2009年01月23日

命短し恋せよおっさん

うちの連合いが医師から癌宣告を受け、今後の治療スケジュールを聞かされて帰ってきた日の話である。

 

「で、治療はいつから?」

と訊くわたしに連合いは答えた。

「治療は再来週からなんだが、その前にハマースミスの病院に3回行かなきゃいけない」

「何で?ロンドンでしかできない検査があるの?」

「いや、そうじゃないんだけど・・・」

と言って連合いは口元を緩めてにやにやしたり、急にきりっとすぼめたりしている。

「じゃあ、何でロンドンくんだりまで行かなきゃなんないの?」

「いや、それが・・・」

でれでれしている連合いにわたしは言った。

「何なのよ、気持ち悪い」

「いや、それがハマースミスの病院で精子を冷凍保存してもらえって言われちゃってさ」

「へ?」

「化学療法を受けると、精子が使い物にならなくなっちゃうから」

「けど、わたしはもう子供産まないよ、この歳で」

わたしがそう言うと、連合いは照れなのか何なのか気色の悪い薄笑みを浮かべて言った。

「だって俺、お前に飽きるかもしれないじゃん」

 

そう言われてわたしは急速に彼側の事情を理解し、咀嚼したのだった。

「そりゃそうだ。いや、そりゃ本当にそうだよね。はははははははは」

大笑いしているわたしの方を、連合いはバツの悪そうな笑顔で眺めている。

「確かに保存してもらってた方がいいよ。わたしと別れて若い姉ちゃんと一緒になるかもしれないし、その姉ちゃんが子供を欲しがる可能性だってあるし、その時に使える精子がないと、そりゃ男としては困るもんね」

考えていたことをそのまま言語化し発されてしまった連合いは、心なしか頬を赤らめて

「そうだろう。人生のオプションは出来るだけたくさん持っておいた方がいいからな」

と言う。

 

男という生物にとって生死と精子が密接にリンクしているらしいということは以前から知っていた。が、この期におよんで何を考えているのだろうか、このばかたれは。何がオプションだ、まったく。と思うと、呆れるやら感心するやらおかしいやらで、しかしそのときのわたしの心持というのはちっともネガティヴなものでもアイロニックなものでもなく、真冬のドーヴァー海峡を見つめながら食べる一杯のうどんの如き根源的温もりに満ちていたのである。

 

最近では新聞などを見ていても、親子ほど歳の違うバックシンガーと恋に落ち、泥酔して路上で添い寝している姿をパパラッチされたポール・ウェラー。とか、自分の息子の元恋人と出来てしまい、アホなスケベじじいとして苦笑されているブライアン・フェリー。など、色に狂うおっさんたちに対する世間の風は冷たいが、それで彼らが生き延びて行けるのならそれは祝福すべき慶事ではないか、とわたしは思うのである。

 

長年連れ添った女や子供たちと死ぬまで共に生き、ああまともな男である、人間が出来ている、と評価されることを糧として生き延びて行けるおっさんもいれば、醜悪などスケベ、恥知らずの恩知らず、いい歳こいてしっかりしろ、と世間から罵倒されながらも、妻子を捨てて若いきれいな姉ちゃんをかき抱くことで生き延びて行けるおっさんもいる。そのそれぞれが、何かにすがり、何かをかき抱かなくては生き延びて行けないのなら、その対象や方向性に優劣の差があるわけがない。

 

「あんたの言うことは全く正しい。いいブツが出るように、精子摂取期間はヘルシーな飯を食わしてやるからな」

と全面支援体制を敷いて連合いをハマースミスの某病院に送り出したのであったが、ロンドンから戻って来た連合いは心なしか意気消沈していた。

「今度はいつハマースミスに行くの?」

「いや、俺はもう来なくていいって言われた」

「何で?」

3回精子を取るのは若い人だけだって。俺はもう50の坂を超えてるから、1回でいいでしょうって・・・」

「えええっ?そんなの年齢差別じゃん」と言おうとしてわたしは口をつぐんだ。その時の連合いの肩の落ち具合は、ある意味癌宣告を受けた時より落ち窪んでいたからだ。

 

時の流れは早いもので、あれからすでに3ヶ月の月日が過ぎた。

 

現在の連合いは、化学治療の副作用のためすっかり悟りを開いたようなスキンヘッドになり、「困るよなー。俺、右翼でもゲイでもインテリゲンチャでもないのに」と言いながら、吐いたり高熱を出したり口内炎になったりしつつ、まだダンプに乗っている。

一日中寝ていると気が狂いそうになるので限界まで働きたいのだそうだ。

 

時折、うちの坊主がテレビのリモコンで遊んでいてケーブルの有料ポルノ・チャンネルの広告を映すことがある。

2歳になる坊主はそのユーロビート系のテーマ曲が大好きでいつもがんがんに踊り狂うのであるが、それを脇で見ている連合いは、きまってにやにやしながら「うーん、いいねえ、この右側の姉ちゃん」等のコメントを発する。それは今でも変わらない。

わたしを救うためにわざとそうしたコメントを発しているのかもしれないが。

 

命短し恋せよおっさん。

 

こんな軽快なフレーズが、これほど重く感じられることはない。

 

恋でも何でもいいからしてしつこく生きてくれ、頼むぜおっさん。

 

吐いても吐いても吐き切れない連合いの背中をさすりながら、トイレの窓から見る小さな空は純然たる灰色。

あまりにも純然としてわかりやすくて、笑いさえこみ上げてくる。

 

  

Posted by mikako0607jp at 09:40TrackBack(0)

2009年01月21日

その先にあるもの。

子供という生物は適応が早いもので、幼児の1カ月はおっさんやおばはんの1年にも相当するに違いない。すっかり底辺託児所に慣れたムスタファは、「I’m fine」「See you later」などの簡単な英語を喋るようになり、他の子供たちと喧嘩さえするようになった。あの無言ですすり泣いていた哀しい男児が、である。

 

それ自体はとてもヘルシーなことなので喜んでおけばよいのだが、困ったことに、彼のファイティング・メソッドは非常にヴァイオレントなのである。

彼の場合、棒状のもので執拗に相手を打ち叩くのが好みで、やたらと先の尖った物体(鋏、ナイフの玩具)を手に取り、にやにやしながら相手の胸に押しつけて行くこともある。

 

底辺託児所の名物である凶暴児ジェイクと極道児リアーナの2人が素手で相手を殴り倒す、がんがん蹴りを入れる、などの肉体派であるのに比べ、ムスタファは凶器使用派だ。3人の幼児たちに共通しているのは、全員がDVの目撃者または被害者だということであり、おそらく彼らの攻撃メソッドは各人が体験してきた暴力の種類を反映しているのだろう。

 

DVを子供に見せたり、体験させたりしてはいけない。という真の理由は、「子供に悲しい想いをさせるから」とか「子供の心が傷つくから」とかいうおセンチなことではない。そうではなく、きゃつらも同じことをやり始めるからなのである。

 

幼児たちが各家庭のDVを再現している様子を見ていると気持ちは下向きになる一方だが

「クリスマス・ホリデイは楽しかった?」

という新年にありがちな質問をしてわたしの気持ちにまた下方修正が入った。

「マミイがベネフィット(生活保護受給金)をクリスマス前に全部使ってしまったから、クリスマスにはターキーじゃなくて、チキンナゲットを食べた」

5歳のローラが言えば、

「うちもベネフィット・マネーをマミイが毎月貯金しておかなかったからクリスマスに使うお金がなくって、怒ったダディが家で暴れてマミイが救急車で運ばれた」

4歳のレノンは言う。

 

英国では最近、ワーキング・クラスより下の階級のことがよくマスコミに取り上げられている。残忍な幼児虐待事件を引き起こす家庭がすべてベネフィット(生活保護)受給家庭であったことから、この“全然労働していないからワーキング・クラスとは呼べない”階級の存在が騒がれるようになったのである。が、まだこの階級のことを公に“ベネフィット・クラス”と呼ぶ人がいないのは、例によってポリティカリイ・コレクトネスを気にしてのことだろう。

 

「大人になったらベネフィットを貰って、沢山チョコレートを買って、一日中好きなテレビを見て暮らすんだ」

涼しい顔をしてレノンは言う。

困窮している人には住む家を与えますよ。仕事が見つからない人には半永久的に生活保護を出しますよ。子供が出来たら人数分の補助金をあげますよ。のイングランドは、その福祉システムをとことん利用し、死ぬまで働かずに生きていく一族をクリエイトした。そのような一族に生まれ、人間は一日中テレビの前に座ってチョコレートを食べて生きるのが普通なんだと思って大人になる子供たちは、そのうちチョコだけでは飽き足らなくなって酒を飲みだす。ドラッグをやり出す。セックス中毒になる。そしてぼろぼろ子供をつくり、その結果として補助金が増えればさしあたって生活の不安はないが、その代わりに希望もないので退屈して家の中で暴れ始め、DV問題へと発展する。自由闊達に生きているわりにはライフスタイルに幅のない階級のようだ。

 

「ベネフィットなんか貰わなくてもチョコは買える。自分で働けば、もっとたくさんのチョコが買えるようになる」

ボランティアのキャシーが、きっとした目つきでレノンに言った。

彼女はクレジット会社のコールセンターとスーパーマーケットの仕事をかけもちしながら自分の子供を養い、その上で底辺託児所のボランティアをしながらチャイルドケアのコースにも通っているという、大変に働き者で勤勉な女性だ。

 

実際、“子持ちのシングルマザーは生活保護で食って行くのが当たり前”みたいな某慈善施設関係者の中で、彼女のように「腐ってもあの階級にだけは落ちない」と歯を食いしばって生きている女性は珍しい。そんなキャシーから見れば、“ベネフィット・クラス”の人々は大変むかつく存在のようで、「大人になったらベネフィットを貰う」みたいな発言をする子供がいると、幼児を相手に本気で厭味をとばすことになる。

 

「普通の大人はね、みんな朝早く起きて仕事に出かけ、夕方まで帰ってこないものなの」

「一日中家でテレビを見ているなんて、怠け者のすることよ」

彼女の言うことにはいちいち棘があり、目線は常に上からだ。

あんたたちの親は駄目なのよ。駄目なのよ。駄目なのよ。ということを、彼女は幼児たちに容赦なく伝える。

彼女の弱者へのまなざしは徹底して冷たい。

 

が、一点だけ腑に落ちないのは、彼女の場合、なぜかそのまなざしと行動の温度が全く一致していないということなのである。

例えばパンツの中で排便しているらしい匂いを発散させている子がいれば、真っ先にとんで行って着替えさせるのがキャシーだ。眠ってしまった子を迎えに来た“ベネフィット・クラス”の母親がいれば、階下の乳母車置場までわざわざ子供を抱いて降りて行ってあげるのがキャシーなのである。

この甚だしい言行の不一致はいったいどういうことなのだろうか。

 

いつまでもきんきん厭味を言い続けるキャシーに背後から接近したジェイクが、彼女の髪をいきなり掴んで引っ張った。

キャシーは「ぎゃああああっ」と悲鳴を上げて後方にのけぞりながら、髪を引っ張った拍子に床上の玩具に足を取られて転びそうになったジェイクの胴体を支え、転んで怪我をしないようにぎゅっと抱きかかえる。

 

あんたたちは駄目なのよ。駄目なのよ。駄目なのよ。

の、先にあるもの。

そこで終わらない、そこで終わらせることのできない何か。

 

その何かは確かに存在することが、底辺託児所で働くようになってはっきりとわかってきた。

 

 キャシーに間一髪のところで抱きかかえられたジェイクは、じっと彼女の顔を見ている。

そして彼女の耳元にそっと口を近づけるので、助けてもらった礼を言うのだろうか。と思っているとやっぱりそうではなく、「殺すぞ、クソばばああああああああ」と大音量で叫んだ。

  
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2009年01月08日

(非託児所系映画警報)「マンマ・ミーア!」は一人おけさに注意されたし。

「『マンマ・ミーア!』ってさ、UKでは興行成績だけじゃなくて、DVD売上でも史上最高のヒット作になったって言うじゃない」

「オフィシャルに最も多くの英国人が観た映画になったらしいね」

「乗り遅れちゃいけないと思ってアタシも観てみたんだけど、それがさあ。アタシったら、どうなっちゃったと思う?」

「どうなったの?」

「大泣き」

「ははははは。なんで泣くのよ、あんなひどい映画で」

「馬鹿ねー。人が泣くのはひどい作品だって昔から決まってるの。素晴らしい映画で誰が泣くもんですか」

「そんなもんかしら」

「そうよ。だけど、そういう意味での号泣映画とは全然違うでしょ。コメディだし。なのに号泣しちゃったの。『ダンシング・クィーン』が始まるともう駄目。登場人物はみんな円舞したり海に飛び込んだりして盛り上がってるのに、アタシだけテレビの前で大泣き」

「じゃあ、のっけからいきなり泣いてたってことじゃん。それって『ロッキー・ホラー・ショー』観ながら号泣するぐらいレアな反応じゃない」

「きっと、あの曲で踊っていた頃を思い出しちゃうからなのよね」

「若い頃は良かったわあ。みたいな?」

「そうじゃないわよ。よく若い頃に戻りたいなんて言う中年がいるけど、アタシはそういうの一切ないもの」

「あ、それはわかる。わたしなんかも人生やり直しかと思うだけでゾッとするもん」

「でしょ。アタシも若い頃に戻りたいなんて思う人の気が知れない。あんな大変なこと繰り返すのはもう沢山」

「じゃあなんで泣くの?」

「それが何故なのか、よくわからないのよ。あれからずっと考えてるんだけど」

ブライトンのケンプタウンにある某パブのランドレイディ(生物学的にはランドロード)はそう言ってカウンターに寄りかかり、遠い目をしている。

 

「マンマ・ミーア!」は阿漕な映画である。

地中海の夏のホリデイ。日差しと酒と海とパーティー。男たちにモテモテの中年の私。若き日に愛したピアース・ブロスナンとの再会。そして愛の成就。女同士の友情。母子愛。カラオケ。コスプレ。周囲と確認しながら笑えるベタなユーモア。ABBA

 

これらの一般的に女が好むと言われているモチーフをこれでもかというほど数珠つなぎにしてみせたのが「マンマ・ミーア!」だ。そのメソッドがあまりにコテコテだから、その面白みがわかる自分のことを“ユーモアを解する知的な私”として他者にアピールできるというおまけまで付いており、「ブリジット・ジョーンズ」のDVDはちょっとアレでも「マンマ・ミーア!」なら居間の棚の上に並べておいてもいいように思える。というのが驚異的に売れている理由だろう。

 

というような御託を並べておけば「マンマ・ミーア!」の商業的成功は説明がつくとして、フェデリコ・フェリーニを愛してやまない某ランドレイディ(でもランドロード)がこのような映画で号泣したというのはどうしてなのだろう?

 

「昔から思ってるんだけどさ。『ダンシング・クィーン』には何かあるよね。人の脳内ムードを危険なほど高揚させるハーモニーっていうか。鳥に聞かせると籠の中で妙にバサバサするという説もあるし」

「うん。ちょっとヤバいものね、あれ」

「ママが踊った時代より10年ぐらい後だけど、わたしなんかもあの曲で踊った時期があるよ。ロンドンの、北部のむさいところは違うけど、中心部のクラブでPUNKナイトとか行くとさ、必ず洒落っぽくラストに『ダンシング・クィーン』かけてたもんね。するともう、ハードコアパンクからモヒカンから何からごついのがうおおおおおっと押し寄せて来て、狂ったように飛び跳ねるのよ。あんたら洒落じゃないでしょ、本気で踊ってるでしょこの曲で、みたいな」

「あの曲には人を狂わせる何かがあるからね」

「なんというかこう、キチガイじみてるんだよね、ポジティヴさ加減が」

「妙にピアノがきらきらしてるし」

「あの曲をかけると、2歳になるうちのガキなんかも最初は踊ってるんだけど、そのうちそこら辺のもの破壊してるもん。玩具を床にぶち投げたりして」

「ってことは、あんたも家でABBA聴いたりしてるわけ?」

と訊かれてわたしはむっつりと黙り込む。

 

「ダンシング・クィーン」で泣ける理由が、若き良き日への追想なんかでないことはわたしにもわかっているのである。

だって、若き日は少しも良くなんかなかった。

Having the time of my life. ・・・人生で一度の、またとないような楽しい時期。なんて、あの頃も断じて訪れてなかったし、今も全然違うし、ましてやこれから訪れる可能性はない。おばはんたち(女の気持ちで加齢したおじさんも含めて)はそうしたきらきら幻想に対する「ふざけんな」や「うくく」の年齢すら通過してしまい、ただただ茫々として眺めてしまう年齢になっているからこそ、自分でも気づかぬうちにこのような映画を観ながら目から屁温い水を垂れ流すなどという不可思議な様態に陥るのである。

陰気な気分で歩く人間の上空に広がるビューティフルな青空。のようなもんで、どんよりした暗みとピーカンの明るみの間に広がる大いなるギャップは、生理的に人間を狂わす力があるに違いない。

 

「悲しい気持ちがやたらポジティヴに盛り上がる。ってこともあるからね」

こちらの胸中が伝わったのか、某ランドレイディ(ロード)がぼそりと言った。

 

“知らぬ同士が小皿たたいてチャンチキおけさ おけさせつなや やるせなや”

 

シュールなまでの明るみをもって悲しみを表現した名曲は、三波春夫という天才歌手の肉声を借りて日本国にも存在しているが、ひょっとするとこれに通じるものが「マンマ・ミーア!」のコテコテの夢物語にもあるのかもしれず、この映画が英国の女性たちの間でバカ当たりした真の理由がそれだとすれば、ダブル、トリプルの意味で阿漕な作品だ。

 

いっぺん観てみようかしら、などという物好きなおばはんたちはくれぐれも注意されたし。

鑑賞後にダンシングしている姿をうっかり見られたりしないように。

諦念の、一人おけさを。

 

http://uk.youtube.com/watch?v=yzhxHsqQvsI

 

  
Posted by mikako0607jp at 09:17TrackBack(0)