平井美帆 MIHO HIRAI BLOG

思ったこと、感じたこと、ぼやいてます。

Pier
San Clemente Beach, CA
U.S.A.















すごいわ…河合弁護士。
高裁での伊方原発運転の差し止め、勝訴。

河合弁護士といえば、残留日本人孤児に「就籍」の手続きをとり(第一号は池田澄江さん)、多くの身元未判明児たちに永住帰国への道を切り開いてきた人でもある。

はっきりいって、オペラもうまい。(帰国者の集まりで歌っているのを何度か拝見)

取材のために事務所でお話をうかがったときは、「かなり厳しそうな弁護士さんだなあ」という印象だった。秘書さんへの指示のてきぱき度がはんぱなかった。

明確なライフワークがあって、そこを動かしていける人というのはすごい。敬服する。(原発の裁判では負けまくっても、決してあきらめずに(国の方針)とガチで闘っていく。)

御徒町の中国残留孤児の家をいまも支援している河合弁護士なのだが……。なぜ、孤児の家を作ろうと思ったかという話も興味深かった。宣伝になっちゃうけど、拙書で紹介。そのアイディアの発想や切り口がですね…現実的に動かしていけるのもそうなのだが、キレている。

河合弁護士は幼少の頃に満州から引き揚げてきて、途中で弟をなくしている(開拓団ではない)。満州引揚体験者は人並み外れたバイタリティーのある人が多い…というのが私の印象。たとえ、当時の記憶が鮮明ではない幼少の頃であっても、あとあとまわりから聞いたり、何が起こったのかを考えたりすることによって、別の思考回路が生まれるのだろうか。

***
いったんこの国を離れ、また戻る。
自分の中で何かがもう変わってしまっているのだけど、その正体はよくわからない。自分の中で「戻せない」何かをもっと、世のため人のために生かせるようにならねばと思う。(本当に!でも、とりあえず、生きてくだけでいっぱいいっぱいになってしまう現実もあるのだけど。)
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最高裁判事で初の旧姓使用へ 来月就任の宮崎氏「当然」

名字の変更手続きが煩わしいとか、よくそういうレベルで議論されるが、根本的な問題点ではない。ほんとは選択的夫婦別姓反対派も賛成派もわかっているはず。核心は決して、手続きなどの話ではない。イエ制度(頂点は天皇家)の問題。男性側の「名」を引き継がせたいか否かの問題。

名字変えたくない。
自分の子に自分の名字を名乗ってほしい。

日本の男なら、結婚&子どもを持ちさえすれば、ほぼ当たり前のように叶うこと。疑問すら持たない。結婚して家庭を持つとはそういうことだろう、と日本の男はとらえている。だが、一方の性別には許されない。→そうなると、心理的に女性側の「結婚」のハードルがどれだけあがるかもわかってない。その人の「名」を墓場まで名乗りたいか?までに、相手選びの基準が跳ね上がる。名乗りたくなかろうが、そこは目をつむらねばならないのが日本社会。…たかが「名字」というならば、まずは選択制を認めてから言うべきだ。

名字は個人のアイデンティティー。

男がそうしてほしいと思うことは、本当は女だって、そうしてほしいこと。性別に関係ない。本当はとしたのは、そこを「いいよ」と言わないと、まず結婚等の道は閉ざされるに等しい(日本の結婚の現実)。こんな社会システムの下に生まれてしまったことが悲しい。
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今朝、このアニメと、題材となった女性のVTRを見て、うるっときてしまった。

その一方で、もやもやっときてしまった。

またもや、閉ざされた少女を、開かれた外界に誘導させる存在がいて、それがお決まりの「男」だからだ。このアニメでは健常者の少年。ーーここはアニメ化するにあたってのフィクションの部分。

…またこんなことを書くと、小さいことにこだわるとか、なんだとか言われるのかな。

でも、お決まりすぎて、またかと思う。
こういう男のファンタジーをストーリーに入れる必要あるのかな。つまり、無意識のうちに男が女のヒーローやメンターになっている。巧妙な主人公のすり替え。

メンターや誘導者の存在は、同じ障がい者のおばちゃんでも、隣のおばあちゃんでもいいだろ。

現実では同性同士であったり、年上の女性であったり、あるいは男によって悔しい思いをした反逆精神であったりと、「前進」「自律」「自由」への扉を開くきっかけは、じつに多様である。男がいないからこそ、女ひとりで挑むことができるパターンのほうが多いのでは。

なのに――、伝統的な米アニメでもよくあるが、お決まりの構成のパターンとして、
男によるエンパワーメントが出てくる。その度にまたかと思う。

***
いままで経験してきたなかで、こういうことがあった。

私がいちから企画を練って、がんがって売り込んで、実現したことがあった。担当は男性のA編集者(会社員)。(鈍いAさんに企画のポイントを説得するのが大変だった。)

記事がでたあと、別の会社のB編集者(年輩男性)と話した。

あれを書いたのは私というと、Bさんは「担当編集者は誰?」と訊く。
Aさんだったと言うと…
「さすがAさん。Aさんの企画だ」
と言うではないか。

は?となる。タイトルまでつけたの私なんですけど…?と。
Bさんは最初から、Aさん(男性)の手柄として捉え、その大前提でしか話さない。

いえ、あれを考えて、Aさんに売り込んで、そのまま出してもらったのは私(年下女性)なんですよと説明しても、なぜか、なぜか、ここのポイントはBさんの頭には入らない。そのこと自体、頭にはどうしても、入っていかないようなのである。

その後日談。

Aさんにこの話をすると、おもしろそうに笑うのである。ハハハ、と。

……これって、おもしろい話なのかなあ? 

紙の男マスコミのなかではこんな流れが珍しくなかった。

女性だけで成立したり、創ったりすることができるという現実を、頭のかたい男性たちは認めたくないのだろうか。

…なんだか下のエントリーと重なってきてしまうが、男性の手柄の影に「女」の存在があるとは誰もあまり思わない。(あったとしても、異性としての存在だったり、裏方か家内人しか想定しない。)その逆、女性の手柄の影に「男」という流れは、いとも簡単に受け入れるのに。

手柄ではなくて、転換点、成長、としてもいい。

世の刷り込みには、根の深いものがある。
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このあいだのことだ。

あるおばあちゃんと話していたとき――(Aさんとする)
Aさん「この前、『ご協力、ありがとうございました。おかげさまで最優秀賞とれました』って、山口放送が時計を送ってきたよ」
私「へえ」
Aさん「佐々木さんからは一回、お礼の手紙がきたかな」
私「……」
気を取りなおして、ほかの話題へ。

Aさんは戦前、黒川開拓団の一員として、旧満州(中国東北部)に渡った女性である。(高齢のAさんは色々と体の具合が悪いので、元気にしているか心配なので、ときおり連絡している。取材はさておき、互いの考え方も合うので、会話が進む。)

彼女が「性接待」の被害者であったことは、誰かに教えてもらったのではなく、取材の勘(インスピレーション)などから。自慢などではなくて、取材の発端ってものすごく地味だし、孤独な部分だ。得られた情報に基づいた最初のコンタクト(接触)は、賭けでもある。

そもそも、私が黒川開拓団における悲劇を知ったのは、拙書『中国残留孤児 70年の孤独』(集英社インターナショナル、2015年)を読んだある人との交流がきっかけである。さらにさかのぼれば、私が中国残留孤児について書くきっかけになったのは……と、個々の出会いや執筆のきっかけは遡及的に長い線としてつながる。成果は<見えない価値>の蓄積によるものであるし、また、「私が私であるゆえん」、なぜそのことにこだわるのか、なぜそこに立ち止まったのかともつながる。

秘められた歴史的事実にどのようにたどり着き、どのように紐解き、どのような媒体でどう表現するかは、もっとも個々の書き手(表現者)の個性やオリジナリティが発揮されるところでもある。

黒川開拓団のルポについては2016年9月に女性自身に書いたが、そのあとの後追い取材云々については以前ブログで愚痴らせてもらった。(ー> どうよ山口放送

***
山口放送の「佐々木さん」は、今年3月くらいから、短期的に、開拓団の「性接待」被害者たちを撮影取材してまわった人だ。Aさんだけでなく、今年3月に「山口放送から連絡があったんだけど」と元開拓団の人たちからも聞いている。撮影や連絡等の順序は、私のルポ→山口放送→NHK。実際に撮影された人たちから聞いているし、別の当事者(Bさん)のハガキからも時系列は明らか。

「Aさんのハガキには、戸惑いが書かれていた。あれから(女性自身)を見て山口放送が来る 岐阜放送局が取材に来て、慣れない私は閉口しました、とある。」(注・このエントリーでのAさんは、今回はBさんとしている。)

Aさんにしろ、Bさんにしろ、もともと先行取材者による下準備とルートがあって、同じ当事者らからテレビ側は上塗りのように取材をして、自分たちのオリジナル作品にしていった(それぞれ一回の撮影日)。

その山口放送の成果が「記憶の澱」。
その作品が最優秀賞を取ったそうだ。
(平成29 年5 月27 日(土) 13:00~14:30 放送済(←賞のコンペの締切期間(~5月末)にぎりぎり間に合わせている。)

NNNドキュメントにて12/3に放送予定。登場するおばあちゃん、私の取材時(2016年)と同じ服着ているのがわかる(現代のフロントページから

山口放送「記憶の澱」などに最優秀賞 民放連賞 - 産経ニュース

授賞式での「佐々木さん」

私は山口放送の「佐々木さん」という人と、会ったこともないし、やりとりしたこともない。すでに世に出た記事だから、その文章を書いたライターに連絡しなければいけない義務もない。法的には問題ないだろうし、私から何か求める気もない。

ただ、道義的なところでは「どうなのかな」とは思う。

NHKは視聴率がよかったのか、何度も再放送していた。また山口放送の佐々木ディレクターにしても、Aさんが性接待の被害者であることやすでに私の取材を受けて交流していたことなどは、佐々木ドキュメンタリー作品の完成におおいに役立ったんじゃないかな。

ちなみにおばあちゃんいわく、撮影した人たちとはとくに継続的なつきあいはないという。これで再放送の繰り返し、最優秀賞――お気軽な「お仕事」の発掘と撮影ではないか。

ドキュメンタリーを謳うならば、スタート地点も併せて、つまり「なぜその女性ライターがその問題にぶち当たったのか」という視点も作品に盛り込めばいいのに、と個人的には思う。なぜなら、黒川のことは、女性の権利や性暴力に対する感度が問われる問題だからだ。

女性個人としての「道のり」を、競争の論理のなかで、組織に属する人たちや男性が吸い上げていく――と、私が感じたとして、知りうる事実に基づいて表現したとしても、これもまた「あり」だ。
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ひとりの女性が暴力によって命を奪われたこの事件(傷害致死)。

不倫に激高、妻を死亡させた夫に判決 11/13(月) 19:22配信

頭を殴られているし、結果は死亡。
夫に殺意はないにしても、「執行猶予」とは驚きなんだけど……。

男女の力の差は歴然としているし、いっかい押しただけというわけでもなさそうだ。初めての暴力だったかもわからない。裁判の中身はくわしく知らないが、35歳でこの世を去った女性にも言い分はあっただろう。

夫婦といえども、男女間のこと。
(これが法律婚でないカップルだったら、どういう判決になっていただろう?)

まるで姦通罪の世が復活したみたいで、こわいね。
いや、私的制裁(暴力→死)で執行猶予ならば、刑罰があった時代のほうがましではないか。
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あー気持ち悪い。
さすが、ジェンダーギャップ指数114位という、先進国として恥ずかしい数字の国だなと思う。

なにがといえば……今回の座間事件の報道。
この事件に限らず、若い女性を狙った残虐な殺人事件が起こったとき、必ず、いろんな分野の「専門家」の男があれこれと意見や見解を述べる。…ふむ、それなりに「まあそうなんでしょう」と思ったり、思わなかったり。子どもを性的暴行の目的で狙ったならば、児童性愛者といった言葉が出てくるのもお決まり。

大概のことはお決まり(=無難な分析)。お決まりなのだが、男性加害者が女性ばかりを狙った点についての分析は極めてまれ。あったとしても、メジャーなマスコミの記事にはあがってこない。まるで、そこは「当たり前」であるかのように、延々と他の論点を指摘しまくるおじさん専門家たち……。ジェンダー視点がまるで存在せず、「性差別問題が『ないこと』に扱われること」こそが、114位の社会の特徴と感じる。なんで、加害者の女性に対する認知の歪み、(女性ばかりを狙った)ミソジニー犯罪の特徴、男性側の精神性について言わないのかなって、毎回不思議になる。

いろいろ加害者を分析していても、「わかった。それらで合っているとしよう。では、なぜ、狙われた層に男性が混じってないの? そこ(「女性」だからの理由で殺害)、説明できてないでしょう」としか思わない。座間の事件では男性被害者がひとりいるが、行方不明の彼女を探しているなかで、犯行発覚を恐れた犯人から殺された可能性が高く、最初から「狙われた」わけではない。

その視点(女性に対する認知等の問題)をすっとばして、何が語れるのかな。
男性に対しても、ある意味、性差別的な現象なんだけども、そういう議論が出てこないこと自体に「見えない性差別の蔓延する日本ならでは」と思う。

***
冒頭の114位についてだが、(某イエを頂点とした家父長制に基づく)根深い男中心社会の存在、そして、日本ではそれがどういうことかを意識せずにいられることこそが、この数字の表すところである。日本は国際社会のなかでは建前上、欧米風のわかりやすい「男女平等」を掲げている。ところが、社会の内側では、報道のカラーに幅がない、事件分析の幅がない、ミソジニー(女性嫌悪)等や家父長制の論点は外していることに気づかない。まるでそこが存在しないかのように、男性発言者が年下の女性アシスタントの前で、自分の意見を述べる。これが日本のテレビの特徴。記事においても、「犯人の男性はなぜ女性を殺したかったのか」の点についてはろくに触れない。

なんだか、そういうことが全体的に気持ち悪い。
女性観の固定化というか、あらゆる面において女性の選択肢が少ないことに(つまり自由度)、閉塞感がある。
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鄭永善のこと……

今日刑務所からハガキが届いたが、それほど驚きはしなかった。彼女を実際に知る人も、彼女「が」実際に知る人も、この世にはもうほとんどいないのだから。

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最近、たまに、ぼんやりと考えていた。

もし、私が弁護士の資格を得ることができたら、永善に対しても何かできるかもしれない。少なくとも、その可能性は広がる。もっとも、まだ自信のないことなんだけど。

彼女だけでなく、社会の奥深く、見えない袋小路でかろうじて息をしている人たちともっと向き合えるし、現実的な力にもなれるかもしれない。

来年の2月で事件発生から12年。
永善を精神鑑定した岡江医師も亡くなってしまい、時の流れを感じる……

「もし、生きていれば今ごろ」と考えれば、ご遺族の苦しみにも胸が痛む。

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「ノート君、私は君を擬人化して書いていくつもりだ」

死刑囚、永山則夫はこう書いた。(『無知の涙』河出文庫)

この一言に、死を待つだけの独房生活の全てが凝縮されている。

今、永善は何を見ているのだろう。


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