意識の高い学士ブログ

140字では表現できないこと。

新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』レポート


<総括>
機械学習・人工知能系の技術を身につけると年収が上がるらしいという噂を聞き、手始めに手に取ってみた。
東京大学合格を目指したAI「東ロボ君」のプロジェクト責任者を務めた数学者の著書。
よくある「シンギュラリティにより仕事が奪われる!学校教育はAIに代替されないクリエイティブな授業を導入せよ!AIに代替されやすい安い能力しか身につけられなかった人間は死ね!」みたいな妄想系ネオリベ案件ではなく、学者としての誠実さを感じる論旨だったところが非常に良かった。オススメ。

<要約>
・シンギュラリティは(少なくとも現状の数学・技術の延長線上では)実現しない。
・ただし人工知能技術によって代替される職業はかなり多い。
・人工知能が働くためには、学習するための回答付きの教師データが大量に必要である。教師データなしで大量のデータを入力して、どの変数が結果に影響しているのか逆算する方法をディープラーニングと言う。
・人工知能技術の精度を高めるためには教師データの作成、特徴量の抽出、長期間の試行錯誤的な調整作業など膨大な労力が要る。
・人工知能技術が得意なのは「照応」「係り受け判定」、まだ難しいのが「同義文判定」、不可能であると思われるのが「推論」「イメージ同定」「具体例同定」。人工知能技術には不可能であると思われる能力を身につけなければ仕事を奪われてしまう。
・調査の結果、教科書を読むための基礎読解力を持たない子どもは全体の半数ほどいると思われる。
・人工知能が苦手とする分野の問題の正答率が、ランダムに選択した場合よりも低い生徒の割合(ランダム率)は、分野によっては8割程度にまで上る。
・基礎的な読解力を身につけるための方法は探しているが、未だに見つかっていない。
・ホワイトカラーは人工知能技術が苦手な分野の能力を持っているかどうかを分水嶺に分断される。現代社会の格差は、良い大学を出たかどうかではなく教科書を読めるかどうかというレベルで起きている。
・糸井重里の「ほぼ日」のような、需要が供給を少し上回るようなスモールビジネスに活路がある。

<感想>
1人の技術者かつ経済学徒としての視点から1つ、教育の観点から1つ、所感を書いてみたい。

・人工知能は人間の仕事を奪うのか?
人工知能技術を用いたアプリケーションを実装して高い精度で動作させるには、元データと回答をセットにした教師データを大量に作成したり、どの変数が結果に影響するか仮説を立てて特徴量として抽出したり、それらの結果を見ながら様々な特徴量の組み合わせを試したりと、非常に長大な労力を必要とする。
一方、その結果としてできた人工知能も、特定の環境・文脈・フレームを限定した上で、過去あったことだけを参考に結果を予測するものなので、自動化できる範囲も世間で思われているほど広くない。

ということを鑑みると、殆どの分野では開発のコストが生産性向上のメリットを上回るんじゃないかなあ・・・と思わされる。例えばみずほ銀行のコールセンターがIBMのワトソンを導入して省力化に成功したとかいう話にしても、みずほ銀行ほどの規模のコールセンターだから大量の回答付きデータを用意することができ、また省力化後の人件費削減効果が大きかったから開発コストをカバーできたという話であって、その辺の中小企業とかが真似できる話じゃない気がする。

もちろんその結果、そういった大資本を有する大企業にばかり最新の技術による生産性向上効果が効き、そうでない企業との格差が開いていくという、まさにガルブレイスが予測したような大資本独占経済になっていくという。。
この悲観に対して、著者の示した「ほぼ日みたいなスモールビジネス」という活路はたいへん心許ない。やはりどこかで生産資本の国有化による再分配に至るしかないのでは・・・と、人工知能系の議論をしているといつも頭が共産主義化してしまうのだけど、どう思います?

・アクティブラーニングとか言っている場合ではない
本書の中にたいへん印象的だった記述があったので引用する。

娘が小学校4年生のときのことです。理科の授業で星の光について勉強したそうです。先生は「今星は光って見えるから、今輝いているように見えるかもしれないけれど、遠いところにある星の光が地球に届くまでには時間がかかります。だから、今、見ている星の光は何万年も前の光なのです」と説明しました。(中略)
クラスの生徒たちが「ふ〜ん」とわかったようなわからないような微妙な反応をしているときに、娘は先生に質問しました。「太陽はどうですか?」
先生はちょっと困ったような表情をされたそうです。すると、場の空気を読むことに長けた男の子が、「ば〜か、太陽の光はいま光ったに決まっとるじゃろ」と言ったのです。
その大声を機にたくさんの生徒が口々に「そうじゃ、そうじゃ。太陽は今に決まっとる。さっきのは星の話や」と言い出し、結局、太陽は今光ったことに「決まった」そうです。もちろん、間違いです。太陽の発した光が地球に届くのには8分ぐらいかかります。アクティブ・ラーニングはこんな危険を孕んでいるのです。

教科書を読解するレベルの推論すらできない群衆がアクティブに議論したところで全く意味が無い。というか、教育現場はいま深刻な人不足で、この程度の知識すら無い人が教壇に立って専門外の教科を教えなければならないなんてことが日常茶飯事であるというのに、アクティブ・ラーニングだとか何とか言っている場合ではない。こないだ中学校の教員をやっている友達から「生徒数は去年と変わってないのに教員が10人減った、教科が回らん」とかいうとんでもない実態を聞かされたが、そういうことが全く理解されていない。
そもそも論理を使うことのできる人間がいない場所で「議論」したところで、それは「自信を持って大きな声で発言すれば勝てる」以外の何を学習できるというのだろうか。子どもや学校に夢を見すぎ。

就活のあり方に目くじらを立てるようなつまらない大人になるな

就活のあり方に目くじらを立てるようなつまらない大人になるな
就職活動のあり方への目線

世間では就活シーズンである。この時期になると必ずインターネット上で「就活が画一的で個性を押し潰していて気持ち悪い」といった議論が俎上に上るが、僕は昔からこの論調にどうも違和感を覚えずにはいられなかった。

彼らの論調は大抵「リクルートスーツや髪型や化粧や面接での受け答えが画一的で気持ち悪い」「新卒一括採用しか正社員雇用のチャンスが無いと卒業後に個性的な活動をしてから入社を望む学生に不利」「就活生の人気企業が昔から変わらない、志向や価値観が画一的」あたりに収斂する。これらの批判の根底には「就活は本来一人一人が個性的な学生を、企業側の同質化圧力で画一化しているが、これからは自由な発想で新たな付加価値を生み出していくような人材が求められる。就活生は個性を潰して単純な労働力として人を雇うような企業に入社すべきでない。」というような意識があるように思える。

しかし実際のところ、世の中に存在するのはそのような独創的な仕事ばかりではない。彼らが求める独創的な能力を有さずともこなせる、世の中に必要とされている仕事は多くある。そういった仕事を主とする企業からすれば、別に就活生がわざわざ派手に自分を演出した服装を着てきたり、他に例の無い独自のアピールをしてきたりすることを期待などしていない。むしろルールや指示を素直に聞いて、ルーティン業務を正確にこなしてくれる従業員を求めているのである。

声の大きい大企業と、数の多い中小企業

よく言われる「グローバル化した現代社会のビジネスマンに求められるスキル」のような大仰なものを欲しているのは一部の大企業やベンチャー企業であるが、彼らが欲しがるスキルを備えた就活生というものは非常に稀である。そのため、自分たちの欲しい人材をより多く市場に供給せよと、供給者側の学生に対して要求するのは必然である。一方で、そうではない他の大部分の企業からすれば、「そこまで高度な能力は求めていないから、素直で地道に努力できる子が欲しい」と思っているわけで、つまり各々の採用する側視点でのポジショントークであるということになる。

声の大きい大企業やベンチャー企業人が「独創的であれ」と言い、数の多い普通の企業が「素直であれ」と言う。これが、現実の就活とインターネット空間上の就活論が噛み合わない原因ではないか。

で、僕としては「就活なんて人生の一部たる職場を決めるためだけのものでちょっと画一的なスーツを着たからって大切な個性が潰されるわけでもなし。彼らがそんな騒ぎ立てているのは、よほど彼らの人生にとって仕事以外に大切なものが無いことの証なんだろうなあ。」としか思わないわけだが。

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社会人5年目、大学の勉強の意味を考える。

社会人5年目、大学の勉強の意味を考える。

背景

社会人5年目の春が来る。最近、余裕が出てきて徐々に読書を再開し始めたのだけど、ふと大学時代の勉強について考えることがある。学生時代とは視点が変わってきたところもあると思うので、久しぶりに「勉強すべきかどうか論」「勉強なんて意味あるのか論」について考えてみたい。

大学の勉強は役に立つか?

とりあえず最初に語られるのは「勉強が役に立つかどうか」だが、これについては昔から意見が変わらない。それは「勉強の内容そのものは役に立たないかもしれないが、方法は役に立っている」というものだ。

マーケティングや法律や科学技術など一部を除き、経済学や哲学思想や教育論などが「役に立った」と感じたことは殆ど無い。もちろん今まで無いからといってこれからも無いとは限らない(偉くなってより大局的な判断をする時や、教養があることを部下に示して威厳を保つ時なんかに役立つということはありうる)が、それにしても限定的であり、全ての学問の知識が「役に立つ」ということはないだろう。

一方で、役に立つと感じているのは学問の世界で身につけた思考技術や経験だ。よく言われることだが、例えば下記のようなものがある。

  • 学力:知らないことを自分で調べて学んでいく、新しいことを理解して判断や行動に取り入れる
  • 思考:仮説を立てて検証しながら論理的に考える
  • 説明:相手に分かりやすく考えを整理して伝える

一方で、学問の世界の思考法が業務の遂行の邪魔をするような状況も、正直に言えばあったと思う。それは僕の場合、特に「不確かなことしか言えない状態で行動や判断を迫られる状況」で表れた。

仕事をするにあたって、判断に必要な情報や時間が常に十分あるとは限らない、というかむしろ不足していることの方が多い。そんな中で、自信の持てる結論の無いまま行動することは最初はかなりのストレスだった。

十分な論拠を用意してから結論を導くのではなく、現時点で入手可能な論拠からいくつか尤もらしい仮説を用意して、それが間違っていた場合のリスクヘッジを考慮した上で、試行錯誤してみる。これができるようになるには、結局は多くの経験を積むしかない。科学実験の試行錯誤の考え方(批判的合理主義)に近い気もするが、そのビジネスの分野における個別的な経験を積まなければならないという点で、これを「学問の経験だけでは通用しないもの」の例に挙げても問題ないように思う。

さて、学問の中で仕事に役に立つ部分、立たない部分について考えてみたが、これらはもちろん学問からしか得られない能力ではないし、持っていなければ何の仕事もできないというものでもない。こういった能力を例えば部活動やアルバイトやボランティア活動から得る学生もいるだろうし、そういった能力を持つことにこだわらず立派に働いている人がいることも事実だと思う。

以上を踏まえて、勉強が「仕事の役に立つかどうか」という問いに答えるとするならば、下記のような回答になるだろう。

勉強の内容はそこまで役に立たないが、そこで身につけた能力は役に立てることができる。

上記の能力は学問からしか得られない能力ではないし、その能力が無いからといって仕事で活躍できないわけではない。

大学では勉強すべきか?

ここまで勉強について「仕事の役に立つかどうか」という観点から論じてきたが、仕事の役に立つかどうかは勉強すべきかどうかに直結するのかというと、もちろんそうではない。これについては、せっかくなので社会人5年目を控えた現在の実感ベースでどう考えているかについて書いてみたい。

昨今、やはり仕事というものは生活の大部分を占めていて、ともすれば自宅と職場を往復するだけの生活にもなりがちである。そんな時、自分はこのまま人生の大部分を「仕事」をして、仕事に必要な気力や体力を回復するためだけに自宅に戻り、また翌朝同じように出勤するだけの生活を続けるのだろうか、と悲しくなることがある。

仕事にこそやりがいを感じたい、という人が多いことは理解しているが、仕事というのは自分が自立して食っていくために会社に時間と能力を提供して対価を受け取っているだけに過ぎないので、そこに人生の時間の大部分を支払っておしまい、という人生に面白みを感じない。

あくまで食っていくためにという前提がある以上、仕事は必ず「誰かの役に立つ(誰かが対価を支払ってくれる)活動」でなければならないという制約がある。であるならば、自分の好きな本を読むことは?ピアノを弾くことは?絵を描くことは?ゲームをすることは?人を愛することは?それらは、「仕事」にはなりえない。それは「誰かの役に立つために」する活動ではなく、純粋に「自分がしたいと思うから」する活動であるからだ。

そういう意味では、仕事ではない時間こそが「自分の人生」、「自分のための人生」である。そこではバンドを組もうが、研究論文を発表しようが、ゲームで数十万頭のモンスターを狩猟しようが、誰も文句を言わない、いや言うべきではない。それが自分の「人生の本番」である、と胸を張れるのであれば、何をしても良い。それこそが人生の「自由」の意味なのではないか。

つまり何が言いたいかというと、大学の勉強なんてものは、その「自由」の中に含まれた活動であるということだ。そこで重要なのは「勉強すべきかどうか」などではなく、「勉強したいかどうか」、ただそれだけだ。

勉強というものは本来、自分が知りたいと思うから勉強するものであって、すべきかどうかなんて問うても仕方ないと思う。「あなたに今、知りたいことがあるかどうか。」ただ、それだけだと思う。

※「知りたいことがある」という明確な自覚が無くても、「何か私が知りたい/知るべきことがこの本の中にある気がする」といった引力に引き寄せられて勉強する、ということは往々にしてあると思う。

※個人観点から論じると勉強は自由であるという結論になるが、社会的な観点から論じれば社会が一定程度の教養を持つ人間で占められていなければ民主主義が崩壊する、という問題はあると思う。

ところで、これは余談なんだけど、『教員に読んで欲しいビジネス書:教え子をどんな社会に送り出そうとしているのかを知る』みたいなコンセプトの本を書いたら売れるかなあ。

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【読了】伊東光晴『ガルブレイス−アメリカ資本主義との格闘』

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読了した後に、再び主要部分を読み返してしまった本は本当に久しぶり。以下に気になった部分を6つ挙げる。

1. 依存効果

通常、経済学において需要曲線と供給曲線は独立で、その交点で価格と取引量が決まるとされているが、ガルブレイスはここに依存効果という概念を持ち込んだ。物質的必要が満たされた現代の「ゆたかな社会」において、生産者は広告によって消費者の欲望を刺激し、需要曲線に影響を与える。これによって、消費者はいつになっても欲望が満たされない精神的窮乏を抱えることとなった。

2. 私的財と公共サービスの不均衡

市場が提供する財は容易に生産を拡大するが、それによって同時に需要が増す公共サービスは拡大しづらい。例えば乗用車が増えると道路の必要が高まるが、乗用車の生産拡大に比べて道路の建設拡大は緩やかである。
こうした、私的財の生産拡大に応じた公共サービスの需要増に対応するために必要なのが売上税(消費税)である。売上税は生産の拡大に比例して伸びるため、こうした需要に対応しやすい。

3. 経営支配権の資本家からテクノストラクチュアへの移行

かつて企業経営の舵取りは企業の所有者たる資本家が一手に担っていたが、株式の分散所有が進み、科学技術や市場環境が高度に複雑化した現代において、実質的に経営の舵取りをしているのは経営者の下で各部門の専門知識を有するマネージャーたちである。ガルブレイスは彼らをテクノストラクチュアと呼ぶ。
こうした環境において、株主や一部の経営トップが桁外れな報酬を得ている状態は前時代的であり、経営への寄与度と比べて余りに多くの不当な利益であると言える。テクノストラクチュアは結集してこれに対抗し、拮抗力を行使するべきである。
この拮抗力が、大企業によって競争の自己調整機能を削られた寡占市場において、新たな調整機能として役に立つ。

4. マーシャルの労働曲線

日本やアメリカで標準的な経済学の教科書には、労働供給曲線を右上がり曲線として描いている。
つまり、賃金が上がれば労働者は喜んで働くようになり労働時間を増やすが、賃金が下がれば労働を提供する価値が減り労働時間を縮小するというものである。
しかしケインズの師匠とも言われるマーシャルが描いた労働供給曲線は、逆に右下がり曲線になっている。
つまり賃金が下がれば現行の収入を維持するために長く働き、或いは自分がこれ以上働けなければ家族の別の者が働くことで労働供給を増やすといったような行動が想定されている。こちらの方がかなり現実的ではないか。
こうした行動を仮定した場合、労働市場は賃金の下落により労働供給を増やし、供給過剰となってさらなる賃金の下落を招く。つまり労働市場は自己調整機能を持たず、政府による最低賃金や長時間労働の保護が必要になる。

アメリカ経済学の仮定は財市場や金融市場と同等の「商品」として労働を捉え、同様に自己調整機能を有するという「美しい仮説」であるが故に、その他にありうる現実的な仮説を見えづらくしてしまっていたのではないか。(例えばワルラスの均衡市場論などは美しさのあまり鼻血が出そうなほどであるが、それが実証的に論証されたものであるかどうかについて十分に関心を払っていなかったように思う。)

こうした労働市場観を前提にすれば、政府は労働組合の組織化を責任持って推し進めるべきであるし、実際、ニューディール期にはそうした政策が功を奏した。
一方で、2009年にゼネラルモーターズが倒産したのは労働組合による硬直的な費用のせいだったとも言われている。
ガルブレイスは「政府・経営者・労働者の代表同士で話し合って理性的に解決しなさい」のようなことを言っているらしいが、現在の安保やら何やらに対する左翼の行動を見る限り、そうした交渉能力があるとは思えない。
労働組合はあった方が今より良いと思うが、どこまで推し進めるべきなのかについてはまだ見えないのが悩ましいところだ。

5. 国内産業保護のための数量制限

ガルブレイスおよび市場原理主義に批判的な経済学者の間では、国内産業保護のためには関税保護より輸入数量制限の方が効果的であると考えているらしい。その理由について詳説されていなかったのが残念なところなので、そのうちどういうことなのか調べてみたい。

6. 投資銀行による売り崩し

北海道拓殖銀行と山一証券が倒産した背景に、アメリカの某投資銀行による大規模な売り崩しがあったという話が載っている。
当時の日本には売り崩しを防ぐための法律が無く、投資銀行は拓銀の大きな不良債権に目をつけ、保有していない株を前借りして売る(後で買い戻して返す)ショートという方法で拓銀の株価を下落させ、資金繰りに窮した拓銀を倒産させた。続いて、拓銀に資金を供給していた山一證券に拓銀を救済する余力が無いことに気付くと、同じ手法で山一を倒産させた。
倒産した企業の株は、1株1円、2円といった価格で買うことができる。倒産後にこういった価格で株が購入された記録が、拓銀で6億株以上、山一で18億株以上にも及んだ。前借りした分をそうした価格で買い戻した投資銀行は、前借りして売った際の価格(67円〜)との差額で、拓銀で360億円以上、山一で1,800億円以上を得たことになる。
こうした売り崩しで企業が倒産すれば取引企業まで損害を受け、連鎖的に不況に突入することもある。私欲による投機が多くの人々の生活を犠牲にすることを防ぐため、金融市場への規制は厳しく続けなければならない。

Togetterまとめ
https://togetter.com/li/1175405

Booklog
http://booklog.jp/item/1/400431593X

誰が「戦争を止めたい」なんて言えるのか

昨年は秘密保護法や集団的安全保障関連法案、今年は共謀罪などが注目され、現在では誰も憶えていないと思うが、当時は戦争が始まるぞ始まるぞと騒がれたものである。「国民の自由と財産そして生命を理不尽に奪う戦争を、私たちは絶対に許さない」という具合だ。

まあ確かに、戦争が起きてほしくないことには僕も同意する。ただ彼らの「戦争は悲惨であり、誰にとっても絶対に避けたい事態であるはずだ」という前提を信じて疑わない上での言動・行動には、正直、違和感を覚えることが多い。

彼らが守りたい対象である「家族や恋人」「仕事や友人」「家や財産」「命」、つまり総じて「幸せな生活」というものは、今や誰もが持っているものでは決してない。

現代の日本は、非正規雇用比率37%、週60時間以上労働している人が460万人、労災認定件数が年間2,000件、ワーキングプア1,100万人、相対的貧困率16%、生涯未婚率23%、人工妊娠中絶件数が年間18万件、児童虐待の相談対応件数は年間9万件、孤独死が年間2,000人、うつ病患者が100万人以上、自殺者が年間2万人の世界である。そんな世界に、「守りたい幸せな生活」を持つ人など一体どれだけいるものだろうか。

自殺者が年間2万人いるということは、背後に「死にたい」「死んでも良い」と考えている人がその10倍くらいいてもおかしくはない。「幸せな生活」を守りたい人が思い浮かべる「戦争で奪われる恐れのある生活」と、過労死直前まで働かされている65歳未婚年収200万弱のバス運転手とでは、だいぶイメージが異なってくるのではないだろうか。そんな状況で、「幸せな生活」を守りたい人が後ろから肩を組んできて「なあ、俺たちの幸せな生活、一緒に守りたいだろ?」と声を掛けてきたとしたら、どう思うだろうか。

「希望は、戦争」と言った赤木智弘の「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。は、今やあまりに有名である。

我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。

識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう。

そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。

戦争は悲惨だ。

しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。

こうした人々を放置して、あるいは知らないまま、自分が持っている幸せをあたかも誰しも持っているものであるかのように振る舞い、他人を総動員してまでそれを守ろうとする姿勢は、決して褒められたものではない。「戦争を止めよう」よりも、もっと先に取り組むべき課題があるのではないだろうか。自分の命惜しさにそれを無視し、見て見ぬ振りを続けながら振りかざす正義感に、何の説得力もありはしない。

参考資料

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