2005年01月25日

共感と違和感

無気力製造工場前回,『季刊 前夜』のことを書いた。そこでは,戦時下の『土曜日』を参照しながら,強い共感を軸に,<抵抗と文化>というメッセージを読み解こうとした。しかし,わずかに残る違和感もあった。書かないでおこうとも思ったのだが,やはり,『リバーズ・エッジ』のこともあるので,少し書いておこう。

触媒になったのは,ECMサウンドやジャズ批評が掲載されている『musicircus』のサイトを主催する多田雅範氏のつぎのような文章であった。
「やだな。文化と抵抗、なんて、カビくさい固くなったカステラのような用語は。アクチュアリティに欠ける。楽しそうじゃない。面白そうじゃない。闘う、と、言ったときに、相手の所在に行き当たれない、わたしの心臓をわし掴みにして苦しめているこの凶悪な腕を左手でナイフを突き刺したら、それは自分の右腕だった、自慢の右腕だった、という、そんな中にあって。複素数と微分方程式の世界にあって、1たす1はー、と、10進法しかも自然数の世界で、そういう世界とも知れずに考えているような」(『ロヴァ耳日記@練馬区平和台』

つまり,ここでは,敵と呼ばれるものが,わかりやすい自明のものではなく,つかまえてみれば,自分自身であったというように(それも自慢の),複雑な現在の真実を指摘している。わかりやすい敵を想定することで,満足してしまうことを嗤っているところがある。

『季刊 前夜』の古くさい作法と文体では,現在のシステム合理性によって動いている社会では,説得性をもたず,あさっての方角を向いているということでもある。ミもフタもないようにみえるが,それは,僕自身の作法と文体にも共通するオールド・スタイルの問題性だ。

そうした点を考えるうえで,興味深いのが,今さらながらの鶴見済『無気力製造工場』(太田出版)だ。そこでは,
まえがきで,
世界情勢や環境破壊,天皇制,差別なんていう問題が実はごく一部の人にとっての関心事でしかないこと。なのに,メディアはそういうものばかりを宣伝し,ゴミクズみたいな“社会評論家”があれこれ語る。そうなると,そんなくだらない騒々しい世の中ともう自分とは切れてしまっているような気がする。世の中がくだらなく思えてくる。社会について疑問を持つことも考えることもやめてしまう。社会問題は,わざわざ探すものじゃなくて,自分の身近に転がっていたり,自分の体に刻み込まれていたりするはずだ。例えば,なぜ,僕たちの家や部屋にテレビと電話が侵入してきて,いつでも電話してテレビのチャンネルを切り替えていないと安心できなくなったのか?どうして,時計をみて時間を確認していないと気が済まないのか?とか,そうしたことをとりあげてくれれば,すこしは,社会について考えたりする気もおきるけど…。それは,理解できないほど抽象化されたものであったり,くだらない。
となる。

つまりは,『季刊 前夜』をはじめとして,論壇のなかで,あるいは,アカデミズムのなかで,社会を,世界を解読し,積極的に働きかけている人々の声が,日常を生きる<私>を取り巻く場所に,切実な実感をもった声として届かなくなったということを意味している。別の言葉でいえば,<私>のなかのくだらなさ,無気力と頽廃を,きちんとうけとめて,日本や世界の社会問題として,解きほぐしていくことができなくなったということでもある。

僕が語ることも,結局は,「今どきの若い学生は…」の水準を抜けていないのではないかということでもある。これは,KREIさんとの応答でも,決着がつかないままの問題として残っている。この項,続く。

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