2009年05月30日

白髪のアリス

初めてアリスを見た時、なんというインパクトのある外見の子なのかと思った。

西洋人の髪にはプラチナブロンドというのがあるが、彼女の場合は色素が薄過ぎ、2歳にしてほとんど白髪頭である。

それがぎざぎざの短髪に切り上げられていて、その下には異様なほど大きな目。睫毛や眉毛はない。というか、白い毛が白い肌と同化して生えていても見えないのである。

 

眉毛のない顔。というのは動物的に見えがちだが、彼女の顔も一見すると人間には見えない。といって、動物に例えるにしても、ラッコにしては目つきがきつ過ぎるし、蛇やトカゲなどの爬虫類を思い浮かべてみても、まだ彼らのほうが人懐こい顔をしているように思える。

 

それだけでも特異な印象であるのに、この2歳児は全く笑わない。

たとえ無邪気に笑うことはなくとも、悪事を企むときににやりと微笑む子供というのはよくいるものだが、彼女にはそれさえもない。基本的に、顔の表情がいつも同じなのだ。

大きな目を見開いて、じっと何かを見ている。

その表情は継続的に驚いているようでもあり、目を開けたまま寝ているようにも見える。

 

ある日のことであった。

底辺生活者サポート施設の食堂で、2歳のわが子にメシを食わせていると、アリスと兄のチャーリーを連れた母親が、テーブルの向かいに腰掛けてきた。

彼女は兄妹の前に小さな器を並べ、自分の皿から食べ物をどぼどぼ分け入れると、それに小さなフォークを一つずつ突き立て、顎で「食え」とばかりに指図して、黙々と自分の食事を食べ始めた。

兄妹は食事には一切手をつけず、じっと突っ立ってこちらを見つめている。

「ほら、さっさと食べないと時間がないよ」「こぼれてるよ、ちゃんと手で持ちなさい」と子供の世話を焼くわたしと、文句を言いながら食べ物を口に入れる息子。

そんな日常的な母子の様子を、2歳児と5歳児が身じろぎもせず凝視しているのだ。

その凝視はねっとりと10分ほども続き、こちらは何とも言えない暗い心持になった。

 

託児所での兄妹はどちらも問題児だが、兄に比べるとアリスの暴力のほうが野蛮で計り知れない。

彼女は他の子供の顔の肉や耳をつかんで引っ張りまわしたり、腕や脚に食らいついていったり、首を絞めながら頭をがくがく揺さぶったりする。

「殴る」「蹴る」「張り倒す」などの洗練された通常型暴力は、子供たちの体の動きや進路方向からある程度予測することが可能だ。が、アリスの攻撃メソッドはあまりにもアニマルで、そのくせ本人の顔には表情がないだけに「ぶち切れる瞬間」が読めず、予測も予防も不可能なのである。

 

別のある日のことであった。

チャーリーとアリスが食堂で母親を探していたので、ベランダで喫煙していた彼女の元に連れていくと、母親は「しばらく2人で遊んでいなさいと言ったじゃないの! いい加減に私を(F)追い回すのはやめてよ。何回(F)言えばわかるの?(F)バカなの?あんたたちは」と烈火の如き剣幕でがなり立て、兄妹の肩を一人ずつ強く押した。

兄のほうは火がついたように泣き始めたが、アリスは泣くわけでもなく、当惑している風でもなく、相変わらず大きな目を見開いて母親を見ていた。

 

その時のアリスの顔がどうしても頭から離れないので、アニー(レノックス似の底辺託児所責任者)に目撃した内容を話すと、「明日、母親と話をします」と言う。

その後アニーがどんな話をしたのかは不明だが、母親は相変わらずの様子で、アリスが失禁したパンツやズボンを名前がついた棚に入れていると言うのに、何週間たっても持って帰らない。自分の子供が朝とは違う服を着て帰ってきても気付かないのだろう。

 

娘のアリスにも何ら変化はなく、相変わらず獣のように子供たちに食らいつき、赤ん坊の首を絞め、自分の口中にナイフを突っ込んでかき回したりして託児所を阿鼻叫喚地獄に陥れる。

が、最近になってこの野獣児の以外な一面を発見したのだ。

託児所の床に落ちていたリボンを見つけたアリスが、一生懸命それを自分の髪に結ぼうとしていたのである。アリスの短髪にリボンを結ぶのは無理なので、ヘアピンにリボンを結んで髪につけて上げたら、「ミラー、ミラー」と言って鏡の方に走り出す。

そして鏡の前に立って自分の姿に見入っているので「You look pretty.」と言うと、あの凍りついたような顔が一瞬だけふるっと緩み、笑ってるんだか顔をしかめてるんだかよくわからない、意味不明な表情の変化を見せたのである。

 

突破口。というものは、どんな子供との間にもある。

リアーナの場合はアートだったし、ムスタファの場合はフットボールだった。

どうやら野獣児アリスの場合、キーワードは“GIRLY”のようで、鏡の前で髪をとかしたりアクセサリーをつけてあげたりすると、その間だけは別人のように大人しくなるのだった。

 

そんな矢先のことである。

託児所で出た洗濯物の籠を抱えて底辺生活者サポート施設地下の洗濯場に降りて行くと、昼間っから土間の隅で男女がねちゃねちゃ粘着し合っているのが見えた。

わたしがドアを開けた音に気付いて、一対の肉体は動きを静止したが、それもほんの一瞬の間で、ごそごそとまた絡み合いを再開する。

性行為を他人に目撃されてやめるか、開き直って続行するかが、既存の階級の人間とアンダークラスの人間の違いだという説を聞いたことがあるが、そういう意味ではずず暗い洗濯場の土間で展開されていたのはまさにアンダークラスの男女の粘着であった。

そして裸電球の下で喘いでいた女は、ほかでもないアリスの母親だったのである。

 

急いで方向を転換し、ドアを閉めて階段を上るわたしの脳内に

GET THE F**K OUT OF HERE

という言葉が突出してきた。

潮時かな。と悟った。こんなところには長くいるべきではない。

こんな淀みきった場所にいつまでも出入りしていてはいけないのだ。

 

洗濯物を抱えたまま託児所のほうに戻ると、アリスが鏡の前に立っていた。

ピンクのレースのついたカチューシャをつけて鏡に見入っている。

Look! I’m pretty

アリスには“GIRLY”なんて全く似合わない。

そんなものをつけてみたところで、外見の異様さが増すばかりではないか。

Am I pretty?」

アリスはこちらに近づいてきてわたしの手を取る。

野獣児の手はぞっとするほど冷たかった。

だが同時にその手は、握り返さずにはいられないほどちんまりと小さい。

Yes, you are very pretty

わたしは笑ってそう答えた。

アリスはとてもプリティとは呼べない珍妙な顔の歪め方をして、一生懸命に笑い返そうとしている。

 

  

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2009年05月26日

故国への提言/UK里親制度って、結構ボロックスだよ。

ここのところ日本の児童虐待問題および児童養護問題に関するメイルをちょうだいすることが増え(全然返事してませんが、全部読んでます。嫌な人間だと思ってください。その通りですから)、故国の児童保護事情についてもインプットしていただけるようになった。

 

近年ニッポンでも児童虐待問題が表面化しているというのだが、これは親や社会の質が急変したからそうなったということではなく、単に西欧の文化の輸入により「虐待」がトレンディになったからクローズアップされているのだ。そもそも貧民階級では口減らしだの嬰児殺しだのが横行し、こけし(子消し)などという民芸品を家に飾っていた国のことだから、そんなものは遥か昔からがんがん存在したのである。

 

70年代から80年代にかけての“一億総中流時代”が政府とマスコミによってクリエイトされたまことに愚かなスローガンであった(でも一番(F)愚者だったのはそれを本気で信じていた一般市民であり、“親が定期代を払えないので学校帰りにバイトしている”と言う十代の少女に、“遊ぶ金欲しさでやってるくせに嘘をつくな、いまどきの日本にそんな家庭はない”と断言した福岡の某県立高等学校の教諭などは、その最たる例であった。少女はバカたれは許すが愚者は許さん性質だったので、翌日には髪を金髪にしてつんつんにおっ立てて登校した。担任の生徒管理能力の低さを世に示すために)のと同様、「自分たちの時代の日本人にはモラルがあり、人間が出来ていたので児童虐待なんてことはしなかった」とかいうおっさんたちの見解は全くあてにならない。

 

前世紀末まで子供が虐待されて亡くなったケースが日本で大騒ぎされることがなかったのは、子供の死亡が別の理由で処理されていたからであり、「児童虐待」という概念がトレンディでなかった時代には、子供の死を調査するほうもその視点に立って物事を見たり疑ったりしてなかったし、報道するほうもそのネタに目を光らせてなかったのだ。

 

が、近年はそんなわが祖国でも、養護施設での職員による子供たちへの虐待などが問題になったりして、児童ケア制度の見直しが行われているというが、どうも気になるのは、「英国のケアシステムを参考にし、里親制度を日本でも充実させろ」と主張している識者が存在することだ。英国政府が一部出資しているチャンネル4が製作・放映したドキュメンタリー「Lost in Care」によれば、英国はすでに次のステージに進みつつあるのだが。

 

英国政府は現在、里親(フォスターファミリー)の限界を認識し、ドイツ型の小規模&家庭的養護施設に注目しており、実験的な新タイプの養護施設をエセックス州を中心に設立し始めたということである。

 

英国政府と英国民が認識した里親(フォスターファミリー)の限界とは

    いくら然るべきトレーニングを受け地方自治体から認定されていても、里親はチャイルドケアや児童心理学の素人であり、養護施設で働くプロのような知識は持っていない。

よって里親、即ち“素人のお父さんやお母さん”では、家で自傷行為(自殺未遂を含む)や問題行為(破壊行為、動物虐待、異常に早熟な性行為など)を行うことの多い問題家庭出身の子供への対応が適切に出来ていないことが多い。

    養育の現場が一般家庭同様に閉ざされた(他人のいない)場所であることから、預かった子供に虐待を加えたり、養育を放棄する里親があり、英国ではそうした事件が実の親による虐待事件と同じぐらい問題になっている。

    優れた里親や懐の深い里親(障害児でも、精神の病を患った子供でも預かります。という里親)のところにより難しい子供を送ろうとする意図から、子供のたらい回し現象が起こることがあり、これが子供たちの発達障害や精神の病をより悪化させるケースがある。

    里親に報酬が支払われる「仮想家庭」制度であることから、地方自治体から手当が支払われなくなる年齢が近くなると「さっさと出て行け」的な態度を取る里親が多く、また、家族と同じ洗濯機を使わせてもらえないなどの微妙なところでの部外者扱いで傷つく子供が多い。それで子供が反抗的になって暴れたりすると、あっさりギヴアップして子供を地方自治体に戻す里親も少なくない。あくまでも“雇われペアレンツ”なので、里親には好ましくない子供の返品・交換を求める権利がある。

 

というようなものであり、同番組に出演していたケアシステム出身の若者たちの談話によれば、全員が平均して10回は里親を変更されており、これは例えば6歳から16歳まで10年間英国のケアシステムの世話になった子がいるとすれば、毎年一度は里親が変わっていたということだ。

 

英国でケアシステムの世話になっている子供の大半が“精神的虐待”を理由に親から取り上げられた子供たちだそうだが、毎年親が変わっているような激烈に不安定な状況に子供たちを追い込むことは“虐待”とは呼ばないのだろうか。

 

「子供は家庭の中で育つのがベスト」というコンセプトで推進されてきた里親制度だが、家庭の中で傷つけられてきた子供たちが、“仮想家庭”の中でさらに傷つけられるよりは、いっそ親がいて子供がいるといった“普通の家庭”というフォーマットに拘泥せず、同じような境遇で育ってきた子供たち数人+プロの養護スタッフという環境で“仲間としてのオルタナティヴな家庭”を作ったほうがいいんじゃないかというのが、ドイツ式小規模養護施設の根本的アイディアである。

 

この方式は方式で問題がありそうだが、少なくとも毎年子供の居場所が変わるとか、里親に虐待されて肋骨がぼろぼろになって死ぬ赤ん坊とかいう問題は回避できるだろう。“親から引き離された子は自力で生きていかねばならぬ”というリアリティーを提示する意味においても、里親制度などという嘘臭いシステムの中でじわじわ気づかせるよりは、最初から潔く“もう親はいない”と認識させたほうが、子供たちにとっても、期待しては裏切られ続けるという状態より親切だ。

 

かくいうわたしなんかも、底辺託児所で、特定の子供に対し、この子は実の親と一緒にいないほうが幸福なのではないか、と思うことはある。が、それでも出来れば現在の家庭で何とか、と思ってしまうのは、英国のケアシステムが信用できないからであり、そっちに行ったほうが子供にとってはえらいことになると思うからだ。S子さんの子供たちのようにエキゾチックな顔立ちをしていてリッチなマダムに愛玩されるのならまだいいだろうが、アンダークラスの目つきの悪い英国人のガキどもには、まずそういう幸運はあり得ない。

 

こんな外国人の保育士にさえ「あてにならん」と思わせるほどのケアシステムを、わが故国がコピーしていったいどうするのか。

 

日本人は礼節を重んじるまじめな民族だから、という幻想を前提にして物を考えるのもおかしいだろう。

空を見上げりゃ空におふくろさんがいると言って泣きながら絶叫するくせに、放っておけば口減らしなんぞを始める国なのだ。

児童保護に必要なのは、幻想に基づいた希望論ではない。

地べたに転がる暗い事実を直視した覚醒論なのである。

  
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2009年05月21日

Unlike a rolling stone 〜ロックの心は岩ごころ〜

酒を飲みながらこういう話を書くのも何だが、この飲酒好きというのはどうも父方の血筋のようで、一族には文字通り酒で命を落とした人もいる。

 

アル中で初婚&再婚の2つの家庭を失い、最終的には福祉の世話になりながら入退院を繰り返し、民生委員が定期巡回で様子を見に行ったらアパートの風呂場でこけて死んでいたという伯父もいた。

 

同居人でもいれば早急に救急車を呼んで助かったのかもしれないが、何しろアル中の入院治療を終えて帰ってきた直後にきゅっと飲んでいたらしいので、転倒して頭を強打しても痛みすら感じないほど気色よくなっていたのだろう。ちょっと頭が痛いような気がするけど起き上がるのも面倒だし、このまま寝るか。ってんで寝たら一生起きれなくなっていた。というのだから、これは酒飲みとしては本望だった違いない。

 

しかし、こういう自分の生き方を貫く人にはそのとばっちりを受ける人間というのが必ず出てくるもので、彼の場合には初婚で出来た長女だった。

最初の妻がアル中肉体労働者との生活に疲れ、若いサラリーマンか何かとできあがって出奔した後、後妻に入った女性に残忍かつヴァイオレントな折檻を受けていた従姉は、「こりゃいかん。放っておくと新聞沙汰に発展するかも」と感じた伯父の判断によって施設に預けられたのだった。

 

彼女が中学を卒業して施設を出た時も、伯父と後妻は「一切関わりを持ちたくない」姿勢を崩さなかったため、一応地下足袋をはいてまじめに働いていたうちの親父が兄の娘を引き取ることになり、わたしが小学校高学年の頃、しばらく我が家にこの姉ちゃんが住んでいたことがあった。

 

姉ちゃんは、うちから工場に毎日出勤していて、夕方や休日にはうちの母親の手伝いなんかも進んでする人で、わたしや妹ともよくあそんでくれた。

が、1年もたたないうちに若い大工の兄ちゃんと出来上がって妊娠し、わが家から嫁入りして行ったわけだが、それからまた1年もたたないうちに新婚のアパートから姿を消して行方不明者となり、わたしが中学生になった頃には、新聞に彼女の写真が掲載されていて全国に指名手配されていた。

 

彼女のことを思い出す時、印象として残っているのは、十代にしては信じられないほどソツのない、柔らかな人だったということである。行方不明になった後の彼女は、ヤクザ、覚せい剤、売春、さらにその先にあるダークワールドへとスパイラル状態で下降して行ったようだが、わたしの覚えている彼女は、そういう暴力的でBADな世界とはあまり結びつかない、ソフトでまろみのある姉ちゃんだった。

 

おそらく、本物の暗闇へ堕ちて行く女というのは、ああいう人なのだろう。

Fuck off!!」と男やボスの言うことにいちいち逆らったりする女は、そのトゲトゲしさが邪魔になってつるつるどこまでも転げ落ちて行くことはできない。

 

先日、チャンネル4が放映した「Lost in Care」というドキュメンタリーを見ながら、ふと彼女のことを思い出していた。

親が無能で駄目だからといってお上がその子を取り上げて預かったとしても、この国のケアシステムは、“現在英国内で路上生活をしているホームレスの3人に1人がケアシステム出身者”といった不条理な状況を生み出している。ということは以前にも長々と書いたことがあるが、これは“すごいねー、英国は”という世界びっくりニュースの類なのではなく、どこの国にだってこのテの問題は存在しているはずだ。

 

あの姉ちゃんがニッポンのケアシステムにどんな扱いを受けていたのか、あんなにソツのない、ねろねろした少女が出来上がった経緯とはどういうものだったのか、わたしは知らない。

彼女が施設を出て一人立ちするまで、いわゆるフォスターファミリー的役割を果たしたわたしの両親にしても、表向きは優しく“おもてなし”していたが、あまりにも物腰が柔らかくて何を考えているのかさっぱりわからなかったあの少女が、本当は何を思っていたのか知ろうともしてなかったし、どちらかといえば知りたくなかったはずだ。

 

Fucking sharing!! I don’t want to share !!

Fuck off!!  You don’t understand me, you never will!

底辺託児所の子供たちは今日もトゲトゲしく卑語を連発する。

 

「卑語は悲しい言葉だ」と底辺託児所で働く小説家のポールは定義付けしたが、わたしにはそうは聞こえない。

 

「分け合うなんていや。分け合いたくない」

「あなたには私のことなんてわからない。絶対に」

FUCKを取った途端にこれらの言葉はやたら惨めったらしく、ねろねろして来るからである。

 

きゃつらには卑語で武装して、トゲトゲしたガキにならねばならぬ理由があるのだ。

何がLike a rolling stoneだ。転がる石なんざクソくらえ。

つるつる転がっていいのはまだ下方に落ちて行ける幅のある子供たちの話だ。

下方に落ち幅のないガキどもは、あちこちに引っかかり、突っかかる、ごつごつした岩にならんければいかんのだ。

若人よ。君たちは転がらないロックになれ。

 

などということを考えているとパンクバンドを結成したい心持にもなるが、40代のばばあと0~5歳の若人では仕方がないので砂場に集合して手振り付きで「きらきら星」を歌う。

 

両方のお手々をひらひらさせて歌う子供たちの上空に広がっているのは腐ってるのかというぐらい灰色の英国の空。そこから彼らの上に降り注いで来るものはあくまでも冷たい雨だ。

きらきらするものなんざどこにも見えやしねえ。

 

それでもガキどもは空および空からこちらを見下ろしているらしい者のことを睨みながら、今日もいやがらせの如く楽しげに歌い叫ぶのである。

トゥインクル・トゥインクル・ファッキン・リトル・スターを。

  
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2009年05月11日

母獣。そして消えて行く子供たち

「誰が彼女を見てたのよ!! いったい何てことしてくれたの! あああああ、こんな大きなコブが出来てるじゃないっ、あんたたちどうしてくれるのよ!!!!

託児所の終了時間に娘を迎えに来た極道児リアーナの母親は半狂乱になって叫んでいた。

 

ガキどもが突き倒し合う、殴り合うなどの暴力ではたいした騒ぎにはならない底辺託児所だが、戸外で転ぶ、滑り台やジャングルジムなどから落ちる、といった事故で子供たちが怪我をすると、親たちが血相を変えて大騒ぎすることになる。

 

確かに、幼児同士が押し合ったりどつき合ったりする時の力の強さに比べれば、全速力で走っていて転ぶとかブランコから落ちるとかいう事故の方が深刻な傷になる確率が高く、それで親たちが心配するという理由もあるが、底辺託児所の場合には別の事情がある。

 

それは、ソーシャルワーカーが出入りしている家庭の子が多いということなのである。

 

極道児リアーナの家庭もその例に漏れず、父親はDVで服役中、母親は元ドラッグ常用者であり、“要注意家庭”としてソーシャルワーカーにチェックされている。服役中の男に刃物でいたぶられた時の傷も頬に痛々しい母親は、それでもどん底の生活から奇跡のUターンを果たし、「良い母親になりたい。それだけが今の私の願いです。助けてください」とアニー(レノックス似の底辺託児所責任者)を頼ってきたのだという。

 

「落ち着いてちょうだい。子供が保育施設で遊んでいれば、怪我の一つぐらいするものです」

尋常でない取り乱し方をしているリアーナの母親にアニーが言った。

「またこの子を緊急病院に連れていかなくちゃならないっ!! こんな大きなコブが出来て」

「コブの一つぐらい子供はつくります。どうしても心配なら、わたしが一緒に緊急病院について行きますよ」

「“彼ら”は毎週緊急病院に連れてこられる子供の名前をチェックしてるんだから、また問題にされるに決まっている・・・!!

「“彼ら”がそれで何だかんだと言ってきたら、私が“彼ら”に電話して事情を話します」

「もう“彼ら”に弱みは見せたくないのに、なんだってこんなことにいいッ」

 

確認のため書いておくと、“彼ら”とはソーシャルワーカーのことである。

 

わたしが働き始めてから今日まで、底辺託児所に来ている子供たちで、ソーシャルワーカーに連れて行かれた子は一人もいない。

しかし、過去には複数いたようで、古参のボランティアはこう言っていた。

1人、また1人といなくなるのよ。ある日突然ぷっつりと来なくなって、母親がアニー(レノックス似の託児所責任者)に泣きながら電話してくる」

 

貧困。子供にみすぼらしい格好(寒い日の薄着、女子なのに男子用の服を着させているなど)をさせている。DV男と別れることができずに子供に暴力を目撃させる。同居中の男または自分自身がアルコールや薬物に依存している。あるいは依存症だった過去がある。自分がうつ病になる。何度も緊急病院に子供を連れて行く(または全然連れて行かない)。子供がいつも傷をつくっている。小学生に留守番をさせる(これはアジア人親が問題視される最大のポイント)。スーパーやショッピングセンターなどで何度も子供が迷子になる。

 

上記はすべて“彼ら”に“弱み”と見なされる事項だ。

この国でチャイルド・プロテクション(児童保護)のコースを受けると、上記はすべて“ヤバい兆候”としてリスト化されてあり、親が子供を虐待しているという事実や証拠がなくとも、上記の事項が複数該当するというだけで地方自治体は精神的虐待などの理屈をつけて親から子供を取り上げることができる。

 

「この子の体に傷が出来ないように見ていてよ! ぞろぞろ(F)人数ばかりはいるくせに、(F)役立たずの(F)集団じゃしょうがないじゃないの!!

リアーナの母親は、全身の毛を総立ちにして吠える獰猛な母獣の如くに卑語をわめき散らす。

「マミイ、マミイ、私は大丈夫だよ」

リアーナは自分の体を抱きしめている母親の顔を見ながら言った。

「もう痛くないよ、マミイ。ぶつかった時は泣いたけど、もう全然痛くない」

あの極道児が気を遣っている。

母獣と化した母親を平静に戻すため、3歳になったばかりの子供が気配りしているのだ。

リアーナの母親は口惜しそうに唇をかんで娘を抱きあげ、託児所を出て行った。

 

「事情が事情だけに、こういうことがあると彼女は過剰にナーヴァスになってしまうの。でも彼女は一生懸命いい母親になろうとしているのよ。頑張り過ぎて空回りしてしまうことも多いけれど、私たちは彼女の意志を忘れないようにしましょう」

“(F)役立たず”呼ばわりされたわたしたちにアニーは言う。

 

リアーナの母親の空回り。というのは例えばリアーナの服装などにも見られる。

彼女はいつも新品の衣服や靴を着用していて、そのぴかぴか感が底辺託児所では妙に浮いている。というか、絵の具や砂などで汚れるにきまっている託児所にそんなちゃらちゃらした格好をさせて来てどうするのだ、と最初の頃はわたしも母親に対してクエスチョンマークを感じていた。

が、事情がわかるようになると、自分は年がら年中同じジャージの上下を着ている、二十代なのに妙に老けた印象の母親のかなしいまでの力み具合が伝わってくるようになった。

 

彼女は母獣となって全身全霊で戦っているのである。

眠っている間に自分の子を誰かに盗まれないように。

ぼさっとしている間に誰かに取って行かれないように。

 

いつになくそそくさと帰り支度を始めたアニーは、きっとこれから緊急病院に向かうのだろう。

「よいイヴニングを」と声をかけると無言で笑って託児所を出て行った。

 

「子供をサポートするということは、その親をサポートするということです」

という彼女の口癖をふと思い出す。

 

それは花柄の理想論でもなければ、政治家のレトリックでもない。

現場で母獣たちの背中をさすっている人間だけが吐ける、リアルな児童保護論なのだ。

 

          ***************

 

今週はチャンネル4の「Britain’s Forgotten Children Season」。この国のケアシステム内部にいる子供たちに焦点をあてた番組が複数放送される。

http://link.brightcove.com/services/player/bcpid20364316001?bctid=20460683001

  
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2009年05月02日

ガキどもに告ぐ。こいのぼりを破壊せよ

屋根よりた〜か〜いこいの〜ぼ〜りいいい。大きいまごい〜はあ〜おとっつぁん〜。

などと鼻歌を歌いながらこいのぼり工作にいそしんでいるのは、何も幼い息子がいるからというわけではない。

 

底辺託児所でこいのぼり製作をしようと思っているのだが、いい意味で言えば独創的。悪い意味でいえばやりたい放題で収拾のつかないガキどものことなので、日本の保育園のように最初から目標とするモデルを設定しておいて、そこに到達できるようにあらかじめ画用紙を魚形に切っておくとか、鯉の目玉を用意しておくなどして、全員を同じゴールに導く。というやり方では無理だ。ではどのような素材を準備して各人にやりたい放題させればよいのか、酒をかっくらいながらあれこれ試行錯誤中なのである。

 

わたしは季節の行事などはわりとどうでもいい方だが、底辺託児所では一応ガキどもと一緒にひな人形製作もやってみたし、正月には凧なんかも作ったりした。当然ながら底辺託児所のことなので、全員真っ黒な喪服のひな人形セットや、人間のお内裏様&羊のお雛様という発禁ポルノ系な組み合わせのひな人形もあったし、体中に糸を巻きつけて自分が凧になって走り回っていたバカたれもいたし、そのバカたれが体に巻いた紐を引っ張ってぎりぎり他人の肉体を絞めあげて喜んでいるSな幼児なんかもいた。

 

Diversityを教育の柱の一つにしている英国では、幼児教育現場でも様々な国の文化を紹介することが奨励されているわけだが、わたしにとっても子供たちに日本文化を紹介するのは面白い。

例えば、昨年の子供の日に新聞紙で折った兜を見せた時である。

「どうしてボーイズの日だからと言って、男子がそんなものを被らなきゃいけないんだろ?ボーイズがみんなヒーローになりたいと思ってるとは限らないし、サムライの恰好なんてダサいと思うファッショナブルな男子だっているはずだ」

と、当時5歳のレオが言った。彼はアートデザイナー系のゲイの両親に育てられていたから、そりゃあ武者人形だのなんだのという世界はアホみたいに思えたはずだ。

 

また、ひな人形を製作した時には、女児メイが紺色のフェルトで着物を製作し始めたので、「プリンスの着物を先に作ってるの?」と尋ねると彼女は答えた。

「プリンセスの着物だよ。プリンスの着物はピンクにするんだ。ブルーを見るとすぐ男の子の色だと思う大人はファッキン・スチューピッドなんだってマミイがいってたよ」

言い方は断定的できついが、彼女とその母の主張は正しい。

 

貧民リベラル。という思想が存在するのかどうかは知らないが、\ご崑里世里モラルだのというものに屁ほどの価値も感じない(というかそんなものは何の腹の足しにもならない)ところで生活している人々の考え、⊆ら選んで社会の底辺に落ちて来た、物質的なものではなく精神的なものを重んじて生きようと決めた人々の、理想郷的リベラルワールド。は、実際のところ非常によく似ている。そのことは、,よび▲織ぅ廚凌討了匐,燭舛一緒くたになって遊んでいる底辺託児所で働いているとよくわかる。

 

幼児たちの言うことは、共通して“ノーマル(人並み)”のコンセプトを疑い、拒否しているからだ。

お父さんとお母さんがいて子供がいる家庭がノーマル。なんで?

両親が女性&男性で構成されている家庭がノーマル。なんで?

親は勤労していてその収入で生活する家庭がノーマル。なんで?

 

じっさい、▲織ぅ廚凌討砲論府の教育制度を信用してない人が多いので、“ホーム・エデュケーション”制度を選択し、子供を学校に通わせていない人が多く、底辺託児所にはそうした学校に行かない子たちの妹や弟が来ているので、子供は毎日学校に通うのがノーマル。みたいな考え方にも、なんで?な幼児は少なくない。

 

壊れている。とも言えるだろうが、視野がワイド。とも言える。

「人間はこうでなければいけない」から、これほど解放されている子供たちも珍しい。

 

労働党政府が打ち出している教育の一大テーマは、Inclusionだ。

身体的&精神的能力がどうであろうと、人種が何であろうと、性的オリエンテーションがどうであろうと、宗教や信条、思想がどうであろうと、ソシオエコノミック的階級が何であろうと、全ての人々を同等に受け入れ、社会のシステムの中にIncludeしましょう。というSocial Inclusionの理念が教育にも反映されているわけである。

 

この考え方の基盤にあるのは、「ノーマルの基準は人によって違うのであり、“こうでなくてはいけない”ということはない。だから全ての人間に社会参加の権利がある」ということだ。

英国がこのような理想を本気で推進するに至ったのは、国内(特にロンドン)に外国人が激増したこと。そして、“(特に米国を意識して)インテリで寛容”な国民性であることを自認している人が上層部に多いからだが、理想はやはり理想に過ぎないので、実際にはS子さん問題のような腐臭漂うケースも出てくることになる。現状としてのSocial Inclusionは完全にコケているというか、そんな言葉とそのコンセプトがあることを聞かせたら、例えば白人のティーンエイジャーに刺されたことのある近所のたばこ屋のインド人の大将なんかは爆笑するか激怒するかのどちらかだろう。

 

が、わが底辺託児所に来ているガキどもの貧民リベラルなスタンスに触れる時、この託児所ほどSocial Inclusionが進んでいる場所はないのではないかと思うことがある。“こうでなくてはいけない”の枠からこぼれ落ちたところで生きている子供たちは、そういう概念を通して他人を見ることはないので、誰でも受け入れられる度量を持っている。

 

先日、英国政府の幼児教育施設監視機関であるところのOFSTEDの職員が底辺託児所へ監査にやってきた。インターネットでも閲覧できる同機関の底辺託児所監査レポートには“Inclusionの推進がこの施設の最大の強みであり、彼らが行うこと全ての拠り所になっている”と記されている。

 

「なんでボーイズ・デイはサムライ人形を飾るのに、ガールズ・デイはプリンスとプリンセスの結婚式の人形を飾るの?ひょっとして日本のガールズは、結婚することがハッピーになることだと思っているの?・・・ジャパニーズ・ガールズってドリーマーズだね」

とメイは言った。こんな言葉を吐く5歳児は日本の保育施設にはいないだろう。

ガラが悪くて貧しいだけではない。何か非常にレアなものが彼らの中で育っている。

 

というわけで55日は紙と布と紐と絵の具だけ用意して後はどうにでもなれ方式で行くことに決めた。

鯉なんて面白くないと言って豚を泳がせるやつや、絵の具を自分の顔に塗って鯉みたいに口をぱくぱくさせているやつや、製作の主旨を全く無視して画用紙に黙々と風景画を描き始めるやつなどが続出し、さっぱりわけのわからない状況になっているだろう。

 

それでいい。というか、それがいい、のである。

“こうでなくてはいけない”ということはないのだ。

  
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