2008年06月17日

サッチャーがセクシー・ファム・ファタールだった頃:BBC 「The Long Walk to Finchley」

ファム・ファタールなマギー 政治や議論や戦争が好きな女は例外なくセックスも好きなので、マーガレット・サッチャーなんて人は若い頃はとんでもなく色っぽかったに違いない。

という昔からのわたしの勘ぐりをそのまま映像にしてくれたのが、BBC4で放映されたドラマ「The Long Walk to Finchley」である。

 

http://www.bbc.co.uk/iplayer/page/item/b00c188n.shtml?src=ip_potpw

 

http://www.amazon.co.uk/Margaret-Thatcher-Long-Walk-Finchley/dp/B0018AHIVA

 

労働党政権が長く続き過ぎているのと、ブレア前首相の“米国の犬”的外交策&イラク戦争参戦の恥辱などから、ここ数年、英国ではネオ・サッチャー待望論のような空気が漂っており、それは就任直後のゴードン・ブラウン現首相が、党派の壁を無視した前代未聞の大胆さでサッチャー元首相を首相官邸に招き、肩を抱き合っている姿をマスコミに撮影させるなどしてPR材料に使ったことからも明らかだ。

 

そんなブームに乗ってかサッチャーの生涯を映画化する話も複数出ており、若き日の彼女を演じる女優としてシエナ・ミラーの名があがっている。ということも昨年MovieWalkerさんに流したネタであるが、今回のドラマを観た後では、あのような小便臭い女優じゃまるで駄目。キュートで尻軽。というだけでは務まらないのだ、魔性の女マギーは。

 

Andrea Riseborough。彼女のサッチャーは凄かった。あの吸いついてくるような色気。ウェッジウッドの磁器のように冷たく湿った白い肌。雪の中に咲く寒椿のように紅い唇。いつも泳いでるようで実は全然泳いでいないあのサッチャー独特の目つきも、このドラマの中で彼女が演じてみせたように、若い時分には“不気味”ではなく、男を惑わす色香を放射させていたに違いない。

 

とはいえ、このドラマは何も色狂いしているサッチャーを描いたものではない。周囲の男たちは彼女の色気にやられているが、サッチャーはあくまでもサッチャーなので、1にも2にも政治と野望。彼女がめでたく国会議員になるまでの長い長い道のりをコメディ・タッチで描いたものである。「政治を志す女」に対し、当時の保守党がどれほど冷たかったか。何度公認候補選びで落とされ、やっと公認されても勝てなかったか。どれだけ男だけではなく女にまで足を引っ張られたか。彼女の若き日は苦難と敗北の連続である。だが、負けても負けてもまた立ち上がるサッチャーの姿は、まるで起き上がりこぼしのようで、“思い込んだら試練の道を”系スポ根、いや、フェミ根ドラマといってもいいだろう。

敗北続きの果てに初当選することになったFinchley地区の公認候補選びのシーンで、決選演説の前に「どうせ私また負けるんでしょう」とトイレでひっそり弱音を吐くマギーの姿は、涙なくしては見られない。

 

“保守党で最年少”、“映画女優ばりにプリティな(ゆえにたくさん損もした)”候補者だった頃のマギーは、男など政治家になるための道具としてしか考えていなかったわけだが、その頃から彼女の背後には全身全霊をかけて彼女をお守りし(こんなことを言ったプリンスがどっかの国にもいたなあ)、一生涯支え続ける黒子のような男がいた。デニス・サッチャーである。

 

デニス・サッチャーって、いい男だよなあ。とは昔から思っていたが、サッチャーがいよいよ“真赤に燃える王者のしるし、国会議事堂の椅子”を掴んで、議事堂入口で家族で記念写真を撮るシーンでは、妻の名を呼んでも振り向いてもらえず、2人の子供たちの手を引いて帰るデニスの横顔にぐっときた。

男をつくるのは女。などと言うが、女をつくるのもまた男なのである。

いついかなる時でも変わらずに自分を愛し、黙って背後から前に押し出してくれる男がいるという揺らがぬ確信があればこそ、マギーはパーラメントの星になれたのだ。

 

星を掴む女の傍にいるのはああいう男でなくてはならない。

どだいビル・クリントンでは無理だったということだ。

 

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誰も知らない親権争いの件では、メイルが1通も来ず、そうだよなあ。そんなにメンバー・オブ・パーラメントなんて知ってる人がいるわきゃねえよなあ。いたとしても、こういう種類のことには気易く関わりたくねえよなあ。ふつう、大人は。と思っている。

 

先日、彼女が日本の母親と携帯で話しておられるのを聞いてしまった。

老齢のお母さんが、東京の在日英国大使館に単身出かけて行って、相談してきたという。

「もうお孫さんたちはあなたや娘さんの手の届かない存在になっているのですよ」

と言われたらしく、日本人のお母さんにはこの概念が理解できずに泣きながら国際電話して来られた由。お母さんはS子さんの弁護士費用のために家を売る覚悟でおられるらしい。

 

S子さんに何もしてあげられないのは、わたし自身がまずそうなのだ。

わたしにしても、影響力のある日系団体や企業の後ろ盾を一切持たない、しょぼい底辺外国人の1人に過ぎない。

あまり他人様のプライベートなことには関与したくない。というのはわたしのモットーでもあるわけだが、S子さんの件だけは、ちょっと起きていることが常軌を逸しているので、ひょっとしたら何か出来るんじゃないか。などと年甲斐もなくファンタジーを抱いてしまったが、やはり人生とはそんな愛らしいフリルで構成されたものではなく、例によって例の如くに何も出来ない弱小外国人である自分が情けない

  

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2008年06月09日

ポール・グリーングラス。そのドライな臭み

PG今更なんだという感じではあるが、ようやく「Bourne Ultimatum(邦題:ボーン・アルティメイタム)」のDVDを観た。

ポール・グリーングラス(以下PGと称す)がメガホンを握るようになってから2作目のジェイソン・ボーン・シリーズだ。前作同様、映像がバサバサ&ザクザク。実にいい。

マット・デイモンは幸福な男である。PGに会わなければ、ハリウッドのジミー大西で終わったに違いないのに、彼に撮られるとなぜか奇跡が起こる。今回は同じことがジュリア・スタイルズにも起きていた。

彼に撮られれば、きっと泉ピン子も京マチ子になるだろう。

 

といった要素も彼の映画監督としての特色の一つではあるが、PGは基本的には生真面目社会派の監督である。“ロンドンの庭”と呼ばれるサリー州(イメージとしてはポッシュな埼玉)出身でケンブリッジ卒。品格あるビューティフルな英語を話すインテリゲンチャだ。そのキャリア初期から政治問題好きのスタンスを貫いており、元MI5職員と共著で英国諜報裏情報本を出版したこともある。湾岸戦争でのSASの活動、英国サッカー界の腐敗など、様々な社会問題をテーマにTVドキュメンタリーをつくっていたが、ケネス・ブラナーやヘレナ・ボナム・カーターといった大物俳優を使って「The Theory of Flight (邦題:ヴァージン・フライト)」を撮ったのが1998年。これも障害者のセックスというへヴィな問題をテーマにしたものだった。この作品を映画監督としてのPGの国内でのブレイク・ポイントとして整理するならば、この時彼はすでに40代。わりと遅咲きだったのである。

 

その後も北アイルランド問題を扱ったドラマ(英国在住の方にはご記憶に新しいだろう名作「Omagh」)の脚本を執筆したり、人種差別問題(こちらも今でも話題になる事件「The Murder of Stephen Lawrence」)を暴いたドラマを監督したりと社会派街道を邁進してきたが、そのキャリアを一気に昇華させた名作が「Bloody Sunday(邦題:ブラディ・サンデー)」だった。

 

この作品の素晴らしさは大長編で書いたことがあるのでここではすっ飛ばすが、この作品で国際的に認められてからは、ジェイソン・ボーン・シリーズ、「ユナイテッド93」と、ハリウッドの所謂ヒノキブタイで活躍しておられる。

 

スコセッシが「ディパーテッド」で監督賞を受賞した昨年のアカデミー賞では、個人的には「ユナイテッド93」でPGが監督賞を貰うべきだと思っていた。実際、英国のジャーナリストや批評家もそう主張している人が多かったのである。国産の監督だからじゃないの、という安直な突っ込みは置いておいても、“あんな痛くも痒くもない作品でスコセッシに監督賞をやるのは逆に失礼。映画界の過去ではなく、未来に目を向け、監督の独自性と、ノミネート作における手腕を評価するのであれば、PGだ”という見方が主流だった。それゆえ、昨年の英国アカデミー賞は、意気揚揚とロンドンに乗り込んできたスコセッシ様(&小姓のレオ様)をあっさり無視し、PGに監督賞を与えたのである。

 

では、彼の独自性とは、いったい何なのか。

彼の作風が語られる時、必ず使われるのが

「まるで観客もそこにいるかのような気分にさせられる臨場感」

「一切の感傷を排除したドキュメンタリー風の客観性」といった表現だ。

確かに、どちらも彼の映画の魅力である。

臨場感は「ユナイテッド93」の機内シーンで観ている方まで乗り物酔いしてしまうことからも明らかだし、冷たい客観性こそがジェイソン・ボーン・シリーズをクールなアクション映画にしており、マット・デイモンを嘘みたいに格好よく見せているわけである。

 

が、わたしが思うに、彼の魅力はそれだけではない。

突き放した視線で物事を見つめ、描くことのできる非常に頭の切れる人間が、時折見せてしまうどうしようもない熱さ。作り手のコアにある人間性のようなものが一気に噴出してしまう瞬間が、彼の作品の中には必ずあるのだ。

「ブラディ・サンデー」の最後の記者会見シーンがそうであり、「ユナイテッド93」のやけくそになった乗客が一丸となってテロリストに襲いかかるシーンがそうであり、「ボーン・アルティメイタム」のラストでジュリア・スタイルズが口角をあげてにやりと笑い、マット・デイモンが泳ぎ始めるシーンがそうだ。

静から動へ。

冷から熱へ。

クールから人間臭へ。

突き放しから抱擁へ。の、いきなりにして鮮やかな転換。

 

これだけ客観的でドライな映画が撮れる人が、これほど熱い(言い方を変えれば、臭い)のか。という矛盾。それでいながら、なぜかその二極性を無理なく共存させているところがPGの個性であり、独自性であり、ブリリアンスなのだ。

 

そこでまたどうしてU2の曲なんか使っちゃうかな、という細かい部分での不平不満は昔からあったが、大筋的には非常に好みの監督である。というか、はっきり言って妬ましいほど好きなのだ。

 

彼がボーン・シリーズの定番監督になってしまった今、絶対に実現しない夢ではあるが、PGとダニエル・クレイグのコンビで“007”を撮って欲しかったと思う。ボンド映画を根底から覆し、進化させる、激烈に格好いいものが出来ていたはずなんだが。

  
Posted by mikako0607jp at 08:59TrackBack(0)