阿智胡地亭の非日乗Ⅲ

日々気になる情報の抜き書帳です。

カテゴリ: ほんの前にあったこと

終戦記念日に思う 

岩垂 弘 (ジャーナリスト)

 きょう8月15日(月)は「終戦記念日」。1945年8月15日に日本が「ポツダム宣言」を受け入れて連合国に無条件降伏し、太平洋戦争が終結しことから、8月15日がそう呼ばれることになったわけだが、終戦当時、私は10歳、国民学校(小学校)4年生だった。それから、77年。私の脳裏には、この間の日本におけるさまざまな出来事が去来し、いずれも忘れ難いが、本日、私の心を満たしている感慨は「この77年間、戦争に行かずにすんだし、そのうえ、日本が戦争を起こしたり、他国の戦争に巻き込まれなくてよかった」という思いだ。

 日本の近代国家としてのスタートは明治維新(1968年)である。それから、今年(2022年)で154年になる。そのちょうど中間点に当たるのが、なんと日本が太平洋戦争で敗北した1945年(昭和20年)だ。したがって、これまでの日本近現代史は、1945年を境に前半の77年と、後半の77年に分けることができる。

 戦争ばかりしていた日本
 ある時、私は「前半の77年」の日本の歴史をたどってみたが、事実を知れば知るほど驚嘆してしまった。なぜなら、この77年間、日本は戦争ばかりしていたからである。
 
 近代国家になった日本の最初の戦争は、1874年(明治7年)の台湾出兵である。1871年(明治4年)、琉球(沖縄の別名)の首里王府に貢ぎ物を納めた宮古の貢納船が宮古に帰島する際、台風に遭って台湾の東海岸に漂着し、乗組員69人のうち水死を免れた66人が山中に迷い込み、54人がパイワン族に首をはねられて死亡した。当時、琉球が日本に帰属するのか清国(中国)に帰属するのかが問題化していた。明治政府は「琉球人民の殺害されしを報復すべきは日本帝国の義務」として、軍隊を台湾に派遣した。

 これに次ぐ戦争は日清戦争である。朝鮮に対する宗主権の維持をはかる清国と、清国を朝鮮から排除して朝鮮を保護下におこうとした日本との武力紛争だった。1894年(明治27年)8月に始まり、9カ月続いた。
 次いで、日露戦争。1904年(明治37年)2月から05年9月まで続いたが、朝鮮及び満州(中国東北部)の支配権をめぐる日本とロシアの戦いであった。
 
 大正時代には、二つの戦争をする。一つは、第1次世界大戦への参戦だ。1914(大正3年)に勃発した同大戦は、植民地再分割をめぐる英独を中心とした帝国主義国同士の戦争で、主戦場はヨーロッパだったが、日本は中国におけるドイツの権益を入手しようとドイツに宣戦を布告し、兵力を山東半島に送り込み、南太平洋の赤道以北のドイツ領を占領する。
 もう一つは、シベリア出兵。1917年(大正6年)、ロシア革命が起き、ソビエト政権が成立する。これを打倒しようと、アメリカ、イギリス、フランスなどの列強がソビエト領内へ侵攻。日本軍も18年(大正7年)8月、シベリアに上陸し、22年(大正11年)10月まで革命勢力と戦った。

 昭和に入ると、戦争、戦争、また戦争である。1931年(昭和6年)に日本が始めた満州事変は1937年(昭和12年)には日中戦争となり、それが、1941年(昭和16年)12月8日からの太平洋戦争につながってゆく。そして、敗戦(1945年8月15日)となる。

 日中戦争から太平洋戦争に至る戦争は「15年戦争」と呼ばれる。「15年戦争」での戦没者は軍人・軍属約230万人、外地で死亡した民間人約30万人、内地の戦災死亡者約50万人、計310万人とされる。戦争相手国の犠牲者は、中国を中心に約2000万人にのぼると言われている。

 要するに、「前半の77年」は、ならしてみると、まるで10余年ごとに戦争に突入しているという印象であった。まさに日本近現代史の前半は、戦争の歴史だったのだ。なぜ、そうなったのか。「日本人は本来、戦争が好きな民族なんだろうか」。そんな思いに襲われたこともあった。

 日本に77年続いてきた平和
 しかるに、後半の77年、つまり太平洋戦争に負けた1945年以降の77年間、日本が自ら戦争を起こすことはなかった。そればかりでない。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争といった戦争があったが、日本がそれに巻き込まれることはなかった。だから、日本人が戦場で他国の人を殺すということはなかった。もっとも、日本が戦争の一方の当事者である米国に軍事基地を提供し、間接的に戦争に加担するということはあったが。
 私個人についていえば、10歳以降、日本が戦争の当事者になることはなかったから、軍隊に徴用されることはなかった。もし、私がもう少し早く生まれていたら、少年兵や特攻隊員として戦地に送られていたはずだか、私は、「遅れて生まれてきた少年」であったために、戦場に行かずにすんだ。
 
 ともあれ、日本近現代史の前半が「戦争ばかりしていた時代」であったことを考えると、後半がずっと平和な時代であったことは、日本の歴史上、特筆に値することではないか、と私は思う。

 77年間の平和は憲法9条があったから
 大乱が続いた世界で、日本はなぜ77年間も平和を保つことが出来たのだろうか。私は日本国憲法第9条があったからではないか、と考える。
 第9条は、「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」をうたっている。これは、日本を占領した連合国最高司令官マッカーサーの発案だったとされているが、当時の日本の帝国議会(いまの国会)はこれを受け入れだ。
 当時の日本国民がこの規定を受け入れたのは、「15年戦争」を経験した日本国民の多くが、「もう戦争はもうこりごり」「戦争はイヤだ」「戦争を再び起こすまい」「平和が一番」といった思いに傾いていたからだと思われる。そうした心底からの思いが、その後も日本国民の間で多数を占め、度重なる改憲の動きを押し返してきた、というのがこの77年間の流れだ、と私はみる。

 加えて、敗戦以来、日本国民の間で営々と続けられてきた反戦平和運動、原水爆禁止運動などが果たしてきた役割も見逃せない。こうした運動が、国民の間に「戦争よりも平和を。そのためには、憲法9条を守らなくては」という意識を定着させてきたのは間違いない。
 終戦記念日に当たり、私は切に思う。「今こそ、日本戦後史における憲法9条の意義を語り合う時ではないか」と。

 原爆の絵を描き続ける元電器会社ドイツ駐在員
西村奈緒美 (朝日新聞記者)  

広島が8月6日に78回目の「原爆の日」を迎える中、「一人ひとりの不条理な死にこだわりたい」との思いで原爆の絵を描き続ける男性(93)がいる。きっかけになったのは、被爆者が描いた3千枚もの絵だった。

 
 その男性は奈良市に住む河勝重美さん。1929年に東京で生まれた。4人のきょうだいの三男。長男は学徒出陣し、戦病死した。両親は生きて帰ってほしいと百度参りを重ねたが、かなわなかった。
 自身は旧制中学を卒業後、上智大学で経済学を学んだ。ドイツの大学で博士号を取得後、松下電器産業(現在のパナソニック)に入社した。松下電器が欧州初の拠点をドイツに設けることになり、ドイツの駐在員を30年ほど勤めた。
 原爆に関心を寄せるようになったのは、17年前のある出来事がきっかけだった。旧制中学の級友だった岡田悌二(ていじ)さんから相談が舞い込んだ。国立広島原爆死没者追悼平和記念館が呼びかけている被爆の体験記に自身の体験談を送るので、独語の翻訳を受け持ってほしいという頼みだった。
 
 岡田さんとは長い付き合いだったが、原爆について詳しい話を聞くのは初めてだった。2005年は原爆投下から60年が経とうとしていた。半世紀以上の月日を経てようやく語ろうとする級友の姿に心を揺さぶられるとともに、原爆がもたらす終わりのない苦しみを知った。
 岡田さんは1945年4月、父親の転勤で広島に転校した。学徒動員のため、爆心地から3㌔ほど離れた工場で働いていた時に被爆。原爆が投下された午前8時15分は工場の外で作業をしていたといい、当時の様子をこう振り返った。
 
 「強烈な青白い光線と熱波、激しい爆発音と爆風とその揺り戻しを全身に感じた」
 自宅は全焼していたが、両親は無事だった。家族で避難すると、体調が悪化した。
 「両親は髪の毛が抜け、皮膚の毛細血管が破れ、全身にシミが出るようになった」
 「当時、原因がわからないままポックリと突然死する『ポックリ病』が言われていて、被爆で突然死するとわかった」
 生と死が隣り合わせの世界。
 「我々は幸い助かったものの、明日をも知れない心細い思いをした」
 岡田さんは原爆を「悪魔の兵器」と呼ぶ一方、こうも訴えた。
 「若い人たちは原爆の残虐性についてよく知らなければいけませんが、アメリカの非難のみに終わらず、世界全体が平和に生きていける体制を作ることが大事です。そのためには、世界の若者が交流して理解を深め、戦争や原爆について話し合えるようにすることが必要です」
 翻訳後、岡田さんの体験記を独語で読んだというドイツ人の知人から思わぬ反応があった。「原爆が広島と長崎に投下されたことは知っていたが、こんなにも残酷なものだとは知らなかった」
 
 原爆の実態を世界にもっと伝える必要があるのではないか。河勝さんは原爆について調べようと、広島平和記念資料館を訪ね、資料を集めることにした。
 資料館には被爆者が描いた絵3千枚が保存されていた。川に折り重なる無数の遺体の絵もあれば、手や足が焼けただれ、目玉が飛び出て垂れ下がる絵もある。寄せられる絵は今も増え続け、5千枚を超える。
 
 資料館に何度も通ううち、河勝さんは被爆者が描いた絵を見てもらうことが、原爆の惨状を訴えることになると考えるようになった。被爆者が描いた絵のデータのうち、2300点分を利用申請し、絵を整理していった。これらの絵をまとめた本を出版できないかとドイツの出版社に打診したところ、とんとん拍子で出版が決定。刊行を引き受けた出版社の社長は本を世に出す意義をこう語った。
 「被爆者が七転八倒して苦しんだ絵や文章を見て、何としてでも出版しなければという思いにとりつかれた。広島で何十万人が死んだというような数字の検証、記録、写真や軍(主に米軍)の報告書は、娘の焼死体の傍らで呆然と立ち尽くす両親の極限の悲しみの絵の前には何の説得力もない」
 
 2年後には日本語版を出版し、その後、英語版も出版。ロシア軍のウクライナ侵攻を受け、ロシア語版のデジタル書籍も予定している。
 本のタイトルは『原爆地獄』。編集には河勝さんと岡田さんに加え、旧制中学の級友だった工業デザイナーの栄久庵憲司(えくあん・けんじ)さんも加わった。栄久庵さんもまた、被爆によって父と妹を亡くしていた。栄久庵さんは本に収録された「私とヒロシマ―父と妹の死」の文章にこんな一文を寄せている。
 「十数万人が一度で命を失い、数十万人が被爆し、いまだその被害に苦しんでいる」
 岡田さんと、栄久庵さんはすでに他界している。
 
 被爆者が描いた絵と向き合ううちに、河勝さんは「広島の痛みを再現したい」と考えるようになった。「言葉よりも視覚に訴えた方が効果的ではないか」。そんな思いも募った。それで、自分も原爆の絵を描いてみようと思い立った。
 河勝さんの絵に登場するのは、無数の市民だ。「市民は歴史の中で埋もれてしまう存在」。河勝さんは原爆の惨劇を目の当たりにするにつれ、そんな思いを強くしていった。
 
 ある日、ドイツ軍の無差別爆撃を受けたスペインの都市、ゲルニカで自分の原爆の絵を展示したいと思いついた。1937年、自治政府が統治していたバスク地方の聖地ゲルニカを史上初の無差別爆撃とされる空爆が襲った。民衆を標的にした空からの無差別殺戮のさきがけとされ、パブロ・ピカソが怒りの絵筆をとって大作『ゲルニカ』を描き上げた。
 広島とゲルニカ市は同じ運命をたどった都市として、広島市長と広島平和記念資料館の館長が2018年にゲルニカ市を訪れ、原爆の焼土から芽を出した木の苗木を贈呈し、友好関係を結んでいた。
 資料館の関係者に相談したところ、シンポジウムで来日するゲルニカ市の実業家を紹介してくれた。原爆の絵をゲルニカ市の市民に見てほしいと伝えると、市の担当者に掛け合ってくれた。
 今年4月、ゲルニカへの空爆85周年の記念事業の一環としてゲルニカ市のカルチャーセンターで河勝さんの絵が展示された。炎に追われる人▽燃える原爆ドーム▽死傷者の顔など6点で、どれも見る者に原爆による苦しみを訴える。
 
 今年は原爆投下から77年を迎えるが、核軍縮を取り巻く環境は厳しい。
 2月に起きたロシアによるウクライナ侵攻では、プーチン大統領が演説で「ロシアは世界最強の核保有国の一つだ。我が国への攻撃は侵略者に悲惨な結果をもたらすのは誰も疑わない」と米欧に警告。戦略核の部隊を特別態勢にし、「核の脅し」を続けている。
 6月には核兵器禁止条約の第1回締約国会議がオーストリアで開かれ、日本からも被爆者や高校生の平和大使が参加したが、日本政府は核保有国が不参加であることを理由に参加しなかった。
 
 河勝さんは「『平和』という抽象的な概念には言葉のむなしさがある」と語る。個々の苦しみや痛みを引き受けようとするからこそ、戦争は絶対に繰り返してはいけないという怒りにも似た感情がわき上がってくるのだという。
 無差別攻撃を受けた一人ひとりの不条理な死を忘れない――。河勝さんはそんな思いを胸に、今度は長崎の絵を描こうと構想を練っている。

<西村奈緒美(にしむら・なおみ)>横浜国立大学大学院を修了後、時事通信社に入社。2013年に朝日新聞社に移り、奈良総局や東京本社社会部を経て、2021年から新潟総局。

2021.12.18   
――八ヶ岳山麓から(354)――

 先日知人と日米開戦だの真珠湾爆撃だのを話していて、話題が「ノモンハン事件」に及ぶことがあった。私自身はこの「事件」をひと通り知っているつもりであったが、このとき、知人が紹介した本を自分でも読んでみようという気になった。
その本とは、鎌倉英也著『隠された「戦争」―「ノモンハン事件」の裏側』(論創社、2020)である。同書は同じ著者によるほぼ同名の書、『ノモンハン 隠された「戦争」』(NHK出版、2001)の復刊であり、その母体は、著者自身が制作にあたったNHKテレビ番組『ドキュメント ノモンハン事件~60年目の真実~』(1999.8.17放映)の取材記録である。
 このドキュメント放映以後、日本側から「ノモンハン」を見た半藤一利『ノモンハンの夏』(文春文庫 2001)や、おもにモンゴル人を語った田中克彦『ノモンハン戦争――モンゴルと満洲国』(岩波新書 2009)が出版された。以下述べることは、この秀逸の2冊の内容とないまぜになっているところがある。

 「ノモンハン事件」とは何か。
 それは1939年夏、日本の傀儡国家満洲帝国(中国東北部)と、当時のソ連支配下にあったモンゴル人民共和国(外モンゴル=現モンゴル国)の間で起こった、国境地帯の領有権をめぐる戦争のことである。その実体は日ソ両国間の戦争であった。
 この戦争を日本では「ノモンハン事件」と呼ぶが、ロシアとモンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ぶ。「ノモンハン」とは戦場近くにあった「ノモンハーニー・ブルド」という自然崇拝の小高い塚のことであり、「ハルハ河」とは国境紛争の的となった川の名である。
 日本がこれを「戦争」と言わずに「事件」とするわけは、天皇の命令のない「非公式」のもので、最終的にソ連・モンゴル側の領土要求を認め、敗北に終わった不名誉ないくさであったことにある。
 戦いは4ヶ月間であったが、双方大砲、戦車はもちろん爆撃機・戦闘機を繰り出す本格的な戦争で、日本・満洲国側の死傷者は全将兵3分の1、死者は1万8000という損害を出し、ソ連・モンゴル側もほぼそれに匹敵する多大な犠牲を出した。

 本書に戻ろう。鎌倉英也氏が「ノモンハン事件」に関心をもつきっかけは、1996年に急逝した作家司馬遼太郎の特集番組をつくるため、作家の書斎を訪れたときにあった。そこで見たひとつの段ボール箱には、「ノモンハン事件」の取材記録がぎっしりと詰まっていた。
 その後、1999年に鎌倉氏は思いがけず、ロシア軍事史公文書館がそれまで極秘扱いであった「ノモンハン事件」の関連資料を開示するというニュースを知った。氏はただちにモスクワに飛んだ。同行はカメラマン1名と録音マン1名、それにロシア語に堪能な政治学者1名である。現地ではこれに通訳兼渉外担当のロシア人1名が加わった。
 取材の目的は、その文書の中から、「ノモンハン事件」がなぜ国境紛争にとどまらず戦争にいたったか、背後にソ連とヨーロッパ列強のどんな力学が働いていたか、そして「事件」の教訓が生かされず、なぜ太平洋戦争に突っ込んでいったかを探ることにあったという。
 あらかじめ公文書館側が揃えてくれた文書は5万枚を超すと思われた。文書取材の予定期間は約10日である。大車輪で、1)戦争被害に関する文書、2)ソビエト軍の兵站・輸送戦略に関する文書、3)スターリンの極東戦略を証拠づける文書、4)日本軍捕虜に関する文書、5)スターリンの戦争評価を選び出した。ソ連軍中枢から発せられた重要文書、ソ連軍兵士の口述記録、翻訳された日本人捕虜の手記・遺書等々がこれらに含まれていた。

 2か月後、一行はモンゴル・ウランバートルに飛ぶ。そこでモンゴル人通訳の助けによって「ソ連・モンゴル友好条約」など外交機密文書を入手し、個人の体験談を聞き、さらに「モンゴル粛清博物館」を訪れた。粛清とは、ソ連がモンゴル人に下した酸鼻極める殺人のことである。
 翌月は旧式なロシア製ヘリコプターをチャーターし、8時間かけて「ハルハ河戦争」の戦場へ飛んだ。平原を撮るため、昇降口のドアを取り払い、搭乗者は命綱をつけての飛行である。荒れ果てた平原に残るソ連軍司令部の跡地は、平原が手に取るように見渡せる小高い丘の上にあった。対する日本・旧満洲軍の陣地跡は、どこへ後退しようにも隠れる場所のない低地にあった。降り立ってみれば兵器の残骸の山があり、地の砂には人骨とおぼしき白いかけらがまぎれていた。
 これらの記述に並走させて鎌倉氏は、日本国内のノモンハン関連文書も紹介している。それには、関東軍が開戦に踏み切った根拠とされる「下達」も含まれている。ノモンハンの希少な帰還兵への対面取材も行われたことがわかる。
 こうして得られた膨大な資料の山から浮かび上がるのは、局地的な戦争の背後にある大国の野心とかけひき、それにまきこまれたモンゴル人の悲惨さである。ソ連は満洲事変以降極東に侵出した日本を警戒し、満洲国に接する外モンゴルに対して露骨な支配を続けていた。そこではソ連の手によって、「ノモンハン」以前から「反革命」「日本のスパイ」といった罪名で、首相から僧侶、一般牧民に対してまで大量の政治的殺人(粛清)が行われていた。

 モンゴル・満洲間での国境紛争が起こるや、スターリンはソ連軍司令官を代えて鋭敏なジューコフを戦場に送り込んだ。彼は冷静な戦況分析を行うとともに緻密な作戦を立て、成功のためのあらゆる努力を注入した。
 対する日本参謀本部は、ロシア軍弱体という根拠のない憶測に立つ関東軍作戦参謀辻政信、服部卓四郎らを制御できず、「国境線明確ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に国境線を認定して、これを第一線部隊に明示し、無用の紛争惹起を防止する(べし)」などと、事実上の独断専行をゆるす「下達」を発していた。
 その後の関東軍は、6月に参謀本部が発した作戦の自発的中止の要請?を無視したうえに、ソ連軍の戦力補強が驚くべき迅速さで行われていることもまた信じなかった。当然の結果として兵士たちは、悲惨極まりない運命を強いられた。
 わたしが心を打たれたのは、軍事史公文書館で発見されたロシア語に翻訳された日本人兵士の日記である。ソ連軍に圧倒され追い込まれた極限の状況は、読んで身に染みるものがあった。またかなりの兵士がソ連軍の捕虜となったが、中には「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」によって、日本側に帰らなかった人がいた。このドキュメントにはその人たちのその後もリアルに語られている。

 関東軍に関わる国内文書の幾つかの存在、ソ連とモンゴルの間で交わされていた友好条約(いうなれば二国間安全保障条約)の存在、日ソ両国の兵隊として動員され、あるいは粛清に突き進んでいく過程の様々な証拠、ソ連軍司令官の指令の記録、日本人捕虜が手記に残した苦しみ、生存者たちの生々しい証言等々は、動かぬ歴史の証拠として、特に私の心に残った。
 ここで特筆すべきは、このドキュメント作成に当たって鎌倉氏がすべてを実証的方法で語ろうと努力したことである。氏は復刊にあたって第9章を加え、「ノモンハン事件」が太平洋戦争の序曲であったことを述べるとともに、記録保存の重要性に言及した。
――「近現代史に関わるドキュメンタリーを制作していると、世界各国の様々な公文書館や資料館に取材する機会が多い。そこでしばしば驚くのは、自分たちに不都合だと思われる記録さえしっかり残されていることだ」
 そして、ついこの間おきた安倍政権による文書の改竄、隠蔽を列挙し、2013年に成立した「特定秘密保護法」を見る限り、この政権が国民や住民の「知る権利」に基づく情報公開に積極的とは言い難いとして、日本政府の情報閉鎖ぶりを批判している。本書は、この第9章によって、さらに価値あるものとなったと思う。
 私は、自分が視聴料を払っているNHKにも骨のあるジャーナリストがいるのを知ってうれしかった。同時に、いつも権力者よりのNHKがこうした歴史的事件の掘り起こしに多額の資金を投じたことを意外に思った。これはまれなことであろうか。
(2021・12・12)

《天皇の戦争を戦った二人の一等兵》
 7月1日の拙稿で私(半澤)は、文春リアリズムを「野次馬精神」と「ファクト発掘」という二つの魂の合成品ととらえ、半藤一利の例を挙げた。
 今回は文春編集者としてもう一人池島信平(1909~1973)の場合を書きたい。池島が死の前年に『レイテ戦記』の作家大岡昇平(1909~1988)と対談したものをテキストとする。(「新刊展望」誌・72年3月号、ここでは大岡昇平著『戦争と文学と』、文春学芸ライブラリー・2015年刊より引用)

 二人は、天皇の軍隊の最下層の兵士として、大東亜戦争を戦った。池島は、1944年「文藝春秋」編集長のときに招集され横須賀海兵団、北海道千歳第二基地海軍一等水兵して教育され青森で終戦を迎えた。大岡も44年に招集されフィリピンで陸軍一等兵として暗号兵となった。45年1月レイテ島南部で米軍捕虜となったが同年12月に帰国した。

《人間が見てはいけないものを見た》
 池島は大岡にこう語っている。
 大宅壮一賞の候補になったビルマ生き残りの軍医の手記があった。そのなかで軍医は生き残って帰国した少数の兵隊の話を書いている。軍医はそれらの兵隊と仲良くなり帰国後も文通をしていた。
 「百姓だった兵隊はお盆になるとできたものをいろいろ持って軍医のところに遊びにきて一杯飲んで機嫌よく帰る。それが十年目か何かのとき来ないんですよ。すると、おかみさんが同じようにトウモロコシや何かを持ってきて<何だか分からないが、実はお父ちゃんが急に自殺した>という。」

 「戦後とても幸せに暮らしていて、子どもを四人も五人もつくるんですよ。それがポックリ自殺するんだね。そこまで戦争というものの傷は深いんだね。つまり戦争の本当の姿というものは人間が見ちゃいけないものを見るわけでしょう。神さまとか悪魔が見るものを人間が見ちゃったということでしょう。」

 「見たということは心の奥深く焼き付いている。ふっと死にたくなると、分かるなァ‥‥。僕らは別に戦争をやったことがないけれども、軍隊の生活で本当にいやだったことは、いまでも妻子にいえないもの、恥ずかしくて、自分のいやらしさとか卑しさに、うんざりするな。理不尽なことにも頭を下げたことがたくさんあるでしょう。最下級兵士なんか、そうしなければ生きていけないのだから。」

≪なぜそのとき「戦争反対」をしなかったのですか》
 戦争が人間に与えたキズの大きさについて大岡も同意を示している。さらに大岡は過ぐる戦争の大義について批判する。
「大義名分がないということが、このまえの戦争で一番あわれなことだったから‥‥。そうだな、やっぱり戦争はしちゃいけないよね。こんどの自衛隊だって、またどういうことになって、どういうふうにして戦争をしなければならないかもしれないけど、大義名分はちょっと見つからないと思うよ。(笑)」

 「日本は明治からずっと外に出てやっているでしょう。自然にいろんな悪い習慣がつもっていたのを内地でやらなかったことは一度もない」

 二人の対話は池島の発言によって次のように結ばれている。
 「だけど、元一等兵と元一等水兵がいくら言ったってしようがないのだ。(笑)
 しかし、若いものに、もう戦争がいやだとかなんとか言ったって、ピンとこないから困るな。それが逆になってくると、概念として「戦争反対」と連中が言っているが、それも困るねぇ。だけどそれは経験しないものには無理だからねえ。へたすると「なぜそのとき戦争反対をしなかったんですか」と言われちゃうんだ。連中の議論というのは前提をふっとばしちゃうんだからね。(笑)」

≪300年に一度の事件かも知れない》
 二人の対話を読んで私は、この50年で我々はずいぶん遠くへきたものだと感ずる。二人が危惧していた戦争体験の風化は現実となったように思われる。

 人は、E・H・カーの「歴史とは過去と現在との対話である」というテーゼを批判なく受け入れてきた。しかし対話者の一方は「現在」である。カーの世界では日々歴史の修正が起きているのである。
 私は「文春リアリズム」を自己流に論じてきたが、カーの歴史修正主義――とあえて呼ぶ――に気がついたことに自分で驚いている。21世紀初頭の言論の変貌は、近代300年に一度の事件といえる気がする。(2021/07/19)

―半藤一利の「遺言」に共感する―

1933年の関東地方防空大演習に当たり『信濃毎日新聞』主筆の桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)は「関東防空大演習を嗤(わら)う」を書いた。その一部を次に掲げる。

■将来もし敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我はあるいは、敵に対して和を求むべく余儀なくされないだろうか。なぜなら、この時に当たり、我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を打ち落とすあたわず、その中の二、三のものは、自然に我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来たり、爆弾を投下するだろうからである。そしてこのうちもらされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焦土たらしめるだろうからである。いかに冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生いかに訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく、投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである■

《黒い物体と白い物体―私の空襲体験》
 初の東京空襲に私が遭ったのは、1942年4月18日であった。
私は、国民学校(当時の「小学校」の名称)2年生であった。

その黒い物体は、自宅正面の美容学校の向こうに現れ、正体が確認できないほどの速度で私の頭上を飛び去った。少し遅れてドンドンという重い音を聞いた。それが、洋上空母から飛び立ち東京・名古屋・神戸など5都市を奇襲した陸軍爆撃機B25の一機であり、後楽園内の高射砲陣地からの対空射撃と知ったのは、後日のことである。

私が二回目に東京空襲に遭ったのは、1944年11月始めであった。マリアナ基地からのB29初の偵察飛来である。それは11月24日に始まった東京爆撃の準備行動として1日に始まった。私がこれを見たのが1日だったかどうかはわからない。その後、自宅の地下に掘った防空壕で聞いたのは、恐怖を与える空爆音であった。日本軍の高射砲や迎撃戦闘機が打ち落とせない、高度一万メートルを行くB29は、1942年に見た黒い物体でなく、透明に見える白い物体であった。

《焼夷弾爆撃―カーチス・ルメイの新戦術》
 このように始まった東京空襲は当初、軍事施設・軍需工場を高々度からの精密爆撃で破壊する戦術によるものだったが、ワシントンはこれを不成功とみなした。そこで木造家屋の密集した都市を焼夷弾により無差別爆撃する方針に変更した。45年1月のことである。マリアナ基地のハンセル司令官はカーチス・ルメイに代わった。
初の焼夷弾作戦は1月3日の名古屋空襲であった。その被害は死者48名、負傷者85名、罹災者1万名に達した。上空3000メートルから火の海と降り注ぐ焼夷弾の攻撃を初めて経験し市民は大きな恐怖を抱いた。一方、敵機が低空に飛来したので戦闘機と高射砲は邀撃体制が容易となり敵機に大きな損害を与えた。ルメイは短期間、この焦土化作戦を中止している。

桐生悠々は「まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく(略)各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場」を演じ」「関東大空襲当時と同様の惨状」と書いたが、それが正に現実となったのである。


《「関東防空大演習を嗤う」から88年―半藤一利の遺言》
 「関東防空大演習を嗤う」から88年が過ぎた。
その間に科学技術は、核戦争が勃発すれば世界が破滅する水準に達した。しかしその危機を制御する、政治や経済の技術は、一向に進歩していない。現に、一人当り世界上位11位目の米国(57,804ドル=2016年)が、同世界下位17位の北朝鮮(661ドル)からの恫喝を、無視することができなくなっている。変わった面と変わらなかった面とが併存している。アウシュビッツと広島を示現した人類に、理想は語れるのかといわれたのは、20世紀中葉であった。それから百年近くを経た今もこのニヒリズムは、人類の胸底に深く沈んでいる。

その実証主義で「歴史探偵」を自称した故・半藤一利は、10代後半時に敗戦を迎えた。当時の「大人」の言動を見て、半藤は「絶対」という言葉を使わないことを誓った。彼らの言動が「鬼畜米英」から「民主主義」へコロリと変わったからである。
敗戦時に国民学校4年生だった私は「絶対」使用の当否をいう知識も学識もなかった。

戦後日本の「平和と不戦」は、日本を「西側のショーケース」として保護した米国と「若者を再び戦場に送るな」といって「反戦平和」をうたった大衆の、「綱引き」の上に辛くも成立した、と私は考えてきた。
その「綱引き」は終わった。米ソ対立から米中対立への変化、戦争体験者の絶滅危惧種化によってである。米国は自衛隊による集団自衛権行使と米製兵器購入を、日本は改憲による対米従属の強化を行っている。それは「日米同盟の強化」の名の下に加速している。

《昭和史と戦争体験と「絶対」の発声》
 半藤一利は、90年前後から実証的な「昭和史」を語り且つ書くようになった。
数年前からは、「絶対」という言葉を使うようになった。ルメイ司令官による、45年3月の無差別焼夷弾攻撃という残虐な東京空襲の体験を語るようになった。見事な絵筆使いで自ら書いた絵本も出版している。

21年1月30日にNHK・ETV特集で放映された「一所懸命に漕いできた~〝歴史探偵〟半藤一利の遺言」で発せられた半藤の言葉に私は打たれた。東大ボート部の選手として隅田川を生活の原点とした彼の遺言は、私の言いたいことを良く表現していると感じた。遺言は次の通りである。(一部を抜粋)

■「あのときわたくしは焼けあとに
 ポツンと立ちながら
 この世に〈絶対〉はないということを思い知らされました」
 
「絶対に戦争は勝つ
 絶対に神風はふく
 絶対に日本は負けない
 絶対に自分は人を殺さない
 絶対に・・・絶対に・・・
 そのとき以来わたくしは二度と絶対という言葉をつかわない
 そう心にちかって今日まで生きてきました

  しかしいま
  あえて〈絶対〉という言葉をつかって
  どうしても伝えたい
  たったひとつの思いがあります

  戦争だけは絶対にはじめてはいけない」■

ジャーナリズムという「生き馬の目を抜く世界」に生きた人間が、「反戦」を理想として最後に選んだ重さをかみしめたいと思う。(2021/04/11)



《ウルトラマンの監督が書いた昭和の本郷》
 本書のオビにいくつかの惹句が書いてある。
■「少国民」と呼ばれた、ごく普通の子どもたちの物語。
■僕たちは、歌い、笑い、未来を見ていた。
■『ウルトラマンQ』、『ウルトラマン』監督の自伝的小説
■東京本郷で生まれ育った「弘」(ひろし・本書の主人公で洋服仕立屋の息子)は、悪ガキ仲間たちとともに、伸び伸びと子ども時代を謳歌していた。だが戦況の悪化は日常を変えていく。巧妙につきまとう特高警察、姿を消した外国人の友人、代用品になったお菓子――。芸術を愛し、自由の尊さを説く先生は学校から去り、替わりにやってきたのは軍国主義の先生たちだった。軍国主義的なしごきに耐え、疎開先ですきっ腹を抱えても「弘」たちは未来を見ていた。だが1945年3月、中学受験のために東京に戻った彼らを待ち受けていたのは想像を絶する大規模な空襲だった。

著者紹介によれば飯島敏宏(いいじま・としひろ)氏は、1932年生まれ。慶大文学部卒。東京放送入社、円谷特技プロダクションへ移り「ウルトラマン」シリーズを製作、出向した木下恵介プロでは「金曜日の妻たちへ」などを演出した。
 
《私は泣いた。なぜ泣いたのか》
 この「自伝的小説」を読み始めた私(半澤)は、作者の描く世界に、自分の「体験と記憶」「幻想と現実」を交錯させながら、次第に引き込まれていった。そして徐々に私の胸に熱いものがこみ上げてきた。私の目は潤んで来、ついに小さな嗚咽となった。主人公「弘」の世界も、「そうだったのか」「そうなんだよな」「この通りなんだよな」「しかし自分はちがう」とその涙声は叫んだ。

私はなぜ泣いたのか。
一つは、下町と山の手の交錯する本郷という地域共同体を見事に表現していること。その生活に作者がコミットしていることにである。本郷生まれの私も、小説の生活圏と時間とが、約10年間重なる。ここに描かれた共同体が自分が生きたそれと同じだと思った。登場人物に、私は実在した友達、隣人の名前を容易に重ねることができる。だが私は、主人公「弘」のようには、周囲にコミットできなかった。一人っ子の私の性格だったという以外に、自分ではその理由を考えられない。同時に、それが当時の自分の生きかたへの悔いと認識され、涙となったのである。
二つは、本書の最後が米進駐軍の黒人兵士との「ゴー・ストレート・オン」という会話で結ばれることである。小説「ギブミー・チョコレート」を読んできた読者は、この鮮烈な終幕に救われる。少なくとも私は衝撃を受けた。この作品は、通俗作品の装いをまとった教養小説であると思った。それで私は泣いたのである。

《歴史は断絶するのか連続するのか》
 私は、泣いてばかりいたわけではない。
日本の戦後は、戦中・戦前と連続しているのか。断続しているのか。
理屈っぽくいえば、歴史認識の基本に関わる問題を、この作品は提示し一つの回答を示している。私の世代は「断続」のセリフを丸山眞男によって理解し、「連続」のセリフを小林秀雄によって認識している。
丸山の言説は、敗戦直後の論文「超国家主義の論理と心理」の結語に現れた。
■日本帝国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。(『世界』、1946年5月号)  以下続きは☟をクリック。

現代ビジネス

本当の戦争のはじまり

 戦争の犠牲となるのは、いつもか弱き者だ。敗戦後、日本には戦災で両親を失った戦災孤児の数が約12万人にのぼったといわれている。このうち、引き取り手がおらず、路上で身一つで生きなければならなくなった「浮浪児」と呼ばれた子供たちは3万5千人に上ったと推測されている(「朝日年鑑」1947年)。

「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか?

 私は10年来、元浮浪児たちに会い、その体験を記録するという取材を進めてきた。2014年には『浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―』(新潮文庫)というノンフィクションに、それらの成果をまとめた。

 その経験から言えば、実態は3万5千人以上に上るだろう。後に述べるように、浮浪児には戦災孤児以外からなった者もおり、それを合わせると膨大な数に上ったことは想像に難くないからだ。

 元浮浪児の一人は、私にこんな言葉を残した。

 「日本の終戦記念日は昭和20年8月15日なんだよ。だけど、そこから先が、浮浪児にとって本当の戦争のはじまりだった。生き延びるための戦争だ。そのことを知ってほしくて、君に初めて浮浪児だった時のことを語るんだ」

 これから述べるのは、そうして語られた浮浪児たちの証言にもとづいた歴史だ。

「仲間の死体は自分たちで片づけていた」

 浮浪児たちの多くは戦時中の空襲によって生まれた。終戦の年の1945年の冬から夏にかけて、東京、大阪、仙台、愛知、福岡など日本中の都市が米軍の空襲にさらされた。ここで親を失った子供たちが、誰に頼ることもできずに町の路上で寝起きする「浮浪児」となっていったのである。

 東京では上野駅に浮浪児が多く集まっていたといわれているが、それには理由がある。3月10日の東京大空襲によって、東京の下町は焼け野原となってしまった。まだ寒いその時期、寒風を避けられる数少ない場所が上野駅の地下道だったのだ。

 上野駅の地下道には最大で7千人くらいが暮らしていたといわれており、元浮浪児たちの証言によれば、混雑しすぎて横になることはできず、大小便もその場でしていたという。このうち、子供の数は1割から2割。つまり、上野の地下道だけで最大で千人前後の浮浪児が寝起きしていたことになる。

 地下道での生活は非常に厳しいものだった。

 敗戦後の日本は空前の食糧難に襲われていた。当然、路上で暮らす人々にまで救済の手は届かず、当時の新聞では「上野駅で処理された浮浪者の餓死死体は多い日に6人を数へ、先月の平均は1日2.5人だった」(朝日新聞10月18日)と記されている。

 だが、元浮浪児によれば、「仲間の死体は自分たちで片づけていたから、もっと多いはずだよ。1日十数人は死んでいたはず」とのことだった。

 忘れてはならないのが、自殺者も多かったことだ。浮浪児の中には、小学生低学年くらいの幼い子もたくさんいた。

 彼らは日中は物乞いをしたり、ゴミをあさったり、時には犬や猫を殺して食べてなんとか生きていたが、飢餓、寒さ、病気、差別などの中でだんだんと生きる気力をそがれ、自ら命を絶つことを選んだ。

 元浮浪児で後に暴力団員となった石原伸司(2018年に殺人事件を起こした後に自殺)によれば、浮浪児仲間とともに墨田川のほとりを歩いていたところ、一人が「もう疲れたよ」とつぶやき、そのまま川に飛び込んで死んだという。

 また、農薬を飲んで自殺を図ろうとしたものの死にきれず、三日三晩血を吐いてもだえ苦しんで死んだ子供もいたそうだ。
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2018年08月15日06時00分 (更新 08月15日 06時20分)

「焼き場に立つ少年」の写真カードの表側

原爆投下後の長崎で撮影されたとされる写真「焼き場に立つ少年」への共感が、時代や国境を超えて広がっている。昨年末にローマ法王フランシスコが「戦争がもたらすもの」とのメッセージと自筆の署名を添えて、写真を世界に発信するように呼び掛けた。日本ではカトリック中央協議会(東京)が7月上旬に日本語版の写真カードの配布を始めると希望者が相次いだ。唇をかみしめ悲しみをこらえる少年の姿が人々の心を揺り動かしている。

 写真は米軍のカメラマン、ジョー・オダネル氏(1922~2007)が1945年に撮影。直立不動の少年が、亡くなった弟を背負い、焼き場で火葬の順番を待つ姿を写している。

 国内では核兵器廃絶を訴えるローマ法王の呼び掛けに長崎大司教区の高見三明大司教(72)が応じて、カトリック中央協議会が動いた。「被爆地・長崎にいる私たちが動かないといけない」。オダネル氏の遺族の使用許可を得て20万枚の写真カードを作り、全国の教会を通じて配布を始めた。

 はがきとほぼ同じ大きさの写真カードの裏面には「この少年は、血がにじむほど唇を噛(か)み締(し)めて、やり場のない悲しみをあらわしています」との説明文がある。

 長崎市で生まれた高見氏自身、胎内で被爆。祖母ら親族10人以上を原爆で亡くしている。法王の呼び掛けを聞いて、親族に思いを巡らせた。被爆から6日後に亡くなった祖母は想像を絶する苦しみだったはずだ。母の妹の1人は畑仕事中に爆風や熱線を浴び、もう1人は遺体すら見つかっていない…。


2016年1月30日

 民間船員を予備自衛官とし、有事の際に活用する防衛省の計画に対し、全国の船員で作る労組の全日本海員組合が29日、東京都内で記者会見し、「事実上の徴用で断じて許されない」とする声明を発表した。防衛省は「強制はしない」としているが、現場の声を代弁する組合が「見えない圧力がかかる」と批判の声を上げた。

 防衛省は、日本の南西地域での有事を想定し九州・沖縄の防衛を強化する「南西シフト」を進める。だが、武器や隊員を危険地域に運ぶ船も操船者も足りない。同省は今年度中にも民間フェリー2隻を選定し、平時はフェリーだが有事の際には防衛省が使う仕組みを作る。今年10月にも民間船の有事運航が可能となる。一方、操船者が足りないため、民間船員21人を海上自衛隊の予備自衛官とする費用を来年度政府予算案に盛り込み、有事で操船させる方針。

 この動きに海員組合は今月15日、防衛省に反対を申し入れ、29日の会見に臨んだ。森田保己組合長は「我々船員の声はまったく無視されている。反対に向けた動きを活発化させたい」と述べた。

申し入れでは防衛省幹部から「予備自衛官になるよう船員に強制することはない」と言われたという。だが、森田組合長は「戦地に行くために船員になった者はいない。会社や国から見えない圧力がかかるのは容易に予想される」と強調した。

 会見に同席した組合幹部も「船はチームプレーで1人欠けても運航できない。他の船員が予備自衛官になったのに、自らの意思で断れるのか。防衛省は、できるだけ多くの船員が予備自衛官になるようフェリー会社に求めている」と危惧を表明した。

 太平洋戦争では民間の船や船員の大部分が軍に徴用され、6万人以上の船員が亡くなった。森田組合長は「悲劇を繰り返してはならない」と訴えた。

 有事での民間船員活用計画の背景には、海自の予算や人員の不足がある。有事で民間人を危険地域に送ることはできない。現役自衛官に操船させる余裕はなく、海自OBの予備自衛官を使うことも想定しているが、大型民間船を操舵(そうだ)できるのは10人程度しかいない。

 このため、防衛省は来年度に予備自衛官制度を変更し、自衛隊の勤務経験がなくても10日間の教育訓練などで予備自衛官になれる制度を海上自衛隊にも導入する。

 防衛省の計画について、津軽海峡フェリー(北海道函館市)は昨年末、毎日新聞の取材に対し、2隻を選定する入札に応じたことを認め、「船員から予備自衛官になりたいという申し出は確認していない」と述べた。【川上晃弘、町田徳丈】

10月1日付神戸新聞書評欄1

また9月18日がやってきた。この日を迎えるたび、何かをいわずにはいられない気持ちでいっぱいになる。

「国民政府軍と中国共産党=紅軍との対決が激烈になりつつあった1931年9月18日夜半、瀋陽城北の南満洲鉄道(通称、満鉄)柳条溝付近の線路を爆破したのをきっかけに、関東軍はいっせいに北大営その他の東北辺防軍(通称、東北軍)への攻撃を開始した(姫田ほか『中国近現代史』東京大学出版会1982年)」

若い人で日本近代史を学ばなかったら、上記に現れる満洲が中国東北部の黒竜江・吉林・遼寧の3省を指すことや、これが「満洲事変」と呼ばれる宣戦布告なき日中15年戦争の始まりであり、関東軍とは日露戦争後に満鉄と「関東州」防衛のために中国に駐屯した日本軍であり、東北辺防軍とは中華民国の軍隊を指すとはわからないかもしれない。また爆破事件の発生地点は、いまでは「柳条溝」ではなく「柳条湖」が正確だとされている。
第二次世界大戦敗戦に至るまで、日本では満鉄爆破は東北軍の犯行だと信じられていたが、事実は関東軍の謀略によるものであった。事件首謀者は関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐、作戦主任参謀の石原莞爾中佐である。
爆破と同時に関東軍は攻勢に出た。中国側は撤退した。翌32年1月には関東軍は錦州を落し、わずか5か月で満洲全土を占領した。

当時、「東三省(と中国では呼ぶ)」すなわち満洲防衛の任にあったのは東北辺防軍司令長官の張学良だった。彼は関東軍の動きをある程度は知っていたが、抵抗しなかった。蒋介石率いる国民政府の無抵抗方針に従ったからである。
のちに張学良はこれを後悔して、「日本には武士道というものがあるのだから、あのように残酷な行為をくりかえすとは思わなかった」と語っている。
関東軍はこうして満洲を確保したが、列強の手前、満洲を独立国にする必要があった。そこで1932年3月、清朝ラスト・エンペラー愛新覚羅溥儀を担ぎ出して満洲国執政とし、翌年には彼を皇帝とする「満洲帝国」をつくりあげた。だがその国務総理は日本人の総務庁長官に実権を握られていた。安倍晋三総理の祖父岸信介はその次長であった。

関東軍は満洲を支配するにあたって、日本人の農業移民を計画した。36年の「二・二六事件」後、軍部は日本の政治決定権をほぼ完全に掌握し、これによって37年からは本格的に農民を大量に満洲へ送り出した。満蒙農業開拓団である。
1937年7月7日、北京(当時、北平)近郊の盧溝橋で発砲事件が発生すると、日本陸軍は約10万の兵を北京など華北に派遣すると決定した。
大量の兵員が大陸へ動員されるようになると、満洲への農業移民を確保できなくなった。このため近衛内閣は、1937年11月末「満蒙開拓青少年義勇軍」を派遣することにした。小学校卒で、数え年16歳から19歳までの身体強健な男子で、父母の承諾を得さえすればば誰でもよいとされた(「満洲青年移民実施要項」)。自由応募がたてまえだったが、実際には道府県に割当てがあり、道府県は各学校へ割当てた。青少年義勇軍は1938年から1945年の敗戦までに8万6000人に達し、満蒙開拓民全体の30%を占めた。
開拓団も青少年義勇軍も長野県が全国最多だった。その数年前長野県では教師が共産思想に染まっているという「教員赤化事件」があった。捏造事件であるが、県指導者と「信濃教育会」は、「天皇陛下に対して申し訳ない」と農業移民と義勇軍の動員をかけたのである。・・・全文を読む。

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