姿をしているのかについて知ること。それが無ければ、いかに崇高な理念を掲げたところで、間違った方向に向かってしまう。

倫理観は、もちろん、物事を正しい方向に導くため。特に企業倫理の講義だったので、善悪を判断することがいかに難しいことかを半年かけて教わった後だった。だからこそ、短絡的な道徳を並べ立てるのではなく、原理原則に則って考え、判断していく術を学んでほしいという意味だった。

価値観は、世界観・倫理観を培ったその上で、自らの意思で美しいと考える在り方・基準を持てということだったと思う。これからの時代を牽引する人物になるには、ビジョンが大事だと。君たちにはそれを語る資格と責任があると、そんなことを話していた気がする。多分。

最終講ということもあり、校訓にもある「全社会の先導者たれ。」という強い期待をメッセージとして受け取ったものだった。

内的に無矛盾な論理体系は複数存立し得る。(経済学史 川俣雅弘先生)

最後は大学4年生の頃、経済学説史の講義で川俣先生がマルクス経済学を説明していた時に出てきた言葉だ。正直、この言葉を聞いた時のゾクっとした気持ちは、学生時代に受けた全ての講義の中で、飛び抜けて最も強い印象が残っている。

マルクス経済学は、主流派の経済学体系とはかなり異なる理論体系を打ち立て、その説明能力の高さによって世界中で熱狂的に受け入れられた。日本でも戦後の一時期は「マルクス主義こそ主流の経済学」とまで考えられるほど隆盛していたらしい。

マルクス経済学の説明能力の高さとは「矛盾が無い」ということであったらしく、その理論の論理の瑕疵を突くのは至難の業だったとのこと。しかし「論理体系に矛盾が無いこと」は、即ち「その論理体系が正しいこと」を意味するわけではない、というのが川俣先生の言葉である。

確かに、少し考えてみれば分かることだが、論理的に矛盾が無い仮説を複数立てられることなど当たり前だ。例えば小学生男子が女子にちょっかいを出した時に、「彼はその女子が気になっていたからちょっかいを出したのだ」という仮説と「彼はその女子が本当に気に入らなかったのでちょっかいを出したのだ」という仮説、両方とも「論理の内部に矛盾は無い」。論理の内部に矛盾は無いにも関わらず、その両者が同時に成立することは無い。つまり「論理体系の内部に矛盾が無かったとしても、それだけでその論理体系が正しいという根拠にはならない」。

それが「内的に無矛盾な論理体系は複数存立し得る」という言葉から得られる重要な示唆だと思う。

マルクス主義者は、マルクス主義の内部に「矛盾が無い」ということを理由に、マルクス主義こそが唯一の真理だと確信してしまい、その他の論理体系を排斥するという間違いに走ってしまったわけだが、正しい・間違っているを判断することは、それほど単純容易ではない。これは高度な学術的議論だけでなく、日常的な判断の場でも、いや日常的な判断の場でこそ、有用な示唆だと思う。

Twitterでの議論なんかを眺めていればよく見かけると思うが、「確かにそういう仮説を立てることは可能だが、それ以外にも矛盾の無い仮説を立てることができるにも関わらず、自分の仮説に固執して他の仮説を排斥してしまうのは如何なものか」と思われる議論は多い。何が正しいかを決めることがいかに難しいか、ということを教えてくれる川俣先生の言葉は、今後も決して忘れないで生きていきたいと思う。

以上が卒業後3年以上が経過しても未だに覚えている大学の講義で聞いた言葉3選だった。大学の講義なんて無駄だとか言ってないで、大学の講義から何も得られなかった自分の学習能力の低さを恥じてほしい。

人工知能によって働く時間が減るなんて寝言を誰が信じているのだろうか

先日、教育系の知人の界隈で「これからはAI(人工知能)によって社会が激変する」みたいなスライドが話題になっていた。その内容を読んでいて、何だかよく分からないけれど猛烈に吐き気を催した。感想は色々あるが、今日はひとまず「労働時間が週に15時間程度で済むようになる」みたいなスライドについて思ったことを書く。

人工知能に限らず、何らかの技術的革新によって「労働時間が激減するだろう」という予言は、今まで何度も口にされてきた。確かに、今と同じ労力で、今までよりも遥かに多くの仕事をこなせるようになれば、それだけ働く時間を減らすことができそうに感じられる。

しかし今までも新石器の発明や蒸気機関の発明、石油燃料の発見や電気の実用化、コンピューターの登場やインターネットの普及等によって、生産性は爆発的に上昇してきた。それが今になってなぜ急に人類が労働から解放されると信じられるのだろうか?

例えばオフィス用の印刷機や電話、ワープロ等によって我々は今までより遥かに多くの仕事をこなすことができるようになっている。それなのに、なぜ労働時間は減っていない、むしろ増えてすらいるのだろうか?

冷静に考えてみると、「生産性が上がれば労働時間が短縮する」という予想には、いくつかの前提があるように思える。

1つは「今と同じ仕事量を、今より少ない時間で達成できたら、それ以上の生産をせず余暇に時間を費やすだろう」という前提だ。しかし実際には「余った時間でもっと仕事をしよう」となるのではないだろうか。この場合、生産性が上がっても労働時間が減ることは無い。

2つ目は「今と同じ時間で、今までより多くの仕事をこなすことができたら、それだけ利益や給料が上がるので、今までより長く働く必要性が薄くなる」という前提だ。しかし多くの仕事をこなせるようになるということは、それだけ「1つの商品を作るために必要な時間」が減ることになる一方で、今までより多くの客に商品を売る必要が生まれる。もちろん競合他社も同じ技術を利用して、安く多くの商品を作って売り始める。そうすると、商品の量が増えすぎて売れ残り、自然と価格が下がることになる。結局、作れる商品の量は増えたが価格が下がるので給料や利益は大して変わらない。

今までと給料が変わらないとしても、世の中に生み出されている商品の数が増えたり、品質が高まったりはしているので、社会は豊かになっていると言ってもいいだろう。だがそれは、別に労働時間が減るという結果にはならないし、むしろ企業が従業員に求める生産性(能力)の水準が上がり、それに達さない人間はどんどん給料が減っていくことになる。結局、技術革新によって誰が幸せになっているのだろうか?と疑問に思わざるを得ない。

巷でよく見られる「技術革新によって働き方が変わる」系の議論は、全く牧歌的で非現実的なものか、個人主義的で独善的なものが多い。彼らは「シンギュラリティ時代を個人がいかに生き抜くか」と考えやすいようだが、僕からすれば結局「個人」という視点の中に囚われすぎているなという印象を免れない。「シンギュラリティ時代を生き抜くためには、個人が○○といった能力を身につけ、○○として生き抜いていくしかない」。これは「そうすることができなければ生きていけない状態を黙認する」という考え方と表裏一体だ。

あなた自身が生き抜けるかどうか不安で、生き抜くための方法を知りたいと思っているのであれば、そういった情報に縋ってしまうのも分かる。しかし、もっと社会的に議論されるべきことが別にあるのではないか、と思ってしまう。

これから社会が人間一人一人に求める生産性の水準を上げるにつれて、それに能力がついていかずに十分に稼げなくなる層が出てくる。求められる水準が上がれば上がるほど、その層は増大する。そんなシンギュラリティ時代にますます生き難くなる人々を、どのような社会システムで包摂すべきか。今、それこそが問われるべきなのではないだろうか。

「それを教育で解決する」などという妄言は聞きたくない。いま「暗記中心」として批判されている教科教育で覚えた用語や公式やイディオムのうち、あなたは何割を覚えているだろうか。せいぜい1割〜3割くらいのものではないだろうか。教育の力なんてものはせいぜいそんなものであって、いくら崇高な理念を歌おうと、その理念の5割も実現しないのが現実だ。教育によって経済問題を解決しようという考え方は、結局のところ自己責任論と変わらない。社会が変わることに対応するための武器は教育ではない。より包括的な社会経済システムの議論を、とっとと始めるべきだと思わないだろうか。

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