2009年06月25日

親子デトックス

メイという5歳児の母親は、元ニューエイジ・トラヴェラーである。

トラヴェラーというのは、別の言葉で表現するとジプシーまたはヒッピーのようなものであり、メイの母親もキャラバンで津々浦々を旅して生きていたのだが、現在はブライトンに落ち着いている。

 

彼女は金髪の長い髪をドレッドヘアにしていて、いつも豹柄のシルクブラウスだの赤い革のミニスカだのに黒い網ストッキングを履いているので、一見すると街娼さんかなと思うような外見だが、よく見てみると顔はアングロサクソン版吉永小百合みたいな楚々とした美女であり、容貌とファッションの落差が大きい。

 

性格も服装が醸すイメージからは想像がつかないほど、大変に清らかでうつくしい。

おっとりとしていて気が優しく、いつも柔らかく微笑んでおり、底辺託児所でボランティアしているわけでもないのに、自分の子供たちを預けに来た時に当該託児所が人手不足でバタバタしていると、自ら気を利かせてスナックテーブル用の果物を切り始めたりしてスタッフを手伝い始める奇特な英国人女性だ。

 

ニューエイジの思想にかぶれたことのある女性なので、英国の教育制度などは一切信用しておらず、したがって子供を学校へ通わせていない。が、ホームエデュケーションとは名ばかりで、ほとんど家庭で教育を施していない底辺生活者サポート施設の親たちの多くとは異なり、彼女は子供に勉学を教えている。例えばメイは学校に通っている子よりずっと多くの単語を知っているし、足し算&引き算も一桁なら暗算で瞬時に出来る(英国の巷の5歳児では稀有なことである)。

 

加え、アカデミック以外の部分でもメイは年齢にそぐわぬ叡智を持っており、例えば以前こいのぼり関係のエントリーを書いたときに記したが、「ピンク色の服を着ている子供は女子だと決めつける大人はド阿呆だ」「結婚すれば幸福になれると思っている日本の女子はドリーマーだ」など、余韻を残す発言をする。

とはいえ、これらの発言を彼女のインテリジェンスに帰するのも、それはそれで間違いだ。メイの場合、これらの発言はすべて彼女自身の体験から発生していると思われるからだ。

 

例えば、メイの母親はニューエイジ・トラヴェラーをやっていた年数が長過ぎて就職が困難であり、また思想上の理由で公害や社会悪を生み出す“企業”では働きたくないと思っているため、貧乏である。よってメイの2人の弟たちは姉のお下がりを着ていることが多く、きっとピンクの衣服を着せられている弟たちを見て「SHE is cute!」などという人が路傍には多く存在するのだろう。「ピンクを着ているとすぐ女の子だと思う人たちは、あまり物を知らないのよ」と、あの母親が子供たちに言い聞かせている姿は容易に想像がつく。

 

また、トラヴェラーの男性たちと永遠の愛を誓っては、相手がジャンキーまたは凶暴であるなどの問題から別れる羽目になってしまう母親を見てきたメイには、結婚が幸福を意味するとは到底思えないだろう。

 

親が働かないがための貧困。目まぐるしく変わる父親。(複数の)男による母親へのDV

こう書き並べてみれば、彼女の家庭事情は幼児虐待の“兆候”事項ばかりであり、所謂“アダルトチルドレン”を産出する家庭環境そのものである。

 

“問題家庭の子供は褒めよ。褒めて褒めて自信を育てよ”というブリティッシュ・チャイルドケアの基本に従い、わたしは教科書どおりにメイを褒める。

「凄いよね、メイは。よくこんな文章が書けるね、ブリリアントだ」

「ブリリアントかどうかは知らないけど、私はスペシャルだよ。私みたいな人は他にはいないから。私たちはみんなスペシャルなんだ」

クールな顔をしてメイは答えた。

 

幼児は聞いた言葉をコピーすることで言語をマスターするので、彼らの言葉を聞けば、家庭で親が語っていることがわかる。

「うちの父ちゃん癌だけど働いてるよ。母ちゃんの稼ぎが少ないから」

もうすぐ3歳になるうちの坊主なんかは保育園でそう言っていたらしいが、どうせならそのような身も蓋もないことではなく、メイのように奥行きのある発言をして欲しいものだが、ペアレントの人間としての奥行きの差がそこら辺に露出してしまうのだろう。

 

メイのような子供は、アダルトチルドレンと言うよりも、チャイルドアダルツなんだろうと思う。

と書くと、そのテの子供は辛い経験と心理的な傷のために他人に愛されたくて無意識のうちに大人を演じており、その幼児期の心の歪みは後々むごたらしい悲劇となって現れてくるのであり、人間の不幸の元凶はすべてTOXICな親にあるのであって、我々が道端の石につまずいて転ぶのも、スーパーで玉ねぎ買ったら半分腐っていたりするのも、すべては親のせいだ。と心理学の本か何かに書かれていそうだが、こう言っては何だが、人間というものはすべからく他人にとってはTOXICな存在なのではなかろうか。

 

TOXICな上司。TOXICな恋人。TOXICな教師。TOXICな配偶者。TOXICな友人。

たとえ親と訣別してもTOXICな人は出現する。それは人間という存在が基本的に毒だからであり、毒と無縁の人生が送りたければ、もう他人とは一切関わらずに生きるしかない。

が、そうなると今度は自分の内なる毒と正面からどっぷり向かい合わねばならず、発狂したり死にたくなったりして人間はよほど大変なことになるので、他者の毒で傷ついて「あんたのせい」と恨みながら生きているほうがより明るい状態だったと気付くのである。

 

先日。坊主を連れて公園に行ったら、芝生の上にメイの母親がごろんと寝転んでいて、彼女の体の回りに3人の子供たちが散り散りに座っていた。

ある者は母親の頭のそばで、またある者は足元で、一番下の赤ん坊は母親の手で背中を支えられながら座り、芝生の間から伸びている野の花をつんでいる。

くすくす勝手に笑ったり、母親の顔の上にひらひら白い花びらを降らせたりしながら。

親と子が互いに何を求めるわけでも期待するわけでもなく、何を教えるわけでも教わるわけでもなく、ただそこにあって、一緒に存在している時間だけを楽しんでいる。

 

毒抜き。というものがあるとすれば、こういう時間のことではないだろうか、と思った。

 

どだい「親子の無条件の愛」などという幻想のドグマが実は最も有毒なのである。

そもそも“親子だから無条件で愛する”などという愛は、のっけから“親子だから”という制限が付いており、全く無条件ではない。

「自分の子」や「自分の○○」しか無条件に愛せないという人間に、他者を無条件で愛するなどという芸当が出来るわけがないではないか。

キリスト教文学的に言えば“罪びと”、庶民的な表記を採択すれば“しょうもないばかたれ”であるわたしたちに出来るのは、せいぜい人間関係の毒抜きぐらいなのである。

             

「ハロー」

と声をかけたうちの坊主に、芝生の上の4人が一斉にこちらを向いて、にこにこしながら手を振った。

それはデトックスを終えた人たちの、リセットされた笑顔だった。

それら自体が芝生の間から顔を覗かせた野の花のように、瑞々しく、逞しく。

小汚い公園の黒ずんだ芝の上で、明日からまた互いの毒をとっぷり心に取り込むことが可能になった母と子の、笑顔の花が揺れている。

 

 



Posted by mikako0607jp at 18:37│TrackBack(0)この記事をクリップ!

この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/mikako0607jp/51529896