私が予備試験の受験勉強していたり、自分の相続争いを考えたり(叔父が勝手に亡き祖父の動産を持ちだし)するときに、辛くなるのは慣習法が日本では認められている点だ(民92)。もちろん、公序良俗(民90)に反すれば、無効となるが、闘わなくてはならないのは、その「慣習」によって苦しめられた側だ。
そして、日本の慣習というのは、きわめて女性差別的である。徹底的に女性を除外してきた。「人」に含めていない。古来、日本の慣習というものを形作ってきた思想が、男尊女卑なのである。市町村では往々にして、男の衆が物事を決めてきた。家族、親族では、「長」つまり、父だろう。日本の慣習は家父長制に基いて、脈々と続いてきたのだ。
日本には、そういう慣習にしたがって作られたルールなどが多々ある。希望的観測で「減ってきた」と思いたいところだが、近年の医学部入試での女性差別をみれば、決して過去形ではない。女性差別の思想や意識を変えるのは容易ではないのだ。とりわけ、得する側(既得権益側)は、無頓着だし、平然と差別する。いたるところで慣習は渦巻いている。
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法律の入門書を読んだときに、民主主義にはマイナス点もあることが書いてあった。そのとおりと思い、頭に残った。民主主義は多数決の原理だからだ。そして、社会で割を食っているのは「少数派」なのに、つねに多数派の原理を持ちだされると、少数派に対する不当な扱いは是正されない。このようにいうと、男女数はだいたい半々だから、多数派原理でも問題ないではないかと考える人もいるかもしれない。しかし、決め事はつねに「全員」で決められるわけではない。議決権、決定権を持つのは男が大半。この光景が日本社会では珍しくない。どの分野においてもだ。
すると、いとも簡単に、息を吸うがごとく、多数派の男性にとって心地よいルールが作られ、維持されていく。上辺だけは「民主主義的」である。
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女性差別のルールが公序良俗に反するとして、無効となった有名な判例に、女子若年定年制の就業規則規定(昭和56年3月24日)がある。男性の定年を60歳、女性の定年を55歳とした就業規則規定に対してである。また、入会部落の慣習に基づく入会集団の会則(平成18年3月17日)などもある。結婚した女性は、《離婚して、旧姓に復しない限り入会権者の資格を認めない》とする部分に対してである。どちらのルールもあまりに前時代的で「江戸時代の話なんだろうか?」と一瞬思うが、どちらも最近、少なくとも私がすでに生まれてからの判例だ。
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いま媒体が思い出せないのだが(見つかったらこの部分は修正か加筆)、ある弁護士が法律とジェンダー論はぶつかるといった文章を寄稿していた。ジェンダー法学に対して、どことなく批判的に書いていた。この弁護士には男女平等、男女同権についてはどう考えているか、訊ねてみたいものだ。…といっても、法律家を名乗る弁護士界ほど、男性中心的価値観がまかり通っているという矛盾があって、この手の考え方の弁護士は珍しくないだろう。
私からすれば、女性差別は公序良俗というよりも、憲法に反する。無効にはなったが、判決文もなまやさしい。なぜ、もっと糾弾しないのだろうか。
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上に書いたような民主主義のマイナス点を補うために、Affirmative Action(積極的差別解消措置)がある。ところが、この措置が日本社会では女性に対しては取られてこなかった。入試だけでなく、幹部候補や政治家枠などでも取られていない。それなのに、司法試験では、AAが取られていて、男性差別にあたるのではないかという問題がでた。こういう問題を安心して入試に出せるところからして、男性優位の考え方がまかりとおっている。→「現実はどうよ」
そして、日本の慣習というのは、きわめて女性差別的である。徹底的に女性を除外してきた。「人」に含めていない。古来、日本の慣習というものを形作ってきた思想が、男尊女卑なのである。市町村では往々にして、男の衆が物事を決めてきた。家族、親族では、「長」つまり、父だろう。日本の慣習は家父長制に基いて、脈々と続いてきたのだ。
日本には、そういう慣習にしたがって作られたルールなどが多々ある。希望的観測で「減ってきた」と思いたいところだが、近年の医学部入試での女性差別をみれば、決して過去形ではない。女性差別の思想や意識を変えるのは容易ではないのだ。とりわけ、得する側(既得権益側)は、無頓着だし、平然と差別する。いたるところで慣習は渦巻いている。
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法律の入門書を読んだときに、民主主義にはマイナス点もあることが書いてあった。そのとおりと思い、頭に残った。民主主義は多数決の原理だからだ。そして、社会で割を食っているのは「少数派」なのに、つねに多数派の原理を持ちだされると、少数派に対する不当な扱いは是正されない。このようにいうと、男女数はだいたい半々だから、多数派原理でも問題ないではないかと考える人もいるかもしれない。しかし、決め事はつねに「全員」で決められるわけではない。議決権、決定権を持つのは男が大半。この光景が日本社会では珍しくない。どの分野においてもだ。
すると、いとも簡単に、息を吸うがごとく、多数派の男性にとって心地よいルールが作られ、維持されていく。上辺だけは「民主主義的」である。
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女性差別のルールが公序良俗に反するとして、無効となった有名な判例に、女子若年定年制の就業規則規定(昭和56年3月24日)がある。男性の定年を60歳、女性の定年を55歳とした就業規則規定に対してである。また、入会部落の慣習に基づく入会集団の会則(平成18年3月17日)などもある。結婚した女性は、《離婚して、旧姓に復しない限り入会権者の資格を認めない》とする部分に対してである。どちらのルールもあまりに前時代的で「江戸時代の話なんだろうか?」と一瞬思うが、どちらも最近、少なくとも私がすでに生まれてからの判例だ。
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いま媒体が思い出せないのだが(見つかったらこの部分は修正か加筆)、ある弁護士が法律とジェンダー論はぶつかるといった文章を寄稿していた。ジェンダー法学に対して、どことなく批判的に書いていた。この弁護士には男女平等、男女同権についてはどう考えているか、訊ねてみたいものだ。…といっても、法律家を名乗る弁護士界ほど、男性中心的価値観がまかり通っているという矛盾があって、この手の考え方の弁護士は珍しくないだろう。
私からすれば、女性差別は公序良俗というよりも、憲法に反する。無効にはなったが、判決文もなまやさしい。なぜ、もっと糾弾しないのだろうか。
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上に書いたような民主主義のマイナス点を補うために、Affirmative Action(積極的差別解消措置)がある。ところが、この措置が日本社会では女性に対しては取られてこなかった。入試だけでなく、幹部候補や政治家枠などでも取られていない。それなのに、司法試験では、AAが取られていて、男性差別にあたるのではないかという問題がでた。こういう問題を安心して入試に出せるところからして、男性優位の考え方がまかりとおっている。→「現実はどうよ」