2009年03月06日

癌スター/甲斐性のない女

I’m packing up.」と連合いが言った。

弱音を吐かない男がいよいよそういうことを言い出したので、よほどきつくなったのだろう。

 

21日周期で行われる化学療法も5サイクル目になり、「えっ、まだ働いてるの?」と担当医も驚くほどの頑丈さで毎日ダンプに乗り、積み荷の上げ降ろしを行うなどの肉体労働をこなしている人間が、「体が動かなくなってきた」と宣言しているのだから、治療を受けながら通常と同じ生活を行うことはもう無理なのだ。

 

「毎日家にいると気が狂いそうになるから、これまで通りの暮らしがしたい」

と言い続けてきた連合いだが、彼がここまで頑張って働いてきた理由には、年度末の3月まで働けば皆勤ボーナスがもらえるというエコノミカルな事情もあるのであり、3月末までは這ってでも行くと主張し、今日も仕事に行っている。

 

ボーナスと言っても、日本のそれとは違って20万円にも満たない金額なのだが、そのために癌患者が働かねばならない理由は、このわたしに甲斐性がないからである。

 

ステロイドも投与されている連合いは日々の気分の浮き沈みが激しく、癌病棟で働いている医師や看護婦さんなどはよくご存じだと思うが、沈むと周囲に八つ当たりをすることになる。うちの連合いもその例に漏れないが、わたしの甲斐性のなさについてだけはまだ言及したことがなく、それを考えると一層肩身が狭くなって気持ちが沈下する。

 

というように、貧乏人の癌というのは、あまり劇的なものでも、文学的なものでもない。

我が家などは初期の頃から非常にリアリスティックかつ事務的な会話が交わされており、

「あんた、もしもの時のために、これだけはやっといてよね」とか

「俺、2年前にお前に金借りてたから、今返しとく。死ぬと返せないし」とか

そういう乾いた会話が展開されており、

「あなた、死なないで」とか

「お前を愛しているよ」とか

そういうことは一度も言い交わされたことはない。

 

しかしながら癌という言葉には、他者の人生にはドラマをもたらす効果があるようで、うちの連合いに連絡を取ってくる人の数なども昨年末から激増し、

「癌は俺をスターにした」

と本人が言うような状況であった。中には

「君は一人ではないということを忘れるな。僕はいつでも君のためにここにいる」

「毎日妻と君の回復を願い、神に祈っている。ジーザスの平和が君と共にありますように」

などというドラマチックなメッセージ付きの花束を送ってきた、何年も会ったことのない知人らもいたが、さすがに癌発覚から5か月も経過するとみんな飽きたのか、めっきり我が家の電話のベルが鳴る回数も減り、生活にノーマル感が戻ってきた。

 

これは連合いにとってはいいことだ。何故なら、彼らに対して何度も癌について語らなければいけないことに彼は辟易していたからであり、「今週はどうだった?」「治療はうまく行ってる?」と尋ねてくる人々を避けるため、わたしが電話に出て「彼はいません」と嘘をつかされることもしばしばだったが、そうすると今度はわたしが質問攻めに遭うことになり、「貴様の稼ぎが足りねえから、彼はいまだに働いているんだよ」みたいなことを遠回しに言う人などもあったので、激憤&気持ちの沈下。を余儀なくさせられることがあって、電話恐怖症になった時期もあった。

 

善意と好奇心は、まったく非なるものであるようでいて、実はぞっとするほど似ている。

 

例えば、最近の英国ではテレビなどを見ていても余命数週間と宣言された末期癌のタレントの話題でもちきりだ。天下のBBCニュースまでもが、彼女の動きを逐一追っている。このタレントというのは、リアリティーTVショーで有名になった素人で、ただ有名であるということを職業としてきた女性だが、癌で余命数週間らしいので、2人の子供たちの将来のために金を残すべく、恋人と結婚式を挙げてその写真を掲載する権利を数億円で某ゴシップ誌に売ったりしている。

 

英国人は彼女の癌報道に妙に関心を覚えており、その理由は自分たちが知っている人間が本当に死ぬからに他ならないが、もし彼女が死ななかったらどうなるのだろう。医師の診断に反して彼女が長生きしてしまったりしたら、人々は「死ななかったじゃねえかよ」と言って怒るのだろうか。「さっさと死ね」と罵倒するのだろうか。

 

本当に死ぬ」ことを売りにして稼ぐだけ稼ぐと宣言し、数億円の収益をあげている20代のねえちゃんもいれば、「I’m packing up」と言いながら20万円にも満たないボーナスをもらうために働いている化学治療5サイクル目の50代の癌患者もいる。

人生がいろいろであるように、癌もいろいろである。

 

「俺はすぐには死なない気がするな。今までの人生を振り返ると、そんなにラッキーじゃないから」

当該タレントのニュースを観ながら連合いは言った。

これまでの人生の経緯、性質などを鑑みると、彼の場合は確かにじりじりした長期戦になるだろう。そして世の多くの癌患者もまた、「癌にかかりました」「はい死にました」という劇的な経緯で散るのではなく、ひっそりとしょぼいところで踏ん張り続けているのだ。

 

「普通病気ってのは治療が進めば気分が良くなるんじゃないか?この病気は治療が先に進めば進むほどクソみたいな気分になる」と連合いは言う。

どうも癌というのはそういう病気のようで、体に毒を入れて延命しようとしているのだからまあそれも当然だろう。

惜しまれて死ぬ人。と、毒にまみれて延命する人。

どちらが好みかといえばわたしの場合は圧倒的に後者だ。

生きること以外に人間の存在価値はない。

 

連合いのスキンヘッドに一部だけ髪が生え戻って来た。

「白髪?金髪?」と連合いは訊く。「きらきらしてるから、金髪」

「おおーっ、GREAAAAAAAT!」

久しぶりに嬉しそうに笑っている連合いの毛をわたしはまた剃刀で剃り落とす。

刃についてきた5ミリほどの細ぼそとした髪は、本当は真っ白だった。

 

甲斐性のない女。

自嘲的に発しているつもりのこの言葉が、これほど他嘲的に響いたことはない。



Posted by mikako0607jp at 12:08│TrackBack(0)

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