2012年09月18日

そろそろケヴィンについて語ろうか。


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We Need to Talk About Kevin.
という映画がある。
邦題は「少年は残酷な弓を射る」で、日本の配給側のマーケティング戦略のためにいきなり山岸涼子系映画にされてしまったようなのだけれども、当然ながら、英国ではそのような映画としては捉えられなかった。

We Need to Talk About Kevin.
というタイトル(オレンジ賞受賞の原作も同題)が大変に優れていると思うのは、「(闇に葬らないで)ケヴィンについて語らなくっちゃね」というニュアンスが含まれているからであり、こうした事件が起こるたびにマスコミはびっくり下世話ニュースを書き立てるものだが、そういうのとは別のところで、「そろそろ、きちんと語りましょうや」という意志が感じられる。という理由がまず1つ目。

2つ目は、
We Need to Talk About Kevin.
と言いながら、実はこれは少年ケヴィンについてのストーリーではなく、その母親を主人公とし、彼女の人生を追った話である。という皮肉な意図が感じられる点である。

子を持つ女にとり、最悪のシナリオとは自分の子供が猟奇的殺人を犯すことだろう。
子と母親とは、言うまでもないが、別々にこの世に生を受けた二体の個人である。
が、自分ではない人間が犯した犯罪であっても、その人間が自分の生み育てた人間である限り、当該母親は、その極悪非道な人間をこの世に存在させた張本人として、本人以上に弾劾される宿命を負っている。「モンスターを世に送り出した女」として、自らの経歴や人間性や能力を全否定されることになる。

自分がやったことならどれだけ弾劾されても仕方がないが、自分とは別の脳で物を考え、行動している人間がやったことで、なぜか世間から自分の存在を全否定される。
ということは、母&子の関係以外ではあり得ない。父&子は、そこまではない。
実に理不尽な関係である。

わたしは保育士という仕事をしているので、他業種の人々に比べれば、多くの子供たちや親たちを見る。難しい子や、育児に悩む親、どうもうまく行ってないらしい母子関係。などとも関わる。
以前働いていた施設は、責任者がそうした親子をサポートすることにかけては地域の第一人者だったため、福祉が介入している家庭の母子とも多く関わった。
そうした感触を通じてわたしが思うのは、よく書物や映画などに登場する「おそろしい子」「悪魔のような子供」といったロマンティークな生物は存在しないということだ。

「おそろしい」「悪魔のような」行動を取る幼児は、確かにいる。
ヤクザ顔負けの凶悪な3歳児。とか、多分にマゾヒスティックでその5倍ぐらいサディスティックな4歳児。などは、例えば以前働いていた託児所には、実際に存在した。
が、子供たちそれ自体が「おそろしい」「悪魔のような」人間だったかといえば、そんなことはなく、各人が非常に未熟で、生きる上でのサポートを分刻みで必要とする(糞尿の処理を含めて)極端に不完全な人間。という点ではそれ以外の子供とまるで同じだ。
ガキ。とは、つまるところ、そういう存在なのである。

3つ子の魂、百まで。というのは、わたしは信じないが、分刻みでサポートしてもらわないと生きていけない年齢の時に、適切なサポートを得られたか。または、適切にサポートしようという意志をもった人がそばにいたか。という事実は、子供たちの発育に大きな影響をおよぼすようだ。

適切なサポート。というのは、これは難題であり、育児のプロと言われる職業の人間たちだって毎日失敗しているし、ましてや血の繋がった自分の子供となれば、感情などのプリミティヴなものが絡み、なかなか出来るものではないから世の中には母子関係のねじれ&こじれ問題が絶えないのである。
ならば、それでも私は適切なサポートをしようと努力はしているのだ。という大人側の意志は、いったいどうやれば子供に伝わるのだろう。

この映画でわたしが最も強い印象を受けたのは、冒頭とラストの映像だった。
冒頭で、赤ん坊のケヴィンが泣き止まない時に、母親は彼の両脇に手を入れ、まるで「高い、高い」をする時のような姿勢で子供を抱き上げ、あくまでも自分の体から離した姿勢で赤ん坊をあやしている。

そしてラストシーン。
残虐な無差別殺人を犯して服役中の息子と面会している母親が、「何故?」と息子に尋ねる。それは、自分の何が間違っていたのか、自分の何がこんなモンスターを作り出してしまったのか、という自らの存在をかけた疑問であり、渾身のクエスチョンでもある。
「(殺した理由は)わかっていた。でも、今は、わからない」
そう答えた息子を、母親は自分の体に密着させてぎゅーっと抱きしめる。
それは、映画冒頭の、子供の体を自分の体に密着できずに宙に抱え上げている母親の姿とは対照的である。

この冒頭&ラストシーンは言うまでもなく意図的な対比である。
とりあえず、ぎゅーっと抱いておけば良い。というのは、西洋育児のバイブル的処置法だからだ。
んで、母親が子供をぎゅーっと抱いている姿というのは、「受容」だの「包容」だのいう言葉で解説されがちだが、どうも最近、あれはそういうこととは違うのではないか。と思うようになった。

そもそも、子供であれ、親であれ、配偶者であれ、一生に一度の大恋愛の相手であれ、人間が自分以外の個体のライフを完全に受容し、包容などすることなどできない。
そうではなく、あれは、「私も困っているのだ」ということなのではないか。
癇癪を起こすガキを前にし、泣き喚くガキを前にして、「私も狼狽しているのだ。どうしたらいいかわからないのだ。だから一緒にいてくれ。君も私を抱いてくれ」という意思表示なのではないか。
薬物依存症の母ちゃんも、8人の子供をそれぞれ違う相手と製造してしまったアンダークラスのマミイも、子供のためにキャリアが台無しになった高学歴でアンビシャスな母親も、階級やバックグラウンドとは関係なく、英国のお母さんたちもけっこう悩んでいるようだ。
なぜなら、女は天性の母親。という生物学的神話は、このパサパサに乾ききった国ですらいまだに幅をきかせており、そのわりに現実問題としてそりゃ大嘘だからである。
本能的にがばっとそうなる人もいれば、日々是精進の人もいるし、本能的になれるくせに頑なにその資質にファックオフをかましている人もいるし、精進することを放棄しながら乳を張らせて泣いている人もいる。
結局は、どんな母親も、ムカつきながら、途方にくれながら、子供と肉体を摺り合わせ、一緒に震えつつ抱いて抱かれることぐらいしかできないのではないだろうか。
Togetherness。という言葉を使ってしまえば陳腐だが、人と人は、一緒にいることしか出来ない。

というわけで、わたしにとってこの映画は、“ぎゅーっ”考察映画だったようだ。
そういえば、日本人は劇的な“ぎゅーっ”はあんまりやらないが、おんぶ文化というのがあった。
何処に行くにも母親が子供の体を自分に密着させ、背中でおぶって歩く育児の習慣である。

考えてみれば、それは十字架を背負って歩くジーザス・クライストの姿にも似ている。
などということを考え始めると全て放棄して逃げたくなるので誰しも考えないし、また考えるべきでもないだろうが、しかし女が子を持つということにはそういう側面も、確かにある。

わが祖国の母親たちは、今でもおんぶをしているんだろうか。
そんなことを思いながら、わたしはこの映画を見ていた。

(わたしに関して言えば、よくうちの息子をおぶったものだったが、息子を背負ってPCに向かいつつ、「あの男優とこの女優がやったらしい」だの、「この著名人が乳ポロした」だの、そういうことばかり書いていた(今も書かせていただいておりますが)ので、十字架を背負っている自覚などは皆無だったといえるだろう。ははは)



Posted by mikako0607jp at 09:04│TrackBack(0)

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