アジア/世界と日本
April 16, 2007
試写会のあとの文化論
昨日は、前にも書いたスイス映画「砂漠の風」
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の試写会を博多で行った。映画の後、参加者にアンケートを書いてもらい、さらに有志参加で近くの喫茶店で懇談会をした。
アンケートからこの映画を日本でプロモートするかどうか決めるつもりだが、参加者からは、「英語の字幕を読むのに精一杯で、内容をあまり理解できなかった」という声が目立った。また、内容自体も今の日本では重過ぎるのではないかという意見もあった。
アンケートの内容分析はまだ行っていないが、参加者の声から予備判断すると、この映画は少なくとも今の日本の若い人たちには不向き、狙うとすると「団塊の世代」を中心とする人々ということになるのではないかと思う。
この世代はこれまで重ねてきた人生経験を振り返る時期に来ているだろうし、仕事や職場の縛りから自由になった一個人としてこの映画を観て、そこから得られるところが多いのではないかと思う。
懇談会が終わって、私たちの「多国籍グループ」(名前を、StreamLogic Fukuoka と言います)は近くの居食屋「和民」に移動して打ち上げを行った(和民へ行くのはグループのメンバーの各自も昨日が初めて)。
スイス人、カナダ人、それに日本人2人(スペイン人は他の用事で来なかった)の4名が、試写会の反省会はそっちのけでいろんな話をした。ただし、試写会の映画の内容が、ヨーロッパ社会の「男性性」についてだったことの裏返しなのか、各国の「女性性」の話にもなった。
スイスとカナダでは、このところ女性が男性化してきているとのこと。男女平等はいいけど、男女の区別もなくなってきていて、女性が男性と同じことをするようになったらしい。
それに対して日本は、まだ女性らしさが健在なのが魅力なのだそうだ。キュートな女性のいでたち。女性モデルが登場する広告。そんな広告をスイスやカナダで掲載すると、女性からの抗議が殺到するだろうと言う。さらに、女性が男性に合わせること(男性の顔を立てること)、家庭を守り子育てをする女性。「子供を生む機械」と発言しても政治生命を絶たれない政治家など(tongue in cheek!)。
そんな違いの背後に何があるのかをいろいろ議論しあったが、合意した結論は、日本はセンシュアル(sensual)な社会だということだ(これを「官能的」と訳せばポルノ的になるので、もっと広い意味を込めてそのままセンシュアルとしておく)。
センシュアリティが日本社会のすみずみまで浸透している。それは和服姿の女性、彼女らの化粧のしかた、八百万の神々、武術の型、日本人の丁寧さと細やかさ、ポストモダンの没価値の花盛りと混沌に反映している。
面白いことに、彼らと私とではセンシュアルなことへの評価が正反対だった。
私にとってみれば、センシュアルなものは低い価値のもの。これが支配しているのが今の日本社会であり、そのため、より高い諸価値(=合理性や論理的思考さらにその上の知恵など)へと人間の心が昇っていくのが妨げられている。その意味で日本社会の現状はとても抑圧的だと私は思っている。
一方、スイス・カナダ勢は、センシュアルな日本をポジティブに評価している。
スイス人のSは、五感の対象をそのまま受け入れるほうが善悪やロジックを強調する伝統的な欧米の立場にくらべずっと現実的だと言う。全て管理され、消毒された病院のようなスイスになど、1ヶ月住むのもごめんだそうだ。そんなSにとって、地上天国は大阪ではないかという。大阪は日本のいいところに加え、人間がオープンで率直で、好奇心旺盛しかもスピーディ。それに比べ福岡は、どこかスイスに似ているそうだ。
April 15, 2007
温家宝首相の来日と九州の未来
温家宝首相の来日は、日本と中国の関係を進めるためにとてもよかったと思う。
国会演説にもあったように両国の交流の歴史は長い。世界一長い友好の歴史だといわれると、本当にそうだなと思う。近年は、日本と日本人は、近代中国の父、孫文の運動にも大きく貢献したこともある。
今の日本人が中国のことを考えるとき、ポジとネガの相反する思いがよぎるんだろうが、どんな人や国とでもいい関係を作るには、相手のポジに目を向けるべきだと思う。
私にとって中国へのポジとして、漢詩がある。かつて杜甫に熱中して、岩波文庫の『杜詩』全8冊(だったと思う)を読了したほどだ。杜甫の自然描写は色鮮やかでとても美しいが、特にその人間愛には深く感動する。時と所を超えた普遍的なものを感じる。
私にとって中国は杜甫を生んだ国であり、現政権がどのようなものであろうとこの国への基本スタンスは変わらない。
それで温首相の今回の来日で、このところ改善の兆しが見えてきた日中関係が大きく前に踏み出したのは、私にとってとても喜ばしいことだ。
日本と中国の「戦略的互恵関係」にとって今ほどいいタイミングの時はないのではないか。中国の大問題の1つ環境問題の解決に、日本がその環境技術と省エネ技術で大きく貢献できることは明らかだ。省エネ技術で中国の自然資源への需要が緩和されれば、世界の平和に直接貢献する。また、中国からの西風をまともに受ける九州にとって、中国の大気がきれいになることはとてもありがたい。
さらに、環境問題への草の根の協力を通じて、中国の民主化にも貢献できるかもしれない。中国には環境NGOが2700余りあり、これらの専任スタッフが約7万人、兼職が16万人、参加したボランティア数は伸べにして約860万人で、今の中国の国内状況は反公害や環境関連の市民運動が盛り上がった日本の1970年代の状況によく似ているそうだ。
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とすると、中国の民主主義は、日本の70年代と同じく、中央レベルからではなく草の根レベルから進展するのではないかと思う。
中国の市民社会と連帯、協働すること、特に環境や開発関連の社会紛争を解決するための中国市民社会の能力を高める支援をすること・・・これらを通じて私たちが、中国の民主化を草の根レベルから進めるお手伝いをすることができるのではないか。
特に、70年代の日本の市民運動を担った人たち(その中には団塊の世代も多数いたはず)が培ったノウハウが役に立つのではないかと思う。
それから九州にとって、中国とさらに仲良くなることは切実な意味をもつ。九州が道州制実施の先駆的モデル地区になったことにより、九州経済が「支店経済」から脱して、自立・自律することが緊急の課題になった。それには、中国大陸の六大経済ブロック(東北三省、北京・天津回廊、山東半島、長江デルタ、福建省、珠江デルタ)のそれぞれと緊密な関係を結ぶしか道はないだろう(朝鮮半島とも同様)。
これらの地域から九州に大量の投資を呼び込み、また元気で優秀な人々に沢山来てもらう必要がある。この動きはすでに始まっていて、今後加速するだろう。
アジアと緊密につながる多民族・多文化共生の九州…これはアジア共同体を草の根から積み上げていく上でのモデルになると思う。
April 10, 2007
地球温暖化への懸念への懸念
今日の西日本新聞の社説には、国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の第二作業部会が最近出した報告書を読んで感じた地球環境への懸念が書かれている。この報告書が描く未来予測からは、これからの地球の破局的なシナリオが浮かび上がってくる。折りしも、米国の元副大統領アル・ゴア氏による映画「不都合な真実」が、日本を含め世界的に大きな反響を起こしている。
もちろん、地球温暖化に対し敏感になることは、環境意識を高める上でいいことだと思う。しかし、今繰り広げられている温暖化防止への世界的キャンペーンには懸念を感じる。
その懸念には2つある。
その一つは、原発の推進という目標があって、その目標達成のために温暖化の問題が政治的に使われているのかもしれないということ。実際、このところ日米の政府と財界が強力な原発セクターを形成して、東南アジアに原発を作らせようと、猛烈な攻勢をかけている。インドネシアはすでにその軍門にくだった。
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マレーシアでも、同国政府がこの原発セクターの強い圧力の下にあることを伺わせる記事をローカルの新聞で最近よく見かける。
私としては、東南アジアという楽園を原発によって台無しにして欲しくはない。原発に比べれば、水力発電の方が、環境上・社会上のいろいろな問題はあるが、まあ lesser evil (比較的ましな悪)として、まだずっとましだと思う。
原発の環境に及ぼす害悪のことはここで繰り返さないが、もう一つ、原発で疑問に思うことは、これが本当に地球温暖化を食い止める発電方法なのかということだ。私が知っている限り、原発は形を変えた石油発電に過ぎない。つまり、ウラン鉱の採掘、運搬、そして核燃料化するプロセス、それにもちろん原発の建設、稼動、維持管理など、莫大な石油の消費がそこに隠されていたはずだ。石油を消費すれば、当然、温室効果ガスが発生する。
このことはもう、20年以上前から地球資源物理学者の槌田 敦さんなどが指摘していたことだが、これに対して原発推進側はどう答えているのか。私はこの間海外にいたこともあり、そのへんの事情を知らない(知っている方は教えてください)。
「温暖化への懸念」への懸念のもう一つは、本当に地球は温暖化するのかということだ。IPCCが集めたデータでは温暖化が進んでいるように見える。しかし、地球は温暖化ではなく、寒冷化に向かっているという人もいる。それは、地球惑星科学の日本が生んだ鬼才とも言うべき丸山茂徳東工大教授だ(詳しくは以下のサイトをご覧ください)。
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丸山教授は、地球の長い歴史から見たら今は氷河期と氷河期の間の間氷期であり、過去の比較的規則正しいサイクルから判断したら、いつ氷河期に突入してもおかしくない時期に来ていると言っている(IPCCの科学者たちがやっているシミュレーションは、扱う変数の数が多すぎて、地球環境という複雑な現象の今後を予測することは不可能だそうだ)。
また、地球が比較的温暖でいられるのは、マントル層から地表にせり出す地殻プレートが地球内部から運ぶ熱のせいだそうで、このプレートが地表にせり出す速さがこのところ低下しているとのことだ。ということは、地球内部からの熱の供給が少なくなっていることを意味している。
これまでの環境論者の考えでは、地球が生物にとって快適な環境を維持し続けているのは、太陽から地球に入る熱エネルギーと、地球から宇宙に輻射熱として放出されるエネルギーの間にバランスがとれているからだと言われているが、この考えには地殻プレートが地表にもたらす熱のことは考えられておらず、今から思えば不完全な理論だと思う。
丸山教授によれば、地球温暖化のほうが地球寒冷化よりもずっと良いそうだ。前者のもとでは、生態系が豊かになり、緑や森が広がり、食料も十分にあるが、後者のもとではその逆だそうで、実際人類の歴史で何度か起こった寒冷期には、食料その他の資源を求めての民族大移動やその結果としての戦争や軋轢が起こっているとのこと。
同教授の考え方に従うと、化石燃料消費の結果としての温室効果は、もしそれが本当に起こるなら、地球寒冷化のマイナスの結果を緩和することになり、むしろ歓迎すべきことになる。
丸山教授の考え方が正しいかどうか私にはわからない。しかし、地球の気候変動とその結果予測に二つの相反する説があるにも関わらず、世は挙げて地球温暖化とそのネガティブな結果についての大合唱というのは片手落ちではないか。二つの立場の間の対話が必要だと思うが、特に地球寒冷化説の有力な提唱者がいる日本でこのことが起こっていないのはどうしたものか。この説を事実上無視してきたマスコミには大きな責任があると思う。
この辺のこと、私としては国際政治学+ジャーナリズムの観点でもっといろいろ調べて、本にしたら面白いと思うが、目前の仕事にかまけてそれをする時間も金もないのが残念(どなたか、このリサーチのスポンサーになって下さる方はいません?)
March 27, 2007
フリーター脱却の道=インドに行ってIT技術者になること
日曜日は福岡市天神に行って、インドのIT会社の代表者の話を聞いてきた。インドと言えば、今や世界中が認めるIT先進国だ。しかも人件費が安い。それで日本の企業がインドの会社にソフトウエアの開発を委託することにより、ソフトの開発費用を大きく削減することができる。
今後は会社の経理事務のようないわゆるバックオフィス事務もインドや中国などの会社に委託するようになるだろう。ネパールもこのサービスを始めるための準備を着々と進めている。このサービス(BPO:Business Process Outsourcing という)により、今後日本の会社では事務員を雇う必要が大きく低下し、一人あるいは数人が切り盛りする会社が、ビジネスのコアの部分に専念できるようになりそうだ。
天神のインド系IT会社の代表者の話に戻るが、彼は時々日本の若者たちがたむろする喫茶店などに出かけて、彼ら彼女らに話しかけているとのこと。今の日本の平均的な若者のハングリー精神のなさは言わずもがなだが、その中でも見込みのありそうな人たちを見つけて、この会社と同じグループに属するインドの大学に1年間送って、IT技術を身につけさせるそうだ(コースは英語で行われる)。その間の授業料も生活費も会社が全て負担するそうだ。条件はコース終了後は自分の会社で働くこと(インドで働く場合も、日本で働く場合もあるだろう)。
費用が向こう持ちで、就職口まで決まっている、しかも使える英語まで身につくとは、日本人にとって願ってもない話ではないかと思う。IT技術はこれからますます求められる技術だ。日本でフリーターをやっているより、インドでITを勉強してそのプロフェッショナルになるほうがずっといい。
どうですか、皆さんも。Seize the day! チャンスを逃すな!
March 24, 2007
日本の司法がアービトラージされる
向井 亜紀さんが代理出産した双子について、最高裁が「実の母とは認められない」との決定を下したが、
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この判決といい、最近のホリエモンへの判決といい、司法への信頼を自ら損ねるような行動(あるいは司法が自らをコケにするような判決)がこの頃多いと思う。この2つの裁判が示しているのは、激しく変化する現代社会の現状に日本の司法がもはやついていけず、無用のものになろうとしていることではないだろうか。
グローバル化の時代、アービトラージ(arbitrage)という考え方の重要性が高まっている。
これは国際取引の分野で「さや取り」とも訳されるが、司法に当てはめれば、人々が各国の司法制度(つまり正義を判定する制度)を比べて、その有用性を判断し、その判断に基づいてしかるべく行動することを意味するだろう。
日本の司法は、これまで一国内だけで正義を独占できていたのが、グローバル化により、他国の司法と比較され相対化され、その結果日本の司法が無視されたり、回避(忌避)されたりして、世界の中で日本の司法を置き去りにしてことが進んでいく可能性が見えてきた。
このことの背後には、インターネットなどにより、個人が世界の情報をリアルタイムで手に入れられるようになったことによる根本的な変化がある。結果として、世界的に個人の力がどんどん高まっている。
March 23, 2007
「戦争犯罪についての国際会議」についての友人の論考
マレーシア発の平和運動については、これまでに2回にわたり書いてきた。
2007年1月10日「マハティール前首相の平和攻勢」
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2007年2月7日「クアラルンプールが平和のための世界首都になるかも知れない」
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上記の日記で書いたクアラルンプールの「戦争犯罪についての国際会議」に一緒に出席した友人が、会議についての論考を『長崎平和研究』に掲載するとのことで、本人の希望により以下に転載します。
私の記事(日記)に対して、当時多くの方々からコメントをいただきましたが、この論考についても、皆さんのコメントをいただければ有難いです(コメントは本人に伝えます。本人からのレスポンスもここで掲載できるかもしれません)。
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“Criminalising War”国際会議に参加して
〜真の文明を目指す‘Look West Policy’の勧め!?〜
川原 紀美雄
去る2月5日から7日にかけてマレーシアの首都クアラルンプールで開催された国際会議、“Criminalising War”(「戦争を犯罪にしよう」)に出席した。いまや紛争を武力で解決するには無垢の市民が犠牲になりすぎており、如何なる理由があるにせよ、その行使は犯罪であることを人類は共有するよう訴えた会議であった。
このような21世紀の人間の生き様を示唆する、わが国の平和憲法を具現化するような国際会議であったにもかかわらず、ご多分に漏れずわが国のマスコミは「鈍感力」を決め込み、ほとんど報道していない。わずかに報道された内容も、「マハティール氏米英首脳を非難〜原爆、イラク戦争をめぐり」、「米英首脳、フセインより重罪」など会議の一面のみを強調しており、この時期に開催された歴史的意味などを掘り下げた、社会の木鐸としての役割を果たしていない。
今、日本は世界をリードする21世紀を真に切り開く「美しい国」ではなく、多くの国・人々が眉をひそめる、戦争が出来る時代遅れの「醜い国」に向かってひた走りつつある。本国際会議の主催者マハティール前マレーシア首相は、植民地から独立し自国の近代化を進めるうえで、第二次世界大戦で壊滅的打撃を受け灰燼の中から立ち上がる日本のエネルギーをモデルに、長年にわたりLook East Policyを推し進めてきた。しかし、経済から軍事にいたる閉塞感に満ちた現在の日本の動きに見切りをつけ、あたかも「鈍感生」に満ちたわが国に警鐘を乱打するかのごとく、自らの手でLook East Policyの完成形態として、わが国憲法が有する国の成り立ちの根幹である国際的紛争に戦争を選択しない社会ルール作りの緊要性を提唱したのである。
言うならば、それは冷戦終結以来の現在の日本人に決定的に欠けている、哲学的に将来を見据えた21世紀の人類社会を切り開く、格調高い‘警世の書’ならぬ‘警世の国際会議’として歴史的に評価されるような会議であった。それはどのような内容を含んだものであったのか、マハティール前マレーシア首相の冒頭演説から特徴のいくつかを紹介しよう。
まず、7000有余年にわたる人類の戦争の歴史を振り返り、今回の国際会議のテーマである戦争の歴史限界性について、深く分析していることである。“戦争とは人を殺すことであり、人を殺すことは文明化されていると自称する如何なる人間社会においても犯罪とみなされる。然るに、文明化された人類社会は今日にいたるも、紛争解決の手段としてますます残虐性、無差別性をます武器を使用することを合法化しているが、これは大変な矛盾である”と。
従って、わが国のマスコミ報道に垣間見られたように、本国際会議はテロを口実に現在進行形中のアフガン・イラク戦争を推進してきたブッシュ米大統領、ブレア英首相、ハワード豪首相を戦争犯罪人として告発(小泉首相が含まれていないことに注目!)することが主な目的ではなく、戦争を犯罪として告発する会議と原爆を含む残虐な戦争被害の展示を通して、戦争を合法とみなす戦争と平和に関する古典的認識を戦争を完全に拒否する認識に転換する崇高な世界的努力が成功するような場を設定することを目的としていることである。
このことは、この会議が誰かの売名行為のためではないとマハティール氏が言い切っているところに端的に示されているのみならず、新たに設立される場の最初の動きとして、平和のための世界的規模のNGOのネットワークを構築し、あらゆる地域の平和活動家を励まし、平和と戦争の犯罪性につき語り合い、戦争と戦争準備に具体的に抵抗することなどを提起しているところに見られる。
さらにこれから向かうべき目標として、文明社会の矛盾を克服するこのような行為こそ尊厳と気品に満ちた‘美しい行為’であり、人権を尊重する文明は国家間の紛争解決に戦争、殺戮、破壊を選択しなくなったとき、戦争を犯罪とする真に文明化された社会を実現することになろうと強調している。
マハティール前マレーシア首相が示した今回の国際会議の方向性は、平和憲法を有するわが国こそが先頭に立つべき課題であり。現在のわが国の指導者にその能力が無いのであれば、Look East Policyの完成形態としてマハティール前マレーシア首相が冒頭演説の最後に呼びかけた、「真の文明を達成し、戦争を犯罪とする戦いに前進しよう!!」にわが国のNGOとして、あるいは個人として加わろうではないか!
本国際会議だけでなく、昨年9月にヘルシンキで開催されたAEPF6(Asia Europe People’s Forum 6)では市民の安全と繁栄を実現するための危機管理として、Military Crisis Managementを超える、戦争を否定することにつながる‘Civilian Crisis Management’の実践と理論が報告された。このように歴史は着実に動いている。マハティール氏はローマは一日にしてならず、されど戦争の無い世界、法の支配が各国の行為を統治する世界、弱者と強者が共存する世界を実現するには時間はかかるものの、ローマを建設するほどの時間はかからないと述べた。‘Look West Policy’をお勧めする所以である。
(長崎平和研究所所長)
March 19, 2007
九州そして福岡へのビジョン
昨日は、対日貿易投資交流促進協会(ミプロ)と福岡市が共催する「外国人のためのビジネス起業セミナー」に出席した。内容は日本での起業・会社設立の方法についての説明と、カナダ人と中国人の起業家による福岡でのビジネスの体験談だった。
内容もよかったが、とてもためになる資料も沢山いただいたので、私の外国企業相手の異文化マネジメントのコンサル活動にも幅が生まれそうだ。
このような催しが福岡市で開かれるようになったのも時代を感じさせる。近い将来の道州制の実施を見据え、九州はこれからは独立した経済ブロックを形成する必要がある。そのためには海外からの投資を積極的に呼び込むことが不可欠だ。グローバル化の時代では、世界からどれだけお金を集められるかが地域の繁栄を左右するのだろう。
九州は、「支店経済」を早く返上して、東京や名古屋、大阪ではなく、主に中国大陸と朝鮮半島さらに東南アジアの方を向くようになってもらいたい。
(このことと、地域循環重視の生命圏地域主義:バイオリージョナリズムをどのようにして調和させるかというのは大きな課題だが、今日はこのことは考えない。)
九州の(事実上の)首都である福岡市の利点は、中国大陸と朝鮮半島と近いことだ。実際、福岡に来ると、ここが大陸と半島と密接につながっていることを肌で感じる。昨日のセミナーでも、福岡に進出したい中国企業の代表の人々がかなり多く参加していたようだ。大陸と半島さらにシンガポール、マレーシアからのお金の流れを加速させたい。
福岡のもう一つの利点は、住みやすいこと。食べ物が美味しいし、人々は日本の他の地域と比べるとかなりのんびりムード。温かくて率直な人たちが多い。山海の食べ物が美味しい。阿蘇や九重などすばらしい自然がすぐ近くにある。
それから福岡市自体がヒューマンスケールだ。今は廃刊となった Asiaweek が毎年行っていたアジアで住みやすい都市のランキングでは福岡市が毎年のようにトップの座を占めていた。
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この住みやすさが、主に欧米系の人々を引き付けている。新しく現れようとしているのは、住みやすい福岡で起業し、生活をエンジョイしながらここで成功して、中国大陸進出を目指そうというパターンのようだ。
昨日の夕方に同じく福岡市内で出席したミーティングは、この新しいパターンを象徴するものだ。カナダ人とスイス人がそれぞれ1人づつ、スペイン人2人、それにグローカルな視野をもつ日本人1人が集まって(今後これに私も加わるつもり)、お互いのビジネスを成功させるために協力し合っている。
ビジネス以外にも、これらの人たちの日常生活に対するコメントが有効に生かせれば、福岡は多文化・多民族共生でオープンでエネルギーにあふれたところになるだろう。私としても、外国人が住みやすい福岡実現のために、ささやかな貢献をしていきたい。
February 21, 2007
いろんなことで忙しいということと、人と人とつながること
2月27日にネパールの首都カトマンズで開かれる会議で、この国への日本人観光客をもっと沢山呼び込む方法について話しするための準備をしている。
今週の土曜日に出発するので、話す原稿とか、パワーポイントなどプレゼンの資料を明後日には完成させなければならないのに、久しぶりの日本でいろんなことが面白く、目前の仕事になかなか集中できない。
大前研一の本が面白い。田原総一朗の本が面白い。櫻井よしこの考えも理解したい。マレーシア前首相のマハティール氏の平和運動をめぐるマイミクのフジヤンさんのコメントにもレスポンスしたい(けど、時間がとれない)。
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また昨日から佐世保市のある起業家に対するメールを通じてのコンサルも入って、そのやりとりも面白い。
面白いことだらけなところに、さっきはNHKの『クローズアップ現代』で社会起業家=「社会貢献を仕事にする人たち」の仕事ぶりが取り上げられ、これがまた実に面白かった。
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従来のタイプのハングリー精神がもてなくなった現代日本の若者たちが今後ハングリー精神を発揮できるとすれば、それは前にも書いたが「魂のハングリー精神」だと思う。
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人は何のために仕事をしているのか、自分のことばかり追求して結局それが何になるのか、生きる意味は自分の中にあるんではなく、自分の外に、社会の中にあるんではなかろうか、というような思いがこのところ台頭してきた社会起業家たちのなかにあると思う。
私なんか、仕事をしているときとプライベートなときの自分を分けたくない(分割したくない)、「手前どもは...」のような奇妙な言い回しを使わずに仕事をしたい、自分の表現として(自己実現のために)仕事をしたい、このような部分で他者とつながりたいと思ってきたが、このような願いも社会起業家に共通する思いではないかと思う。
このような思いをもち、さらにそれに基づいて行動する人々が今の日本ではとても増えてきているようで、一見暗く見える今の日本社会の希望のともし火ではないかと思う。
というわけで、また目前のネパール問題に戻ります。
February 18, 2007
東アジアの新年おめでとうございます!
今日は東アジアの新年。この地域それに世界中に散らばる東アジア人コミュニティがこの日を祝っている。
私の家族それにクランの親戚一同は明日からホリデーでペナンに行くとのこと。義父母それにマイワイフにとってはペナンが生まれ故郷だ。
日本も旧正月を復活させてほしいものだ。そうすれば、東アジアの人々との連帯感がずっと深まるだろう。日本人とアジア各国の人々がこの日を共に祝うようになる日を見てみたい。
February 07, 2007
クアラルンプールが平和のための世界首都になるかも知れない
昨日と今日と、マハティール前首相が会長を勤めるNGO主催の『戦争犯罪についての国際会議』に出席した。
マハティール氏が基調講演を行ったが、そのブッシュ大統領とブレア首相に対する歯に衣を着せない批判ぶりが一段と際立っていた。
例えば、この二人に言及するときは必ず頭に「戦争犯罪人」というタイトルをつけようとのことだ。さらに歴史の教科書にもこの二人が人間性に対する罪を犯した大罪人として歴史に残るようにしようとも提案があり、参加者の大きな共感を生んでいた。
マハティール氏はまた、現在の高いレベルにまで進化した人間が、問題を今でも戦争で解決しようというのは原始的であり人間の地位にそぐわないとも発言した。このような発想は、爬虫類的発想(=脅威の認識とそれへの反応が爬虫類的であること)から抜けきらない西欧の指導者たちの間には見られないものだと思う。
英米の策謀により世界各地の国際関係が力と力の対決の場となりますます軍事化していこうとしているときに、マハティール氏の発想は人類史的な重要さをもっているような気がする。
同氏以外からも、いろいろ興味深い発言があった。米英によるイラク戦争それに準備が着々と進むイラン(核)戦争の本当の目的、イラクとレバノンで使われている劣化ウラン弾の恐ろしさ、東南アジアで原子力発電を建設しようという策謀など、詳しくはブログに書こうと思う。
マスコミの協力、国際的な市民社会の協力、それにインターネットを使ったさまざまな方法により会議のメッセージが世界に広く伝わってほしい。実際アルジャジーラのカメラが回っていたので、この会議の模様は全世界に放送されたことだろう。
もしかしたら、話し手の誰かが言っていたように、クアラルンプールは「平和のための世界首都」となるかもしれない。アメリカの物理的なスーパーパワーをコントロールする道徳的なスーパーパワーの拠点になるかも知れない。
ただ以前の mixi の日記にも書いたが、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=259212040&owner_id=2586836
単なる反対運動では反対するものにむしろ力を与えることになるということがある。この運動が、「しっぺ返しの正義」ではなく「癒しとしての正義」となるためにどうしたらいいのだろう。