皆さんは「意識の高い高校生」に出会ったことがあるだろうか。僕は今まで、一般に「意識の高い高校生」と呼ばれそうな何十人もの高校生たちに会ってきた。彼らはTwitterFacebookなどのSNSを用いて主体的に情報を集め、積極的に学外のイベントに参加する。グローバル企業の開く講演会、NPOや公的機関の主催するキャリア教育プログラム、大学生が開催する勉強会など、彼らは様々な場所に出没する。果ては高校生同士が組織を作り、高校生対象のイベントを催すこともある。

僕が初めて彼らに会ったのは、大学2年生の秋頃だったと記憶している。当時「わかもの科」というプロジェクトが定期的に「学外授業」という高校生向けの勉強会のようなものを開催しており、それに参加させてもらったのだ。

わかもの科 第五回学外授業
 
http://blog.livedoor.jp/wakamonoka/archives/50112809.html

僕はそこで出会った高校生たちを見て、余りに大きな衝撃を受けた。「世の中には、こんな高校生がいるのか。」彼らは大学生でも躊躇するような議論に積極的に参加し、物怖じすることなく自分の考えに基づいて発言した。それも「高校生なのだから、この程度の意見でも仕方ないだろう」などとは思わせず、大学生も顔負けのしっかりした意見を出す者も少なくない。

僕はこの頃、NPOカタリバという団体で数十校の高校に赴き、キャリア教育の授業に参加する中で、既に何十人もの高校生と会っていた。しかし、この学外授業で出会う高校生たちは、今まで会ってきた高校生たちとは、何かが根本的に異なる。大学で1年半かけて色々と勉強してきたはずの僕は、知識量においても思考力においても負けていることに驚き、心から素直にこう思った。「高校生なのにすごい。高校生の頃の僕に比べたら、なんて高い能力と経験値を持っているんだ。」と。

あれから3年半が経った。奮起した僕は、彼らに負けないよう多くの分野の本を漁り、また様々な企画に参加してきた。今や「意識の高い高校生」たちにも容易には負けない知識量や思考力が身に付いたと思う。その中で「意識の高い高校生」と呼ばれる高校生たちにも、もちろんたくさん会ってきた。つい最近も、高校生たちと「グローバルとは何かを考える」企画にスタッフとして参加してきたばかりだ。そこで僕は1つ気付いたことがある。「意識の高い高校生」を前にした大人たちが、どこに行っても一様にこう言うのだ。「高校生なのにすごい。私は高校生の頃、みんなみたいに行動したり、考えたり、話したりできなかった。」

大人からしてみたら、謙虚かつ素直な感想なのだろうと思う。僕自身、この気持ちには自分の経験もあり、強く共感できる。しかし、余りに多くの場所でこの似たようなコメントを耳にするにつれて、これは高校生たちにとって良くないのではないか、と思い始めた。その理由をまとめてみたものが、以下の2点である。

 

1.      「意識の高い高校生」たちの生きる二重世界への無理解

現在はかなり下火になってきたが、「意識高い」界隈には常に「意識の高い学生(笑)」論争が絶えない。それは「意識の高い学生」が派手な活動をする割に、中身が伴っていないという批判とも嘲笑とも取れる反対意見に対して、擁護したり煽ったりする者が騒ぎ立てる論争である。一般に非難の対象となりやすい学生たちは、派手なことを言っている以外に普通の学生と大した差は無いはずなのだが、派手であるという理由だけで標的になりやすい。そしてこれは高校生たちも同様であるばかりか、大学生たちよりも論争を意識せざるを得ない立場にある。というのも、大学生は講義などにおいても、自分と異なるクラスタとの接触は最小限で済んでしまうが、高校生は学校で毎日のように「普通の高校生」と顔を合わせ、狭い教室の中で共同生活を送らざるを得ない。どうしても自分と異なる同級生の存在を意識せざるを得ず、また自分を少数派と感じやすいことは指摘できるだろう。そんな生活から飛び出し、放課後に学外の仲間たちと会えば、全く異なる考え方をする仲間たちと活動することになる。彼らはそんな二重生活とでも呼ぶべき環境に生きている。

そんな生活環境で「自分はなぜ普通とは異なる活動をしているのだろう」という問いを抱いたことのない者は、恐らくいないはずだ。もちろん、そのような迷いが極端に少ない者と、常に頭の隅に置きながら生活している者がいるだろう。また「普通」を拒絶した自分を肯定できている者もいれば、「普通」でない自分に後ろめたさを感じている者もおり、さらには自分を「普通」でないとは絶対に認めない考えの者もいる。どんな立場にせよ、彼らは日常的に「普通」と自分を対比せざるを得ない環境にいる。

そんな彼らが学外で出会った、仮にも「魅力的な大人」の一人として出てきた者に「私は高校生の頃、あなたたちのように行動的でも何でもなかった」、つまり「私は普通の高校生だった」と言われたら、一体どのように感じるのだろうかと思う。

僕は、下手したら、「普通ではない自分たち」の成長意欲を否定されたようにも感じ得るのではないのだろうかと思っている。つまり大人の無思慮なコメントは「普通の高校生活を送っていても、魅力的な大人としてここに立つことができる」と言っているようなものである。そして当然、それは真実なのである。何も特別な活動に参加などせずとも、高校生から見て魅力的な職業や会社に就くことは可能だ。従って、その事実を知らせるべきではないなどと言うつもりは毛頭ない。

しかし彼らの二重生活という背景を鑑みると、次のような配慮も可能だったのではないかと思う。即ち「普通」ではない活動に参加してきた彼らにとって、そういう活動をしなかった自分から言えることは何か。そこに来た彼らと自分が出会った意味は何か、を語ることである。

大人がただ「私は君たちのようではなかった」と褒めたつもりの言葉をかけても、彼らから見れば壁を作られたようにも感じられる。大人の側も高校生の活躍を見て「彼らは自分とは違う特別な高校生だ」と身構えてしまうこともある。しかし、それでは意味が無いし、勿体ない。参加者の全員がその場の意味を積極的に見出すためには、何が必要かをその場に即して考えなければならない。そこで僕が至った結論の1つは、大人が「過去の自分」と「現在の彼ら」を比べるのではなく、「現在の自分」と「現在の彼ら」を対等な立場と見て評価することである。

これについては、項を改めて議論しよう。

 

2.      成長性に対する期待度の低さ

大人の無思慮なコメントが、高校生の置かれた二重生活という環境への無理解に基づいていることを指摘した。次に指摘しておきたいのは、その無理解から来るコメントが高校生たちに、自覚的にも無自覚的にも、彼らに対する期待度の低さを表明してしまっているという点である。

考えてみれば「高校生にしてはすごい」という言葉は、決して褒め言葉ではない。それは前出の「普通の高校生」に比べたら能力が高いが、それだけである、と言っているに等しい。意識的であろうとなかろうと、このコメントは決定的に「上から目線」で放たれている。

そして申し上げにくいことに、確かに「その程度」の言葉に相応しい高校生たちは少なくない。確かに「普通の高校生」たちに比べれば、発言の積極性も、社会への関心も高い。プレゼンテーションもコミュニケーションも上手い。しかし当然のことながら、それが大人をビビらせるほどである高校生は、さすがに少数派だ。だから先ほど指弾した「高校生にしてはすごい」という言葉は、やはり間違っていないとも言えてしまう。それも1つの事実である。

ただ、大人の側も恐らく、何もそんな優越感に浸った言葉を高校生に投げつけているつもりの者ばかりではないだろう。大抵は謙虚な気持ちで相手を肯定するという、円滑なコミュニケーション手段の1つであるし、或いは本当に心から素直に彼らを高く評価した故の一言だったのかもしれない。しかし、そうだとしても、彼らを褒めて満足して、そこで終わってしまっては勿体ない。それでは高校生が「高校生にしてはすごいね。」の水準よりも高く昇ることはできない。結局のところ、「高校生にしては」の背後にあるのは、彼らの成長性に対する期待度の低さなのである。

こうして議論は、同じところに行き着くのである。大人は彼らを対等な目線で評価し、自分より優れていると思うところは尊敬し、自分より劣っていると思うところは指摘する。彼らは一面においては「現在の自分」を上回る可能性を認めるし、また指摘された点も改善できるだろう、と「期待」すること。これこそ「意識の高い高校生」との接し方において最も必要なことではないか。

 

さて、あらためて見てみれば、結論は至って単純だ。高校生をただ褒めて満足するのではなく、対等な目線で接すること。彼らが「過去の自分」や「現在の自分」を超えて成長してくれることに期待し、そのために必要なことを現在の自分からフィードバックすること。それが「意識の高い高校生」と向き合う上での誠意であり、同時に勇気であると思う。

実際のところ、これは難しい要求である。高校生を褒めすぎることなく、かと言って反感を買うような指摘の仕方をしてもいけない。受け取り方に個人差もあるだろう。また、大人の側も彼らに負けない知識や視点を持っていなければならない。或いは、それを効果的に活用し、伝える技術を持っていなければならない。「意識の高い高校生」たちの出てくる企画にスタッフとして参加することは、そういう覚悟の要る仕事だと思っている。

 

「意識の高い高校生」を語る上で、最後に言及しておきたいことがある。それは、彼らが活動的な高校生活を終え、AO入試などを用いて大学に入学した後、彼らの殆どは「普通の大学生」に戻ってしまうという事実である。

彼らがどのような気持ちで、その道を選択しているのかはよく分からない。自分には座学や遊びが足りないと思って積極的に大学内に籠る者もいれば、「普通」を楽しんでみたいと吹っ切れた者もいるだろうし、今までのように活動を続けることに疑問を抱いて進めなくなってしまった者もいるだろう。少なくとも僕は、最後の後ろ暗い意味で活動を止めてしまった子に関して、無思慮なコメントを聞かされ続けたことも原因の一端にあるのではないかと思う。

別に、歩みを止めて思い悩むことは、必要なことであると言うこともできる。しかし、それは「高校生にしてはすごい」という冷水を浴びせかけ続けられた先ではなく、夢中で突っ走っていた途中でふと自ら気付くものであった方が健全なのではないか、と個人的には思っている。

 

まとめよう。結論として、僕は高校生に「期待」できる大人が増えること、そして高校生たちが将来的に、その大人たちを超えて「普通の高校生」でなかった自分を後悔せずにいられることを「期待」したい。