ぼやきブログの場合、前もって書こうとするとハードルがあがる。以前のように「記事を書く」をクリックしたら即、そのとき心にあることを吐き出しながら、書いていくスタイルにできるだけ戻したい。構成も校正もなにも計画していないので、「荒い」のだが、そっちのほうが自分に忠実な、正直な内容になる。

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前々から書こうとしていることがなかなか書けない。何年も書けないから重症だ。私のPCのデスクトップには、そのことをタイトルにつけたフォルダーだけが宿題のように残っている。

なんでかな?って思うと、理由は簡単。自分にかんすることだからだ。
たとえ、「自分の気持ちと連動している」といっても、誰かを取材して書くというのは客観的な作業。書くまで時間がかかることはあるけど、やがて書けるまで消化できて、書く対象との「距離」を見いだせる。

しかし、このことはいつまでも「過去」にならないし、いまもオンゴーイングのことだ。終わるまでなんて待っていたら、たぶん書けずに自分が墓場にいってしまう。だから、書かねば。書くふりをしても、ちまちまPCのキーボードを打たねばと思う。物書きの端くれとして、「誰かに伝えねば」をもっとモチベーションにしないといけない。

いま、me tooが大きなムーヴメントになっているが、「言える」まで持っていけた人はほんとうにすごい。犯罪となるような性被害でなくても、嫌な記憶を持っている人は多いだろう。20代の痴漢被害などは忘れたくても、全部覚えているし、相手らの目つきはこの瞬間にもよみがえる。たぶん書き出したら、永遠にとまらないのではないか。

痴漢ではなくても、いまだって、年配男性の(当たり前のような)女性軽視に遭遇してしまうことがあり、まったくもって終わっていない問題。…というか、それが日本社会で暮らして生きていくということ。沈殿した性差別の記憶とともに生きていると、さらに多角的に多方面から上塗りされていく。

もちろん、アメリカだって、性差別的な男性はいるし、性暴力は多発している。
ただ、日本の場合、マイルドな性差別があまりに日常で、それを「当たり前のこと」「見慣れた風景」のように周りも受け取ってしまう。そこが大きな違い。

パワハラしている人の特徴はそれがパワハラと思っていないことと同じ。

日本社会で60歳くらいから上の男性にとくに顕著なのだが、「この人、女性を自分と同じ立ち位置から、同じ人間として、『公平』に扱ったら死んでしまうのかな?」って感じるくらい、当たり前のように下げて見る人がいる。扱い方に男女で不当に差が出る。本人はそれが性差別とは思ってない。

その手の男性が年下女性と、気軽に対等に「話す」ときというのは、たいてい、セクハラがかった冗談のときだけ。本人は楽しそうだが、相手がどう思っているかはいっさい頭にない。

相撲の土俵のことも話題になっているが、土俵に上がれるか否かより、そのときの周りの男性陣の対応がひどい。あと、帳本氏というコメンテイターの女性軽視がネットニュースになっていたが、あの手の発言をするあの世代の日本人男性というのは本当に多い。

だから、ひとつのことに対して、芋づる式に、古いものから新しいものまで、嫌な記憶がよみがえってくる。

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親戚の甥や姪とみていると、無邪気でかわいい。

だけど、ふと思い起こして、ふと暗い気持ちになる。
私はその年齢から、親戚の集まりが嫌だった。

当時は何かひっかかっても、「何がどうして嫌なのか」をはっきりと自覚できていなかった。もちろん、言葉で説明するなんて到底できなかった。親世代の男性らや祖母がいかに、男女に対する言動が違ったか(母方ではなく父方)。男女の役割分担を当然のこととして、子どもに押しつけていたか。兄のほうが格上げされたうえで、扱われていたか。(センシティブなところだが、子ども心にそういうことはくっきりと刻まれるのだ。)男性側はそれで傷つかないので、「何事もなかった」場面。そういう場面を積み重ねて、彼らは日本社会で大人になっていく。

だから、きょうだいでもジェンダー観はまったく違う。

姪を見ていると、私はこの年齢からああいう「空間」を経験させられ、性別によって異なる期待や言動を受けた。いや、何も、社会的な存在としては期待されていなかった。いないように扱われた。…その手の思いがよみがえる。

もっともいまは正月に親戚一同が集まることも少ないし、昭和の頃よりましだろうから、私の姪が「女性」というだけで「男性」の兄より格下げされた扱いをうけることはないだろう。当時、個別に接すれば、「いいおじちゃん」なのに、親戚が集まると男間のヒエラルキー・共有意識を優先して、まったく私をないものとして扱う感じがすごく嫌だったな。(もともと、性差別的な親類はさておき)

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「吐き出し」が長くなってしまったが、私が書けないことというのは自分の相続についてだ。ちっちゃかった私が大人になって、性差別的であった親族とこの本質的な問題において、対峙することになろうとは夢にも思わなかったけど。性差別的であるからこそ、まさに「相続」のところで、私はいなかった存在に扱われたし、法律守ってと声をあげたら悪者扱い。そこでも見事に男同士の連携は再現されていた(ホモソーシャルな世界ってやつ)。…個人的な話であれ、女の相続はより普遍的な大きなテーマにつながっていくと思う。どれだけの労力と時間、人間関係を犠牲にしても、譲れなかったのは、私のアイデンティティーにかかわるから。

一方、いつも、「なんとーく」味方をしてくれるのは、女性たち。自分は表に出れなくても、孤立奮闘ぶりにどこかシンパシーを感じてくれる。相続については当時、母しか、味方いなくて…。そのときが一番苦しかった。声をあげたら、卑劣な報復が待っていた。正義や真実、平等よりも、男間の価値観(その男性自身の家父長信条につながる)を優先した親族のすがたは忘れられないね。

相撲の土俵の問題でも、そのときは何より、伝統とかしきたりというその男性らの「社会通念」が優先したわけでしょう。性差別の根深さ、怖さっていうのは、人権や権利を差し置いてでも、家父長ルールが優勢する点。もう、これは日本人女性の歴史そのものなわけ。

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男マスコミでは形にするのは難しいテーマだと思う。それもまた壁。でも、いつものように闘って、必ず、形にはする。

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