産経新聞によれば、日本のケアシステムにおける里親たちは3つのカテゴリーに区分されるという。
1.保護者のいない子供や保護者による養育が適当でないと判断された子供を育てる「養育里親」
2.祖父母など3親等以内の親族が養育する「親族里親」
3.虐待などで専門的な援助を必要とする子供を養育する「専門里親」
里親家庭はそれぞれの区分や子供の受け入れ人数に応じ、手当や生活費などを受け取るそうだ。
英国のケアシステムではフォスターケアラーにこのような区分はなく、しかも「親族里親」というのは存在しない。親族が子供の面倒をみる場合には、国から里親手当などは一切支払われない。その部分では「親類だろうが他人だろうが、子育てには金がかかる」というリアリティーに基づいた日本の制度は素晴らしいが、「養育里親」と「専門里親」の区別というのはどういうことなのだろう。
記事を読むと、「養育里親」は誰でもなれるが、「専門里親」は専門的訓練を受けているような印象を受ける。
が、「養育里親」が預かるのは、「保護者による養育が適当でないと判断された子供」らしいので、ここには養育放棄などの虐待同様にシリアスなケースも含まれると考えられる。ならば彼らにも専門スキルや知識を持つケアラーが必要なのは当然で、暴力を振るわれたり、性的虐待を受けたりしていなければ、子供の傷はそれほどシリアスではないと考えるのは、英国では20年前に主流だった考え方だろう。とはいえ、だから日本の制度は駄目だ。と書くつもりはない。専門的知識や経験もないのに難しい家庭環境で育った難しい子供を預かっては返品交換しているフォスターケアラーは英国にも沢山いるからだ。
どちらかといえば、児童虐待やケアシステムなどの研究・調査が何十年も前から盛んに行われ、いろいろなセオリーやリサーチ結果がふんだんに出揃っており、それらを海外まで輸出しているにも拘わらず、国内ではこうした里親制度を続けている英国のいい加減さの方が致命的である。これはみんなが「ヤバいなあ、いかんなあ」と思いながらだらだら放置している社会事象のひとつであり、言ってみれば、英国版「ずっとクソだと知っていた」だ。
どこの国にも、そういうことは沢山あるのである。
託児所や保育園に勤めておられる方々はご存知であろうが、毎日フルタイムで保育施設に預けられている子供の日常を考えると、彼らが一緒に過ごす時間は、ペアレンツよりも保育士の方が長い。夕方6時に帰宅して7時には寝る子も多く、食事も3食、保育園で食べる。
よって、「マミー」と1歳児に呼ばれることもしばしばだ。
「It’s good to be loved」とジョークを飛ばしていられるのは最初だけで、すぐにこのマミー呼ばわりへの対処が仕事上の重要課題になる。実の親と職業的養育者。この二つを混同しない、させないというのは、他人様の子供を預かる上での基本中の基本だからだ。里親にしても、手当をもらいながら子供の養育をする以上は職業的養育者に変わりない。であれば、「愛があれば大丈夫」などという大雑把な素地では不十分で、他人様の子供を預かるプロフェッショナルである必要がある。
以前、底辺託児所で働いていた頃、フォスターケアラー志望だという30代後半のボランティアがいた。
そこはかとなくリス・アイファンズ似の彼はゲイで、10年以上同居しているというパートナーの男性がいた。で、彼らは、卵子ドナーや代理母に頼るエルトン・ジョン的子作りではなく、役所に登録してフォスターケアラーになることを検討していたのである。
が、フォスターケアラーのもとに預けられる子供たちがどういう経緯でそこに辿り着くのかという現実を知り、そうした子供たちの面倒をみるには専門的スキルと経験が必要だと悟って、彼は底辺託児所でボランティアをするようになったのだった。
「xxxxにこう言われたので、自分はこう言いましたが、自分の対応は適切だったのでしょうか?」
「xxxxxはこういう態度で他の子供を傷つけました。自分はいったいどのタイミングで仲裁に入れば、彼をあそこまで興奮させずに済んだのでしょうか?」
いつもアニー(レノックス似の託児所責任者)に質問していた彼は、チャイルドケアや児童心理学の学生以上に熱心なボランティアであった。
そら保育士とか児童心理学者とかいった時間の区切りのある仕事とは違い、里親というのは24時間べったり子供を預かろうという大変な仕事だ。本気でそれを認識していれば、誰より熱心になるのは道理である。
彼がブライトン在住の著名なインテリアデザイナーとして全国版の新聞に紹介されていた時にはびっくりしたが、ああいう人が底辺生活者サポート施設にやって来てアンダークラス民にまみれてボランティアしていたという事実は特筆に値する。
彼は、里親という仕事を舐めてなかったのである。
子供をぎゅーっと抱き上げてやることは誰にでも出来ても、その子を地に降ろすタイミングや、タイミングを誤って癇癪を起された場合の効果的対処法などは、知識や経験なしにはわからないからだ。
愛の突き上げにより、可愛そうな子供を引き取りたいというのはヒューマンな感情だ。が、突き上げるものには盛り下がる時が必ずやってくる。
こと子供のケアという話になると、経験や知識といった鼠色の作業着の如きものは二次的なものと見なされ、愛というゴールデン・サンシャイン的イメージのものが絶対重視されがちだが、金色の日差しは翳ったり無くなったりすることがあっても、鼠色の作業着は天候とは関係なく淡々とそこにある。
つまり、愛と呼ばれるものはわりといい加減なものなのだ。
震災孤児を預かりたいという人が日本には沢山いるという。
が、その一方では、児童虐待のニュースを日本のサイトでも日常的に見るようになった。
日本もブリテンに近付いて来ているなと思う。
不況が続き、人心と家庭が荒廃すれば、里親の求人広告が普通に氾濫する時代になる。
ファーストフード店やスーパーの店員を募集する広告の隣に、「里親になりませんか。子供1人につき月給XX円」の広告が掲載されるようになる。
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ところで、日本の震災から100日。という新聞記事を先日バスの中で読んだ。
「3か月が過ぎても震災直後と同じ状況の被災地区がある」というような主旨の記事で、震災直後の写真を使っているのかと訝りたくなるような写真を複数掲載していた。
そして、そういう地区に限って写真を撮りまくる外国人の姿が目立ち、まるで観光客のためのディズニーランドのようになっているという。
まさに、祭りのあと。だなあと思った。
フェスティバルなうのあと。
人心のゴールデン・サンシャインのいい加減さが露呈して、ニヒリズムにも似た乾いた風が巷に吹きすさぶ頃。
ブリリアントな時期だ。
パフォーマンスではなく、本物の作業着がモノを言う時期。
ディズニーランドやサンシャインはよそ様に任せておけば良い。
日本人の真骨頂は、鼠色の作業着だ。