2012年01月28日
ポール・グリーングラスに撮らせたかった『ハンナ』
これもまた、他人様にいただいたのに開けもせずに本棚に突っ込んであったDVDの一本に、『ハンナ』という映画がある。
むかーし、「英国で第二のエマ・ワトソンと言われている少女」的なタイトルで、この『ハンナ』の主演女優ついて書いたことがあったと思う。(http://news.walkerplus.com/2010/1211/5/)
んで、その少女が主演している『ハンナ』を公開当時に見る気にならなかったのは、「英国版『レオン』」とか「『ニキータ』のスピードと『レオン』のポエジーと」みたいなマーケティング・スローガンで売ろうとしていた宣伝戦略のせいであった。
『ニキータ』も『レオン』も好きな映画だが、あれはフランスの映画だ。
そのフランス人による映画の類似品をイングリッシュを母国語とする人間が製作するとたいていおかしなことになるのであって、それは、故マルコム・マクラーレンが、「フランス人の食やセックスに対する考え方は、英国人のそれとは正反対なの。ざまーみさらせ。おほほほほ」と言っていたことからも明らかであるように、人間の基本的営みに関して全く違うコンセプトを持つ国の人間に、オリジナル同様の味を持つ映画が撮れるはずがない。
だのに、おフランス映画のタイトルを挙げて人々を撹乱させ、「うっかり見ちゃった」客を狙おうなどというマーケティング戦略こそが作品に自信のない証拠であり、そんな売り手すら確信の持てない映画を見る必要はない。と思っていたからであった。
で、今更ながらDVDで見てみれば、それは見事に『レオン』の構図であった。
ジャン・レノ → エリック・バナ
ナタリー・ポートマン → シアーシャ・ローナン
ゲイリー・オールドマン → ケイト・ブランシェット
で、こうして書き出してみるとわかるが、主要キャラ俳優陣には全く損傷はない。
エリック・バナの、「朴訥としたヨーロッパ大陸訛りの英語を喋るおっさん。でも、本気になると超プロフェッショナルなキラー」を演じる能力は、何らジャン・レノに劣るものではないし、ナタリー・ポートマンのディープでつぶらな瞳は、シアーシャ・ローナンの透明感で十分に置き換えられる。また、ゲイリー・オールドマンの狂気を演じられるのもケイト・ブランシェットしかなく、その意味では、このキャラを女性にしなければならなかった理由もわかる。英国の映画人にできる最高のキャスティングと言っても良い。
だのに、なんでこんな「一番良かったのは冒頭シーン」みたいな、究極のデクレッシェンド映画が出来上がったのだろう。
そもそも、この監督は『つぐない』でシアーシャ・ローナンを使ったジョー・ライトで、おそらくその時からシアーシャを主人公にして英国版『レオン』が撮りたいと思っていたのだろう。
が、この人はやはり『プライドと偏見』や『つぐない』のようなリリカルな文芸作を上手く撮る監督なので、飛んだり跳ねたり殺したり死んだりするアクション映画には、本質的に向かない。いちいち絵に文学性を滲ませなくては気がすまない作り手の欲求が、実はそれほど遅くないストーリー展開を異様なほどスローに感じさせてしまう。
しかし、彼のキャスティングの手堅さには感心するものがあり、この監督は90年代にはミュージック・ビデオのキャスティング・ダイレクターとして働いていたようだが、この映画でも、配役だけ決めて、メガホンは誰か別の監督に握らせていたほうが良かったと思う。
このキャスティングで、オリジナルと並ぶ、またはそれを超える英国版『レオン』を撮ることのできる監督がいるとすれば、それはポール・グリーングラスだ。
『ボーン・スプレマシー』と『ボーン・アルティメイタム』のポール・グリーングラス。
彼が『ブラディ・サンデー』や『ユナイテッド93』で見せた、あのザクザクにドライな映像とリズム感で、エリック・バナの重厚な表情&アクションや、少女シアーシャのクールな涼気や、ケイト・ブランシェットのコミカルなのに背筋を凍らすようなキチガイ演技をドキュメンタリー風に映し出していれば、たとえ全く同じ脚本だったとしても、当該作は全く違う作品になっていただろう。
シアーシャはピーター・ジャクソン監督にも好まれて使われる女優だが、まだ彼女の本領を発揮させる監督には出会えていないようだ、ということが英国の映画評論家にはよく指摘される。
彼女の持つ独特のひんやりとした質感を、突き放した映像で鮮明に浮き出させるのは、英国ではポール・グリーングラスしかないだろう。
彼女なら、女性版ボーン・シリーズのような映画だって出来る。ポール・グリーングラスがパートナーシップを結んでいるマット・デイモンだって、ジミー大西似のアジア顔ではないか。それなら、同じ日本人の広末涼子似であるシアーシャも、彼の映像に無理なくフィットするはず。
彼女のような地味顔は、エマ・ワトソンのような古典的美少女顔に比べ、少女から大人の女への移行もラクに果たせる。髪を短くしたり、流行のブランド服を着たりして頑張らなくとも、あっさり顔のシアーシャなら、ジーンズにセーターを着たままで「なんとなくクール」なイメージの大人の女優になるだろう。
それゆえ、彼女がポール・グリーングラスのような監督とタッグを組み、真の意味でのブレイクを果たすのは、彼女から「少女」というレッテルが完全に消える年齢になり、「ちょっとクールで、実はたいそう芸達者な女優」になった時なのかもしれない。
そう思えば、この子役出身の女優の未来は、例外的に明るい。
2012年01月19日
『ブライトン・ロック』リメイクに見る「気概」の問題
英国の70年代パンクにも絶対的影響を与えたグレアム・グリーンの小説に基づいており、リチャード・アットゥンバラ(注:アッテンボローと言っても、英国人は誰もわからない。ちなみに、この人の弟はジョン・ライドンも憧れている動物学者)という英国映画界の巨人が主演した伝説の名画でありながら、「それは誰かの意図だったのか」と訝りたくなるほど日本での知名度が低い映画に、『ブライトン・ロック』という作品がある。
その大変な作品が今更リメイクされるというので、英国では製作発表時から話題になっていたし、わたしとしても関心は持っていたのだが、公開当時にリメイク作を見なかったのは、信頼できる友人筋から
「Crap(屑)」
という簡潔なレビューを貰っていたからだった。
そりゃそうだよなー。
あの『ブライトン・ロック』の時代背景を、モッズVSロッカーズの乱闘が起きた時代にスライドさせ、ピンキーがモッズコートを着てヴェスパに乗ってるなんて、『ブライトン・ロック』と『さらば青春の光』の合体作みたいではないか。
いったいぜんたい、彼らはブライトン観光局から製作費を補助してもらったのか。
それとも、リアム・ギャラガーあたりからの推奨コメントを狙っていたのか。
みたいな阿漕な映画であることは、ポスターを見た瞬間からわかっていた。
だのに、何の因果か当該作のDVDをくれた御仁がいて、何ヶ月もパッケージを開けることもないまま本棚に立てておいたのだが、金もやる事もなくてどうしようもなく退屈な週末の夜、ついに見てしまった。
主演のピンキーを演じるのはサム・ライリー。
『コントロール』でジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスを演じた俳優だ。
一部で妙に評価の高い若手俳優だが、この人がインディーズ系の監督に好んで使われるのは、顔がピート・ドハーティに似ているからだ。とわたしは睨む。
英国のインディーズ系映画監督が若かった時代に流行したバンドのフロントマンの風貌と、彼らが好んで起用する主演男優の顔つきを比較し、それを5年区切りでまとめてみると、大変に興味深い年表が作れそうが、そんなことをくどくど日本語で書いても読む人は殆どいないだろうから、やめておく。
要するに、ピート・ドハーティ似のサム・ライリーは、1972年生まれのインディーズ系映画監督が「使いたい」と思う顔をしているのであり、現代30代の映画評論家たちを「いい感じじゃん」と無条件に酔わせる&それ故に好意的レビューが貰える顔なのだ。
が、40代後半のわたしには、サム・ライリーのピート顔マジックは通用せず、彼がモッズ・コートを着ている姿もピンと来ないし、60年代の英国のギャングがあんな童顔だったとも思えない。
英国の若手映画監督が漏れなく憧れている女優、ヘレン・ミレンの使われ方にしても、「ああ、ヘレン・ミレンを出したくて、それだけの理由で作られたキャラ」というのが丸出しで、起用した俳優への監督の愛が感じられるのは微笑ましいが、それだけをこんな名作のリメイクの核にしようというのはあまりに無謀だ。
と思っていたところに、ローズ役のアンドレア・ライズバラ(注:ライズボローではない。それじゃ英国人に「Pardon?」と言われる。でも、日本のメディアにはライズボローと書いたりするわたしの根源的弱さ。ははは)が現れた。
この人は、BBCのドラマで、大変にセクシーでファム・ファタールだった頃のマーガレット・サッチャーを演じてブレイクし(http://blog.livedoor.jp/mikako0607jp/archives/51312803.html)、最近では、マドンナの監督作 『W.E』でウォリス・シンプソンの役を演じたりして、マドンナから惚れ込まれている女優だ。マドンナもBBCのサッチャー・ドラマを見て彼女の起用を決めたとテレビで言っていたが、この「マドンナのミューズ」女優が、リメイク版『ブライトン・ロック』ではそっくり返るほど違う顔を見せている。
ファム・ファタールを演じることが得意に見える女優が、どうしてこんな平凡な女の役にハマるのか。という問いには、たった一つの回答しかない。
彼女は、北島マヤだからだ。
オリジナル映画版『ブライトン・ロック』では、ひたすら無垢で天使のような少女として描かれていたローズが、リメイクでは男女経験の浅い眼鏡キャラになっていたのも現代的で面白く、ワルな男に恋してしまった文科系女子。みたいな新キャラを創出しながら、そこにオリジナル同様の処女の悲しみを滲ませる女優の力量は、やはりただ者ではない。
英国に北島マヤが生まれた。
この映画を見る価値はその一点に絞られる。
この女優に比べれば、メリル・ストリープやレネー・ゼルウィガーなどの、ハリウッドで憑依系と呼ばれる女優たちが演じる役柄の幅はどれだけ狭いことか。
そう思いながら、このリメイク作を見ていると、期待は徐々に膨らんで行った。
ひょっとすると、この一見するとブライトン観光局推奨映画のような作品は、最後の最後でディープなどんでん返しをやってのけるのではないか。
薄汚い人間の欲望とサイコパスが渦巻く暗黒の空に、唐突にふわりと舞い降りた天使。みたいな、かの有名な「ブライトン・ロック」のラストシーンを、英国の北島マヤをローズ役に獲得した同作は、二重のどんでん返しにして見せるのではないか。
ストーリーを知っている人はご存知だろうが、オリジナルのラストシーンとは、「俺は君を愛している、と何度も言ったが、貴様のことなんか全然好きじゃねえ。どっちかって言うと、貴様はむかつくタイプの女だ。俺は貴様をただ利用してるんだよ」というピンキーの言葉を録音したレコードを、彼の死後にローズが聞く場面である。
オリジナルでは、「俺は君を愛している、」という冒頭部分で奇跡的にレコードの針が飛び、何度もピンキーの「俺は君を愛している」の言葉が繰り返されるだけで、ローズはその後の言葉を聞かない。
微笑するローズ。壁の十字架の大写し。暗転。みたいな、いかにもカトリック的オチだ。
この有名なラストシーンを、新世紀のリメイク作はどう描くのだろう。
ピンキーの死後、カトリック系修道院経営の病院に収容されているローズが妊娠しており、
自分の境遇についてぶーたれているところは現代っぽくて良かった。
リメイク作のローズは、穢れなき天使というより、単なる非モテ系なのだ。
ということは、このヒロインは、自分を利用した男の本音を、最後の最後に聞くことになるのではないか。
「阿漕な映画を撮って来ましたがね。最後の最後に、自分の気概を見せてもらいますよ」
つって、監督が最後の最後にあっと言わせるのではないか。
観客が完全に感情移入して見ている哀れで無防備なローズを、冷酷に、そしてリアルに、崖っぷちから一直線に突き落とすのではないか。
わたしはトンネルの先に一縷の光を切望する気持ちで当該作の着地先を見守った。
んが。
ラストシーンはオリジナルと全く同じであった。
まあ、そんなもんかな。と思いながら、ずるずる紅茶をすする。
原曲を完全に破壊しながら、それでも尚、圧倒的名曲。というリメイクは音楽界にはよくある話だが、映画界では、何故かそういう「破壊」を志向する「気概」が希薄に思える。
『ブライトン・ロック』のリメイクは、別に興行成績トップ10入りとかを狙って作ったわけではなさそうだからこそ、余計にそう思うのである。
スージー&ザ・バンシーズの「ヘルター・スケルター」のような(「ヘルター・スケルター」つっても、岡崎京子とか沢尻とかとは全く関係ない)、ジョニー・キャッシュの「The Mercy Seat」のような、そんなリメイク映画がわたしは見たい。