英国のチャイルドケア施設で働く人間には、預かっている子供が虐待されているのではないかという根拠ある疑いを抱いた場合、お上に通報せねばならぬ義務がある。
それがどの程度の義務なのかというと、わかっていて通報しなかったということが判明した場合にはこちらがお縄をちょうだいしてしまうという、きわめてリーガルな義務である。
虐待。と一言にいっても様々なタイプがあり、その一つには“ネグレクト(養育放棄)”という項目があって、その項目には“幼稚園、保育所、託児所などが終了する定時に子供を迎えに来ない親”という具体例なんかもあるわけだが、例えば、英国の幼稚園や保育園では、何度も連続して決まった時間に子供を迎えに来ない親がいれば、園側がソーシャルワーカーに連絡を取るのが普通である。
しかし、わが底辺託児所の場合には慈善施設の付設託児所であることから、いい意味でも悪い意味でもコミュニティ・スピリットに溢れているため、この辺が曖昧になってしまうことが多い。さらに、託児所に来ている子供たちの家庭にはすでにソーシャルワーカーが関与していることが多く、今度タレこみがあると子供が取り上げられるケースも往々にしてあるため、慎重になる意味も込めて、ちょっとお迎えが遅くなるぐらいは大目に見たりするのである。
が、4歳になったばかりのディランの母親の遅れぶりはここのところ尋常ではない。
5分や10分の遅れなら許せるが、彼女の場合、20分、または30分単位で遅れるのである。
こう書くとディランの母親はちゃらんぽらんな人間のようだが、20歳になったばかりの彼女は、“セックス、ドラッグ&子育て”な他の貧民街の若きシングルマザーたちに比べれば、質素につましく苦労してきましたといった風情で、拍子ぬけするほど地味である。
育児にも真剣に取り組んでいる様子で、ディランは若干臆病で癇癪持ちではあるが、しかし特に暴力的なわけでも扱いにくいわけでもなく、きちんと育てられている感じがする。
が。今秋、ディラン母は変わった。
全体的な地味さは以前と変わらぬものの、急に口紅の色が明るくなり、爪にマニキュアを塗るようになった。そして託児所にディランを預けるとすぐに慈善施設から姿を消し、託児所の閉所時間になっても戻ってこないのである。
噂に聞いた話では、男が出来たのだという。
相手はスリランカ出身の男性で、インディアン・レストラン勤務なので昼間しか逢瀬ができないらしい。最近やけに「僕はイングリッシュだ」とディランが言い始め、人種差別的発言をするジェイクの子分になってくっついて回っているのも、そうした事情があるのだろう。
ああいう生真面目な娘に限って恋に落ちる時は猛然と落ちてゆくから、きっともう自分の子供のことなんか見えてないんだろうなあ。
と考えながら、今日も母親が迎えに来ないディランをレゴで遊ばせつつ閉所後の託児所の掃除を始める。
しかし清掃を終える時間になっても彼の母親は姿を見せず、他のスタッフは用事があって早く帰らねばならないというので、結局わたしがディランと一緒に残ることになった。
「ここにいてもしょうがないし、外に出る?」
話しかけると、ディランが黙って立ち上がる。
“ディランとわたしは外にいます。ミカコ”と書いた紙を託児所玄関に貼り、公園へと続く託児所の裏口を出ると、4時半だというのに日が傾き始めていた。
「あ、そっかー。冬時間になったから、日が暮れるのが1時間早くなったんだよね」
明るく話しかけるが、ディランはそれを無視してすたすた砂場の方に歩き出した。
追いかけて砂場の方に行ってみると、坂の上にある公園から見えるブライトンの海は、圧倒的な色になってぎらぎら炎上していた。
太陽が海の向こうで真っ赤に変色して沈みかけ、海水全体をダークな朱色に染めている。
その血液のように赤黒い色を背景に、背中を丸めてポケットに手を突っ込んだディランが、どすっどすっと砂場の砂を蹴り上げ始める。
それは、しんとした凄みのある光景だった。
ディランは猛烈に恐れている。そしてそれだからこそ、激烈に怒っている。
母親に自分よりも大事な人間が現れたことを。
母親が自分の養育を全面的に放棄したいと思っている可能性があることを。
母親が自分を迎えに来る時間が10分遅くなる度にその可能性が大きくなっていることを。
ソーシャルワーカーにこんなことをタレこんでどうなるというのだろう。
ディランは母親に戻ってきて欲しいのだ。他の大人に助けて欲しいのではなく、自分の母親に迎えに来て欲しいのだ。
いよいよ辺りが真っ暗になってきたので、「中に入ろう」と声をかけるとディランが振り向いた。
4歳の子供が声も出さずに泣いていたのだということがわかり、なんとも言えないビターな心持になる。
「泣くな。泣くんじゃなくて、もっと怒りなさい。泣くのは諦めたということだから、わたしたちはいつも怒ってなきゃダメなんだ」
わたしがそんな頭の悪そうなことしか言えないものだから、ハグした途端にディランは声をあげて泣き始めた。
いつの間にか託児所内部には明かりが灯っている。
しかしそこでわたしたちを待っていたのはディランの母親ではなく、アニー(レノックス似の託児所責任者)だった。
「今回ばかりは、ソーシャルワーカーに連絡しなくてはいけませんね」
という上司の言葉にわたしは頷くことができない。
疲れきったディランはわたしの肩に顔を埋めて苦しそうに眠っている。
そのすうすうという寝息を首に感じつつ仁王立ちしているわたしの肩をぽんと叩き、アニーは電話のある隣室へと消えて行った。