2008年03月30日

選ばれざる者たち:セレブの養子縁組随想

長いことフリーランスなどという立場で閉じこもって仕事をしていると、未知の人に出会うとか、知らない人の世話になって何かを成し遂げるとか、そういう経験がなくなる。(というか、もっと未知の人に出会ったり知らない人と仲良くなったりして一緒に何かをしないから仕事が激減し、廃業、失業、借金、親子心中。といった暗澹とした将来しか描けない状況になるわけなんだが)

 

実は現在、個人的に人生の軌道修正を図っており、未知の人たちに出会ったり、知らない人の世話になったりしなければならない状況に自分を追い込んでいるんだけれども。だ。

これがまた人生というのは面倒臭いものであり、どの人とも仲良くなって世話になるというわけにはいかない局面に必ずぶちあたり、誰かを選ばなければならない。という大変な事態が持ち上がってくる。

 

そもそもが選ばれる立場にしか立ったことのない人間で、人様を選択するなどという恐れ多い立場には立ったことのないわたしにとり、これは凄まじい精神的ストレス、苦悩、憔悴を意味する。

選ばれる。というのも何とも嫌な立場ではあるが、あんまり選ばれたことのないわたしにとっては選ばれない者の気持ちというものがよく理解できるだけに、選ぶ。という立場は、泥酔しないと生きていられないぐらいに苦手である。

 

女優のアンジェリーナ・ジョリーがアフリカから養子をもらった時の話だが、彼女は孤児院に長男マドックス(彼も養子だが)を同行したらしい。で、そこでずらっと並んだ孤児たちを一覧し、マドックスが気に入って頬にキスをした赤ん坊を連れて帰ることにしたという。彼女はインタビューでその時の様子を語りながら、そのシーンはとても“ビューティフルだった”と言っていた。選ばれなかった孤児たちにとってはちっともビューティフルなシーンではなかったはずだが。

 

ゴシップなんか書いていると、セレブリティーの養子縁組は面白い記事がない時の常套ネタとして使うのに重宝はするが、“人買い”“西洋人の奢り”といったよくある彼らへの批判は置いといて、わたしにとって引っかかるのは、この“選ぶ”“選ばれない”問題なのである。

 

俳優だの歌手だのといった人たちは、常に一般大衆に“選ばれる”ことを仕事にしており、その“選ばれ具合”で成否が決まる人たち(まあこれは何の業界でも同じかもしれないが)だ。よって一線で活躍しているスターは、過去に“選ばれなかった”経験はあるにせよ、概ね“選ばれる”立場にあったからこそ現在の地位にのし上がることのできた人々だといえる。

 

それ故、彼らにとっては多くの人間の中から“選ばれる”ということはサクセスや勝利を意味し、誰かが勝利するシーンは感動的であり、美しく見えるわけである。しかし、わたしのように“選ばれない”ことに慣れている人間には、そのようなシーンは美しいどころか、醜いとしか思えない。なぜなら、落胆、失望、自信の喪失、怨恨、呪詛、荒廃。といった、選ばれなかった者たちの事後心理がすぐに連想されるからである。

 

英国で有名人による発展途上国からの養子縁組問題が議論される場合、“西洋諸国がアフリカを食い物にしている状況の縮図である”というようなことが人権擁護派の政治家や団体から叫ばれがちだが、西洋人じゃないわたしには“何きれいごと言ってんの。あんたらがアフリカを食い物にしてきたのは今はじまったことじゃなくて、ずっとそうじゃん”ぐらいにしか思えない。わたしにとって気になるのは、そうしたポリティカルなことではなく、単純に選ばれなかった子供たちの気持ちである。

 

“祖国から引き離されて裕福なスターたちによって連れ去られた子供の人権”よりも、“選ばれなかった己の身(おそらくは容姿的問題か、運の問題)を呪って生きていかねばならぬ子供たちの人権”のほうがわたしには気になるのだ。

 

こういうことを気にしてしまうのが人生の敗北者の特徴だと言われればそれまでだし、“負け犬”とかいうポップなものではないにしろ、ライフというものにおいて負け続けている人間であることをわたしは120%認める。

しかし、孤児の中からどれか1人を選ぶ。というような鈍感な行為を行うことが出来、しかもその場面を“美しかった”などと言える了見の狭いスターを絶賛・憧憬したりする世の中(日本社会のことを言っているのよ。英国人にはこういうハイ・プロファイルの人道派は最初から疑ってかかる癖があるから)にはなって欲しくないと祈るし、広がりのない“他者に対する愛”はどんなに言葉で虚飾されても自己愛に変わりない。

 

十数年前、わたしはロンドンのキングスロードという高級住宅街にある邸宅に間借りしていたことがあるが、大家の老夫婦はアフリカの子供たち50人のフォスター・ペアレンツになっていた。フォスターするということは、会ったこともない子どもたちの生活費、学費などを支援するということだが、彼らはこれらの子供たち1人あたりにつき月額で10ポンド(日本円で2000円)程度を送付していた。老夫妻がよくフォスターしている子供たちの写真を見せてくれたのを覚えている。

 

同性愛者だった1人息子をエイズで亡くした夫妻は、近所の病院のHIV病棟でボランティア活動もしていて、彼らの紹介でわたしもボランティアをしていた時期がある。爺さんのほうは英国人と日本人の混血で、1920年代〜30年代にロンドンでホテルを営んでいた日本人男性が父親だったという。彼の父親は、英国人の恋人を捨てて日本に帰国、妊娠中だった彼の母親は精神状態に異常をきたし、息子を出産後も完全に正気に戻ることはなかった。という森鴎外的ストーリーだったのを覚えている。この爺さんは日本人の父親が残して行ったという魯山人の器を沢山ロフトに隠し持っていた。

 

彼は定年退職後も英国の大企業の顧問を務めていて、当該業界では相当リスペクトされていた老人だったようだが、どうもその身のこなしや顔つきには時々加藤茶を髣髴とさせるものがあり、日本人の血を感じたものである。

日本に対する興味と同時に深い憎しみも抱いていたようなので、物凄くいい大家だと思う時もある反面、複雑なやりにくさを感じることもあった。が、亡くなった息子の部屋を激安の家賃で日本人学生にばかり貸していたというのがすでに何かを物語っていたように思う。

 

老夫婦の邸宅のあったチェルシーという地域は、芸能人、有名デザイナー&芸術家、企業幹部などの大金持ちの隣人ばかりで構成されており、あの頃だって彼らの間では発展途上国からの養子縁組はさかんであった。しかし、この爺さんはそうした風潮を「スチューピッド」かつ「シャロウ」であると言い切り、

「愛は、出来るだけ幅広く、人を選ばずに注ぐべきだ」といつも言っていた。

 

親に捨てられた子供に同情するだけの人々はそんなことは考えもしないだろうが、本当に親に捨てられたことのある人は、きっとそう思うものなのだろう。

  

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2008年03月22日

英国映画電子草紙 番外愛蘭土編 「Once ダブリンの街角で」

ONCE

魂。なんてものは叫ばせちゃいけないに決まっている。

町田康(わたしは今でもヤスシと読んでしまうが)なんかも、ついつい魂を叫ばせてしまうあほんだらどものことをカレー作りを媒介としてその著書中で痛烈に皮肉っていたが、それを書いた彼の感性はきわめて正常だ。魂の叫びなんて暑苦しそうなものはスルーするのが知性ある人間の常識である。

 

魂。それは叫ばせたりしてはいけないものである。

ましてやU2がバスキングしていたダブリンのストリートでギターを抱えて吠え歌う。などという、黒革のぴたぴたパンツの中で潰れたボノの睾丸(BY ジョン・ライドン)の如くに見苦しい行いはもっての他であり、その上あろうことか、異性と自作のラブソングを歌い合い、互いの魂を叫び合う。などというようなことは、“恥”という概念を知っている人間なら死んでもしないことである。

 

魂。そんなものは絶対に叫ばせてしまってはいけないのだ。

どれほど叫びたい内容がそこに存在しようとも、その内容に、ひねり。工夫。ユーモアによる客観化。風刺。などのプラスαを加えて、クリエイティブ処理を施さなければ、詩だの歌だのいうものはどうしようもなくアホくさい。辛いよおおお、愛しているよおおお、と声高に叫ぶだけならサル山のサルにもできることだからだ。

 

そもそも、今時あの国にだってストレートに魂を叫んだりしている若者はいないのだ。現代の物語として製作されていても、この映画に出てくるダブリンのイメージや登場キャラクターの特性は明らかに80年代から90年代初頭のものであって、現在のあの街はこの映画よりもはるかに洗練されている。

 

この映画をつくったチームの核は監督のジョン・カーニーと主演のグレン・ハンサード。2人は90年代初頭にダブリンで一緒にバンドをやっていた。その後カーニーの方は映像の世界の方に進み、ハンサードは変わらずに音楽の道を歩んでいるわけだが、彼らが描くダブリンのストリート・ミュージシャンの世界は、明らかに“あの頃”の時代の匂いを引きずっている。ここに描かれている世界は、ダブリンの“現在”ではない。

 

ハンサードの相手役の女の子にしろ、監督本人も語っているように、東欧から来た移民という設定の中でのみ存在できるキャラクターであり、リッチでおサレなヨーロピアン・カントリーズの一つに成り果ててしまった現代のアイルランドには、あのような純朴な娘は存在しない。

つまり、この映画はこういうことなのだ。

幻想のノスタルジック・アイルランド。を舞台にした叫び合う魂のラブストーリー。

 

思わずピュークしたくなるようなサマリーである。

知性の欠片でも持ち合わせている人間なら、“恥”という概念を理解している人間なら、そしてサル山のサルにはなりたくないと思っている人間なら、このような作品は絶対につくらない。

んが、そういう知的な人間の思惑など屁ほども気にしてないような勢いで、時折ばーんと海の向こうから思い切り魂を叫びつけてくる人たちがいる。

アイルランド人である。

どうして彼らはそのような野蛮なことをするのであろうか。

それは、彼らがバカタレで恥知らずのサルだからであり、インテリで他人の目ばかり気にして生きている人間のほうがサルより偉いとはまったく思ってない人種だからだ。

 

自分の人生の3大テーマは“恋と映画とサハラ砂漠”。なんてことを20代の頃から一貫して言い続けている友人がいるが、これをわたし自身にスライドさせれば、3大テーマは“酒と言葉とアイルランド”ということになるだろうか。

 

オネストなところを書いてしまえば、楽器屋での“魂のデュエット”シーン以降、ずっと目から屁温い水が垂れ流れっぱなしで、往生したのだ。わたしは。

 

こんなテリブルな映画、2度と観たくない。

  
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2008年03月13日

子供。という名の不都合

ちょっと前からうちの坊主が保育園デビューを果たしている。毎日通わせられるほどの収入が母親にないのでイレギュラーな形での参加だが、彼は1歳児グループの責任者であるところの別嬪な先生がお気に入りで(きゃつはプラチナブロンドに弱い。誰に似たのかは言うまでもないが)喜んで通ってくれていた。が、今朝だけはわたしが去ろうとすると大泣きする。というのも、今日はくだんの責任者の姿が見えず、仏頂面で「Am I bothered?」(BYキャサリン・テイト。思い切り現地ネタですが)系の研修生しかいない。子供とは正直なもので、坊主は彼女が嫌いらしい。とはいえ、それが人生というやつなんだよ、坊主。ライフってやつには、嫌な奴と一緒に時間を過ごさなきゃいけないことのほうが多いんだ。

 

それに、研修生だけで子供たちの面倒を見るということもないだろうから、責任者は遅刻してる、とかそういう事情なんだろう。と思いつつ、泣き叫ぶ子供を残してわたしは保育園を去った。今朝の用件は、クライアント激減・廃業寸前のわたしの未来がかかっている。と思うほど重要なものであり、数週間前から今日のこの日のために地道に準備を進めてきたのだ。まだちょっと時間があるので、最後の詰めとして書類に目を通しながらカフェでコーヒーを飲んでいると、急に携帯が鳴る。

 

「もしもし、保育園のクレアですが。○○くんが耳感染にかかっているようで、耳だれが凄くて、肩の上にポタポタ落ちています。この状態では園ではお預かりできませんので、今すぐ迎えに来てもらえませんか」

例の研修生の姉ちゃんがいかにも面倒くさそうな調子で言った。

「今すぐ、ですか?」

「ええ。他の子たちの衛生上よくないですから。垂れてるんですよ、耳だれがポタポタと」

よりにもよってこんな日に。

と頭の中が一瞬真っ白になるが、ふと我に帰って気がつく。そう。よりにもよってこんな日に限って一番困った状況を作り出しやがるのが子供という(F)クリーチャーなのである。

「・・・迎えに行きます。そこからは少し離れた場所にいるしバスの時間もあるので、30分程度かかると思いますが」

そう言ってわたしは電話を切った。

 

うちの場合はわたしが1人で子育てしているので、こんな時に連合いのヘルプは一切期待できず、頼りになる家族なんかもいない。仕方が無い。と覚悟をきめて、わたしは先様に電話をかけて仕事をぶっちぎることにした。

「子供が病気で」と真実を語っているのにそれが妙に自分でも白々しく聞こえ、英語を喋りながらぺこぺこ頭を下げている卑屈な己の姿がカフェの鏡に映っている。むかし企業というところで仕事をしていた頃には、わたしだって「子供が病気」などという理由で仕事をドタキャンする女性外注業者のことを、救いようの無いあほんだらだと思っていた。

 

仕事の枯渇。廃業。失業。無収入。借金。地獄。取立て。逃亡。といった暗い言葉ばかりが頭に浮かび、そういうことになって最終的には親子心中するぐらいだったら、別にいいんじゃないの、たかが耳だれぐらい。と放っておきたい気にもなるが、やはりそういうわけにはいかないのが世間のしがらみというやつである。

いきおいカフェの外に出ればいつの間にか豪雨が地面を叩きつけていた。わたしは服を着たままブライトン・ビーチで泳いだ酔っ払いのようにぐしょ濡れになって(この比喩はわたしのオリジナルではない。バスの運ちゃんに言われた言葉である)、バス停へと急いだ。

 

園に到着し1歳児の子供たちの部屋に入ってみれば、坊主はちょこんと椅子に座って水を飲んでいる。責任者の姿は見当たらない。今日は研修生の姉ちゃん1人で3人の1歳児の面倒を見ているのだ。いいのか?それって。監視機関のOFSTEDにタレこんだるぞ。と思いながら研修生のほうを一瞥すると、彼女はそこはかとなくおどおどした態度で

「あなたが帰ってからずっと泣き続けて、落ち着かせるまでに時間がかかりました。今ようやく落ち着いていますが、左の耳を見てください。マネージャーに相談したら、これはうちでは預かれないと言われました」

とべらべら喋り出す。

 

坊主の左耳を見て、わたしは言葉を失った。

そのポタポタ垂れるほどの大量の耳だれ、というか要するに膿を、ずっとそのまま放置してある。だから坊主の耳は膿で一杯になっていて、耳たぶにもその液体は溢れ、だらだらと流れ落ちるに任せて肩の上にまで黄色っぽい透明な雫が溜まっている。

「わざとそのままにしているんです。どのような状態でうちでは預かれないと言っているか、証拠としてあなたに見せなさいとマネージャーが言うので」

と、研修生が言う。

 

上司に言われたことをそのままクライアントに伝えている研修生は稀に見るバカタレだが、マネージャーの判断はビジネス的には正しい。なぜなら、親は前もって保育園の支払いを済ませており、病気で帰されることになっても返金はされず、しかも、保育園に小さな子供を預けている親は仕事などの用があって預けている場合が多いので、保育園が今日は預かれないなどと言うと、逆上する親だっているだろう(今朝電話をもらった時のわたしは、逆上を通り越して将来を悲観し、絶望していたが)。だから、子供を預かれない証拠を残しておいて親に見せるというのは、保育園側の自衛策として正解である。

 

だが、その時、耳だれが耳内部に満ちたままで放置され、耳たぶ、首、周辺の髪、肩付近の衣類といったものががびがびになってもほったらかされて、非常に不愉快な思いをさせられている子供の人権というものはどうなるのであろうか。

 

子供とは、大人にとっては“不都合”である。どんなにきれいごとを並べても、彼らにそういう側面があるのは事実だ。育児を本業として配偶者という雇用主に雇われている人々ならそうでもないかもしれないが、金をくれる雇用主が配偶者以外の人間であり、育児以外にも仕事を持っている人なら誰でも、子供を“不都合”だと思う瞬間は断続的にあるはずだ。

 

しかし、今朝のように剥き出しの形で、その“不都合”の擦り付け合いを見ると気持ちがずっしり沈下する。

働く親に“不都合”と見なされ、「妙な病気持ってそうだから」と保育園にも“不都合”と見なされた子供。そしてその“不都合”具合を証明するために使われた耳だれ。小さな耳からぼたぼた零れ落ち、坊主のセーターの上に汚らしい黄色い染みを形成している耳だれ。

 

わたしは自分のバッグの中からウェットティッシュを取り出して坊主の耳を拭いた。

「ここに捨ててもいいの?」

とゴミ箱を指さすと研修生は「捨てていい」と言うが、他の子供たちの衛生を考えるというのなら捨てさせたらいかんだろう、こんな蓋もなく背も低いゴミ箱に、耳だれまみれのティッシュを。と思いつつわたしはティッシュを自分のバッグに入れた。

 

坊主をバギーにのせて保育園を出ると、先ほどまでの豪雨は勢いを失っている。

仕事の枯渇。廃業。失業。無収入。借金。地獄。取立て。逃亡。

陰気な気分でバギーを押していると、「ひゃああああ、きゃああああ、ふりゃああああああ」と前方から烈しい雄叫びが聞こえるのでどうしたことかとバギーの中を覗いてみれば、坊主が満面の笑顔でこちらを見上げていた。

 

追記:というわけで、ブライトン&ホーブ市内にいいNURSERYをご存知の方、教えてください。貧民区側でなく、中心部でもOKですが、140ポンドとかいう高級なところはわたしには払えません。

  
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2008年03月05日

ニック・ケイブとEASTENDERS。そして、ヘンリー王子はゲイ・アイコン。の話題

Dig!!! Lazarus, Dig!!!

わたしがEastEndersウォッチャーであることは以前から再三書いてきたし、19967月から今日までの放送分だけなら見逃したエピソードは1本もない。ということをわたしはけっこう自慢にしており(そんなのはちっとも自慢にならん。サッドな人間であることの証明だ。と人には言われるが、いいのである。わたしにはハッピーな人間になる能力も意志もない)、それ故、ウディ・アレンのようなにわかEastEndersファンとは一緒にされたくないというプライドも持っているが、先週、例によって例の如くEastEndersを見ていたら。

 

30代後半の離婚調停中の夫婦のエピソードがあり、夫(見ている人たちのために書くとマックス)に一時的に子供たちを預けていた妻(タニヤ)が、夫のところに子供たちを迎えに行くと、夫(マックス)と子供たちはホーム・カラオケで遊んでおり(英国の家庭にも本当にカラオケが浸透したんだなあと感心。80年代にホーキカズコがチャンネル4でやっていたシュールなカラオケ番組を覚えておられる方が何人いるだろう)、妻(タニヤ)とヨリを戻そうと思っている夫(マックス)が、昔2人でよく歌っていたデュエット曲をかけて彼女に歌わせようとする。というシーンがあった。

 

で、その思い出の曲のイントロが流れ始めたわけだが、“ん?何だっけこの陰旋法。って感じの、どこかで聞いたような陰気なメロディ。ひょっとして、「黒の舟唄」?”と思ったが、まさかロンドナー夫婦が加藤登紀子のナンバーでカラオケするはずもないので、落ち着いてよく考えてみれば、なんとニック・ケイブ先生の楽曲である。

 

 http://www.youtube.com/watch?v=9adWrWagg6k&feature=related

 

なるほど。「Where The Wild Roses Grow」って、英国では30代後半夫婦のカラオケ・デュエットの定番だったのね。おまえはカイリーちゃんで、俺はニック。みたいな。

わたしの行くカラオケ・パーティーはもちっと上の世代の集まりなので、今回のこれは新発見だった。

 

YouTubeでこの曲のビデオを物色していると、カイリーちゃんの代わりにブリクサ・バーゲルトが歌っているヴァージョンも投稿されていたので、この話題のオチとしてここにコピペしておく。

 

 http://www.youtube.com/watch?v=0eGVPbdv-3I&feature=related

 

                    *******

 

ところで、ニック・ケイブ&ザ・バッド・シーズの新アルバム「Dig!!! Lazarus Dig!!!」(写真)がまたもや素晴らしい。人生は50歳から始まる。のかな。という気になってくる、彼の作品を聴いていると。ブライトン&ホーブ市の誉れである。

 

http://www.nickcaveandthebadseeds.com/diglazarusdig/index.html

 

 

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今日のおまけ:いつの間にかロンドン市内無料配布新聞METROがブライトンのバスの中でも入手できるようになっていて、ひょっとするとかなり前からそうなっているのかもしれないが、世の人々が出勤・通学する爽やかな時間帯にバスに乗ることのないたわけ者であるわたしは、つい最近まで知らなかった。

 

ウケてるわけである。ゲイのみなさんに久々にMETROが読める懐かしさと共に、同紙の“今日の一言ゴシップ”から笑ったものを3発。

 

  プリンス・ハリー(ヘンリー王子)はゲイ・アイコンである。彼のゲイ・ファンたちは軍隊用のコンバットパンツを履いた王子の写真をインターネットからダウンロードしてポスターにしている。

 

  ガイ・リッチーへの伝言:メイフェアのヴァージン・アクティヴ・ジムのメンバーシップがもうすぐ切れます。

 

  リアム・ギャラガーが、パパラッチを見つけるとつい腹を引っ込めてしまうことを認めた。彼曰く、「誰だってやってるさ。だから何だってんだよ」


  
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2008年03月03日

「聖林には天使がいるのね」のコティヤールが、「9・11は米国の捏造」発言

人魚姫ドレスのコティヤール嬢

受賞スピーチで「この街(ハリウッド)には本当に天使がいるんだわ」などと愛らしいことを言い、アカデミー賞主演女優賞をもらったばかりの仏女優マリオン・コティヤールが、実はその裏で「メリケンは嘘つき」「911は米国のでっちあげ」「米国の月面着陸も怪しい」と自国メディアに語っていたらしい。

 

http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/showbiz/showbiznews.html?in_article_id=523729&in_page_id=1773

 

この一連の発言はフランスの雑誌のウェブサイトに掲載されたものだそうで、英国デイリー・メイル紙日曜版によれば、コティヤールはツインタワー爆破について

「飛行機がぶつかった同じようなタワーは他にもあったでしょ?それらは焼けちゃったかしら?24時間燃えたタワーがスペインにあったと思うんだけど、崩れ落ちることはなかったわ。崩れ落ちたタワーなんて他にないのよ。ニューヨークのタワーだけが数分のうちに完全に崩れ落ちた」

「あれはすごくお金のかかる建物だったの。1973年までに建設されたタワーだったから、ケーブルを全面的に張り直したりして最新のテクノロジーや何かに対応できるようにするためには、すごくお金がかかって、使っている状態のほうが、崩してしまうより高くつくの」

と語っているらしい。

 

また、月面着陸についても

「人類は本当に月面を歩いたのかしら?それに関するドキュメンタリーはたくさん見たけど、本気で疑いを抱いてしまう。何にせよ、彼らが言ってることをすべて信じることはできないわ。それは確かよ」

と言っている。

これは一年前にフランスで放送されたテレビ番組に関するコティヤールのコメントだったらしいが、仏誌に掲載された当時はたいして話題にもならかったそう。アカデミー賞を獲った今だからこそ再び記事にされているわけだ。

 

個人的にこの記事を読んで思ったのは、ああフランス人の若者らしいなあ。ということである。わたしにもフランスの若者の友人が2人ほどいるが、2人ともわりと似たようなことを言っている。親米派の猿誇示(サルコジと打ったらこれが出た。なんかいいのでそのまま表示)は、フランスと米国との新“仲良し関係”を構築しようとしているが、国民の気持ちの中にくすぶるアンチ・メリケン感情はなかなかに根が深い。特に、“権威”や“力あるもの”にはとりあえず批判的態度を取ったほうが格好いいと思っている若者たちの間では。

 

父兄会のお母さん風シャロンと共に。だが、それ以上にわたしが面白いと思ったのは、このようなアンチ・メリケン思想を持っていながらも、ちょっと米国で自分の仕事が認められたりすると「この街には本当に天使がいるのね」などと赤面して舞い上がってしまうコティヤール嬢のある意味での尻軽さ。である。「ハリウッドには天使がいる」なんて。ハリウッドは米国的嘘の塊のような街ではないか。この辺、いかにも今時のヨーロッパの若者らしい。そういえばトニー・ブレアなんかも、ワシントンに行く度カッペみたいに頬を染めて舞い上がっていたし。

 

“天真爛漫なふりをしてアカデミー賞をもらった欧州の女優が、裏では米国をボロクソにけなしている”という、ヨーロピアンのしたたかさを感じさせる話題。というよりは、どんどん気骨を失っていく欧州人の尻軽さを感じさせる記事である。

 

人魚姫の尻は軽くて青かった。ということかな。

  
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