《とってもエキサイティングな記事》

 2015年6月23日、はてな……はてななんとか……というところにこんな記事が投稿された。

アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。


 タイトルを見ての通り、これは劇場版「ラブライブ!」の批判である。批評というか批判だ。もうそういうレベルなのである。簡単に内容をかいつまんで話すと「劇場版ラブライブはストーリーもクソ。キャラもクソ。ラブライブの売りはキャラの良さなのに、そのキャラがウエハース並みに薄くなった。ウンコ」ということである。50%は合ってると思うので自信を持ちたい。
 

《反論はいかがですか》

 このようにボロッカスに言っているので一部のラブライバー(激寒)が「ムギエエエエエ! ビョオオオオ!」と怒りに震えて体内から触手を出し、酸を放出している。ラブライバーたるもの必ずできることである。また激寒とか言いたが私も歌ってみた(激寒)替え歌(激寒)なことをやっているので人のことを言えない。
 ただ、その反論というのも甘いのではなかろうか。正直、全部は見てないのだが、まあそこは、こう、許してほしい。
 例えば「それはあなたの意見ですよね」と某ひろゆき氏の画像を貼り付けたり「お前が思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言っているエリーチカのクソコラで反論しようとする人がいる。だがそれはあまりにもそのまんますぎる。この批判記事にはこう書かれている。


要するに今の『ラブライブ!』を賞賛する人々と僕とでは、アイドル観が根本的に違っているのである。


 つまりこの筆者のおりあそさんはここで「アイドル観」の違い、つまり自分のアイドル観から見ればこういう感想だよ、と言っているともとれるのである。多分。つまり「所詮お前の感想だろ」というのは「この猫は猫ですね」と言っているようなもので、批判にすらなってないのである。
 もう一つの批判は「現実とアニメの区別ができていない」とかいう批判である。これは単純にAKBが出てきたからであろう。だが当たり前にも短絡的すぎると私は思う。というのも本文中にはこうあるからだ。


それに対して僕は、μ'sのメンバーがたとえ二次元キャラクターであっても彼女らを人間として感じたいと思っているし、彼女らの人生に共感し、それを自分が生きるための糧にしたいと思っている。


 つまり筆者はきちんとμ'sは架空の人物だとわかっているのだ。それをわかった上で現実のアイドルと同じように「人間性」を求めたいのである。単にAKBが出ただけで騒ぐのはパブロフの犬みたいなもので、あまり賢くかわいいエリーチカ(うろ覚え)ではない。余談だがエリーチカは騎乗、まあいい。

 ここでおりあそさんが批判していることは「キャラ付け」や「ストーリー」があまりもチープになりすぎたことがある。ストーリーがガタガタなのに目を背けても、そのμ'sのメンバーはかよちんは狂ったように米を食べる米キチガイと化して、まるで妖怪になっているとか書いている(そんなことまでは書いていない)。上の2つはそこに関しての反論ではなく、全く逸れた方向へ、しかしそれもガバガバというアレな感じなのだ。
 一応はストーリーやキャラ付けに関する擁護もある。それはかいつまんで言うと「もう客層が多すぎたからこういう陳腐なやつが1番ウケるのでそうしただけだ。μ'sかわいい」というものだ。つまりこれは「ウンコしかウケないのでウンコにした」とかそういうことである。それはダメなのではないだろうか。なにせ自分の好きなコンテンツをウンコと自ら認めて、なおかつそれを大好きと言っているのだ。こんなのはキチガイである。米キチガイよりキチガイだ。いいのだろうか。もっと自分を大切にしてほしい。貞操は大切にしよう。


《果たしてラブライブ!はクソと化したのか?》

 このブログ記事に有効的な反論、それは重箱の隅を突くどころか重箱自体を突くことではなく、ましてや開き直って狂うことではなく、直接的に返してやることである。「ラブライブのキャラ付けとストーリーがクソ」ならば「それはクソじゃねえ! 死ね!」と言えばいいのである。私がその先駆者になろうと考えたのだ。何事も1番先に肥えた土地を見つけて耕すことが肝心なのである。
 とはいえ困ったことがある。それは私はラブライブの劇場版を見ていないということである。さらにラブライブも二期は全部見てないNo brand girlsしかカラオケで歌えない。つまり私はにわか中のにわかなのだ。これは困った。だが私はにわかとして反論したいのだ。だって可能性感じたんだ、そんなクソみたいな冗談はどうでもいい。おりあそさんはおそらくラブライブは古参からのかなりのガチ勢なんだろうと思う。古参ライバーがにわかライバーをdisるならにわかライバーが古参ライバーをdisるのも、またありではなかろうか。とにかく、そういう心構えなのである。
 そこで判断材料は何があるかというと、それはラブライブ二期である。ラブライバーの皆様は大本営発表のような感じの情報源ばかりを受け取っていると身勝手ながら思っているので、あれはもう世界中の人が大絶賛と思っているかもしれないが(思ってない方はすいません。お詫びに郵便受けの中にムカデを置いておきます)あの二期はクソアニメだと思う層はゼロではない。
 ここでアニメレビューサイトを調べてみよう。作品データベースというサイトにおける
「ラブライブ一期」「二期」の評価の差だ。ラブライブ一期(http://sakuhindb.com/janime/7_Love_20Live_21/)によるとアニメ日本評価ランキングでは420位、平均点は1.24である。
 対するラブライブ二期(http://sakuhindb.com/janime/7_Love_20Live_21_202nd_20season/)はアニメ日本評価ランキングは1435位、平均点は0.57である。
 確かに一期のレビューをしていた人は28人、二期のレビューをしていた人は12人と差はあるので単純比較はできない。だが少なくともラブライブ二期はみんながみんな素晴らしいと思っていることはわかるのではないか? 
 ラブライブはアニメ的には「一期➡︎二期➡︎映画」と続く系譜がある。ラブライブの映画にはこの二期が全く関係ないとはいえないだろう。まずは一定数から言われるこの「二期がクソ」というところの根城を崩すことで、誰かがラブライブの映画はクソじゃないと繋げることができるんじゃないかと思ったのである。というより、そうしないと私がこのブログ記事を書いてる意味がなくなるので、そういうことにしてほしい。頼みます。鼻くそほじりながら聞く感じで構いません。
 

《ラブライブ二期~振り返り》
 
 ではまずラブライブ二期を振り返っていこう。といっても私は途中までしか見てないので途中までの擁護しかできない。さっき書いたことがいきなり不完全になるという時点で、この私のブログ記事自体がどれだけクソかというのがわかるが、まあいい。知るかバカ。頑張ります。応援してください。

第1話 もう一度ラブライブ!
 
 音ノ木坂学院はμ'sの活躍により廃校を免れた。そしてμ'sのリーダーである穂乃果は生徒会長になっていた。すると穂乃果ちゃんはいきなり踊り始め、それに合わせるようにμ'sのメンバーや学校の生徒も踊りだしたり色々とする。だがアイドル甲子園であるラブライブがまた始まるというのだ。これを伝えるためμ'sのメンバーは消え去った穂乃果を探しに行く。アルパカに聞いてやっとこさ彼女の居場所がわかり、伝えることができた。

 
↑アルパカに問うかよちん

 廃校を止めるためにやってたため目的は達成されたもの、やりたかったらしいのでμ'sのメンバーはラブライブに出たいという。しかも今度は規模もでかい。またそのためには予選大会でA-RISEというチョーすごいスクールアイドルと戦わねばならないのだ。だがリーダーである穂乃果は「出なくてもいいんじゃね?」と言う。歌って踊れればいいんじゃね? とのこと。だが我らの矢澤にこ先輩は「ラブライブが目的だろ!」とキレる。そこからはプリクラを撮ったり、階段でかけっこをしたりと色々と壮絶な内部抗争が繰り広げられる。だが3年もラストチャンスだし、ということでやっぱり穂乃果はラブライブに出たいという。するとμ'sのメンバーはいきなり歌い始め、ひと段落ついたところで穂乃果はさっきまで降っていた雨を止める。雲間から日光が照りつける中、優勝を目指そうと穂乃果は誓うのだ……。

↑晴れ渡る天空と変革者

 最初の1話は大切なのでわりと細かく書いたが大体こんな話だ。見ればわかるがとてもまともではない。いや廃校を阻止する目的からラブライブの優勝の目的にシフトするというのは別におかしくはないが、細部がまともではないのである。ミュージカルシーンはまだ演出として普通としても、アルパカに道を尋ねるところや、天候を変えたりや、μ'sのメンバーが熱唱したりと、ヤバい。普通ではない。大筋が狂っている話というのは初めから狂っているというのはわかるが、大筋がまともなのに細部まで狂ってきているというのはヤバい。
 ただ、これを単なるヤバい話と捉えるのは、いかがなものか? また単に演出が派手なだけ、と切り捨てるのもいかがなものか? おそらくここには深い意味があるはずだ。そこを探り、ラブライブの壮大な価値を見出していこう。

《高坂穂乃果は神である》
 
 穂乃果、というのはこの作品の主人公である。元気で明るく歌の上手い女の子だ。だが彼女はこの作品内では主人公という位置にある。
 主人公とは何か? それは物語の主軸となる人物である。この人物がどう動くかで大体の作品はストーリーが動く。つまりは世界が動く。そう、高坂穂乃果という存在はこの作品の神なのである。もちろん脚本家なども創造者ではあるが、別に花田十輝先生はこの話に出てこない。あくまでもラブライブの世界では彼女が中心にいることを担保されているわけである。この点が必要に重要なのである。つまりこのラブライブ二期はアニメを……いや認識ということ自体に挑戦する裏テーマがあるのである。
 まずいきなりおかしい点が、最初のミュージカルシーンである。ここを単なる演出と取るのは安直ではなかろうか。現にこのラブライブという架空の世界ではこのようにミュージカルをすることが普通とされている世界なのである。そんなものは現実世界とまるで違う。ということはこのミュージカルシーンはラブライブという世界の異常性を表しているのだ。

↑オールフォーワン

 私はおそらく穂乃果はここでこの世界が自分中心に回っていることに気付いていたと思われる。常識的に考えて欲しい。自分が踊って歌い始めたらみんなも踊って歌い始めるなんてことはまともではない。だがこのラブライブの世界ではそれは正常だ。あの世界の人間から見れば我々の現実世界のように踊って歌い始めない方が異常なのである。
 だが穂乃果はそれに気づいてしまった。彼女は現実世界の正常性をどこかで気づいてしまったのである。リンゴが落ちたら重力というものを閃いたニュートンのように、世界の常識から異常さを見出したのだ。そのため、穂乃果は逃げ始める。そう、この世界から逃げ出そうとしたのだ。だから穂乃果は色んな人に「私がここにいる」という情報を拡散させたのだ。
 だが彼女の抵抗は無意味だ。この作品は「ラブライブ」なのだ。μ'sのメンバーはなんとしてもラブライブで優勝を目指すように動かされる。つまり穂乃果という主人公という最強の存在であっても、その全体の世界からは抜け出せないのだ。このアルパカに聞いて穂乃果を見つけ出すというのは、不条理なまでに彼女を束縛する世界を表したと考えられる。
 だが穂乃果からしてみたら廃校を止めるためにスクールアイドルをしていたのだ。それ故にいつの間にラブライブ優勝が目的となっているμ'sに穂乃果は戸惑いを隠せない。だからこそ彼女は「参加しなくてもいい」と言ったのだ。だが世界は甘くなく、周りはみんなラブライブに参加せよと言ってくる。
 また穂乃果が鏡に映るシーンがあるが、彼女の後ろに鏡があるのに彼女の顔が映っているシーンがある。BDでも修正なしである。と聞く。これを単なる作画ミスととるのは作画の人を舐めすぎである。このことはこのように異常な鏡を映り方を作ることにより、穂乃果がこの世界で異常な存在であることを隠喩しているのである。

↑鏡の中の世界へようこそ

 その後、穂乃果は妹から驚愕の事実を知らされる。なんとラブライブの開催日は来年の3月なのだ。受験シーズン真っ盛りの高校生相手にこんな時期にやらせるとは崩壊しているような運営であるが、ここで穂乃果は重要なことに気づく。それは先輩達が出られるチャンスはこれのみ、という表面的なことではない。背景には「先輩達に思い出を残す」という口実が発生した、ということだ。そう、この世界に自分に与えられた使命だと、穂乃果はわかったのである。同時にそれは自分が操作される人間だと気づいたことでもある。おそらく、この世界で逆らったら自分は消去される。それがわかった穂乃果はラブライブをすると決意した。そしてみんなで歌い始める。しかも屋外の雨の中で。
 こんな異常な光景に穂乃果は自ら取り込む。そう、彼女にとってμ'sは作り出された存在であっても大切であり、そしてこの自分を動かしている世界に反逆する道を探したのである。それはラブライブに参加するということだ。「ラブライブ」の世界であるならその「ラブライブ」に近づくことによって、なんらかの反逆の道を見つけられるのでは? ということである。そして彼女は雨を止ませた。雨は止んだ。彼女はここで確信する。自分はやはりこの世界の「主人公」なんだと……。彼女はその世界を反逆すべく「ラブライブ」の世界を生きるのだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 以上がラブライブ二期1話の考察である。現実とフィクションが区別できてない、と言われるかもしれない。というか言われる。だが果たして我々が認識している「現実」は本当に「現実」なのだろうか? そこの点は後から書きたいし、あともう疲れたので次のブログ記事で書きたい。なお私が一番怖いのは「記事がクソ寒い」と言われることだ。というか言われるはずだ。「三行でまとめろ」とも言われるかもしれないが、そこは「パンチ! パンチ! パンチ!」とかで大丈夫だと思う。読んでくれた方はありがとうございました。このブログは書いてる本人も全く責任感のかけらもないので後が怖いです。