横浜重工株式会社横浜造船所跡
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何故か大理石のような腰掛?
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山汐丸のイカリ
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みなとみらいセンタービル工事中の2008年に、地下14m付近から発掘されたもの。イカリの形状から1937年(昭和12年)の帝国海軍採用のホールズ型イカリではないかと推測され、最終的に、この敷地にあった横浜船渠株式会社(後に三菱重工業株式会社横浜造船所)で建造された、陸軍航空母艦「山汐丸」(1945年(昭和20年)建造)のものだと判明しました。

氷川丸建造の地
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山下公園に保存されている氷川丸は、現在の横浜美術館前いあった旧横浜船渠 第4号船台で建造されました。

三菱ドック踏切
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みなとみらい21地区に唯一現存するJR高島貨物線の踏切。かつてこの付近に「ハマのドック」と親しまれた横浜船渠株式会社の正門がありました。貨物線の踏切名称「三菱ドック」にその名残りを見ることができます。

雪見橋交差点
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岩亀稲荷 岩亀横丁s-IMG_4267

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横浜開港(1860年)と同時期に花街が港崎町(みよざきちょう)に作られ、埼玉の岩槻(いわつき)から出て来た佐藤佐吉は、「岩槻」が「がんき」と読めることからその花街に「岩亀楼」を作ります。岩亀楼の遊女たちが病に倒れた時に静養する寮が当地にあり、その寮内にあったと言われている「お稲荷さん」が「岩亀稲荷」なのです。今回岩亀稲荷には寄らなかったので残念でした。それで思い出したのが以前横浜を案内してもらった時に、横浜公園は元遊郭があった所で火事(豚屋火事)で焼失しその跡地が横浜公園になったと言うことで、その中にあったのが岩亀楼だと言うことが結びつきました。

掃部山公園(かもんやまこうえん)の入口
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掃部山は、昔、明治初期の鉄道敷設に携わった鉄道技師の官舎が建てられていた他、地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから鉄道山と呼ばれていました。その後、横浜開港に貢献した井伊直弼の記念碑を建てる際に、井伊家の所有になりましたが、大正3年に市に寄付され掃部山公園となりました。
掃部山、この読み方読めませんね〜。

戸部大通り商店街 造船所(横浜ドック)と共に歩んできた商店街
市民酒場「常盤木」
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賑わっていた当時の写真を見せていただきました。1949(昭和24)年ごろ
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1955(昭和30)年ごろのにぎわう店内
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黒くなった床が当時の面影を偲ばせていました。
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大塚由五郎商店(酒店)
造船所があるころは注文の電話がかかり、1日に何回も配達に忙しかったそうです。
吉永さゆりのポスターが目に留まりました。
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こんなポスターがあったことにビックリでした。

今回の街歩きで思ったことは、みなとみらい地区がどのようにしてできたのかと言うことが少し理解できました。
横浜は何度も来て、説明を聞いたり、話を聞いたり、遊びに来たりしてましたが、造船所やドックがあって日本丸のある所は第1号ドックだったとは知りませんでした。長い長い歴史があってその上に今が続いていると言うことを改めて感じました。

  (終)