わたしの好きな女性歌手に、デビー・ハリーという人がいる。
なので、そのデビー・ハリーにそこはかとなく似た面ざしの、“デビー”と呼ばれる女性が底辺託児所に現れた時には少なからず動揺した。
が、あのデビーとこのデビーが違っていた点は2つあった。
1つ目には、彼女はブロンドではなくブルネットで、黒ぶちの眼鏡をかけているということ。
そして2つ目には、彼女には自閉症の娘がいるということである。
デビーの娘は先月3歳になったばかりで、ジャズミンという。
本名もデボラという母親のほうは、髪をブロンドに染めてブロンディのトリビュートバンドでボーカルを務めたり、マドンナの物真似芸人として活動したりしていたそうで、ナイトクラブやパブに出演している時に売れないバンドマンと知り合い、短い情事の末に子を孕んだという。
ざっくばらんな性格のデビーは育児について「気が狂いかけたこともある」と言っていた。
「何を言っても、何を教えても、この子は私の目を見なかった。最初はただ、物凄く反抗的なガキなんだろうと思ってたの。私自身の子供の頃や、この子の父親の性格を思えば、おとなしく親の言うことを聞く子が生まれるわけがないから。・・・でも、そのうち、これはおかしいんじゃないかと思うようになって、アニー(レノックス似の託児所責任者)の噂を聞いてこの託児所に来たの。最初にジャズミンの障害を見抜いたのはアニーなのよ」
ジャズミンは、難しい子供である。
目まぐるしく託児所内部を移動し、他の子供たちがしていることを片っぱしから引っかき回し、あちこちで罵声を浴びる。底辺託児所のことなので、相手が障害児だろうが何だろうがやられたらやられた分だけきっちりお返しするガキが多いため、あちこちで暴力沙汰が勃発することになるのだが、このジャズミンという女児がまた3歳なのに5歳児ぐらいの体格をしており、大変にストロングで、殴られたら相手を張り倒し、蹴られたら大きな頭で頭突きをかましたりたりして、なんとも凶暴なのである。しかも彼女の場合、相手の反応(大泣きする、流血するなど)が全く見えていないから、その凶暴さに限界がない。
自閉症。
という言葉は、“引きこもり”という言葉が存在しなかった時代のニッポンでは陰気な若者を形容する言葉として使われていた。が、メディカルな意味での自閉症は、どうもそういうこととは全く違うらしい。
自閉とは、回りが見えない。というか、回りに関心がないから目が開いていても何も見えておらず、世の中には自分以外の人間がいるという認識さえ曖昧だ。ということなのだ。
自閉症の人というのは一人で自分の世界に引きこもっている人ではなく、他者の存在というものが適切に認識できないためにがんがん外に出て行って他者に危害を与え得る人なのだ。ということが、ジャズミンに会って初めてわかった。
そうした攻撃的自閉症児を一人で育てているデビーは、36歳なのに50歳ぐらいに見える。いつもくたびれきったモヘアのセーターに黒のレギンスを履いていて、梳かしているのかどうかもわからない、ぼうぼうに伸びきった髪には白いものがたくさん混じっている。
もはや自分から言わない限り、昔ブロンディのトリビュートバンドで歌っていたことや、マドンナのそっくりさんだったことなんて誰も気づかなくなったわ。と笑う。
酒飲んでドラッグきめてセックスして、寝て、起きて、また酒飲んでドラッグやってセックスしてた。と自ら語るような生活をしていたドサ回りのパンク・クィーンが、障害児の母親になる。などという話はそれだけで映画のストーリーになりそうだが、現実のデビーは、もはや女優のような美しさもなければ、きらびやかさもない。
本物のデビー・ハリーという人は、難病にかかった恋人の看病をするために雲隠れしているうちに、彼女のイメージをそのままパクってデビューした若い新人(マドンナという名の)に天下を取られた。ショービズ界ではこの系譜がその後のグウェン・ステファニーやレディー・ガガといった人々に続いてゆくことになる。
若い女性は“ロールモデル”を必要とする生き物らしいので、この系譜のシンガーたちは例外なく女性に支持されることになるのだが、初代デビーになると、「そこまで行くとちょっとその生き方はお手本にはしたくないかも」というところまで行ってしまっているため、ブロンディを解散し、ソロに転向してからキャリアが盛り上がるということはなかった。
運命。というと大袈裟だが、巡り合わせ。というか、ランダムに巡って来るものが必ず顔面にぶち当たってしまう人が、世の中には存在する。
デビー・ハリーの恋人は当時まだ治療法もよくわかっていなかった難病にかかってしまったが、マドンナの男は間違ってもそんなややこしい病気にはかかりそうもないし、発展途上国から彼女が養子を貰うことはあっても、障害児を養子にすることはないだろう。
そういう“本当にヘヴィな感じ”は、女性に支持されないからだ。
あんまりクールでも素敵でもないし、だいいち幸福そうじゃないからである。
そして先日。
バスに乗って移動中に、デビーとジャズミンがロンドン・ロードというしょぼい商店街を歩いているのを見かけた。
疲弊し、乾燥しきったデビーは、しかしおごそかなほど柔かな笑顔で微笑んでいた。
誰かに見せるためでもなく、特に愉快なことがあったわけでもなく、内面に満ちていたものがつい毀れ出てしまった笑顔。
あれは、そんな顔だった。
恐れ入りましたという気分になって、窓ガラスのこちら側でわたしもつい微笑した。
ああいう笑顔には伝染力がある。
きっとデビーはこれでいいのだ。
自分がそう思っていることを他人に知ってもらう必要がないほど、これでいいのである。
窓の向こうに見える母子の姿は小さくなってやがて後方に見えなくなった。
バスの2階から見下ろす朝の街は、いつものように寒々とずず暗く、薄汚れている。