2019年09月25日

未来への大分岐 必ず読むこと

51VDUJ+O5yL._SX304_BO1,204,203,200_これは、とても重要。マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン、斎藤幸平編『未来への大分岐』(集英社新書、2019年)。今年、これまで読んだもののなかでも、もっとも、示唆に富む。というか、現在の抱える問題から逃げずに、正面から応答しようとする知的誠実さに、久々に感銘をうける。ここには知識人としての責務を果たそうとする知性がある。反知性主義の泥沼のなかから、抜け出すためにも、是非、読まれるべきものだ。先日、『専門知は、もういらないのか』を読んだが、確かに得るものも多かったが、現状レポートの域を出なかったし、年寄りの繰り言のような気もした。

それに比すれば、反知性主義、そのものを批判しているわけではないが、颯爽と、知性のもつ意義と可能性を示している。

例えば、斎藤幸平「知識は本来、一人ひとりで独占できるものではない。というのも、知識を発展させるためには、他人から学び、みずからの知見を議論や批判を通じて、洗練させていかねばならないからです。知識には、他者との社会的協働という媒介が不可欠で」あるというところなどは、当たり前のところを言っているが、そうした当たり前のところに対する信頼が揺らいでいるのが現在であろう。つまり、島宇宙にいて、自分たちの信じるものだけを信じるという態度であれば、「他者との社会的協働」などという態度になるはずはない。つまり、相対主義の中で、「真実」を探ろうとする試み自体が軽視され、何でもあり、何でも可となっている。ポスト真実の時代にどのようにすべきかということへの向きあい方がここには描かれている。  
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2019年09月10日

オーファンズ・ブルース−未来の若者の姿−

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久しぶりに、日本映画の現在をみたいと思った。で、『オーファンズ・ブルース』である。
http://orphansblues.com/

で、公式ページの解説によれば、
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終わらない夏に終末感が漂う中で、誰もが誰かの背中を追い、誰かを待っている。
カセットテープを巻き戻していくかのような旅が今、始まる。

異常な高温が続き、誰もが汗ばむある夏の日々を描いた本作は、寺山修司著書の一節から着想された、当時22歳の女性監督が手掛けた渾身のロードムービーである。アジアの異国を思わせる中華街や市場、そして鮮やかな新緑の草原など彼らの旅路を彩る様々なロケーションの移ろいは、観る人を日常からどこかへと連れ出してゆく。日本の見慣れた街並みから外れた“無国籍”な雰囲気が取り巻くこの世界で、私たちは彼らの愛、そして希望を目撃するだろう。第40回ぴあフィルムフェスティバルにてグランプリ・ひかりTV賞を獲得後、なら国際映画祭学生部門NARA−waveではゴールデンKOJIKA賞と観客賞をダブル受賞など、数々の映画祭を席巻した珠玉の作品。
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だ、そうである。

夏を封じ込めた、あるいは、青春と呼ばれる一季節を描いた、ロード・ムービーとはいえる。そして、確かに、「無国籍」にも思える。その意味では、国籍を特定しない、ある種の仮想的な空間であろうし、終わらない夏というのは、永遠の夏ということでもあるから、一つの時間にも固定されないともいえる。

いずれにしても、物語に意味はないし、登場人物に共感することもできない。いたずらに、無為な時間を、過ごしている。何かを探しているが、それが見つかろうと、見つかるまいとどうでもよい。つまり、ここには、目的もないし、生きるための欲望もない。時間も登場人物も、フワフワしている。時間からも、空間からも、無縁な、「浮遊感」が全編に描かれている。そして、それは、とても美しい。

私は、こういう映画を高く評価しないし、共感も、感銘もうけない。
しかし、にも関わらず、これは見てよい映画だと思う。

『朝日新聞』の9月8日朝刊に『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』を書いた、ユヴァル・ノア・ハラリのインタビューが掲載されている。そこには、「人工知能(AI)とバイオテクノロジーの力でごく一握りのエリート層が、大半の人類を「ユースレスクラス(無用者階級)」として支配するかもしれない」という未来が語られている。

この記事は、衝撃的なもので、私たちの未来に対する不安が、クリアにえぐり出されている。では、「ユースレスクラス(無用者階級)」とはどのような生活としてあり得るのか、といえば、目的もなく、その日ぐらしで、無為な時間を、ただ過ごすだけのように思える。それが貧困という冷酷な現実に彩られているとしても、その貧困を覆い隠して、その場しのぎのように、「しなやかに」「楽しげに」、浮遊していくのだろう。『オーファンズ・ブルース』の若者たちのように。ここで描かれたものは、未来の「ユースレスクラス(無用者階級)」の若者たちの姿にもみえる。したがって、私には、ここにあるのは、工藤監督の企図する希望ではなく、柔らかな支配のなかで暮らす絶望でしかない。

もしかすれば、この映画は、私たちの未来を予見した映画として、ふり返られるときが来るかもしれない。
  
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2019年08月31日

エドガー・G・ウルマー(Edgar G. Ulmer)祭り

detour-edgar-g-ulmer-1945-L-vOlrPSニコラス・レイはひと区切り。フィルム・ノワールを楽しもうというと、次には、エドガー・G・ウルマー祭りである。少しずつみていこう。まずは、『青ひげ Bluebeard』(1944)、そして、傑作の呼び声高い『恐怖のまわり道 Detour』(1945)である。

例によって、「高橋ヨシキのシネマストリップ」で『恐怖のまわり道』(2018.7.20放送)を知り、いつかみたいと思っていた。この回は、ヨシキさんの二冊の著書には掲載されていない。それは、放送を聞けばわかるが、映画へのコメントというよりも、丁寧にあらすじを話しているだけの回なのだ。にも、関わらず、にも関わらずである、そのあらすじを語るヨシキさんの熱が直接に伝わって、傑作であることの予感にわくわくしてくる。こうした批評もあり得るのだ。

アテネ・フランセ文化センターの『恐怖のまわり道』でも、かなり、詳細にあらすじが描かれている。これほど、記述されていても、映画の魅力が損なわれないというところに、この映画の凄さがあるのだろう。
http://www.athenee.net/culturalcenter/database/title/title_k/ki/detour.html

アン・サヴェージの演じるベラが、女性というもののある本質を極端に表現しているように思える。主人公を恐怖のまわり道に引きずりこんでいく、その異様な迫力、そして、そこから逃れられないという恐怖と不安、これは、人生が「恐怖のまわり道」であることを象徴している。私たちは、人生という、恐怖のまわり道を不安にかられながら、誰かに引きずられながら、歩んでいると錯覚している(主人公は、被害者意識で生きる男の姿であり、あなたであり、私自身なのだ)。

そして、『青ひげ』である。ジョン・キャラダインが演じる主人公が、なぜ、女性を描き、女性を殺すのか、最初の殺人にその原型がある。そこには、女性への身勝手な思いとそれを裏切られたことへの反発があるが、女性をありのままに受け入れることができずに、自分が傷ついてしまう、その傷つきやすさ(弱さであり、すぐ被害者になる)にも、同じく男性の根っこがある。  
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2019年08月30日

bigger than life 黒の報酬

NEeX7phTkN3xjrd1deXb0RmokIXDG3_largeニコラス・レイ祭りである。これも、日本版が高く、英語の勉強も兼ねて、「criterion collection」版で視聴する。相変わらず、遅々として進まず、時間ばかりがかかる。
https://www.criterion.com/films/1929-bigger-than-life

これは、傑作なのではあるまいか。最後が予定調和的な結末に思えるが、しかし、そこに至るまで緊張が持続していくのは、さすがと思える。いくつものシークエンスがとてもよくできている。コーチゾンによって誘発される精神的な病が、どのように人間を変えていくのか、その妄想の展開過程が重要なのであろう。ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 』(河出文庫版)で、この映画の主人公の父親(エド)が、「教育制度全般や、純潔な人種を復興する必要や、道徳的社会的秩序の救済をめぐって妄想し始め、ついで宗教に、つまり聖書に復帰する時機や、アブラハムのほうに移ってゆく…」とし、「あらゆる妄想がまず社会野に対する備給であり、経済的政治的文化的分野や人種的人種差別的分野や、教育的宗教的分野に対する備給」であり、「妄想する人物は、あらゆる面で自分の家族や息子の領域を超える妄想を、あえて自分の家族と息子に適用している」と指摘されていることをつけ加えておく。「妄想は、一般に無意識的なあらゆる社会的備給の原基」なのである。

そして、『危険な場所で』(1951年)も忘れられない。これは、ボーッとみていた。にもかかわらず、終わりのほうで、岩場のシーン、緊張感で眼が離せなくなる。そして、最後は、心が動かされてしまう。孤独とは、愛情とは、そして、再生とは、メロドラマでありながら、ここには人間が生きるための真実がある。  
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2019年07月29日

ニコラス・レイの凄さ

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ニコラス・レイ監督の『孤独な場所で』と『夜の人々』である。高橋ヨシキさんのシネマ・ストリップで、『孤独な場所で』を知り、やられてしまった。これは、凄い。いまでも、さまざまなシーンが甦ってくる。ハンフリー・ボガートの演技も真に迫っているし、グロリア・グラハムの美しさも尋常ではない。優れた映画は、これは自分のためにつくられたと思わせるというが、これは、まさにそんな気分にさせる。殺人容疑をかけられたハリウッドの脚本家ディクソン(ハンフリー・ボガート)の苛立ちが、ニコラス・レイ監督の苛立ちに重なっていると言われるが、これは私自身の苛立ちにもつながっている。むろん、こんなに極端でも、暴力的でもないが、しかし、それでもなお、この苛立ちは、私自身のもののように思える。身につまされる。これを「サイコ」だとして、自分と無関係なものとしては、もったいない。ディクソンに極限値として現れる「苛立ち」は、私たち一人ひとりに、僅かづつではあるが、かすかにではあるが、偏在している。そこに、この映画の普遍性がある。

そして、『夜の人々』である。処女作にすべてが現れるというが、その通りであろう。ここでのロマンチシズム、そして、最後までずっと維持される緊張感。ここで示されるさまざまなシークエンスは、その後の映画にどれほどの影響を与えたのだろうか。ヴィム・ヴェンダース監督が私淑するということもよくわかる。  
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鹿野政直さんが描く「福沢諭吉」

bookoffonline_0018688691 (2)さきに、書いたように、鹿野政直さんの『福翁自伝と福沢諭吉』(さ・え・ら書房、1971年)は、後半が駆け足で、惜しまれるものであった。その点からいえば、本書(『福沢諭吉』清水書院、1967年)は、福沢の「思想的生涯」を三期にわけてバランス良く配しているだけでなく、その思想的転換点を時代状況と関連させながら位置づけたもので、さすが、鹿野さんの歴史眼が光る(第一期:〜27、28歳,1862、63年,第二期:〜46、7歳,1881、82年,第三期:〜66,1901年)。

啓蒙思想家の本領を発揮する第二期を「文明像の形成と展開」と名付け、功成り名を遂げ、「官民調和論」や「脱亜論」などを主張していく第三期を「富国強兵論への転回」と名付けてくくっている。こうして思想的生涯というかたちで、全体像を眺望することができるだけでなく、まさに、現実政治との格闘のなかで構想された議論であることがよくわかる。この時代の文脈をはっきりさせることで、福沢の可能性と限界とが明瞭に示されていく。思想家を描くときの、一つのモデルにもなり得る、誠実な捉えである。

おそらくは、この地点が、水準点となって良いのだろうと思う。

むしろ、驚くべきは、鹿野さんの冷静で抑制の効いた筆致であり、その成熟した叙述であった(なんと、36歳だ)。

丸山は、本書を読んだのだろうか。読んだとすれば、どんな感想をもっただろうか。丸山の書簡などを眺めても、探すことができなかった。しかし、ここのところ、つい面白く、専門外のところで読書していた。論文の締め切りが迫っている。しばし、思想史の勉強はお休み。  
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2019年07月28日

福沢諭吉の哲学―他六篇

収集癖がある。専門ではないとしながら、やはり、大事だと思うと集めてしまう。言うまでもなく、丸山眞男もその一人である。むろん、個別の著作は折りに触れてこれまでも購入してきたが、全集・集成の類いも、岩波書店の『丸山眞男集』、『別集』、『座談』、東大出版会の『講義録』『講義録別冊』、みずず書房の『和文集』、『和文集 続』、『書簡集』と、集めている。だから、新たに編集されたもの(『セレクション』とか、岩波文庫のいくつか)は、それに所収された論文を全集・集成の類いから該当の論文を探し出して読み、一冊の読了としている。さきの『政治の世界 他十篇』(松本礼二編・岩波文庫)などは、丸山の論考10篇を読んだあとに、松本の解説を読むために、手元にあった『知識人の時代と丸山眞男』からこの文庫の解説部分を読むことで対応した。今回の、岩波文庫の『福沢諭吉の哲学 他六篇』も同様である。さらに、ほかにも、関連する論考(「福沢諭吉の儒教批判」、「福沢における秩序と人間」『集』2、「福沢諭吉」『集』5、「福沢諭吉について」『集』7、「惑溺という言葉」『和文集』4)も読んだ。こういう読み方ができることが、収集癖の醍醐味だ。
51B5MS6QKDLさて、かたちはこれぐらいにして、内容に入ろう。

むしろ、驚いたのは、この文庫に所収されていない、戦前の「福沢諭吉の儒教批判」、「福沢における秩序と人間」という二つの論考であった。私などは、福沢については、前半生の文明開化の進歩主義者、後半生の脱亜論の保守主義者のような陳腐な枠組みで把握しているところがある。その意味では、そこに一貫した何ものかを看て取ることはしなかった。しかし、すでに、丸山は「儒教批判」で、福沢が、幕末の攘夷主義や排外主義に対する批判の根底に反儒教主義があったことを指摘し、さらに、日清戦争前後での中国や朝鮮への痛烈な批判も、中国や朝鮮が「文明開化の世界的湿潤に抵抗する保守反動勢力の最後の牙城」(中国は儒教の宗主国)と理解していたことによるものであるとする。つまり、「諭吉に於ける独立自由と国権主義との結合が反儒教主義を媒介にしていた」として、その一貫した姿勢を明示するのであった。

また、「秩序と人間」は『三田新聞』に寄せた短文ながら、福沢の「個人主義」と「国家主義」が切り離されて理解されるあり方に対して、「個人主義者たることに於てまさに国家主義者」であるとする。それは「国家を個人の内面的自由に媒介せしめたこと」に福沢の思想家としての核心をみることであった。「国民一人々々が国家をまさに己のものとして身近に感触し、国家の動向をば自己自身の運命として意識する」ことができる、そのような国民になさしめること、「福沢は国民にどこまでも、個人個人の自発的な決断を通して国家への道を歩ませたのである」。しかし、福沢が唱える「独立自尊」は決して安易なものではないにもかかわらず、福沢は楽観的にとらえていたのではなかったかと鋭く問い、「今日国民が各自冷静に自己を内省して測定べきこと」としたのである。ここで、感銘を受けるのは、自由に書くことができないなかで、言葉を周到に選びながら、現在の状況に対して、ギリギリの批判を提示していることである。ここで、「独立自尊」の「峻厳さ」にも関わらず、「安易といえば、全体的秩序への責任なき依存の方がはるかに安易なのである」と書くことに、どれほどの決意が必要であったか。ファシズム国家のなかで、「全体的秩序への責任なき依存」を指摘することがどれほどの勇気を必要とするものであったか。それを考えると、「丸山のある友人はのちになって」、この論文について、「あれを読んで涙が出た」「丸山はあれを命がけで書いた。だが、あれからあとは堕落の道である」と話したという逸話も宜(むべ)なるかな(もっともなことだ)。

時代に挑戦する意志が論考全体に漲っている。これをこの文庫に収録しなかったことは惜しまれる。

こんな調子で書いていったら、文庫所収の一つひとつの論考から学んだことを縷々述べるものとなってしまう。いささか、気楽な覚え書き程度のブログとは異なってくるので、で、ここで、終わり。

文庫所収の諸論考では、上記の福沢に「一貫した何ものか」が、「その基底に一貫して流れている思惟方法と価値意識」であり、その様相が時代の文脈とともに、具体的に明らかにされていく。いずれも、味読すべきものばかり。機会があれば、また今度。
  
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2019年07月27日

福翁自伝と福沢諭吉

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同じく、一気に読める。鹿野政直著『福翁自伝と福沢諭吉』(さ・え・ら書房、1971年)である。福沢の『福翁自伝』を抜粋し、わかりやすく書き改め、それに対しての鹿野さんの解読・解説をつけている。『福翁自伝』の最良のエッセンスがここにはある。福沢研究の、あるいは、福沢を理解しようとするものの、初学者には、まず、この書を薦める。

安政6(1859)年、日米修好通商条約の批准交換のために使節団がアメリカに渡る。村垣範正は、使節団の副使であったが、アメリカの議会をみても、「まるで日本橋の魚市のように騒々しい」という感想しかなかった。しかし、福沢は、議会政治など、その政治経済のしくみを見て取ることができた。

それを鹿野さんは、次のように意味づける。

「福沢が“近代文明”の本質をよくつかむ体験をしているのは、おさないころから、かれが、封建秩序というものに、それなりに疑問を感じてきたからにほかなりません」(134p)と。

そして、それは、鹿野さんの序文にあたる「『福翁自伝』への招待」で、「いままである考えかたにすなおにしたがうという事は、必ずしも美徳であるとはいえません。その時には人間は、“習俗の奴隷”であるかもしれないからです。むしろ逆に、日常の生活で私たちをしばっている法律とか習慣とか道徳とかに疑いの目を向けてゆく事が、人間を本当に自由にし、歴史を進歩させてゆく方向につながるかもしれません。私がもう二十年もまえに、初めて『福翁自伝』を読んだとき、一番強く教えられたのはこの点でした」(13p)ということにつながっている。秩序と抵抗の構想であろう。後半かけ足なのが、惜しまれる。


本書は、その後、『福沢諭吉と福翁自伝』(朝日新聞社 、1998年)と改題して刊行された。  
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明治維新につくした人々

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一気によめる。鹿野政直著『明治維新につくした人々』(さ・え・ら書房、1966年)である。平易ななかに、的確な視点がある。さすが、鹿野さんだ。手持ちのものは、1988年で第24刷だから、多くの読者を得ている。小・中学生に向けて書かれ、ルビもふってあり、読みやすいだけではない。「はじめに」に書かれているように、「吉田松陰、高杉晋作、坂本竜馬、中山みき、大久保利通の五人」が描かれているが、「 しかしそのうしろには、何人、何十人、何百人かの松陰がおり、晋作がおり、竜馬、みき、利通がいたと固く信じて」書かれている。そして、「私はこれらの人々をばらばらの形では取上げませんでした。同じ時代に生きた人々として、たとえお互いに会ったことがなくとも、彼らはみななんらかの形で、心はつながっていたはずだからです。そのお互いの心の関係を結びつけることによって、これら五人の日本人の生き方から、私は「明治維新の像」とでもいったものを作り上げようとしました。」とする。この相互の人物のつながり、そのつなげかたが、素晴らしい。一つの群像劇のように、力強く、精彩に富む。優れた書き手は、児童書においても、いっさい手を抜かず、魅力的に描いていく。一つの憧れであり、遠い目標だ。

初学者が、思想史を勉強していく<足跡>を示していこう。

いま、「日本の古本屋」をみたら、金沢文圃閣で6、890円で出ていた。なるほど。  
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2019年07月18日

ジャンクション−二つの犯罪−

71lNJ555QOL._SX522_前に書いたように、『ジャンクション』は、VHSしかなく、高い(3万円)ものだとしたが、すでに、それも売り切れていた。幸い、まだ、それほど注目されていないときに、入手していたので、紹介したい。
 映画『ジャンクション』(原題:White Man's Burden )1995年 監督:デズモンド・ナカノ
−−−−−ビデオでの紹介文 一部 −−
 もし現代のアメリカで、白人と黒人の立場が逆転していたら?
 運に見放された貧しい白人男ルイス(ジョン・トラボルタ)と、富と権力を握る裕福な黒人社長トーマス(ハリー・ベラフォンテ)。価値観も境遇も全く違う二人の男の人生が交わった瞬間、彼らの運命の歯車は大きく狂い始めた…。
 “人種の階層の逆転”といった独自の視点から、現代アメリカを鋭く抉り、全米に波紋を巻き起こした問題作が、ついに日本上陸!
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高橋ヨシキさんは、(『シネマストリップ 戦慄のディストピア編』スモール出版、2019年)のなかで、映像にすることで、「見えない差別」を可視化できるとして、簡潔に、「白人と黒人の立場が逆転した『もしもの世界』を丁寧に映像化することで、普段見えづらい差別のグロテスクさや不条理さをストレートに伝えることに成功し」たと評価する。さらに、抑圧された白人の子どもが、コミックヒーローの黒人の人形を欲しがるというあり方を、ボールドウィンの言葉をひきながら、抑圧されている側が支配的な文化に取りこまれると指摘する。抑圧されている側が「虚偽意識」を持ってしまう。

言うまでもなく、こうした意識は、エンゲルスによって明らかにされたもので、戦前のマルクス主義哲学者戸坂潤によれば、「この意識は一方に於てその誤謬を自覚し得ないと同時に、他方に於てその誤謬を自覚することを決して欲しない。だからこれは単なる誤謬ではなくて正に虚偽であり、而もただの嘘とは異って一人又は数人の個人が故意に偽った結果であるとは限らないので、却って社会の多数者によって支持される結果それが嘘であることを自覚し得ないような虚偽である場合が極めて多い」ということになる。

さて、ここで指摘したいのは、映画のなかでの二つの犯罪の意味である。

一つは、白人ルイスによる「誘拐」である。これは、計画したものではなく、最初は、不当に解雇されたことを抗議するつもりであったが、ルイスのことを、黒人社長トーマスがまったく覚えていなかったこと(これほど辛いことを、相手は覚えてもいないほど、取るにたらないことなのか!)から、トーマスを自動車に乗せてしまう。そして、もう一つは、黒人社長トーマスによる「住居不法侵入」である。これも、計画したものではなく、トーマスは、ルイスの眼を逃れて、電話で連絡をとろうとして逃亡し、全く、偶発的に住居に侵入する。トーマスが、切羽詰まったなかで、追い詰められて、やむにやまれず不法に住居に侵入したというなら、それを「強いられた」犯罪とするなら、それは、ルイスの「誘拐」も同じではなかったのか?そして、リベラルで、モラリストの立派なトーマスであっても、抑圧によって、「犯罪」に足を踏み出したではないか?

二つの犯罪は、異なっているようにみえるが、ここで示されているのは、両者の類似性、同質性である。トーマスの「住居不法侵入」が犯罪として指弾されることが不条理とするなら、ルイスの「誘拐」も同じように、社会の抑圧構造が強いる、不条理さなのである。  
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2019年07月15日

二つのリメイク

この間、たまたま、二つのリメイクを観た。一つは、1973年の『キャリー』(デ・パルマ監督)と2013年のもの(キンバリー・ピアース監督)である。これは、やはり、単なる焼き直しに過ぎない。むろん、CGで、破壊シーンなどは迫力あるものに仕上がっているが、それ以上ではない。

もう一つは、ジョージ・スルイザー監督の『ザ・バニシング-消失-』1988年と、同じくジョージ・スルイザー監督によるハリウッドリメイク、『THE VANISHING』、邦題は『失踪-妄想は究極の凶器』1993年である。確かに、オリジナルのほうが、原石の鋭さで、私たちの心を突く。最後の絶望感は、果てしない。しかし、ハリウッド・リメイクもそれなりに興味深い。異なる結末に納得する。これはこれで、一つの方法だろうと思う。ただ、これを先にみると、オリジナルの衝撃度が縮減される。ジョージ・スルイザー監督自身、オリジナルを視聴した人びとに向けて、もう一つの回答を示しているように思える。その意味では、あくまでも、オリジナルを観て、次に、ハリウッド・リメイクを観るべきだろう。そうすれば、監督の意図するところが理解できる。そして、次には、また、これとも異なる、もう一つの回答が可能なのではあるまいか。

人はなぜ消失するのか、失踪するのか、その解をめぐって、何通りもの「人生」が描かれる。

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2019年07月10日

ブライアン・デ・パルマの初期の作品について

きっと、映画ファンにとっては、ブライアン・デ・パルマ監督の凄さについては、よく知られたことなのだろう。だが、恥ずかしながら、高橋ヨシキさんの「シネマストリップ」がなければ、真剣に観ようとは思わなかった。現在、少しずつ、視聴し始めた。

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まずは、『悪魔のシスター』(1973年)、これも、例によって、英文字幕を見ながら、ヨタヨタ視聴した。観ているうちに、遠い記憶が蘇ってくる。これは、随分前にテレビ放映されていたのではあるまいか。既視感がある。最終場面近く、Lyton Clinicで、主人公の女性記者グレイスが、自分の身元を証明するためのIDを取りに行こうとしても、受け入れられず、強制的に入院させられれる。そして、偽りの記憶を植えつけられていく。この過程が、極めてリアルで、さもありなんと思ってしまう(記憶の混濁、拡散、そして、焦点が次第にあい、脈絡が整理される、フィクションでありながら、そのリアリティ、映像の凄さ)。このあたりで、以前に視聴したことを確信した。遠い記憶でありながら、刻印された恐怖が新たに再現された。

そして、傑作『キャリー』(1976年)である。これは、以前に視聴していたことをはっきりと記憶している。しかし、後味が悪く、その印象が強くて、再び観ようとは思わずにいた。しかし、今回、視聴してみた。確かに、後味は決して良くはない(キャリーを支えていた人びとの悲惨な最期)。しかし、今回、改めて感じたのは、映像美はもちろんのこと、その音楽の美しさであった。青春という一時期の儚さと脆さを美しい音楽とともに描いたことが、他の凡百のホラー映画からこの映画を際だったものにしている。ダンスパーティの夢見心地の素晴らしさ、そして、それを裏切る仕打ち。この残酷さを強く印象づけるためにこそ、ダンスパーティは、美しい音楽とともに描かなければならなかった。

他に、『ミッドナイトクロス』も観た。キャリーにしても、ミッドナイトクロスにしても、ジョン・トラボルタが興味深い。その後の『パルプ・フィクション』へとつながっていく。  
Posted by mikio1978 at 11:14Comments(0)映画の日々

2019年07月08日

高橋ヨシキのファンであること

高橋ヨシキのファンである。NHKラジオの「すっぴん」での11時のコーナー「高橋ヨシキのシネマストリップ」を愛聴している。聞き逃しサービスを使って、何度も聴いている。高橋源一郎と高橋ヨシキと、そして、アンカーの藤井彩子の仲の良いかけ合いが好ましい。残り少ない時間のなかで、どの映画を観るかというのも、かなり、真剣な問いになる。その際に、高橋ヨシキの紹介は、新たな視点を与えてくれた。『ゼイリブ』などは、この番組で知らなければスクリーンで観ることもなかったと思う(高橋の指摘が、スラヴォイ・ジジェクの『倒錯的イデオロギー・ガイド』に拠っているとしても)。

ただ、困るのは、高橋の紹介するものが、なかなか入手できにくいものがあるということだ。例えば、『ステップフォード・ワイフ』(キャサリン・ロス主演)や『セブン・ビューティーズ』(そもそも、DVDがない)、『ジャンクション』(VHSしかない、それも、さっきみたら3万円だった)、そこで、勢い、海外からの輸入盤に頼ることになる。英語が苦手だが、なんとか、英文字幕を頼って、ヨタヨタと時間をかけて観ている。それでも、やはり、高橋ヨシキの薦めるものにハズレはなく、毎回、新たな発見があり、楽しんでいる。

そんなヨタヨタと観たのは、『ザ・バニシング-消失-』だ。ジョルジュ・シュルイツァー監督が自国オランダで制作したオリジナル版は、DVDがアマゾンで、3.9万円で売りだされているから、べらぼうである。で、『CRITERION COLLECTION: VANISHING (1988)』である。41E95ETN2VL

しかし、「消失した彼女」はどうなったのか、興味の中心は、そこになる。さまざまに想像するが、いろんな「解」があり得るだろう。早くに、犯人は示されるが、この姿が、あまりにも、「私たちに似ている」ように感じるだろう。しかし、全く似ていない、異物のように感じることも事実である。次第に、その感情が強くなり、まったく人間とは異なる「もの」が、人間の姿をしていることに、心がざわついてくる。気味が悪いのである。そして、最後には、閉塞感と絶望感が私たちを襲ってくる。

消失ものとしては、デヴィッド・フィンチャー監督の『ゴーン・ガール』も優れている。そこでは「消失した彼女」の存在感が私たちを圧倒する。むしろ、これは、希望にさえみえる。
  
Posted by mikio1978 at 18:50Comments(0)映画の日々

なぜ、丸山眞男か

実は、丸山眞男をきちんと読んでいなかった。むろん、『日本の思想』など、代表的なものには眼を通しながら、どこか、吉本隆明の声が響いていた。吉本の『丸山眞男論』を読んでしまうと、そこにあるのは、陰鬱な近代主義者としての姿であり、きちんと向き合うことを忌避するような気分にあった。その点、松岡正剛の感覚に似ていた(『564夜』)。

しかし、最近、安丸良夫さんの論考をいくつか読んでいると、如何に真剣に、丸山と格闘し、乗り越えようとしたのかということが少しずつ感じられるようになってきたように思う(あまりにも、遅すぎるが…)。安丸思想史のスタンス「可能性の幅において捉える」だって、丸山の「政治は可能性の技術である」ということと、重なり合っている。

そして、何よりも、鹿野政直さんが、奥様の堀場清子さんに、「丸山眞男盲従分子」と言われていたこと(『現代思想』2016年9月臨時増刊号)に、衝撃をうけるとともに、どこか、とても納得するところがあった。

それが、遅ればせながら、丸山眞男を読んでみようというきっかけであった。そして、時代状況を勘案しながら、読んでみると、その先見性と問題提起の質(今日からみて)が、如何に凄いものなのか、みえてきた。

丸山眞男、安丸良夫、鹿野政直、この三者の著作を読むことは、私のように、思想史を専門としなくとも、初学者にとって、社会を認識するための知性の源泉が、ここには確実にある。

51oFAPmd8GL._SX345_BO1,204,203,200_そういう視点でみてみると、丸山眞男『政治の世界 他十篇』(岩波文庫、2014年)は、とても興味深い。11本の論考と松本礼二氏による解題がついている。

先に見た「可能性の技術」は、いうまでもなく、ビルマルクの言葉「可能的なものについての術」を敷衍して意味づけたもの(論考「科学としての政治学」)であった。それを展開しただけでなく、政治理論に著しい主観性が附着し、多かれ少なかれイデオロギー的性格を帯びる。それゆえに、自らの「存在被拘束性」(重要!)を自覚反省し、希望や意欲による認識のくもりを不断に警戒するからこそ、かえって事象の内奥に迫り得るというのは、社会認識を標榜する学問にとって、大事な視点を提示している。そして、権力については、論考「政治権力の諸問題」で、まず、価値の追求・獲得・維持・増大・配分を目的として介入してくるが、その目的が果たされたとしても、より以上の権力が得なければ、現在の権力も確保できないという「権力のダイナミズム」に基づいて、権力拡大そのものが目的化されるという(=「権力拡大の自己目的化」)論点を提示し、さらに、その権力は、強制的な性格を露骨に出さずに、さまざまな粉飾を施し、できるだけ多くの「自発的賛同」を調達する(論考「人間と政治」)のである。特に、構成員の「自発的賛同」「自発的服従」の指摘は重要であり、現在、この点をこそ、探究すべきことであろう。

そして、何よりも、論考「政治の世界」(これは、傑作だ!)で政治権力の及ぶ範囲が未曾有の規模で拡大しているにもかかわらず(「政治化」の時代)、ますます、大衆の「非政治化」(政治への無関心、批判力の麻痺)が進んでいくという指摘は先駆的であり、それを克服するためにこそ、市民の「日常生活のなかで、政治的社会的な問題が討議されるような場」をつくり、活動することが要請されるのであった。  
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2019年07月06日

ひっそりと始める

41TYN590P7L._SX335_BO1,204,203,200_残り少ない時間のなかで、何を読み、何を観るのか、いくつか考えるところがあるが、リハビリも兼ねて少しずつ書いてみる。

まずは、『丸山眞男講義録 第三冊 政治学1960』。素晴らしい。これまで読まずにいたことを後悔する。丸山にとって最も重要な職務の一つが講義であり、「職業としての学問」の発露であったことがよくわかる。学としての構想、体系として提示すべきという明瞭な問題意識がある。そして、ここには、現在の大学における「政治の貧困」をあぶり出す、核心的な視点がある。

水路づけられている状況に唯々諾々と従うだけの政治オンチが蔓延するなかで、「政治は可能性の技術である」ということが如何に重要な視点であるか。

「状況をある凝固した現実、所与の現実として捉えずに、もっと可塑的なもの、操作的なものとして捉えるのが本当の政治的リアリズムなのである。現実の可塑性とは、現実の操作可能性に他ならない。ビスマルクのいう可能性の技術の意味は…現実のなかにあるさまざまの可能性を探りあて、例えば、今の時点の…混沌とした方向や要求のなかから、ヨリ明確な方向性をもった政治的態度が結晶化していく可能性を見極め、これを引き出していくような思考法およびテクニックをも意味する」19p

しばらく、丸山眞男の世界を覗きたい。  
Posted by mikio1978 at 16:03Comments(0)読書の日々

2017年06月07日

孤独のなかで

再開しようと、思ってから、かなり時間が経った。
心覚えに、少しずつ、書いていこう。

一つには、孤独のなかで自分を見つめる必要ができたこと。
一つには、その孤独を耐えるためにこそ、書くことが必要になったこと。

孤独とどのように付き合うのか、生きるというのは、基本的にこのことにつきる。

『男はつらいよ』も、『家族はつらいよ』も、その孤独を抱えながら、それゆえに人びととのつながりを求めようとあがいている。

自分の生きるかたちに拘束されるからこそ、それから解き放たれた、他のさまざまな人生を味わいたくなる。それが、読書であり、映画であろう。

古い友人から連絡があった。それがきっかけになって、ほかの古い友人にも連絡をとりたくなった。
  
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2014年10月24日

再開します

再開しよう!
少しリハビリも兼ねて再開しよう!
すべて忘れてしまった。しかし,始めてみよう!

菅豊『「新しい野の学問」の時代へ』(岩波書店,2013)を読了した。
感銘を受けた。ここから始めよう。  
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2010年07月01日

告白−噂に違わぬ傑作−

127466687551516421322_kokuhaku-nw1中島哲也監督の『告白』(2010年/日本/1時間46分)である。これは,傑作である。
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とある中学校、雑然とした教室。
終業式後のホームルーム。
1年B組、37人の13歳。
教壇に立つ担任・森口悠子が語りだした。
「私の娘が死にました。警察は事故死と判断しましたが、娘は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒に殺されたのです...。」
一瞬、静寂に包まれる教室。
このまま終わりにはできない。
物語は、「告白」から始まる...。(チラシより)
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これは,読んでわかるように,そして,湊かなえの原作『告白』の第一章が「聖職者」という短編で,小説推理新人賞受賞作であったように,あくまでも推理ドラマである。そのように観るべきだし,読むべきだということを前提にして,しかし,なお,これは,その範疇にはおさまらない大事な問題を提起している。

以下,傑作である理由を述べる。

まず,「告白」する少年たちの「肥大化した被害者意識」を明瞭に表現したところにある。「肥大化した被害者意識」とは,あるブログからの借用だが,そこでは,次のように示される。
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この物語の根底にあるのは、肥大化する被害者意識。各章の語り手は、割と冷ややかに周りを見ているのだけど、自分を「大いなる被害者」だと憐れんでいる。その自分への憐れみが自己正当化へ走り、悪意の連鎖を生む。そしてその結果、新たな惨事が引き起こされる。(『蒼のほとりで書に溺れ』)
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つまり,少年たちの「告白」によって,「母親から捨てられた」「先生に無
視された」などということがわかってくる。そこには,母親や先生や友人という対象から認められたいという,少年たちの,ある種の承認欲求がある。そして,何よりも,そこには,もっとも認めて欲しい人に,認めてもらえない「私」という,とても可哀想な「私」がいる。自己憐憫。つまり,自分は,そのように仕向けられた被害者ということになる。被害者であると思うことによってしか,自分を保つことができない。その「生きにくさ」,そのあまりの弱さ,それがリアルに描かれている。きわめて幼い,それでいて,中学生の心のうちにある,こわれやすい何ものかが,クリアに示されている。

「肥大化した被害者意識」のなかでは,「私」に被害を加えたあらゆるものを憎むこととなり,自分の悪意ある行為も,それに対する反撃・復讐ということになり,容易に正当化される。つまり,憎悪が悪意となり,悪意は復讐として正当化され,さらにその悪意を向けられた相手も,同様に反撃し,次の悪意を生み,傷つけあう。悪意によってつながれた関係性。告白する人びとの悪意がいずれも,それなりに,理由があり,一概に責められないと思わせるような怖さがある。そこは傷つくところではない,というはっきりとした「声」が全くきこえてこない。

もちろん,現実の中学校がそうしたものであるということではない。平均値と極限値という考え方からすれば,明らかに極限値であり,とても偏っていて,あるひとつの特徴をデフォルメしたようなもの(犯罪というものがそうした性格をもっている)だろう。しかし,それゆえに,一人一人には曖昧に,かすかにしか存在していないものが,極限値として,明瞭に浮かびあがってくる。

ある種の社会現象といわれるほどに,多くの若い人びとに観られているということは,おそらく,自分のなかに,かすかに,曖昧にしかないものが,スクリーンではっきりと,衝撃的に突きつけられて,誰かに話さずにはいられないようなものになっているからだろうと推測している。

心象風景の描き方,そして,沁みとおるような音楽といい,中島哲也監督の代表作ともいえるだろう。そして,これは,世界的にも高い評価を受けることが約束された作品だと思う。

M50:中島哲也『告白』(2010年/日本/1時間46分)
評価:★★★★★  
Posted by mikio1978 at 11:13Comments(0)TrackBack(0)映画の日々2

2010年06月19日

誰がため−重厚な傑作−

tagatame_2_1bオーレ・クリスチャン・マセン監督の『誰がため』(2008年/デンマーク・チェコ・ドイツ/136分)である。2時間をこえても,緊張感が持続したままの重厚な傑作であった。

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1944年、ナチス・ドイツ占領下のデンマーク。誰もが恐怖に身をすくめていた時代、ナチスに凛然と立ち向かった実在のレジスタンス、フラメンとシトロン。このような状況下でさえなければ、青春のただ中で人生を謳歌していたはずの若きフラメンは、純粋すぎるがゆえ使命感に燃え愛に翻弄されながらも戦うことしか選べなかった。そして、愛する妻、まだ幼い娘と幸福な時間を過ごしていたはずのシトロンは、人を殺めることに抵抗をおぼえながらも守るべき者のため自ら戦うことを選んだ。己が信じ選択した道を多大な犠牲を払いながらも相棒と共に進む2人。しかし、自由へと続くはずのその道の先には、2人の思いとはかけ離れた想像もつかない真実が隠されていた―。(『ミニパラ』より)
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ずしんとくる。時代のなかで翻弄されながら,何を選択し,何を選択しないのか。抵抗するのか,同調するのか,加担するのか,逃避するのか,そうした道はいつも目の前にひろがっている。そして自らが,選択しているようにみえながら,選ばされていることも。

葛藤と後悔のなかで,下をうつむきながらも前に進もうとする。
普遍的なかたちがある。

M49:オーレ・クリスチャン・マセン『誰がため』(2008年/デンマーク・チェコ・ドイツ/136分)
評価:★★★★★

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テレビ/ビデオでこの半年に観た映画を思い出すのはかなりきついが,試みに。
V40:源孝志『大停電の夜に』(2005年/日本/2時間12分)
また,観てしまった。
V41:エリア・カザン『欲望という名の電車』(1951年/アメリカ/122分)
随分前に観たのに,いまでも,さまざまなシーンが思い浮かぶ。傑作というものはいずれもそうなのだ。
V42:ジョン・シュレシンジャー『真夜中のカーボーイ』(1969年/アメリカ/113分)
意外であった。60年代の雰囲気がよく出ている。この二人が,『誰がために』の時代に生まれていたらどのように生きたのだろうか。
V43:大谷健太郎『約三十の嘘』(2004年/日本/100分)
詐欺師と周到な銀行強盗,そして,誘拐の映画は好きなんです。
V44:リュック・ジャケ『皇帝ペンギン』(2005年/フランス/86分)
いろんなことを考えさせられた。家族とは何か。生きるとは何か。雄とは,雌とは。おそらく,多くの人はそんなふうにして観たのだろう。
V45:小津安二郎『晩春』(1949年/日本/108分)
V46:小津安二郎『麦秋』(1951年/日本/124分)
V47:小津安二郎『秋日和』(1960年/日本/1218分)
いずれも,衛星放送で視聴。何度観ても素晴らしい。これからも,小津映画を観ながら年老いていくのだろうと思う。
V48:吉田喜重『戒厳令』(1973年/日本/110分)
V49:吉田喜重『人間の約束』(1986年/日本/123分)
V50:吉田喜重『鏡の女たち』(2002年/日本/129分)
これまで喰わず嫌いだった。静謐な独特の味わい,それは,とっても怖いものだが,ひきつけるものがある。でも,好んで何度も観たいというものではない。かなり疲れる。
V51:アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』(1998年/イラン/98分)
すげーや。
V52:グエン・ギエム・ダン・トゥアン『1735km』(2005年/ベトナム)
佳作。ロード・ムービーはやっぱり良い。
V53:モスタファ・R・キャリミ『予感』(2007年/イラン・日本)
これも,佳作。
NHKアジア・フィルム・フェスティバルの作品は一定の水準をこえていて,駄作がない。毎年楽しみにしている。実際のフィルムで観たい。
V54:カン・ジェギュ『ブラザーフッド』(2004年/韓国/154分)
やはり,ヒットするにはヒットする理由がある。
V55:メル・ギブソン『ブレイブハート』(1995年/アメリカ/177分)
歴史スペクタクルもこういうのは素直に感心。
V56:ジョシア・ローガン『ピクニック』(1955年/アメリカ/115分)
佳作。
V57:イングマール・ベルイマン『夏の夜は三たび微笑む』(1956年/スウェーデン/108分)
V58:イングマール・ベルイマン『野いちご』(1957年/スウェーデン/91分)
V59:イングマール・ベルイマン 『処女の泉』(1960年/スウェーデン/89分)
学生のときに,『沈黙』を観たことがある。たぶん。名画座で観たような気がする。粋がって観たけれど,難しくてよくわからかったように思う。それ以来,ベルイマンは難しいという感じだった。でも,今回まとめてみて,意外に理解できた。そして,その意味もぼんやりとわかったような気がする。もう少しですとんと落ちるような予感がする。
V60:サミラ・マフマルバフ『ブラックボード』(2000年/イラン・イタリア・日本)
V61:アルフレッド・ヒッチコック『海外特派員』(1940年/アメリカ/120分)
V62:アルフレッド・ヒッチコック『泥棒成金』(1955年/アメリカ/106分)
V63:アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(1958年/アメリカ/128分)
ヒッチコックはいつみても,それなりに楽しめる。これがすごい。
V64:是枝裕和『ワンダフルライフ』(1998年/日本/118分)
V65:オムニバス『パリ、ジュテーム』(2007年/フランス/120分)
こういう映画は良い。東京で撮ってみたい。  
Posted by mikio1978 at 12:45Comments(0)TrackBack(0)映画の日々2

2010年06月17日

ようやく,一息−長く辛い日々−

091211kotsunagiで,ようやく,もっとも重要な研究論文をしあげて,一息ついている。苦しかった。分不相応な仕事であり,自分の不勉強さを思い知らされたような気がする。それでも,いまは,ほっとしている。

さて,大学のほうは,4月からエライ大変なことになり,神経をすりへらしていた。それも,なんとか不十分ながら一応の決着をみて,ほっと一息。

さて,映画のほうの更新はまったくできていないが,それでも,心覚えに評価だけでも書いておこう。

中村一夫監督の『こつなぎ 山を巡る百年物語』(2009年,日本)である。昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で招待されたもの。ただし,僕は,他の作品を観ていて,そのときには観ることがかなわなかった。噂にたがわず,かんがえさせる秀作。
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1960年(昭和35年)に撮影開始、50年後の2009年(平成21年)に完成。明治大正にまで遡る資料映像も駆使した、日本の山と人を巡る深遠なドキュメントである。大正時代に始まる、岩手県二戸郡一戸町小繋地域の、入会権裁判の記録と、現在の暮らしを柱に展開する本作は、地域で生きていくための権利を求める闘いを通して、東北農民の暮らしをつぶさにとらえ、大正から平成に至る日本の軌跡をあぶりだす。そして往復書簡のように過去と現在を行き来して、これからの農業の姿や社会のあり方を示唆し、人と自然の共存や、生活するということへの根源的問いかけを投げかける。(ミニパラより)
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とてもよくできている。小繋事件のもっている意味が,同時代から,あるいは,現在から繰り返しさまざまな角度からとらえられていく。この過去と現在の往復の眼差しは,かなり,よくできている。それを可能にしたのが,ドキュメンタリーカメラマン菊地周,写真家の川島浩,ドキュメンタリー作家の篠崎五六が小繋を訪れて記録した膨大なフイルム・写真・録音テープなどである。こうした人びとがなぜ,記録を残したのか,そして,それがなぜ,まとめられないままであったのか,そうしたことも理解されてくる。

人びとの生活や経験を記録することの難しさと醍醐味があますところなく描かれる。ドキュメンタリーの教科書のような作品。小川紳介監督の『ニッポン国古屋敷村』を彷彿とさせる。
M48:中村一夫監督の『こつなぎ 山を巡る百年物語』(2009年,日本)
評価:★★★★★

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M40:ケヴィン・グルタート監督の『SAW6』(2009年,米,95分)
どうつなげるのかというところが見所。破綻をあまり感じさせない。少し感心した。
評価:★★★★ 

M41:ジャウマ・バラゲロ/パコ・プラサ監督の『REC2』(2009年/スペイン/85分)
これは,やっぱり,こわかった。心臓がバグバグいう。
評価:★★★★

M42:ウェイ・ダーション監督の『海角七号 君想う、国境の南』(2008年/台湾/130分)
ひどい,期待していただけに残念。
評価:★★

M43:アンジェイ・ワイダ監督の『カティンの森』(2007年/ポーランド/122分)
これも大事な作品。ずしんとくる。
評価:★★★★★

M44:イエジー・スコリモフスキ監督の『アンナと過ごした4日間』(2008年/フランス・ポーランド/94分)
なかなか苦しい。これは,男性の勝手な視点からみたもの。女性はたまったものではないだろう。だけど,こういう心理は確実にある。
評価:★★★★

M45:パーシー・アドロン監督の『バグダッド・カフェ<ニュー・ディレクターズ・カット版>』(2008年/ドイツ/108分)
不思議な魅力。主題曲はやはり秀逸。
評価:★★★★

M46:大宮浩一監督の『ただいま それぞれの居場所』(2010年/日本/96分)
これは,かなり良い。90歳を越えて,孫の介護士のために,料理をしてあげるおじいさんがいちばんすごかった。このように見事に老いていきたい。
評価:★★★★☆

M47:行定勲監督の『今度は愛妻家』(2009年/日本)
薬師丸ひろ子も豊川悦司も魅力的。
評価:★★★★

  
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