よく教員志望者を批判する声を耳にする。「大学を出て社会を知らずに22歳で先生と呼ばれる世間知らず」「ずっと学校が好きだった人が学校を出てそのまま学校に就職するから学校が嫌いな人の気持ちが分からない」「教員志望者に囲まれて育んだ偏狭な価値観をそのまま学校に持ち込むので世間とズレている」等、妥当なものからとんでもないものまで内容は様々だ。

僕自身、教育に興味のあるイベントには星の数ほど参加してきたので、当然ながら多くの教員志望者に会ってきた。前述の心ない批判文句を向けられるような温室育ちの教員志望者もいれば、そういった者を批判して教員を志望する目的意識を誇示するタイプの教員志望者もいた。しかし、どちらのタイプであれ、何十人もの教員志望者に会った中で個人的に面白いなと思える人間は本当に一握りだった。そこで、全く個人的な話で申し訳ないが、本稿ではなぜ僕は彼らのことをつまらなく感じてしまうのかについて考えてみたい。

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1.      教員を志望する理由の三類型

何十人もの教員志望者を見ていると、彼らが教員を志望する理由は殆どが次の3種類のどれかに分類できることが分かってきた。

       「生徒のため」型

「生徒の自己肯定感を上げられる教師になりたい」「生徒と真剣に向き合う教師になりたい」「いじめの無い教室を作りたい」「部活動を通して人間性を育みたい」といった、極めて個人的な理想に基づいて生徒をどうにかしたい、という考え方である。

ひどく残念なことに、彼らは教師の本務が「勉強を教えること」にあるという事実から全力で目を背けており、あまつさえ「勉強は人生において大切なことではない」とすら言い切る者すらいる。その点でも僕とは趣味が合わないのかもしれない。

       「社会のため」型

「これからの社会に必要な〇〇な人材を育てたい」といった、学校の外側を出発点とした考え方である。この立場を取る教員志望者は「世間知らず」と揶揄される温室育ちの教員志望者を目の敵にして、冒頭で挙げたような教員志望者叩きに加担する傾向がある。

しかし彼らの理想とする「〇〇な人材」を育てることは、果たして学校の仕事なのかどうか怪しいものばかりだ。喩えるなら、野球チームに突然赴任してきたコーチが「これからの時代に必要なのはバスケ選手だ!今日からドリブルの練習を始める!」と宣言するようなもので、「他所でやれ」の一言に尽きる。

       「自分のため」型

特にやりたいことも無いので「教師にでもなるか」。もしくは、社会不適合者であるが故に「教師にしかなれない」。こういった意味で、俗に「でもしか教師」と呼ばれる。

彼らは前述した「生徒のため」型の教員志望者からは「中途半端な気持ちで教師を選ぶなんて生徒が可哀想」と非難され、「社会のため」型の教員志望者からは「視野は狭いし使命感も足りない」等と蔑まれる、教員志望者界の被差別階級である。

しかし不思議なことに、僕が面白いと感じる教員志望者は殆どがこのタイプに属する。そのことから推論するに、恐らく僕が面白いと感じる人は積極的に教員という仕事を選択しないことが多いのだろう。というのも、僕が面白いと感じるのは「僕の考えを変え得るほど僕の知らないことを考えているが故に本気で意見をぶつけ合うに足る人」であり、そういう人は何らかの問題を解決するために教育という手段を用いるという発想が余りに安直すぎるということを知っているのだろうと思う。

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2.      なぜ「教師」なのか

僕は社会問題を教育で解決しようという考え方にうんざりしている。前述の「生徒のため」「社会のため」型の教員志望者に問うべきことがあるとすれば、彼ら自身の理想的な社会や教育を実現するために最適なポジションは本当に教師なのか、という題であろうと思う。

教師が生徒と向き合うために必要なのは、本当に教師の熱意なのか?いじめが無くなるために必要なのは、いじめを無くしたいと願う教師なのか?生徒の自己肯定感を上げるために必要なのは教師の言葉なのか?

世界で戦っていけるグローバル人材を輩出するために必要なのは、教師の努力なのか?投票率を上げて若者のための政策を実現するために必要なのは、政治関心を惹起するのがうまい教師なのか?世に遍在する数多の社会問題を解決していくために必要なのは、問題発見解決型の能力を育てられる教師なのか?

彼らの理想を実現するために必要なのは、本当に教師なのか?

この問題を突き詰めて考えた結果、最適なポジションは教師ではないという結論が出たとしよう。その時に彼ら教員志望者は何と言うだろうか。

「しかし自分の能力を最も生かせるのは、そのポジションではなく教師という職業である。」

「でもしか教師」と揶揄される者と何ら変わりないではないか!

笑い話のような話だが、実際に教員志望者を問い詰めてこの台詞を吐かせたことは何度もある。そうでありながら「でもしか教師」を非難する彼らの無知で傲慢な態度に、僕は我慢がならない。

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3.      「でもしか教師」というキャリア選択

僕は「でもしか教師」的なキャリア選択の考え方を批判するつもりはなく、むしろ理想的であるとすら思っている。そもそも自分のキャリアを選択する場面において、実現したい理想や目的を設定して、それに最適なポジションを選ぼうという考え方は嫌いだ。僕は仕事をwantではなくcanで選ぶべきだと思っている。つまり、「やりたい仕事」ではなく「できる仕事」を選ぶべきだと。

仕事とは遊びではない。生存のための手段である。仕事に夢ややりがい等を求めていれば、いつまで経っても長時間労働はじめ労働問題は解決されない。そういう意味で、「でもしか教師」は理想のキャリア選択であると思う。

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4.      学校をディストピアにしないために

それでも「でもしか教師」に対する反感は根強い。「生徒が可哀想だ」という短絡的な感情論に脳みそを冒され、「教師は聖職」等というポエティックな規範観念を他者に押し付ける困った集団は少なくない。

しかし冷静に考えてみてほしいのだが、学校が子ども想いの「良い教師」ばかりであったら、それこそ生徒が可哀想ではないか。身近に触れる大人がそんな一様な人間ばかりのディストピアであれば、学校はますます社会から隔絶された特殊な空間の色を強める。「ダメ人間」的なロールモデルも身近にいないことには、マジョリティの価値観についていけないタイプの生徒が救われない。個人的な感情に基づく理想の一般化を掲げ、そういった「自分とは異なる価値観を持つ者」への想像力に欠けていることこそが、そもそも教員志望者が叩かれやすい理由ではなかったか。

 

言説の正しさを判断する基準として、そこで使われている言葉の美しさに頼る人間を僕はポエマーと呼んでいる。教員志望者であるなしに拘わらず、そういった人間と議論する価値は無い。以前、相対主義に打ちひしがれながらも、それを超克すべく確かに信じられる価値を模索する姿勢こそ、意見を戦わせるに足る相手の条件であると言ったことがあった。教員志望者との議論において、この姿勢を感じられないことが多かったが故に、僕は「つまらなさ」を感じていたのだと思う。

これは僕の個人的な理想に過ぎないが、僕はそういう教師に教わりたかったと思う。もちろん、そんな教師ばかりであれば僕以外の生徒は疲弊してしまうのだろうけれど。

大学とは何か (岩波新書)
吉見 俊哉
岩波書店
2011-07-21