2012年03月30日

日本人の礼儀の礼。を考察する

タイガー・マム。っちゅうのが、一時期、英米では流行語になった。
何なのかをつらつら書くより、リンクを貼る。
http://globe.asahi.com/bestseller/110403/01_01.html

で、今度は、イーグル・ダッド。を自称する中国人が出てきて、英国でも大変な話題になった。(日本にも、はだか教育とかあったよな)
これもいったい何なのかをつらつら書いている時間はないので、リンクを貼る。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2856728/8432742

で、長く来てくださっている方ならピンと来たかもしれないが、わたしが再びずっと考えているのが「愛着理論」の礼子のことである。

あの書き物で、彼女を礼子という名にしたのは、他でもない、礼儀の礼。からであった。
んなもなあ、はなから英国には存在しやしねえ「礼」である。
まあ考えて見れば、お辞儀もしないカルチャーの人々だから、「起立、礼!」とかそういうのも一切ないわけで、まあ、端的に英国と日本の違いを表現している言葉であり、しかも彼女の性格をサマライズしている言葉という考えから、「礼」を選んだのだった。

んで。
子供への厳しい対応。という点では、タイガーもイーグルも礼儀の礼子も同じで、
「言うことをきかないと飯を食わせませんよ」とか
「ちょっと頭を冷やしなさい」と子供を寒い戸外に出すとか、まるで同じである。
「立派な子供を育てるのが親の務めだと思っている」点でも、同じである。

では、何故に片方の東洋人の親たちは、英米人に「この養育法は虐待的」と言われながらも、「いや、しかし現在の西洋社会に必要なのは、実はこうした教育法ではなかろうか」と反省の機会を与えたりしているのに、礼子は「児童虐待を平気で行う、精神に異常をきたした外国人」と一方的に判断されて英国政府に子供を取り上げられたのか。
というと、その理由は
 賞賛されている中国人の親たちは、自らが一流大学卒業のエリートだったり、リッチな企業家だったりして、成功者である。
 一方、日本人の礼子は、非母国の政府の資金の世話になって生きている移民であり、英人の夫はドラッグ&アルコール依存症者で、やはり生活保護を受けて暮らしている。

というプラクティカルな事情を避けて通るわけにはいかない。

「親が生活保護受給者だから、とか、貧困しているから、とかの理由で、子供が親から引き離されたというのは、1960年代ならあったかも知れません。が、今どきの英国で、そんなことが児童保護上の問題として見なされることはあり得ません」
わたしが勤務している保育園を訪れて保育士対象児童保護研修を施してくださった市の福祉職員がそう断言した時、ついうっかり「You’re a dreamer」と呟いてしまい、後でマネージャーから小言を食らって危うくクビになりかけたのは年末の話だった(クリスマスプレゼントのために出来た借金をどうやって返そうかとわたしは枕を濡らした)が、まあ世間とはそういうもので、プラクティカルな事情が万物の80%を支配している。

しかし、残り20%の部分で、わたしがこれらの中国人の親たちと日本人の礼子を比較した場合に、やはり突き当たらずにいられないのが「礼」の問題だったりするのである。

「香港が中国返還になった時、多くの中国人が香港からカナダにも渡って来てね。バンクーバーなんて、ホンクーバーと呼ばれるぐらいになったんだけど、彼らが渡って来てから1年以内に不思議な現象が起きたの。学校で最優秀の成績を獲得する子供や、楽器や芸術のコンクールで優勝する子供が、全て中国人になったのよ」
と、バンクーバー出身のカナダ人同僚が語っていたことがあったが、中国人の上昇志向というものは半端ない。っつうか、日本だって上昇あるのみの時代にはそういう勢いもあったわけで、日本版イーグル・ダッドの星一徹が登場する「巨人の星」が流行した時代の日本人なら、子供たちにバンクーバーを制覇させることもできたかもしれない。

が。本当にそうだろうか。
と、ふと考えずにいられなくなるのは、やはり「礼」の問題が引っかかるからである。

タイガー母ちゃんとイーグル父ちゃんは「成功と幸福と富」を子供に与えたいと望んでいる。平たく言えば、人より何かに抜きん出ていてサクセスすれば、ハッピーになれるし、金も儲けられるから、今のうちに死ぬ気でがんばれ。と子供を鍛えているのだ。
ディシプリン。という言葉が、タイガー母ちゃんやイーグル父ちゃんを語る時には頻繁に使われるが、彼らのディシプリンとは、あくまでも自らが成功し、幸福になるために精進しろということで、そこには、他者に対するディシプリンは含まれていない。
そう考えれば、そうした中華コンセプトと欧米人のそれは驚くほど似ている。双方とも「自分のサクセス」や「自分のハピネス」が最重要視される社会だからだ。

一方、日本人の礼子も、子供の成功を強く望んで厳しい教育法を施したが、彼女には、もう一つだけ譲れない、子供にも強要した考え方というか、美意識があった。
それは「礼儀をわきまえ、恥ずかしいことをしない人間になって欲しい」という願いである。

だが、礼儀。という言葉で表現されている他者に対する(又は他者の目を気にする)ディシプリンは、自らのサクセス&ハピネス至上主義の社会では不要である。
人様がどう思おうと、「行ける」と思ったらがんがん行け。そして勝利せよ。ウィナーだけがビューティフォー。な世界では、他者の目だとか、他者への気配りだとかは二次的なものだ。というか、いちいち他者の視線や気持ちを考慮していると成功は遠のく。

中国人女性との間に第一子をもうけたヒュー・グラントが、先週掲載のガーディアン紙のインタビューで育児についてこんなことを言っていた。
「ディシプリンはとても重要だと思う。自分の母親は大変厳しい人だった。僕は彼女に感謝している。(現代風の母親的な喋り方で)『やりたくなかったら、こんな事しなくていいのよ。あなたは自分自身を表現しなさい』みたいなことを言ってたら、やり遂げられることなんて社会には存在しない。だから、そういう教育法を僕は信じない。ひらめきは5%で、あとの95%は努力だ。ディシプリンがなければ、人は何もやり遂げられない」

この人は、中国人女性とタッグを組んで子育てが出来る人だろうな。と思った。
というか、タイガー・マム系やイーグル・ダッド系の相手となら、英国人は衝突を繰り返しながらも根底では理解し合って子供が育てられるのではないかと思う。
というのも、彼らが子供にディシプリンを敷く理由は全く同一だからだ。
個人としての目標達成。社会で何事かを成し遂げ、いっぱしの何者かになる。
そこに到達するまでのディシプリンの実践法に違いがあったとしても、到達したい地点は同じだ。

そう思うと、礼子がこの国のシステムに理解されなかったのは、「成功できるように」子供に厳しく勉強させたり、ゴリ押しでバイリンガルに育てようとした点ではなかったのではないかと気づく。むしろ、日本流の「礼」という美意識を子供に押し付けようとした点だったのではないか。

英国にもマナーというものはあるが、それは
「ミドルクラス(又は、アッパー・ミドル、上流階級)の育ちの良い人間として、恥ずかしくないように」が「人間として」という漠然とした前提よりも先に来る点で、日本人の「礼儀の礼」とは違う。
英国人の「マナー」はもっと階級的なものである。

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昨年、日本が大災害にあった時、日本人の行儀の良さが西洋社会では話題になった。
「あれは国民が仏教徒だからなのか」、「儒教の国だからか」というものから、「やはり日本人はふだんから瞑想しているからだろう」、「避難所ではみんな座禅を組んでいるのか」というようなものまで、英国人に多くの質問を浴びせられた。
「いや、あの国では、ほとんどの人間が無宗教だよ。たまに神社仏閣で祈る人は多くても、日常生活の中で宗教をプラクティスしている人間なんてマイノリティーだ。彼らの行動基準は宗教というより、美意識だと思う」
と答えると、英国人は一様に不可解な顔をした。

人として美しい。又は、カッコいい。(+それ故、人様の前で恥ずかしくない)
という価値判断だけで、自らの行動を制御できる。
という点は、なかなか肉食DNA民には理解できないようだし、「人として」という大雑把な前提も彼らには曖昧に聞こえるのだろう。

日本人の美意識というものは「世間体」とか「恥の意識」とかにも直結しているので、実際にそこにまみれてみれば大変に鬱陶しいものでもあるが、ある意味、宗教的戒律の代替物となり得るほど根が深く、パワフルなものなのだ。

わたしがジーザス・クライストという人のファンであることは以前から書いているところだ。が、だからと言って美意識が宗教に劣るとはわたしは少しも思わないし、神仏とか、物凄くおっかない政府とかいう存在を持ち出さずに自らの行動を制限できる(つまり我慢できる)民族というのは希少であると思う。

「礼儀の礼子」が英国の役所に理解されなかった(&ウソくさいエクスキューズを繰り返す虐待者と思われた)理由はそれだったのね。

ということを、実は昨年から、ずーーーーーっと考えている。

なので、「愛着理論」は、全く新しい書き物になる必要がある。
いつ書くかはわからないし、もう書けないかもしれないけど。

  

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2012年03月21日

大衆向けフディーズ映像。「Attack the Block」と「TOP BOY」

Attack-the-Block-Still

「宇宙人ポール」が日本で密かに当たったという話だが、規模が拡大するにつれて肝の部分が冷めた紅茶みたいになって来た感のあるサイモン・ペッグ&ニック・フロストのお馴染み作風映画(「Carry On」シリーズがハリウッド進出したらこうなってたのだろうか)は、やはり本国では「Spaced」や「ショーン・オブ・ザ・デッド」の時のような衝撃をもっては迎えられなかった。
が、その代わりと言っては何だが、コメディアンのジョー・コーニッシュの監督デビュー作になるSFコメディ「Attack the Block」が話題を集め、レビューの筆致が激辛を通り越して極悪になりがちで愉快なガーディアン紙のピーター・ブラッドショー(については、数年前に書いたことがあるが)など、多くの評論家たちには激賞されたが、「こんな内輪受けの作風は世界観が小さ過ぎないか」などの、一言で言ってしまえば「What was that?」みたいなとまどい的レビューが一部見られた点でも、サイモン・ペッグ&ニック・フロスト(&ジェシカ・スティーヴンソンもいた。最初は)のシリーズが世に出た頃とよく似ている。

で、ニック・フロストなどは「Attack The Block」に友情出演もしており、もういかにもアンダークラスのどうしようもない(∴そこら辺にいそうな)おっさんの役を演じているが、ちょっとキュートでとぼけたサイモン・ペッグのバディ役を演じるよりも、こういう暗黒の風刺が利いた役をやったほうがこの人は際立つ。

昨年、ロンドンで暴動が起きた折には、フディーズ・コメディSFと呼ばれるこの映画を叩いたメディア人というのが本当にいて、「フディーズをあのような暖かな目線で見るのは危険」だとか、「犯罪を笑いに変えるのはエンタメ以前の、人間としての姿勢の問題」みたいな、まるで顔に青筋立てて微笑みながらドレスから右脚を突き出すアンジェリーナ・ジョリーにも似た生真面目さが感じられ(あの人は、生真面目なんだろうなとつくづく思った。個人的感想はそれだけ)、わたしは一時期、この国に住むのも危険な状況になって来たのではないか。と思ったことがあった

今でも、英国の一般庶民のこの映画のDVDなどへのレビューを読むと、「フディーズを笑いの題材にするなど信じられない」「フディーズが出て来ただけで吐き気がする」などと評している人が必ずいて、ああ、これは路傍でフディーズにカツアゲされた大人たちであろうか。と想いを馳せることも屡であるが、「Attack the Block」は、フディーズVSエイリアンという壮大かつ破天荒なテーマに挑みつつ、英国の現代を鋭く抉る希代の風刺コメディである。などと書くと、なんか映画情報メディアの記事みたいで胡散臭い(なんか日本でも公開されるみたいだしhttp://attacktheblock.jp/?tw_p=twt )が、この映画のブリリアントな点は、話題性・社会性などを取り払ったところで、映像として十分に素晴らしい点だろう。

終盤に入ってからの、物凄くアホらしいエイリアンとフディーズの戦いシーンの映像の、背水の陣。という日本語を思い出すような、蒼みを帯びた美しさは何なのだろう。これは主人公の少年の美しさ(この映画でスパイク・リーに見初められたそうだが)もあるが、単なるお笑い映画では済まされない映像のブリリアンスがある。
&痒いところに絶妙のタイミングで手が伸びてくるようなテンポとスピード感。1時間半で簡潔にまとめたがゆえの、鑑賞後の「山椒は小粒できりりと辛い」感。これは、サイモン・ペッグ&ニック・フロストの「HOT FUZZ」が達成出来なかった地点だ。
趣味だけに走らず、インテリジェントに醒めた目線で編集がなされた映画なのである。

しかも。である。
同作で、ロンドンの公営団地ギャングと呼ばれる子供たちが戦っているエイリアンの正体は、世の万物を突き動かしている人間本来のある欲望の化身だった。というオチがまたバカバカしくも荘厳で、これを「くだらん」と感じるか、「おおお。」と感じるかは、個人の感性や考え方の差としても、わたしはガーディアンのピーター・ブラッドショー同様、「めっちゃくだらん」と思いながらも、そのくだらなさへの真摯なる挑戦に「おおお。」と唸らされてしまう方なのである。

さらに言えば、英国在住の方でこの映画を見た方には、チャンネル4のドラマ「TOP BOY」(http://www.channel4.com/programmes/top-boy)をセットで見ることをお勧めしたい(4oDで見れる。国内なら)。
TopBoy_GQ_31Oct11_642

「TOP BOY」は、ロンドンの公営団地で暮らす十代のギャングたちの世界を真っ向からシリアスに描いて高い評価を得た名作ドラマだが、「Attack the Block」を見た後で「TOP BOY」を見ると、両者が描いている世界は全く同一であり、例えば雑草(という名のドラッグ)栽培ルームなど、映像モチーフの大半が同じであることに驚き、「ははは」と力無く笑いつつ「Attack the Block」への理解を深めることができるだろう。

「TOP BOY」と「Attack the Block」は同じコインの裏と表だ。
フディーズとかロンドン暴動とかに興味のある人は、この2本を見れば、若干ステレオタイプ的とはいえ、ロンドンの公営団地ギャングの実態が垣間見れるし、ミドルクラスの英国人たちの彼らに対する反応も見えてくるだろう。

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そういえば、パンク・カルチャーにしたって、80年代のBBCのコメディ「The Young Ones」(http://www.bbc.co.uk/comedy/theyoungones/)で、さんざん大衆向けのお笑いネタとして発酵されているのだ。

現代の公営住宅フディーズカルチャーにしても、可愛げのある大衆鑑賞用パロディーがもっともっと出て来ていいのだが、昨年のロンドン暴動が、メジャーなテレビ局でのフディーズコメディ番組の登場を数年は遅らせたかもしれない。

  
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2012年03月07日

アナーコ・サッチャリズム

わたしはコマーシャルな保育施設で働いている外国人労働者だが、保育士の資格を取ったのは無職者支援慈善団体内の託児所でボランティアしていた時であり、先日、その施設に述べ8年ほど出入りしているアナキスト系の白人の母親とスーパーで再会した。

「ハーイ!元気だった?久しぶり。全く託児所に顔も出さなくなっちゃって」
「忙しいの。昼間は働いているし、夜も仕事してるし、その合間にガキの面倒も見てるし」
と、なぜか言い訳がましい響きの言葉を吐きつつ、「何故へどもどしているのだ、わたしは。きちんと働いている一般市民はこちらではないか」と思っていると、
「うちの息子は、ホームエデュケートしてるから、今でもあの託児所に行ってるよ。あれからスタッフの顔ぶれも変わったけど、彼のフェイヴァリットはあなただったんだ」
とドレッドロックの白人母は笑う。

息子っつったって、どの息子だったんだろう。3人の息子が当該託児所には来ていたのだが。おそらく、うちの息子と同じ年だった、あの睫くりくりで目のぱっちりした、人形のようなドレッドロックの髪の男の子かな。
あれ? と思った。
その母親似でかわいらしい少年の顔はアップで脳裏に浮かぶのだが、名前が出て来ない。
2年前は毎日一緒に遊んでいた子供の名前が、きれいさっぱり記憶から飛んでいる。

思えば、あの職場と現在の職場は、同じ子供相手の仕事場にしても、まるで違う。
ホリデイ(休暇に海外旅行)で子供がお休みとか、子供の誕生日には特注ケーキが保育園に差し入れとか、そういうことがほのぼのと行われている保育園で新たな子供たちの名前を覚えるうちに、あまりにも違う世界に住む子供たちの名前は記憶から消失してしまったのであろうか。

「そんじゃ、またね」
と、花のような笑顔を浮かべて、ヒョウ柄のミニスカートに網タイツ、紫色の別珍のハイヒールを履いた、大容量のドレッドロックの髪の女性は去って行った。
こんな街娼アナキストな格好をして子供を預けに来るお母さんは、今の職場には一人もいない。

その晩、「The Iron Lady」という映画を見た。
マーガレット・サッチャーの生涯を描いた映画。メリル・ストリープがすごい。
という宣伝文句だったが、まあ、要するにサッチャーと夫のラブストーリーであった。
だから、あまり政治的な正確さとか、サッチャーのポジショニングの確認とか、そういう硬質な意図で見てはいけない映画であり、あくまでも政治は夫婦善哉を盛り上げるための小道具。+メリル・ストリープがコロッケやクリカンばりの、つまり、俳優というよりは芸人レベルで完成度の高いモノマネ演技を展開している。という程度の作品で、映画としては、これはBBCの良くできたドラマ以下だな。

みたいなことを思いながら、醒めた気分で鑑賞していたのだが、一つだけ心に残ったシーンがあった。
それは、辞任間際のメリル、いや、サッチャー首相が、社会福祉について語る場面であった。富める者と貧しい者が同じ率の税金を払うという政策について、党内でも非難の声が上がっていることに対し、彼女がムキになって反論する場面だ。
「低所得は努力が足りないことの証です。努力と向上心。それがないから政府から金を貰って生活することになる。そんな人たちを助ける必要はありません」

おお。これぞサッチャリズム。
NEVER COMPROMISE.
彼女の世界には、「例外」などというものは存在しない。
「とはいっても、やっぱり貧者はかわいそうだから」
「とはいっても、全ての人間に一定水準の生活を営む人権はあるから」
といったソフトな見解を、サッチャーは仁王立ちのままジャンプして踏み潰す。
「敗者は飢えろ。それが嫌なら働け」
そんなことを断言してしまう英国首相なんて、過去にも未来にも彼女ひとりである。
本物のアンチクライストはパンクバンドではなくマーガレットだったのだ。

あまりにもアンチクライストなものを見たためか、その晩、わたしは熱を出した。
というか、それから一週間も寝込むことになったのだから、カトリック信者にとってのサッチャーのサタン効果は相当なものであるが、寝ている間に携帯メールが届いた。

「あなたにスーパーで会ったことを息子に話すと、メールしろって言うから、写真を送りますね。×××」
先日、スーパーで再会したアナキスト系の母親からだった。
まるで時が止まったかのように2年前と同じ髪型をし、2年前と同じ服を着ている少年の写真が写っていた。
DV。ドラッグ。アルコール依存症。うつ。路上生活。ハウジング・アソシエーション。
この少年の家族の問題が何だったのか、もう正確には思い出せないが、上記のどれか、または複数だったのだろうし、あの施設には、上記の全てが該当する家庭も出入りしていた。

一つだけ覚えているのは、街娼系ファッションの母親は、ニューエージ・トラヴェラー出身の環境系アナキストで、「世の中に害を及ぼしながらマネーメイキングしているビジネスの世界には関与したくない」という理由から、意志的に生活保護受給者としてのポジションを貫いているということだった。

携帯の中で笑っている5歳児の服装からは、相変わらずの貧困ぶりが見て取れる。が、この母子たちは、金の無さをクリエイティヴィティでカバーし、頻繁に森や山に出かけて行って、妖精の声を録音しに行く、だの、ブライトン沖にある宝島に渡るための地図探し、だのといった遊びをして楽しそうに日常を生きている家族だったと記憶している。
マーガレット・サッチャーなら、森の中で楽しそうにグラファローの足跡探しをしている親子の前に立ちはだり、「働かざる者、食うべからず」と言い放ち、速攻で各種補助金を打ち切るに違いない。

が、子供に2年間も同じ髪型をさせ、同じ服を着せ続けている母親の非労働主義も、別の方向性ではあるがNEVER COMPROMISEな点では同じだ。
アナキスト。というのは、ある意味サッチャリズムに似ている。
例外などという曖昧なものは、彼らの世界にも存在しないからだ。
そういう生き方を彼らの子供たちが望んでいるかどうかはわからない。
わからないが、主義主張に生きる彼らは、自分の思想を子供にも生きさせる。
アナキスト団体経営の菜園で取れた人参をおやつにガリガリ齧っている子供たちが、いつかマクドナルドのハンバーガーを食べることを夢見ているかもしれないし、節電のために蝋燭で生活しているアナキスト家庭の子供が、いつかゲームというものを一晩中やってみたい、と思っているかもしれない。
が、彼らは幼いので、親のやり方に従って生きるしかない。
その家庭内における譲歩なき圧政ぶりも、どこかサッチャリズムのようである。

そこへ行くと生きることに関して何らの主義主張もなく、COMPROMISEだらけの人生を生きているわたしなんかは、ちょっと病気で体がだるいと、「そこら辺のパンでも食べて寝なさい。母ちゃん、ちょっと今日は起きられん」などというへらへらした弱音を吐いて、COMPROMISEとは何なのかを今から身をもって子供に教えているわけだが、まあ、一つだけわかっているのは、世の中を変えたり、良い意味でも悪い意味でも他者に絶対的な印象や影響を与える人物というのは、やはり、あんまりCOMPROMISEしない人々であるということだ。

わたしには、譲歩なき圧政を行ってまで子供に伝えたいと思う思想や意志はない。
それはラッキーなことなのだろうか。
それとも不幸なことなのだろうか。

「母ちゃん、パンにカビが生えてる」
息子の声がキッチンから聞こえてくる。
「バナナがあるやろ、なけりゃ林檎でも食って寝なさい。死にゃあせんけん」
マーガレットなら40度の熱があっても起きて行くところだろうが、腑抜けきったわたしは毛布から顔だけ出して怒鳴っていた。
「でも母ちゃん、バナナも林檎も、もうない」

バナナも、林檎もないのか。
腑抜け切った人間の暮らしにも、厳然とした生活の事実は聳え立っていた。

死にゃあせんけん、というレベルを保つことでさえ
わたしにはこれほど困難でハードだ。

  
Posted by mikako0607jp at 10:06TrackBack(0)