家の近所で、いつの間にか引越しラッシュが起きていた。
以前「5歳の息子に『目を合わすな』と教えている」と書いたことのある隣人のうち2人が、知らない間に引っ越して行ったのである。
まず、いつも迷彩柄の服を着て街を徘徊し、ぶつぶつ独り言を言っているかと思うと突然他人に罵声を浴びせていた一人暮らしのSが引っ越して行ったそうで、彼が住んでいた家には「FOR SALE」の不動産屋の札が立っている。
で、その向かいに住んでいたやはり一人暮らしのおっさんで、介護していた母親が亡くなると同時に気を病み、預言者の如くに神の存在を説きながら歩く人になっていたTも引っ越して行った。彼の家の前庭にも、やはり「FOR SALE」の札が立っている。
「二人まとめて、同時にいなくなったの?」
「事の発端はT。彼がSん家に忍び込んで、現金と小切手帳を盗んだんだよ」
隣家の息子が紅茶をすすりながら言った。
「Sもさ、ちょっと頭いかれてたから、戸締りとか全然してなかったし。無防備っちゃ無防備だったんだけどね。で、SはとTが家に忍び込んで金を盗んだことを察知して、向かいのTん家に突入して行ってTをボコボコに殴ったらしい」
「でも、なんでSはTが犯人だってわかったの」
「Tさ、いつもヨレヨレのフェルトの中折れ帽かぶってただろう。あの帽子をSん家に忘れて帰ったらしい。勝手に紅茶飲んでビスケット食べた形跡もあったんだって」
「・・・ちょっとリラックスし過ぎちゃったのかね」
「やっぱ自宅の向かいとかで犯罪を犯すと、気の緩みみたいのが出ちゃうのかもね。でも、Sに殴られたTは完全にびびりあがって警察を呼んで、血まみれの顔で『神の裁きが下りた。神の報復が始まる』とか言って暴れてるもんだから、そのまま医療施設に搬送されたんだって」
「・・・それはまあ、そうなるだろうね」
その後、迷彩服の男Sはなぜか路上生活を始めたそうで、それじゃ誰も住んでない家がもったいないからってんで親族が住居を売りに出し、メンヘル施設長期隔離が決まったTの家の方も、やはり同様の理由で親族によって売りに出されたそうだ。
んなわけで、近所の向かい同士の二つの家に、同じ札が立っている。
FOR SALE
思えば、この地区の土着民であったTとSの親は、サッチャー政権の“公営住宅払い下げ”政策に預かって超安値で公営住宅を買い取った人々であった。
公営住宅に住んでいる低額所得者に、アホみたいな値段で現在住んでいる家を売却してやる。という政策は、深く考えなければ人道的に聞こえる。
実際、当時の住民たちもそう思ったし、サッチャー政権の「恩恵」に預かってマイホームが持てたと最初はマーガレットに感謝すらしていた。
が、そのうち。
毎年のように何かが壊れるちょろい作りの英国の住宅のことであるから、元公営住宅にも何らかの修繕が必要になって来た。公営だった時代には、役所に一本電話して「暖房が壊れました」とか「天井のカビが生えてきて醜くなってきました」と言えば、役所が業者を送ってくれて無料で修繕・修復してくれたのだが、マイホームということになると、これらのメンテ費用はすべて自己負担になる。
なんか最近、暖房が効かないなあ。と思って業者に来てもらえば、「ああ、これは天井でセントラルヒーティングの熱を家屋各部に送っているパイプが数箇所詰まってますね。パイプを全面的に交換する必要があります。なんやかんやで50万円かかります」とか言われても、貧乏人にはそんな所持金はないし、借金しても返せる見込みはない。
そうした理由で、80年代のこの界隈には真冬に凍死した人もいたのよ。と隣家の息子の母親は言っていた。
一方のサッチャー政権にとっては、この公営住宅払い下げは予算削減を進める上で有効であった。公営住宅メンテ費用が地方政府予算に与える打撃は大きかったからである。毎年のようにどこかが壊れるために政府の金で修繕しなければならなかった家々を、激烈な廉価にしろ住人に買い取らせれば、永久的に政府はメンテ負担から解放される。
しかも、低額所得の住民にローンを組ませて家を買い取らせることにより、新たな収入源もできたしね。ぐふふふふ。とマーガレットが微笑していたかどうかは知らないが、商売上手のやり手ばばあだったのは間違いない。
「自分の家も自分でメンテできないような怠け者や能無しは、マイホームで凍死しなさい」
というマーガレットの政策は、2012年の現在にまで尾を引いている。
その尾の最後の部分が、Tであり、Sであった。
そして、その彼らがこの町から完全に消えてしまったのも、マーガレットの末裔たちが政権を握っている時代である。
これはきっと偶然ではない。
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わたしは、迷彩男Sとは別に交流はなかった。
というか、道端を歩いていて「自分の国に帰れ、腐れ中国人が」と罵倒されたことが幾度となくあるので、それ以上の人間関係は築けなかったのである。
しかし、ストーン・ローゼスとジュディ・ガーランドが大好きだったTとは、まだ彼が何らかの神を宣教しながら歩く変なおっさんに転身せず、ひたすら母の介護をする気の弱い中年男性だった時代によく道端で立ち話をしたものだった。
Tは、ゲイであった。
英国のゲイ・キャピタル、ブライトンといえども、海辺のスタイリッシュなゲイ街やインテリ街とは違い、うちの界隈のようにマッチョな貧民が多く暮らすガラの悪い街ではゲイは肩身が狭い。どころか、フィジカルないじめの対象にさえなる。
「そこは、そんなに声を張り上げちゃ駄目だよ。もっとせつなげに歌って」
学芸会でコーラスすることになった「Over The Rainbow」を庭で朗々と練習していたうちの息子に、Tが注意したことがあった。
何処か、虹の彼方に
あの空の高みに
むかし子守唄で聞いたことのある世界がある
何処か、虹の彼方で
空は真っ青
夢見ることさえおこがましかった夢が、本当のことになる
この界隈にはドラッグ・ディーリングをしているティーンギャングなんかも住んでいるが、そんな少年たちから「糞ゲイ野郎」と夜道で顔をボコボコに殴られ、Tは前歯を2本無くした。
どうも他人からボコボコにされることが多い人のようだ。
ある日、私は星に願いをかける
眠りから醒めると背後の雲は晴れ
レモン味のドロップみたいに悩みは溶けて
煙突のてっぺんから消えていく
「そんなに陽気な歌じゃないんだ。まだ君にはわからないだろうけどね」
前歯がなくなってすうすう空気の漏れる発音の英語で、Tはうちの息子に言っていた。
何処か、虹の彼方に
とても高いところに
むかし子守唄で聞いたことのある世界がある
何処か、虹の彼方に
青い鳥が飛んで行く
鳥が虹を越えて飛ぶのなら
ああ、私にだってきっとできるはず
ある日、少年たちは夜中にTの家に押し入って来て、金目の物をすべて盗んで行った。
そしてその二週間後、Tは向かいに住むSの家に忍び込み、現金と小切手帳を盗んだのである。
「僕に『Over the Rainbow』を教えてくれた、帽子のおじさんと最近会わないね」
と息子が言った。
「ああ。引っ越して行ったみたい」
「何処に?」と息子が尋ねた。
「知らない」とわたしは答えた。
あのハッピーそうな小さな青い鳥が
虹を超えて行けるのなら
どうして
ああ、どうして
私にはできないのだろう
向かい合った2軒の住宅の前庭には、色鮮やかな虹がかかっていた。
Tの親族とSの親族は同じ不動産業者を使っており、前庭に立てられた「FOR SALE」の看板にレインボウの絵が施してあるからだ。
「グッバイも言えなかったね」と息子が言った。
「この町では、そういうのをすっ飛ばして人が消えることが結構あるからね」とわたしは答えた。
どこまでも灰色の空から、貧民街に止まない雨が降る。
不動産屋の看板に印刷されたレインボウは濡れぼそって剥がれ落ち、べらべらと破れ始めている。