2008年02月27日

存在の耐えられないしょぼさ

Unbearable Lightness of Being

これでもか。というような迫真の名演技のことを英語で“ビッグ・アクティング”というが、アカデミー賞主演男優賞を獲ったダニエル・デイ=ルイスの「There Will Be Blood」の演技により、“ナチュラル”な演技が良しとされてきた過去30年ばかりの風潮が覆され、“ビッグ・アクティング”の時代が来るのではないか。というような記事が先月Guardian紙フィルム面に出ていた。

 

http://film.guardian.co.uk/features/featurepages/0,,2235026,00.html

 

しかしながらデイ=ルイスはいつもそうした路線で来たわけではなく、実際わたしの一番好きな彼は、激演!仲代達矢。系ではない時の彼である。

 

最近ちょっと思うところあって、約20年ぶりに「存在の耐えられない軽さ」を観たりしていた。クンデラ先生の原作のほうは3年に一度は読み返しているが、映画のほうは公開時に観たきり、特に観返したい気もちにはならなかったのである。

 

しかし。

今回観てみて、本気でダニエル・デイ=ルイスの渋いトマシュにやられてしまった。

原作でもそうなのだが、このストーリーの登場人物の中では、昔はサビーナに共感した(若い人の多くはそうだろう)。が、歳を取って、妙にわかるようになってきたのである。トマシュが。

彼の役はそこら辺のハンサム俳優が演じていたら、ドン・ファンな部分が強くなり過ぎてセクシーなだけの男になったり、トリスタンな部分が強くなり過ぎてメロドラマチックなだけの男になったりする役柄である。そこのところの微妙なバランスを、細い綱をすいすい渡ってゆくように、きっちり半分半分の線上に立ってクールに演じて見せたのがダニエル・デイ=ルイスのトマシュだ。

 

こうした小説の中の人物(実在しない人物。本人のビデオや録音テープを研究してそっくりさんになることが不可能な役)というのは、役者の想像力が全てである。俳優という仕事のクリエイティヴィティは本来ここら辺にあるはずであり、トルーマン・カポーティにそっくりだった、とか、エディット・ピアフになり切っていた、とか、そういう物真似芸と俳優業ってのは本当は混同されるべきではないんだよ。そういうのなら、別にコロッケのちあきなおみでもいいわけだし。ということを何よりも雄弁に、決定的に体現しているのが「存在の・・・」のデイ=ルイスだと思う。

 

http://www.youtube.com/watch?v=Cn5EIGlzbqY

 

女王と仙人。アカデミー賞授賞式では、あの靴(またきっと自作なんだろう)。とタキシードの組み合わせに思わずにやっとさせられてしまったが、常にわが道をゆく仙人デイ=ルイスと、真紅のドレスの女王ヘレン・ミレンのステージでのやり取りを見ていると、なんかこれ、まるで英国アカデミー賞みたいじゃん。司会のジョナサン・ロスはどこ?と思ってしまったのであり、よく考えてみれば受賞俳優の顔ぶれに1人も米国人がいない。英×2、仏1、西班牙1と、全員欧州系だ。インディ・アカデミー賞とも呼ばれていた今年のアカデミー賞は、コーエン兄弟の活躍を除けば、ヨーロピアン・アカデミー賞と呼ばれてもいい年であった(歌曲賞も含めて)。

 

注:タイトルは本文の内容とは一切関係なく、単に著者の近況を反映したものですのであしからず。

  

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2008年02月20日

柳美里とCHRIS ROCK。とかけて笑いの道と解く

坊主。初登場(にして最後かも)

柳美里。という人はわたしにとってはどうでもいい作家である。

個人的には、暗くて重い内容を書いていても“あーここ自分で書いてて笑っただろうな”みたいな軽妙さを感じさせてくれない書物はたいそう苦手なので、ひいいいいっ、どうか勘弁してくださいいいいっ系の作家として脳内書庫から追放している。

 

しかし、どうも彼女の息子に対する折檻問題が話題になっているというのでちょっとチェックしてみれば、「朝7時から15時までひっぱたきまくり、学校休ませ、罰として朝食も昼食も与えていません」と自分のブログに書いたのが災いして炎上してしまったのだとか。

 

一読して思ったのは、ひょっとしてこれ、ブラックジョークのつもりだったのかな。ということだ。

例えば米国のコメディアンChris Rock(この人はネタのヤバさが受け、英国でも人気をのばしている)などはスタンダップ(漫談)用の児童虐待ネタをけっこう持っていて、

「うちの娘に手を出すな。こいつを殴ってもいいのは俺だけだ」とか

「どうにも腹が立ったので家に帰って娘を殴り倒した」とか言っては観客を爆笑させているが、もしかすると、先の柳美里の文章も、全体から漂う人工的TOO MUCH感を鑑みたときに、読み手を笑わそうとする書き手の下心だったのではないかと思えてくる。が、如何せん軽快さのない筆致なので大きく滑ってしまい、理解してもらえなかったのだろう。ちょっと興味を覚えて彼女のブログを覗いたりしてみたが、決して暗い人ではないようで、なーんだ明るいじゃん、とちょっと拍子抜けしたが、明るい。ということと、ユーモア。というものはまた別物なんだよなあと痛感した次第。

 

作家の道も険しそうであるが、笑いの道はさらに険しい。そのセンスは天性のものだけに。

 

*さて、ひるがえってうちの坊主(写真)。

 

しかしまあ子供ってのは本当に、“それだけはしないでね”“それをされたら一番困る”ということを必ずするもんですな。うちのはまた誰に似たのかひときわ悪い。999に電話するは、近所のトドラー・グループ会場のゲートを破壊するは、スーパーの棚から酒瓶を掴んでがんがん床にぶち投げて粉砕するは。フード付きのジャケットなんか着せていると、その姿はさながら貧民街のミニ・フディーズのよう。8歳ぐらいになったら、朝食も昼食も与えられずひっぱたきまくられていると思います。わたしが。

  
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2008年02月17日

フディーズ&ピストルズ随想

HOODIES

うららかな休日の午後。最近歩くことが楽しくて仕方がないらしい18ヵ月の坊主を連れて公園へ。バギーから子供をおろして芝の上を歩かせながら、ああいい気持ち。なんつって爽やかな心持で青一色の空を見上げていると、正面から2人のフディーズが近づいてきやがる。

 

なんだなんだこんな天気のいい日にねずみ色のフードなんか被りやがって。脳が蒸れて腐るぞ、そんな頭巾で頭を覆っていると。と思いつつ見ていると、1人がチェーンとおぼしきものを右手に持ってぶるんぶるん振り回している。で、そいつがふと目が合った拍子に言い始めたのである。

「ニーハオ、ニーハオ、ニーハオ、ニーハオ、ニーハオ、ニーハオ」と連続で20回ばかり。「ニーハオ」はこの界隈ではオリエンタル人種へのからかいワードNo.1、っつうか、やっぱ地方の貧民街に住んでいる白人なんつったら極東に中国以外の国が存在することなんか知らないので、東洋人はみんな「ニーハオ」なのであり、この言葉自体は言われ慣れててもはや何とも思わないのだが、どうにも腹が立つのがチェーンのぶるんぶるんである。

 

中国人の女だし、子連れだし、格好の標的じゃんかよ、とか思って、弱者(とおぼしきもの)を威嚇して休日の午後をエンジョイしているのである。たかが12~3歳のガキが。

「わたしは中国人ではありません。コンニチハ、という言葉をご存知ですか?脳が腐ってるのですか、あなたがたは」

と以前のわたしなら立ち向かっていたところだが、ふと目線を落としてみれば、まだ他人を疑うことを知らぬ18ヵ月の坊主が、あろうことかにこにこ笑いながらフディーズのほうに歩み寄って行くではないか。

 

「いかんよ、そっちに行ったら、ほら、こっちに来んしゃい」

いきなり博多弁になりながら坊主を抱き上げてバギーにのせ、フディーズに背中を向けてわたしは歩き出した。この時点でわたしの頭に浮かんでいたのは、2人の10歳の少年たちに暴行の限りを尽くされて死亡したリバプールの2歳児の話である。

こりゃいかん。

わたしはさっさとバギーを押して公園から出た。

ううううう。守るものができると弱くなるのね人間って。

背後からは「ニーハオ、ニーハオ、ニーハオ、ニーハオ」がエンドレスで聞こえていた。

 

「だからフディーズは理解できないんだよ」

帰宅途中で会った隣家の息子は言った。天気がいいので道端で母親の車を洗うなどという感心なことをしておったのである。つくづく大人になったもんだ、彼も。

「無視して帰ってきたの正解だよ。よちよち歩きの子供をチェーンで攻撃している様子を携帯でビデオに撮ってYouTubeに投稿するとか、あいつらそういうこと本気でやるからな。ほんでまた、喜んで見るやつがいっぱいいるんだよ、そういうビデオを。まったく腐ってるぜ、あいつらの頭の中も、この国も」

最後の非サイバー系ティーンエイジ・ギャング世代だった元ジャージの隣家の息子はそう言う。

 

「ムカつくけど、どうしようもねえな、黙って歩き去る他に」

帰宅すると、70年代パンク・リアル体験世代であるところの連合いおよびその友人が言った。

「あいつらはもうわかんねえもの、何考えてるか」

「そうそう。わかんないものには近づかないほうがいい」

 

でも、本当に貧民街の不良少年たちの頭の中が激変するなんてことがあるんだろうか。とわたしは思う。

着ているものや聴いている音楽は時代と共に変化するだろうが、彼らが不良になったり非行に走ったりする原因はそんなに昔と変わらないはずだ。

ノー・マネー。ノー・セックス。ノー・ファン。ノー・フューチャー。

男の子が暴れる理由なんて今も昔も同じだろう。

金があれば、退屈な近所なんかうろうろしてないで街に出てショッピングなんかを楽しむだろうし、やらせてくれる女がいれば性愛の歓びで人間的にも穏やかになるだろうし(実際、これでティーンエイジ・ギャングを卒業する子が一番多いような気がする)、何か楽しいことや、将来に対する希望があれば自暴自棄になって暴れる必要もないのである。

 

そういうことを考えれば考えるほど、パンクというのはきわめて特殊なムーヴメントだったのだと思えてくる。

そもそも、日本でも“パンクはヤンキーに殴られていた”(BY町田康)と言われている通り、本国英国でも、パンクというのはアートスクールや大学に通っているミドルクラスのお坊ちゃま&お嬢ちゃま層から火がついたカルチャーであって、「パンク=Do It Yourselfのスピリッツ」なんつうかっこいいコンセプトを考えついたのも、こうしたインテリジェントな若者たちであった。ふつう地方の貧民街の悪ガキども(英国版ヤンキー)は、こういう理屈っぽそうで最先端っぽい流行にはのっからない。が、パンクが下層ヤンキーたちまでとりこむことに成功したのは、セックス・ピストルズの存在以外の何物でもなかっただろう。ピストルズと並びパンクの両雄などと言われることの多いクラッシュだけでは無理だった。それは「俺、クラッシュはわりとどうでもよかった」派が連合いの友人らの中でも圧倒的に多いことを見てもわかる。

 

ピストルズのメンバーには、いくらヴィヴィアンやマルコムに着飾らせられていても、なんか顔つきは俺たちみたいじゃん、みたいな部分があったのである、貧民街の若者たちにしてみれば。そしてその部分が芝居やポーズではなく本物だったからこそ、「彼らは俺らの代弁者」「奴らに出来るんだったらきっと俺にも」みたいな気分になって自らギターを握ってみたり、マーケットにストール出して自分でペイントしたTシャツを売り始めたりして、本物の非行少年たちまで自分の手で“ノー・ファン”な状況を打破しようとしたのだ。

そう考えれば、パンクというのは何とポジディヴなムーヴメントだったのだろう。

 

「どんどんわけがわからなく、残忍で、暴力的になってゆく」

と言われている貧民街の子供たちの荒れっぷりを見るたびに思う。

パンク以降、彼らに真の意味でポジティヴなヴァイブレーションを与えたユース・カルチャーがあっただろうか?

彼らまで取り込んで国中に広がった、インテリ・キッズのムーヴメントがあっただろうか?

上層と下層が渾然一体となってスパークする輝き。そんなものが、きっとこの国のパンクにはあったに違いない。

 

「フディーズに必要なのは愛だ」と発言して、「アホかあいつは」「現実を直視しろ」とマスコミに袋叩きにされたのは保守党のお坊ちゃま党首デヴィッド・キャメロンだが、彼らに必要なのは愛ではない。

英国には、新世代のピストルズの出現が必要なのだ。

  
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2008年02月13日

「ハッピー・ゴー・ラッキー」って、マジですかその題名。マイク・リー監督

Happy-Go-Luckyいやー、ニュースで見て大笑いしましたが、火曜日にベルリン映画祭で上映されて話題を呼んでいるマイク・リー監督の新作(写真)。タイトルが「Happy-Go-Lucky」って。ははははは。マイク・リー作品が。いいですねえー。

どうやらリー監督はもう陰気なのには飽き飽きしておられるのだそうで、今度の作品の主人公は底抜けに明るくてポジティブなロンドン北部に住む学校の先生(名前がまた、ポピーちゃん。ははははは。いいですねえー)。30代のポピー先生(サリー・ホーキンズが演じている)のどこまでもオプティミスティックで前向きな人生に対する姿勢が、他の人間を当惑、混乱させまくる、というプロットだそうで、いわゆるキッチンシンク・リアリズム(台所の流し台写実主義。と直訳するとさっぱりわけがわかりませんが、要するに現実の世界をありのままに描いた極端なリアリズムのことであり、英国では労働者階級の家庭生活をリアルに描いた劇はキッチンシンク・ドラマと呼ばれてきました。50年代+60年代頃から)の同監督の手法は変わっていないそうですが、ご本人に言わせれば、この映画は“ミニマリストで厭世的で陰気であることの流行”に対する拒否表明なのだそう。

「世界中が悪い状態だが、多くの人々はつべこべ言わずにただ生きている。僕の仕事は、僕たちのありのままの姿を人々に見せることだ。だから、コメディだけどダークな側面もある」とご本人は記者会見で語っておられた模様。

いいですねえー。なんかすごくいいと思うのと同時にスコーンとやられた感があって、ダブルでいい。「ヴェラ・ドレイク」でどっかり腰を下ろしたわけじゃなかったんだ。ブリリアントという言葉を久々に使いたくなりました。最近、ソープオペラ(あくまでも英国の定義での)とキッチンシンクが、やっぱり持ち場かなーと思ったりしていたので。

http://uk.news.yahoo.com/afp/20080212/ten-entertainment-germany-film-festival-a56114e_1.html

http://www.timeout.com/film/features/show-feature/4171/mike-leigh-is-happy-go-lucky.html

  
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2008年02月12日

爽やかな週末の朝。家の前には血溜まりが

「犯罪者は自分の家のドアステップでは脱糞しない」

という(ロウワー・ワーキングクラスの)諺の通り、日常的にはしごく静かなわが貧民街であるが、先週の土曜日の朝、ちょっとした事件が起きた。

 

先週末から英国南部(というか全国的だったみたいだが)は初夏かと勘違いするような快晴。雲ひとつない爽やかな英国の冬の朝。脳みそのアルコールマリネ状態が続いているのでついに幻覚まで見るようになったのか、わたしは。と寝起きから眩暈を覚えつつ窓の外を見てみれば、家の前に巨大な梯子車が止まっているのが見える。

もしかして、うち、燃えてるの?

急いで服を着て外に飛び出てみれば、2人の救助隊員の兄ちゃんが、

「ひょっとしてこの車のオーナーはあなたですか?」

と路上のBMWを指す。

「そ、そんなめっそうもございません、いくら何でもうちがBMWなんて。あそこに止まってる廃車寸前だけどまだ一応走ってるよみたいなポンコツがうちのです。この車は隣の若夫婦のものです」

そう答えながら燦然と輝くBMWを見てみれば、水漏れしてるのか油漏れしてるのか車の下にリキッドの溜まりが形成されており、うん?、でもなんか妙に赤いぞ、と思って目線を上にあげてみると、「あっ」と思わず声をあげたほど凄絶な感じの血しぶきが車の側面に散っている。

 

「で、ずっと上のほうにも何かあるんですか?」

「は?」

「いや、梯子車があるから」

そう質問してみると救助隊員は事の経緯を説明し始めた。どうやら彼らは何もこの血溜まりのために出動してきたわけではなく、爽やかな週末の朝、シーガル・レスキュー(カモメ救助)という海辺の街ならではの牧歌的な任務のために梯子車で出動してきたのであり、その任務の帰りに近道しようと思い立ち大通りを抜けて貧民街の細い道に入ってきたところ、この惨状を発見してしまった、ということだった。爽やかな任務の後にこんなガラの悪い地域を通って帰ったりするからそんなことになるのだ。

 

そうこうしているうちにも救助隊員の1人が隣の若夫婦の家に行って、車の持ち主であるところのデイヴを連れてきた。だいたいが彼はこんな貧民街とは全く縁がなかった人間で、「元カウンシル・ハウスは新時代のデザイナー・ハウス」などとおサレ系雑誌が無責任に騒いでいるのを鵜呑みにし、安価な元公営住宅を購入して大金をかけて家屋内を改造、ロンドンのイスリントンあたりに住むクリエイティヴな職業の人々のフラットのようにポッシュでスタイリッシュな空間を作り出してお住まいになっているミドルクラスのお坊ちゃまである。自分の車に飛び散った血しぶきを見た瞬間にもう固まって吐きそうな顔になっている。

 

しかし、彼の嘔吐衝動も理解できるというか、この血溜まり、よく見てみればかなり気色が悪かった。その血液の量の多さだけでも吃驚するというのに、その中に浮いているのだ。

ごっそり引き抜かれたような長い金髪の束と、安っぽいゴールドのイヤリングが。

 

そうこうしているうちに救助隊員から通報を受けたポリスが到着。デイヴの車周辺に白いテープを張り巡らせたりしてクライム・シーンをクリエイトしており、「うっひゃあー、本格的になってきたな」と、家に戻ってみれば連合いも窓の外を覗いている。

ほどなくポリスが我が家のドアステップにも現れ、「昨夜から今朝にかけて、何か奇妙な物を見たり、奇妙な物音を聞いたりしませんでしたか?」と、聞き込み捜査を開始している。

「いやー、昨日の晩は2時ぐらいまで起きてPCに向かってましたけど、別に何も聞かなかったです」と、よくドラマなんかで犯罪現場の近所の人々が答えているようなことを答え、ポリスに別れを告げて再び外を見てみれば、隣のデイヴはまだ亡霊のような顔をしてうろうろ舗道を歩き回っていた。

 

犯罪現場の調査は昼過ぎには終了、デイヴは自分の車をガソリンスタンドで洗浄することを許され、白いテープとかのクライム・シーン小道具も全て除去されて、ポリスが一応水を流して血を片付けて行ったらしいとは思われるのだが、まだ十分うちの前は血みどろであり、仕方がないので連合いがうちの前庭からホースを延ばしてじゃーじゃー道路を洗っている。

 

午前中はひっそりとして家の中から出てこなかった近隣の人々(うちの近辺では、ポリスの姿が見えると妙に人通りが少なくなる)もちらほら外に出て来始めて、ホースで道を洗っている連合いのそばに集まり、ぴーちくぱーちく噂話を始めている。昨夜11時過ぎに女の悲鳴を聞いた、とか、近所のパブの閉店後に歩いて帰宅していたカップルが、道端で痴話喧嘩か何か始めて男のほうが女に暴力を振るったんだろう、とか、いやそれだけじゃそんな大量の血は出ないから刺したんじゃないか、とか、そういえば丘をちょっと上ってったところに近所でも評判のDV夫婦が住んでおり、妻が長い金髪をしている、とか、土曜の午後の貧民街はもうちょっとしたツイン・ピークス状態である。

 

「でも解せないのは、どうして血がここで止まってるかってことだよね」

「だよね。移動してたら、血の跡が続いてるはずだもんね、動いた方向に。ここに溜まってるだけってのが変だよね」

「ここから車に乗せてどこかへ連れて行ったというのがロジカルな解釈だよな」

「しかしこの金髪の束はどういうことなんだろうね」

「車に乗せたときに引っ張り過ぎて抜けたとか」

「こんなに沢山抜けないよ、そのくらいのことで」

などと盛り上がる近隣の人々の会話を聞いていると、ジェットウォッシュでぴかぴかになったBMWに乗って隣のデイヴが帰って来た。もう路上駐車するのは懲り懲りなのか、颯爽と自宅のガレージに入っていく。車から彼が降りると、近所の人々は「ハーイ」だの「ハロー」だの一応デイヴに挨拶し、彼が家の中に入っていくのを見届けてから再び喋り始めた。

 

「だいたいあんな車をこれみよがしに路上にとめておくのが悪い」

「そうだよな。あんな車が路上にとまっていると、それでなくとも男ってのは酔うと自分の人生について考えたりしがちだから、なんか自分がひどくルーザーな気分になって女を殴りたくなったりするもんなんだよな」

「場所柄をわきまえて、あんな目立つ車は自分ちのガレージに入れとけっつうの」

みたいな話になって、いつの間にか話の焦点は、貧民街ツイン・ピークス事件ではなく、隣のデイヴになっている。

 

そんな近所の野郎どもの会話を聞きながら、わたしはしみじみと考えていた。

「マギーの娘たち」と呼ばれるサッチャー政権時代に育った世代の女子たちは、きちんと教育を受けた人民ピラミッドの中から上のほうの階層では社会進出めざましく、いまや英国では女子のほうが男子より優秀なのは当然の事実になっているが、下層に生きる女たちはいまだ男に八つ当たりされ、殴られ、髪をむしったりされながら生きているのかと。

 

うちの前で血液を大量に失った貧民街のローラ・パーマー(死んだときまったわけではないが)とは、いったいどんな女性なのだろう。

水で流したぐらいじゃ全然落ちない彼女の血痕が、まだわが家の前の道路に呪いのようにべっとりこびりついている。

  
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2008年02月10日

英国の「セックス・アンド・ザ・シティ」。BBCドラマ「Mistresses」

Mistresses

というわけで、4人の女たちの物語。である。

2人じゃなんか間がもたないし、3人じゃ21のいびつな構図になりがちだし、書いてて飽きない程度に人数が多くて、でも構図的に暑苦しくも重苦しくもなりすぎない女同士の関係となると、やっぱり4人よねー。ということなのか、4人の女の物語というのは昔から一つのパターンとして確立されており、「若草物語」を子供時代に読んだ女性なら、この構図は無意識下にこびりついていて離れないはずだ。

 

で、今シーズンの英国ドラマでは一番人気と言われているBBCMistresses」も、脚本、監督共にメインは女性。よって、この「4人の女物語」のパターンを見事に踏襲しており、英国版「セックス・アンド・ザ・シティ」とも呼ばれているが、「SATC」に比べるとダークで、スリラー仕立ての部分もあり、いわゆるGirly(“ガーリー”という日本語表記はわたしにはできない。寿司のガリみたいでビジュアル的に全然かわいくない。なんかこう、ごっつ過ぎるだろ、“ガーリー”って)さに欠ける。というか、もっと日本の昼メロ的で、「浮気相手の子供を身篭りました」とか「不倫相手の息子とも寝てしまいました」みたいな、禁断のよろめきドロドロ要素が入っていて、それだけに嵌りやすい。「アホかおまえらは」とか言いながら。

 

http://www.bbc.co.uk/drama/mistresses/

 

Mistresses」の主演はセーラ・パリッシュ。この女優はおそらく日本では殆ど知る人もいないだろうが、位置づけとしては英国ドラマ界の山口智子。主演ドラマはすべて大ヒット、同性からの高感度NO.1女優。映画進出は遅れている(あまりその気がないのかも)が、「ホリデイ」にチョイ役で出演していた。

 

http://www.sarahparish.nl/

 

なんかこう、大柄でバサバサしてて、昔は男でした?疑惑を抱くようなタイプなので、どうしてあんなに男にモテる役ばかりもらうのかよくわからないが、おそらく英国の女性は彼女に自分自身を照らし合わせ、自分がモテてる気分になってぐいぐい視聴率を押し上げている。ってのがあるんだろう、きっと。

 

昨今は日本で米国のドラマブームが起こっているようだが、英国のドラマにも日本で放送されたらヒットするだろうなあ。と個人的に睨んでいる作品は何本もあり、例えばこの「Mistresses」なんかもその一本。ジェットコースター的ストーリー展開と、一昔前の日本のトレンディドラマを思い出させるような主人公たちの「しゅてき〜ん」「いかにもロンドン〜」なお住まい&ライフスタイル。日本でも20代後半から40代の女性は嵌るだろうと思われ、換金できると思いますよ。もしその筋の方が見ておられたら。

 

それ以外にも「This Life」(http://www.amazon.co.uk/This-Life-One-Sam-Miller/dp/B00004CWDN  BBCが放送した、90年代後半の英国で一大旋風を巻き起こしたカルト・ドラマ。一軒の家をシェアする若い男女(&ゲイ)の勢いある青春ストーリー。その不埒さと鼻もちならなさと、最終回の最終シーンにおけるあまりのシュールさには、唸ったものです。昨年、10周年記念の単発ものも放送されましたね。つまんなかったけど)、「Clocking Off」(http://www.bbc.co.uk/drama/clockingoff/ 2000-2003年放送。毎回主人公が変わる短編小説のようなBBCの人気ドラマ。工場に勤めるワーキングクラスの人々の私生活を、ある時はシリアスに、ある時はユーモラスに描いて、笑い泣き労働者ドラマの決定版。英国アカデミー賞TV部門で最優秀ドラマ賞を受賞。その後、この手法はBBCドラマ「Street」に引き継がれている)など、日本でも換金できるだろうドラマは多々あれど、日本で放送されている英国ドラマのラインアップとかを見ると、そうかあ?それでいいのかあ?みたいな印象を持つのは否めない。

 
それでも、前述の、英国の山口智子ことセーラ・パリッシュ主演の「Cutting It」は日本でも見れるようで、邦題が「マンチェスター・ラプソディー」になっていたのには驚いたが、番組紹介文が「マンチェスターを舞台に愛と仕事の両立を目指すスタイリストを描く」になってたのにはもっと驚いた。この“スタイリスト”が“ヘアスタイリスト”の誤訳であるのは間違いないが、毎週欠かさず観ていたわたしが紹介していたならば、「マンチェスターの美容院に渦巻く美容師たちの愛と野望を描く」になっていた作品である。

http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00012/v01012/

  
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2008年02月06日

英国映画電子草紙 其の六 MISS POTTER(ミス・ポター)

Miss Potter

冒頭から注PUB映画夜話は、いきなりですが英国映画電子草紙と改題いたしました。改題の理由は、我ながらかなりアルコールに依存して生きている(従ってものすごく金がかかってる)今日この頃、ちょっと酒量を控えよっかなーと思い立ったからであり、PUBなどという不吉な言葉の使用は避けたいからであります。

 


うちの両親が英国にやって来た昨年の秋の話である。

彼らに英国くんだりまで来てもらった理由は、土建屋であるうちの親父にユンボに乗ってわが庭、っちゅうかわがジャングルを掘りくり返して人並みのイングリッシュ・ガーデンにしてもらいたかったからであり、実際に親父はブライトン観光を半日、ロンドン観光を半日した以外には、土日も休まず一ヶ月間みっちりブライトンの貧民街でユンボに乗って帰ったわけだが、そのおかげで彼に随伴してきたうちの母親はたいそう退屈な思いを味わった。

 

観光とかいう普通の人々がするような楽しいことはできないんだよ。遊びで来てもらうために高い航空券買ったわけじゃないんだし。というのは無言のうちにも両親に伝わっていたはずであるが、旅行、しかも地球の向こう側まで飛んでいくとなれば、かなわぬ夢を抱いてしまうのが人間の常であり、2人はこっそり日本でイギリス観光本、なんてものを購入しておったようで、それをスーツケースに忍ばせてきた。そして親父が庭でユンボに乗っている間、英語のテレビなんか見たってわからないし外出したって言葉わからないから帰って来れなくなりそうだし、ってんで一日中家屋内で腐っていた母親が、くだんの観光本を出してきては一日中ページをめくって写真を眺めるようになったのである。その様子を見るとなんとなく哀れというか不憫な心持にもなったが、してやりたいという気持ちはいくらあっても、貧しい娘には金のかかることは物理的にしてやれない。

 

「これは湖水地方のほうやろう?この辺じゃないよね。きれいかねー、ほんと、これが湖水地方ねー。やっぱ湖水地方は景色が違うね」

などと日がな1日うわごとのように湖水地方、湖水地方と母親が呟いているので、何を言っているのだろうかと思ってくだんの観光本を見てみれば、「Miss Potterの世界」と題された特集ページに、風向明媚な湖水地方の田園地帯の写真がでかでかと掲載されている。

「ああ、そりゃ湖水地方やね」

「そうやろ、やっぱ湖水地方やろ」

「うん」

「湖水地方は、・・・・・・やっぱ遠いっちゃろうねー、ここからは」

「知らん。行ったことないもん」

とわたしが答えると、ブライトンの家窓から見える貧民街の荒れ果てた景色を見ながら、諦念に満ちた顔で母親が低いため息をついていたのを思い出し、先日、思い切って「Miss Potter」を見てみることにした。

 

冒頭からもうピーター・ラビットがひよひよしている。銀のティーポットにびらびらしたテーブルクロス。お嬢さん階級のお嬢さんライターがお嬢さんメルヒェンとお嬢さんペインティングで世に出て自立してしゅらしゅしゅしゅー。である。

腐っても日本のワーキングクラスである土建屋の女房が、「素敵ねー、きれいねー」などとこんなものに憧れてどうするのだ。日本人ってやつぁ、すぐこういう上層階級の英国に憧れて、やれおティーポットだやれおスコーンだのと騒ぎ、英国式アフタヌーンティーで評判の店、とかいうフレコミの詐欺茶屋に行ってたかが茶を飲んで小麦粉の塊を食うがために平気で3000円も払うのである。ふん。うちの界隈じゃおティーポットで茶を入れる家庭なんか見たこともないし、おスコーンなんか食ってる奴もおりはせぬ。ティーバッグで入れた紅茶を飲みながらグラスを吸って昼間っからぼんやりしてる奴ならいっぱいいるけどね。

 

だが、しばらく我慢して、英国人というより埴輪じみた顔になってるレニー・ゼルウィガーを見ていると、だけど結構こいつも女としてはいろいろあったのかもね。いい歳こいて少女系おタクっていうか、腐女史っていうか、気色の悪い女だったのは否めないとしても、恋愛の絶頂期に相手が死ぬってのはちょっと激烈だよな。そういや明治生まれのうちの婆ちゃんも、娘時代にドイツに留学していた婚約者が結核で死んだとか言ってたけれども、昔は男がぼろぼろ若死にしたんだよな。ほんで残されるのはいつも女で。

 

などと共感っぽいものも湧いてきて、いったんそういう目線になって見てみれば、おお牧場は緑。ほんなこつ湖水地方の自然は美しかー。見てんしゃい、あの芝生の緑色。あの樹木の瑞々しさ。心が洗われるごたるね。とオーガニックに自然を愛でる気持ちが盛り上がり、ちょっと近所の公園にでも行ってこましたろかしらん、あそこは栗鼠さんとかも出没するし、ピーター・ラビットが出てきて一緒に遊んでいてもおかしくないわよん、くるるるるん、とスキップしながら1歳の息子にコートを着せて家を出ようとしていると、トイレから出てきた連れ合いが言った。

「公園行くんなら、芝生に落ちた注射針やシリンジで坊主が怪我しないように気をつけろよ。あそこ日が暮れるとジャンキーの溜り場だから」

 

ああやはり。わたしの暮らす世界はMiss Potterの世界からは遠すぎる。

わたしの住む英国ではピーター・ラビットですら公園で腕にヘロインを打ち込んでいる。

 

そしてわたしは再び扉を閉め、息子のコートを脱がせて窓のカーテンを閉めるのであった。

わたしの住んでいる国はファッキン・ブリテンである。メルヒェン・ブリテンじゃなくて。

  
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2008年02月05日

フェミニズムの勝利?ふん。ヒラリーは究極のWAGだ

週末にBBC NEWS 24の各国ジャーナリスト討論番組を見ていて面白かったのは、英国の女性記者のヒラリー・クリントンに対する見解が痛快なまでに辛かったことである。いよいよ女性が米国大統領になるかもしれない。フェミニズムの勝利!本格的な女性の時代の到来!などと素直に喜んでいる女性たちもいる中で、英国の女性たちはわりとそうでもなく、醒めた目でヒラリーを見つめているようだ。

 

中年以上の現代の英国人は2人の“鉄の女”を知っている。1人は言わずもがな、マーガレット・サッチャー元首相。そしてもう1人は、“腑抜けた息子には跡目をゆずれない”とばかりに80を過ぎても王位に足を踏ん張り睨みをきかせているエリザべス女王。これらの強烈な女ボスを知っている英国人は、さすがに女性指導者を見る目が厳しく、ヒラリーはちょっと違うんじゃないかなみたいな見方が主流のよう。

 

そもそも、ビル・クリントン元大統領がモニカ・ルインスキーとの不倫問題でスキャンダルになり、「自分は挿入はしていない」などという、記者会見における米国大統領の発言としてはブッシュの一連の白痴発言よりよっぽどシュールなことを言っていた頃、全世界の前で恥をかかされたヒラリー夫人が夫に三行半を突きつけずに踏みとどまったのは、“我慢するから、その代わり、私をこの国の大統領にしてちょうだい”というDEAL、つまり取引が2人の間でなされたからだったと言われている。

 

で、現在、その約束どおりにクリントン夫は妻を全面的にバックアップしており、「オバマの父親はイスラム教徒だからヤバイ」と新聞に書かせてみたり、自らバラック・オバマの青臭い発言を罵倒してみたりと、いまや陰からではなく表に出て来てお得意の“個人攻撃、悪口挑発一本勝負”でバトルし始めたのであり、ああこれはヒラリーの選挙なのではなく、クリントン夫妻の選挙なのだなあ。と実感させられる。

 

浮気をして妻に許してもらった男性というのは、妻に対して大きな“借り”意識を持つものらしいし、ヒラリーがそれを最大限に利用して米国大統領に就任するというのであれば、これは“フェミニズムの勝利”というよりは“人妻の逆襲”なのであり、ヒラリーは“鉄の女”ではなく“鉄の嫁”だ。自分の野望のために夫の浮気を許した昔のヒラリーは、夫の浮気も笑って我慢して“ベッカム夫婦”というブランドを死守している現在のビクトリア・ベッカムとどこが違ったのだろう。

 

そもそも、飼い犬に手を噛まれた女は、噛まれる前と同じ濃さと容量の愛をもって飼い犬を愛することはできない。それを知っていながらも女が飼い犬を捨てないのは、男性の作家とかがよく書くような「2人にはヒストリーがある」とか「それでも愛がある」とかいうおロマンティックなことが問題なのではなく、ぶっちゃけた話そこに何らかの損得が絡んでいるからであり、庶民的スケールでいえば「離婚してもこの歳じゃ仕事もないし自立できない」「たいした資産もない夫からは、慰謝料や養育費なんかも期待できない」といった経済的理由が主になるわけだが、ファースト・レイディだったヒラリーの場合は、自らの野望の達成という目標のために、夫と別れない道を選んだのである。

 

WAG。という言葉は英国のマスコミが作り出した新語であり、WIVES AND GIRLFRIENDSの略語であって、有名サッカー選手の妻や恋人たちを指す。ここ数年、英国では、ビクトリア・ベッカムや、ウェイン・ルーニーの婚約者コリーン嬢などを筆頭としたWAGsたちの台頭がめざましく、女性のファッション・リーダー、オピニオン・リーダーとして活躍しており、自分自身の才能や仕事で有名になった女性たちより注目を集めるという状況が発生している。このWIVES AND GIRLFRIENDSの定義をサッカー界の外にまで広げるならば、ヒラリー・クリントンは究極のWAGであり、彼女はファッション・リーダーなどというチンケなポジションではなく、全世界のリーダーを狙っている。

 

ある意味、すっげー。ことではあるが、これはフェミニズム的には勝利というより後退だろう。

たとえヒラリーが大統領になったとしても、それは“史上初の女性大統領の誕生”ではなく、“史上初のWAG大統領の誕生”なのである。

ふん。一緒にしないでよね。

いまや半呆けで使い物にならなくなっているマーガレット・サッチャーがあと10歳若かったら、あの鉛のような重圧感のある声で、ぐふ、ぐふ、とせせら笑ったに違いない。

  
Posted by mikako0607jp at 08:11TrackBack(0)