2008年04月16日

英国映画電子草紙 其の七 「ATONEMENT(邦題:つぐない)」

ATONEMENT つぐない。などというタイトルを見てしまうとわたしのようなホステス歴のある中年女はついマイクを握ってテレサ・テンしてしまいたくなるが、原題の“ATONEMENT”とは贖罪という意味であり、これはクライスト教の世界で人間が犯した罪を神様に許してもらうために行う行為を意味する。

つまり、この場合、罪をつぐなう相手はあくまでも神様であり、迷惑をかけた相手に損害賠償を行うとか、損害を与えた人々にお詫びすため腹をかっさばいて自決するとかいった、対人間的なCOMPENSATIONの意味ではない。

 

ホステス歴もあるがカソリック信者歴もある身をもって補足するならば、この場合の贖罪とは、自分が犯した罪を司祭経由で神に告解した後で、司祭から「罪のつぐないとして○○を行いなさい」と命じられるものであり、罪を犯した本人が自分で贖罪法を決めるわけにはいかない。「○○の祈りを何回唱えなさい」というような贖罪法を言い渡されるのが普通であるが、例えば長崎のような、「先祖はキリシタン弾圧のため命を落としました」みたいな激コアな教区の教会では、教会前の石の階段を、擦り傷だらけになりながら一段一段膝でのぼって贖罪している人なんかもいた。

 

*****

 

話は変わるが、うちの近所に少年Aという男の子が住んでいた。住んでいたと過去形にしているのは、彼はもう近所にはいないからであり、それでは家族そろって引っ越して行ったのかというとそういうわけではなく、彼の母親や弟たちは今も近所にいる。

この少年Aの母親は、彼の父親と別れた後に別の男性と同居を始め、その新たなパートナーとの間にさらに2子をもうけ、家族5人になって貧民街で生活していたのだが、数年前にこの男性とも別れた。

 

あまりこの男性とそりの合わなかった少年Aは、ポーカーフェイスの醒めたガキながらも内心かなり嬉しそうだったが、そこが子供には理解できない大人の男女の不思議というやつであり、出て行ったはずの母親のパートナーがまた家に戻ってきた。

人間が嫌なやつと一緒に暮らす場合、継続的に一緒にいれば諦めの心情で淡々と堪えることも可能だが、一度その嫌なやつが出て行って、再び舞い戻ってきた場合にはどうにも耐えられなくなることがある。

 

よって少年Aは嘘をついた。

母親がパートナーの人格そのものを疑い、再び別離を決意せずにはいられないような、ダークで深刻な嘘を。

頭のいい子なのでバレにくい内容の嘘にはなっていたが、そこが子供には理解できない大人の男女の仲の妙というやつで、あっさりと、しかし劇的に彼の嘘はバレてしまい、母親は少年Aを捨て、パートナーの男性を選んだ。

 

*****

 

映画「ATONEMENT」では、嘘をついた少女は、それが2度と取り返しのつかないことになってしまうという偶然の結果によって、死ぬまで贖罪を強いられることになる。

これは、“他人の夫と乳繰り合ったりするのは良からぬことなので、当該男とはきっぱり別れることによって罪をつぐないます”と言っているテレサ・テンのような、対人間的で、人間が勝手に自分で決めた方法による贖罪ではない。

 

一方、少年Aの場合は、嘘をついたことによって母親に嫌われ、恐がられて、独占したいほど好きだった母親と一緒に暮らせなくなった。

これが彼の「ATONEMENT」なら、それは明らかに人間が自分の感情によって、自分たちの都合で決定した方法による贖罪であり、神に対するものではない。

それゆえ、それは絶対的なものでも、取り返しのつかないものでもあってはならないはずで、いつかは済し崩し的に、人間的ないい加減さと軽さと温もりを以って許されるべきなのである。

 

といった按配で、映画とは直接関係のないことを考えている間に、キーラ・ナイトレイとジェームズ・マカヴォイが浜辺で戯れるシーンになって「ATONEMENT」のDVDは終了していた。

 

そしてしばらくの間わたしは、少年Aが好きだった亀田のハッピーターンを食べながら、もう2年近くも遠くの街の祖父母の家で暮らしている彼のことを考えていたのである。

 

窓の外は、立ちくらみのするような小春日和だ。

 

  

Posted by mikako0607jp at 08:17TrackBack(0)

2008年04月15日

There will be blood.(注:これは映画評ではありません)

先週は、テレビをつければオリンピック聖火リレー問題関連報道ばかりやっていて、週末はそれが一気にロンドン・マラソン関連報道に切り替わったものだから、なんか今、世の中ってみんな走っているのかしらと思ったりしていたわけだが、聖火問題のほうは、海外に住む者としては感じることの多い話題であった。

 

「あれさあ、俺らの国の中なのに、なんで中国人がぞろぞろ聖火守って走ってるわけ」という、近所の青年がパブで発していた素朴な疑問が象徴している通り、人権擁護活動に熱心なごく一部の人々を除く一般的な英国人にとっての“引っかかり”は、チベット問題でもダライ・ラマでもなく、その一点だったはずである。

 

そして当然ながらその引っかかりは、“んで、なんで俺らの国の政府、中国人が自国民を取り締まっている状況を容認してるわけ”に発展するはずなのだが、わりとみんなその点はスルーしているというか、あんまり逆上したり激怒したりしている人がいないのはどういうわけなのだろうと思う。

 

ゴールドマン・サックスは、2050年までに世界第一の経済大国は米国から中国へと変わっており、2位にはインドがつけているだろうと予測しているが、世界のパワー・マップはすでに驚くほどのスピードで変わり始めているようだ。

 

英国で、フランスで、米国で、聖火を守って走る現地の警察の内側に自国の警備要員を配置させろと要求する中国の自信。「わが国の抗議運動はわが国で取り締まります。干渉ご無用」と言えない西側の(旧)大国たち。西洋諸国が食い物にしてきたアフリカや南米でも、現在は中国が圧倒的に幅をきかせており、西側の人々が“Do they know it’s Christmas time at all?”などとセンチメンタルな合唱を行いながらボブ・ゲルドフの指揮のもと募金を集めている間に、クリスマス・タイムなんぞ何らの関係もない中国が不休で現地を食い荒らし続けている。

 

近年、英国のメディアも中国に対して批判的報道をすることが増えているとはいえ、やはり基本的には「可哀想な中国人」目線であり、中国に行ったら現地の人々のために衣類を残してきたり、孤児を養子縁組したりしてくる立ち位置からそれほど変化していない。欧米の人々は、発展途上国に対してロマンチックな罪の意識を感じているものなのだ。

 

だから中国があれだけ自信たっぷりに英国内で振舞っていても、あんまり英国人のプライドは傷ついていないようなのである。加え、聖火を囲んで走っているのが中国人(というか東洋人)だという、ビジュアル的な事情もあるだろう。あれが白人種や黒人種、アラブ系などの迫力あるビジュアルの警備要員であれば、勝手に人の国にやってきて警官気取りで市民を取り締まっている他国人の姿を英国人とて黙って見てはいないだろう。が、東洋人のビジュアルというのは如何せん癒し系というか脱力系なので、なんかこう、聖火を囲んで走っているのを見ても、怒りがこみ上げるというよりは、「はあ?」みたいな、「何か変。」みたいな感じで、「あれさあ、何でああいうことになってるわけ?」でストップしてしまっているのだ。彼らのリアクションも。  

 

が、それもいつまでもそこでストップしているわけにはいかないだろう。

なぜなら、中国は、“さりげなく、それとなく、大国のみなさんに嫌われないようにコッソリ追い抜かせていただきますよ”みたいな、日本のように腰の低い国ではない。

根拠に基づく部分だけでなく、基づかない部分でも、常に自信満々である。

しかも、人権について考えたりするおセンチさもない。

その偉そうな国が全然“可哀想”でなくなった時には、いくら顔がいつも笑っているように見えるとはいえ(目が細い東洋人は西洋人にはスマイリーな顔に見えるらしい)、彼らだって中国に対するムカつきを感じるだろう。

 

そうなれば、現在はヒューマン・ライツだのポリティカリイ・コレクトネスだのといったコンセプトに拘泥してすっかり大人しくなっている欧州の人々も、一気に野獣化する可能性がある。なんといっても彼らは肉食人種である。いくら近年ヴィーガンが増えているとはいえ、肉を食ってきた人間の子孫はDNAが肉と血の味を覚えている。メリケン嫌いの姿勢を取っている欧州人にしたって、「これならまだメリケンの方が良かった。民主主義だし」みたいなことを言い始めて、欧米肉食DNAの統合が進むのは必至である。

 

そんな彼らが本気でぶち切れ、中国が“抜かれる者の気持ち”を逆撫でするような偉そうな態度で応対したなら、There will be blood.(血を見ることになるぜ)な状況にさえなりかねない。

 

その時、一応世界第二の経済大国であるニッポンはどうするのだろう。

現在でもすでに中国へのムカつきを感じており、しかしながら肉食DNAを持ち合わせていない、微妙かつ特異な立場の日本国は。

 

DNA問題で言うなら、日本人のひきこもり(「ヒッキコモ〜リ〜」BY BBCのリポーター)は鎖国時代のDNAの記憶とも言う事ができ、そんなものが現代という時代に社会現象になっているということに、すでに何かあるのではないかという気もする。

 

予感するDNA。 と書くと、なんかファンタジー臭いが。

  
Posted by mikako0607jp at 08:52TrackBack(0)

2008年04月12日

人が死ぬ。

今年に入ってからやたらと人が死ぬ。なんだか週末になる度に黒い服を着ているようだ。

亡くなっているのはすべて連合いの友人たちである。うちの連合いはわたしより9歳年上なので50代。そろそろ死ぬ年頃なんだろう。過去にわたしの雑文に登場したことのある人なんかも亡くなっている。いくら英国は日本のような長寿国ではないとはいえ、こうも次々と人がいなくなると、残された者の気持ちは揺れるようだ。

 

連合いは自らのライフ全般がSHIT、即ちクソに思えると言う。

住んでいる家もクソなら仕事もクソ、わたしや子供といった家族もクソ、あまりに何もかもがクソなのでこのままで自分の人生が終わるのかと思うと全身全霊で嫌気がさすらしく、本当にそう言いながら鳥肌をたてている。

 

またいつもの欝かな。と思っていたが、今回のは妙に長い。

死にたくなる。というような衝動は彼にはないようなので、そのうちポール・ゴーギャンのように出奔でもするのかなと思って見ているが、今のところは毎日帰宅している。

 

もともと責任とか家庭とかいったものが滅法苦手であり、放浪癖のある人だということを知ってて一緒になったので、そういうことになったとしてもわたしはあまり驚かないし、今にもバックパックを背負って出て行きそうな気配のある昨今では尚更のことだ。

 

ミッドライフ・クライシス。というやつは、40歳で訪れる人と50歳で訪れる人とあるようだが、肉体や容貌の衰えから来る40代のクライシスと、周りが死に出してふと自分の人生に思い当たる50代のクライシスとでは、その質がかなり違うように思える。

 

かくいうわたしはまだそういう危機は経験したことがないように思えるが、生き死にの問題で言うなら、坊主を出産する前は、もう死んでもいいと思っていた。と書くとえらくネガティヴな感じだが、そういう劇的な心情ではない。これまでやりたい放題やってきたから。というか、行きたいところに行って飲みたいだけ飲んで好き勝手に生きてきたので、特にやり残したと思うことはなかったのである。今後生きて行っても、老いや年金問題などで人生下り坂になる一方だし、それなら別に今死んでも構わないなー。ぐらいの気持ちだったのである。

 

が、坊主を産んでからはそう思わなくなった。

子供などというものは親があろうとなかろうと育つもんではあるが、この国の施設に預けられた子供たちがケアラーである大人にオカマを掘られた話や、精神的・肉体的虐待を受けた話などを聞けば、あんまり自分の子供にはそういう目にはあわせたくないと思うし、できれば自分の手と金で大人にしてやりたいと思う。

 

そう考えればわたしの場合は出産でミッドライフ・クライシスを乗り切ったのかもしれず、連合いの場合は“子供の誕生”よりも“友人の死”のほうが切実であり、重大であるということなのだ。

 

そういえば以前、ブライトンのゲイ街でパブを経営しているランドレイディ(でも本当はランドロード)が、“男と死”というテーマについて熱弁していたことがある。

 

「男って生き物はさー、死ぬってことをやたら大変なことだと考えているのよね。だから死ぬ前にこれだけは成し遂げたい、とか、死後も何かを残したい、とか、いろいろ力んで考え込んじゃうの。死後に何かを残す、なんて、ねえ。アタシなんか絶対考えられない。生きてるってだけでもこんなに恥ずかしいことなのに、死んでまで何を残そうっていうのかしら。自分がいなくなった後まで自分に関係する何かがこの世に残ると思ったらゾッとする。人間なんて、恥を晒して生き永らえて、死ぬ時が来たらきれいさっぱりいなくなりゃいいのよ。それだけのことなのよ」

 

正確にいえば彼女は女性ではないが、これは紛れもなく女の発想である。

  
Posted by mikako0607jp at 10:15TrackBack(0)

2008年04月11日

マデリン母とシャノン母。その帰属階級の光と影

現在英国を騒がせているニュースの一つに、“シャノンちゃん失跡事件”がある。

ベッカムなどの有名スターがマスコミに出て来て呼びかけを行った“マデリンちゃん失跡事件”のように国際的知名度はないが、国内ではちょっとした騒ぎになっている。

 

“マデリンちゃん事件”は、医者の夫婦がポルトガルで友人らとバカンスを楽しんでいる間に幼い娘が失跡した、という事件であり、今回の“シャノンちゃん事件”の方は、5人の男との間にできた7人の子供を産んだという、うちの界隈にも沢山いる感じの大変ややこしい人生を送ってきた32歳の無職の母親と、20歳そこそこのスーパーマーケット勤務の内縁の夫との間で育てられている少女が学校帰りに失跡したという事件であり、“マデリンちゃん”の方が英国の典型的ミドルクラスの家庭に起きた事件であるのに対し、“シャノンちゃん”の方は典型的ロウワー・ワーキングクラスの家庭に起きた事件である。

 

マデリンちゃんの方は現在も見つかっていないが、シャノンちゃんの方は失跡して一ヶ月も経たないうちに母親の内縁の夫の叔父の自宅で発見されており、それ以降親族が続々と逮捕され、挙句の果てには実の母親まで逮捕される有様で、親戚一同グルになってシャノンちゃんが失跡したように見せかけ、タブロイド紙に独占インタビューを売ったり、“マデリンちゃん”の両親のように娘を捜索するためのサイトや基金を立ち上げて一儲けしようとしていたのではないか。と言われている。実際、シャノンちゃんの親族の者が、“マデリンちゃん”基金の関係者に「金を分けてくれ」と連絡を取ったという話もある。

 

また、チャンネル4に「Shameless」という英国の底辺階級に生きる家族のコメディがあるが、そのエピソードの一つに家族で身代金目当てに誘拐事件をでっち上げるという話があったらしく、シャノンちゃんの家族はそれを見て失跡捏造を思いついたのではないかと警察は睨んでいるらしい(これは英国在住の人ならのけぞって笑えるだろう)。

 

実は事件発生当初から、我が家の近辺に住む人々は「こいつら(シャノンちゃんの家族)、見るからにやべーよな。金目当てで絶対何処かに娘を隠してるぜ」「マデリンちゃん事件とか見てさー、一攫千金を手に入れる方法があると思ったのよ、きっと」「アホだよなー。見てろよ、そのうち家族全員逮捕されるから」みたいなことを言っていたのである。さすがに、同類のことは同類が一番よくわかっていたといえるだろう。

 

シャノン母しかし、この辺はマスコミ(特にタブロイド)も最初から何となく疑っていたに違いなく、その証拠にシャノンちゃん事件関連報道は、完全にマデリンちゃん事件のパロディと化していた。例えば、シャノン母の「娘を探して」キャンペーン・アピール用の写真を見ていただきたい。

 

彼女が握っているぬいぐるみは、マデリン母がしょっちゅう持ち歩いていたぬいぐるみを意識したものだと思われ、このいかにもプロレタリアートな感じの労働者風ショットは、どう考えてもエレガントなマデリン母をパロディ化したものだろう。

 

マデリン母は、そのダイアナ妃を髣髴とさせる寂しげな顔立ちがマスコミ受けし、彼マデリン母女がこのような美女でなかったらマデリンちゃん事件はここまでメディアに取り上げられることはなかったであろう、と言われている女医である。それに比べてシャノン母は、“私はWhite Trash(白い屑)階級の女です”と顔に書いてあるような、風雪と生活保護と嘘と不法行為と罵り言葉と家庭内暴力に晒されて生きてきた下層の生涯無職人だ。年齢的にはシャノン母の方がマデリン母より7歳若いのだが、生活環境によって女の老け方というのはここまで違ってくるという見本のような2枚の画像である。

 

そのシャノン母に美しきマデリン母のパロディをやらせて編集部内で笑っていた(だろう)英国のタブロイド紙ジャーナリズムを思う時、その鋭さと同様に、冷たさにもゾッとする。

ワーキングクラスを読者層とし、ワーキングクラスのための新聞を作っていることを売りにしているタブロイド紙にしろ、書いている人間は全員ミドルクラスのインテリゲンチャなのだ。自分は屑ではないと自負している人間は、自分が屑であると確信している人間に対して情け容赦しない。

 

しかし。

いくら我が家近辺もシャノンちゃん親族系の白屑エリア(で、わたしなんかはその下に位置する黄屑だったりするわけだが)だとは云え、親類の家に娘を隠して失跡したなどと言い張り、ばれずに金儲けができると思うバカタレはまずいないだろう。が、それにまんまと騙されてシャノンちゃん発見までに1ヶ月もかかってしまった英国の警察ってのは、ひょっとしてその上を行くバカタレなのかとも思ってしまう。

 

とはいえ、リンゼイ・アン・ホーカー嬢殺害の犯人を捕まえることのできない日本国の警察も、こちらでは信じられないほど無能だと思われているみたいだが。

  
Posted by mikako0607jp at 10:29TrackBack(0)