いずれまた、腰を落ちつけて書こうと思うんだけども…。

取材をしていて実感するのだが、差別問題って、意識的にシングルイシュー化してしまってはならないんだよね。反差別自体、成立しなくなる。

たとえば、障がいを持つ人のことを、健常者は「障がい者」としてひとくくりにして捉えがちだけど、男性と女性の障がい者が直面する差別や偏見はまた違うもの。それこそ、「月経介助」「子宮摘出」の問題などは、女性障がい者にしかないわけである。「性差」を飛ばしていては、そこにあらたな差別を生む。そして、その複合差別を見過ごす。

民族差別のなかにあってもまた、精神や身体に障がいを持つ人、性差は存在するわけで、そこを度外視していると、実は一番弱い層を差別する結果になりかねない。差別されたからといって、差別していい理由にはならない。マジョリティー、マイノリティーは「数」だけの問題ではないんだよ。

最低限、そこをわかった上で、「民族差別」という大義名分を掲げるのであればいいと思う。だけど、積極的に差別問題をシングルイシュー化しようとする考え方には、大きな違和感を覚える。

そして、残念ながら・・・

民族差別には大きな声をあげる男性ライターや編集者であっても…、なぜか、「女性差別」には強引に目をつむろうとする。いや、むしろ、ふだんの無意識な言動は、女性差別的であったりする。

拙書『獄に消えた狂気』(2006年2月発生の滋賀・長浜2園児刺殺事件)を、なんとか世に出そうとしていた頃、相当こうしたことを感じた。当時は、いろいろと必死で私もよくわかっていなかったこともある。だけど、今にして思えば、思い当たることが何度もあった。結果的に世に出せたのは事実だけど、出版に至るまでに私が感じたさまざまな違和感は、あの事件になぜ私があそこまで「こだわったか」という根底ともつながってくるはずだ。

いま、あの事件を書いて世に出そうとしていれば、もう少し、そこを意識して動けたかもしれない。(事件については女性差別を意識はしていたが、私の書いたものを扱う人たちにまで意識が十分まわってなかった。むろん、「理解がないなあ」とはずっと感じていたけれども……。)

いわゆる中国人妻だった鄭永善の場合、「民族」「女性」「精神障がい」、さらに専業主婦という経済的な要素から、非常に弱い立場に置かれていた。そうした事件の背景は、事件直後も、公判中も、そして和歌山刑務所に服役中の今も続いている。…もっとも、彼女の犯した重罪(幼児2名を刺殺)に対しては何一つ、「正当化」できることなどない。だが、事件前、彼女の置かれた状況に意識的に関われる家族がいたならば、そういう環境があったならば、事件を防ぐことができたのでは…と思えてならないのだ。それほどまでに永善は赤信号を発していたのだから。

…差別の問題については、私はシングルイシュー化はできないし、してはいけないと考えている。ここは自分のなかではゆずれない点。世に出にくい部分こそ、世に出していきたい。また、なぜ彼女のような事件が冷静に報道されないのか、書籍が世に出にくいのかという部分についてもおいおい書いていきたい。(…ノンフィクション業界もまた、核の部分は男性中心であることを思えば、すぐわかると思うんだけれど。)