アメリカで企業の弁護士をしている大学時代の知人男性がいるのだが、南カリフォルニア大学(USC)時代から「選ばれし者」って感じだった。日本でも開成あたりの高校で、USCでも抜群に成績がよかったし(適当に遊んでもいるのに)、その後はNYUのロースクールに。超ぼんぼんなのだが気取らず、性格もまっすぐで、顔もよく、背も高く、意地悪なところを見たことがなかった…。

女友だちなんかは「プリンス」などと揶揄していたが、私にはあのまっすぐさはまぶしすぎたな(笑)。そのまま親の希望する人と結婚して、子ども2人。今は豪邸。

あまり社会に疑問を持たない、持つ必要のない人というのは、やはり、経済面でも環境面でも恵まれてきたのかなと思う。もちろん、家族や周りの人達にも恵まれて、メンタル面でも。

だから、社会にあまり深くは疑問を持たない。それほどの絶望も不満もない。また、自分と別の層の人達と交流する機会も少ない。それが「悪い」とまでは言わない。むしろ、個人的に接するのあれば、安定感のあるぼんぼん、お嬢は大好きである。人を疑うことをしないし、蔑むこともないし、頭いいし…。弱者が近くにいれば優しいし、助けようともするし、人間的にすばらしい人もいる。

だが、人間の「負」の部分についても語るならば、歪みも必要なのではないかと思えてくる…。「歪み」というとうまく表現できてないかもしれないが、「負」の側に置かれた経験、もしくは自ら置いた経験である。

なぜかというと、いま日本で「若手論客」と言われる人たちの発言を聞いていると、あのときのまぶしさが、まっすぐさが、今度は逆に刃物みたいに胸に刺さってくるのだ。

たとえば、彼らは棄民され、戦争で捨てられ、中国では「日本人」として戦争の非を責められ、日本では「中国人」としていじめられてきた中国残留孤児たちの気持ちに少しでも寄り添おうとしたことはあるのだろうか。そういう中国からの帰国者、その家族の現状を知ろうとしたことはあるのだろうか。戦争を語るのであれば。

中国残留孤児だけではない。

いまも続いている「戦争の残した傷」を、知る努力はしているのだろうか。