ニュースによると今週の末頃に再び寒波がやって来るらしいが、最近数日は有り難いほど寒気が緩んだ。昨日は雨だったが寒いというほどではなかったし、今日はよく晴れている。息子を学校まで送って、戻ってからそのままの格好でこたつに入ってネットをブラウジングしていたら汗をかいてしまった。ニットのキャップを耳までかぶり、とっくりのセーターを着ているというのに上からさらにマフラーをし、長いコートを着ているからである。立ち上がってコートを脱いでいると、眠っていた妻が薄目を空けて「暑いの?」と言う。今日は胃癌検診の日なので10時半までに公民館に行かないといけない。家の近くの本荘公民館ではなく、少し離れた本郷公民館だから、9時には起きなければいけない。ちょうどそんな時間になっていたから、起きるのかと思ったら「行かないといけない?」と聞く。よほど眠いのだろう。

午前中が胃癌検診で、午後から同じ場所で乳癌検診である。胃の方は別に違和感も何もないし、眠いから行かないことにしたいらしい。別に私が強制したり勧奨したりしたわけではないし、私自身も検診の対象なのに受けないのである。だから「行きたくないなら無理していくことは無いさ」と言った。「乳癌の検診は私がしてやるし」と言ったら嫌な顔をしていた。昨日「乳癌の検診て何やるの?」と聞くので、「それは手でおっぱい揉むのさ。いや、金を取るんだからそれだけじゃないな」と言った。

「他には何?」

「手で揉んだだけでは分からないような微妙なしこりを探るんだから、口でやるんだ」

「口でやるって?」

「パクッとおっぱい咥えて舌でごにょごにょ探るんだよ」

「馬鹿」

「いや、馬鹿じゃない。フィリピンではどうだか知らないが、日本ではそうやるんだ」

妻は私が悪い冗談を言って喜ぶ癖があるのを熟知しているから、全然信用しない。しかし私が公民館の代わりに乳癌検診をやれば、間違いなくそういうやり方になる。私の場合は慣れているから医者より上手いと思うが、乳がんの知識は無いので検診の正確性には疑問符が付く。まあ、昨日そういった会話を交わしたので、私が検診してやると言ったら妻は嫌な顔をしたのだ。愛する夫におっぱいを咥えられることを嫌がるというのは不届きな妻である。

結局妻は胃癌の検診はあきらめてそのまま寝てしまった。私はSIMフリーのスマートフォン関連のことをネットで調べた。以前エイデンという家電量販店に行って聞いたとき、「ガラケー用のSIMをスマホに刺してもシグナルが違うから電話も出来なくなりますよ」と言われた。だからそれが本当かどうか調べたのである。するとSIMの形状が違う場合があるのでそもそも刺せないことがあるけれども、もしピタッと収まれば電話とショートメッセージは出来るらしい。但し、ネットを使うデータ通信は通信方式が違うのでダメと言うことだった。電話とショートメッセージが使えるなら私には充分なので、本当に安いスマートホンを買おうかなと言う気になってきた。何故そんなことを考えるかと言うと、うちにはテレビがないからNHKの受信料を払っていないのだが、しつこく何度も来る勧誘員の一人が、携帯でもテレビが映るから契約してもらわないといけませんと言っていたからである。テレビが見たければ1万円かそこらで買える筈で、折り畳み式の画面の小さな携帯電話を使ってテレビを見ようなどとは思わない。第一私は自分の持ってる携帯電話がテレビを受信できるとは思ってもいなかった。

「ほら、此処にテレビの絵が描いてあるじゃないですか。これを押すとテレビが見られんですよ」と勧誘員が私の携帯電話の使い方を教えてくれた。テレビの絵が描いてあることくらい知っていたが、データ通信の契約はしていなかったのでテレビも当然受信できないものと誤信していたのである。しかしいわゆるワンセグと言われる携帯電話でのテレビ受信とインターネットは関係ないらしい。そんなことがあったので、携帯電話をテレビの映らない奴に買い替えようかと言う気になったのである。しかしSIMフリーのスマートフォンでワンセグ機能の無い奴は大体3万円することが分かった。1万円くらいなら買ってもいいが、3万円というのは馬鹿馬鹿しい。

私は実をいうと使っていないスマートフォンを持っている。フィリピンで買って日本に持ってきたのだが、OSが古いのでウィルスが入り込み、何やら裸のアイコンとか壁紙とかが沢山入り込んでしまった。アイコンの方はゲームなのか何なのか知らないが、クリックすれば余計汚染がひどくなるに決まっているから、そのまま使うのをやめた。フィリピンで買ったものだから安かったが、中国から部品を買い集めて組み立てているフィリピンのメーカー製で、見かけや機能は結構素晴らしいのである。だから暫くはカメラ代わりに写真を撮るときだけ使っていたのだが、妻が日本に来てからは写真を撮る必要が大幅に減ったので、画面に傷がつかないように何重にも紙でくるんでどこかにしまった。それはフィリピンで買ったものだから日本のテレビなど受信できる機能が有る訳ない。

そのことを思い出したので、裸のアイコンや壁紙は別に気にしなくてもいいし、というよりもともとそういうのは嫌いではないし、そのままSIMを入れ替えて使えるかどうか試してみようと思った。ところがところが、どこにしまったのか忘れてしまい、探すことが出来ない。暇だからあちこち時間をかけて探そうと思うのだが、探し物というのは井上陽水の歌じゃないが、探している間は見つからなくて探すのをやめると出てきたりする。皮肉なものだ。

妻はいびきをかいてぐっすり眠っていたが、12時少し過ぎた頃に起きてきて、久しぶりに外で食べようかという。久しぶりと言っても少なくとも週に1回くらいは外で食べているのだが、まあ、今日は私も外で食べたい気分になっていたので、自転車を連ねてデニーズに行った。ステーキを食べてドリンクバーとかいうセットを注文して、お腹いっぱいになったから帰ろうかと見たら4000円になっている。「あんだ?4000円?」ふざけるなよと思い、それならせめてもう1杯コーヒーを飲んでやろうとお替りしてきたが、お腹がいっぱいで半分も飲めなかった。

その後二人でブックオフに行こうという話だったのだが、特に何かを買う当てが有る訳ではない。それにブックオフとデニーズは反対方向で、ブックオフに行くというと家の前を通る。お腹がいっぱいになったことだし、買うものも特にないし、帰ろうかということになり、ブックオフには行かなかった。妻はジーンズを脱いでタイツ姿になったので、タイツをずり下げてお尻に食いついていた。アイフォンでユーチューブを見ていた妻は、やがてうっとおしくなったらしい。「おならが出そう」と言う。尻に吸い付いているときおならをされてはたまらない。妻のおならは下着とタイツでは遮断することなど出来ないが、むき出しよりはいいから、ずり下げた下着とタイツを元に戻した。口と舌による乳がん検診をするつもりだったのに臀部癌検診になってしまったのは、妻がうつぶせに寝ていたからである。

その後こたつに入ってぼんやりしているうちに眠ってしまった。息子を学校に迎えに行く時間になったら妻に起こされた。この頃妻はよほど気が向かないと学校に迎えに行かない。それで私はいつもの通り一人で迎えに行った。息子が可愛らしい女の子と並んで歩いていたので「夢野さんか」と言ったら「違います」と言われてしまった。仲良く一緒に歩いているように見えたのだが、たまたま隣り合って歩いていただけだったらしい。「あの子は2年生だよ」と息子が言う。

息子が学校からもらってきたプリントによると、この4月から全学年2学期制になるという。そういうのは息子の通う小学校だけの訳は無いし、多分岐阜県の学校だけと言うことも無いと思う。つまり文部科学省の方針で全国一律に2学期制に変えるということだろう。プリントには

見出しのように平成30年度より、現行の3学期制から2学期制に変更します。一番の理由は「教師が子供たちと向き合う時間の確保」です。ご承知のように平成32年度から新しい学習指導要領が全面実施となり、子どもたちに学力をつけさせていく上でも、2学期制の方がより効果が上がると考えます。

とある。

予定表を見ると夏休みとか冬休み、春休みは今までと変わらない。すると何が変わるのか?新しい学習指導要領に変わるというのは全然ご承知ではなかったが、学習指導要領は何も今回初めて変わったわけではないだろう。プリントに書いてある所によると「3学期制だと2学期制より「教師が子供たちと向き合う時間が確保」しにくいということのようである。うーむ、つまり年に3回も成績表をつけるのは大変だという意味なんだなと慧眼の私は理解した。

成績表は昔のように通信簿とは言わず「子どものすがた」と言うようになっているが、その中身を見ると確かにこれをつけるのは大変である。例えば国語の欄を見ると「国語に対する関心を持ち、進んで話し合いや書くことを行い、読書に親しもうとする」「自分の考えを持ち、目的や場面に合わせて筋道を立てて話し、内容を的確に聞き取ることが出来る」と言った具合に書いてあり、こういった項目が国語だけで6項目ある。そしてそれぞれについて3段階評価の印を先生が書き入れるのである。こんな成績評価は私が教師だったらとうていできない。

国語に対する関心は持っているようだが進んで話し合いや書くことを行うとまでは言えない。しかし読書は好きなようである。さあ、3段階のどの辺にすべきか。上に引用した項目はたまたま1項目が3つにわけることが出来る内容になっているが、そうではない項目もある。項目は全部を合計すると50くらいある。これについて3段階評価をしていくのは容易なことではない。受け持っている生徒は33人いるのである。つまり総計では延べで1500以上の判断をしなければならないことになる。これを年に3回でなく2回にしようというのは、まことに適切な話だと思う。私などは11学期制でもよいと思う。

まあ本当は学期の数などより学習指導要領の変更内容の方が重要であるに相違ないが、私は政府と学校と先生を信頼したいと思う。

昨日はパソコンの前に座ってこたつに入っていたらいつの間にか居眠りをしてしまった。子供の下校時間はいつも310分なので3時に家を出るのだが、はっと目を覚ました時既に36分だった。大急ぎで自転車に乗っていくと学校の近くの交差点で会った。子供を後ろに乗せて向きを変えようとしたら、余りにも小回りしすぎて倒れてしまった。まだ意識が半分眠っていたのかもしれない。子供が怪我してないかそればかり心配だったが、幸い冬のことで私も子供も厚着していたし、走っていて倒れたのではなく走り出す前に倒れたのだから、二人とも怪我はなかった。「大丈夫か。怪我したか?」と私は何度も聞いたが、子供の方は全く平気で、「パパ大丈夫?」と心配そうだった。子供はさっさと起き直ったのに、私はしばらく呆然として立ち上がれなかったからである。

子供が又クラスメートと公園で遊ぶ約束をしたと言う。今度は何も買わないし、パパは来なくていいよと言うので、ずいぶん迷ったが、「分かった」と言った。心配だったが、他の子供たちは付き添いなしに自分だけで来る。息子もそろそろ少しずつ一人立ちしなければいけないし、それを親バカで邪魔するのはいけないことだろうと思ったのである。一旦家に帰ってランドセルなど置いてから子供は公園に向けて歩いて行った。私は彼の姿が見えなくなるまでビルの外に立っていた。時々振り返りながら手を振る子供の姿がなんとも言えない。写真には撮らなくても私の頭に焼き付いた。公園の入り口まではほぼ直線なので、子供の姿が見えなくなったということは、公園に入ったということである。心配だったが私は家に戻った。

30分ほどしてお客さんとデートしていた妻が帰った。ドアを開けた瞬間余りにも静かなので「どうしたの?ミコは寝たの?」と聞く。しかし部屋のふすまを開ければ息子がいないことは直ぐわかる。「ミコは?」という声が一瞬緊張を帯びたが、説明すると納得した。しかし二人とも思いは同じなので、ちょっと行ってみようかということになり、二人で公園に行った。今日は曇っているが寒さが昨日までと比べてかなり緩んできた成果、公園には子どもが沢山いた。息子はクラスメート二人と鬼ごっこしていて、走り回っていた。汗びっしょりだった。4時半に二人のクラスメートを残して家に戻った。公園は近いし、よほど寒い時以外は老人など誰かしらがいるから、これからはこんな風に息子を一人で遊びに行かせると良いかもしれないなと思った。

私はズボンの下に分厚いタイツを穿いているのだが、横倒しに自転車ごと倒れたせいで右側の脚の外側が痛かった。しかし肌をむき出していなかったから怪我は無いし、打ち身も相当にやわらげられていることだろう。これから季節が夏に向かうと薄着になって倒れたら怪我をする。寒がりの私は薄着になるのが人より遅いけれども、若い女性の薄着に見とれて倒れることの無いように気を付けないといけない。

少し前に介護士の話で感心したことがある。脳出血で右半身不随になった老人がいて、寝たきりの彼を介護士が世話しているのだが、「おっぱいを触らせてくれ」と子供の用にせがむのだという。介護士は「いいよ。だけど左手はダメだよ。右手で触るんならいいよ」と言ったそうである。老人はもう年だからというので医者に言われてもリハビリをしようとしない。しかし「右手でならおっぱい触ってもいいよ」という介護士の言葉にその日から涙ぐましいほどのリハビリを始めたそうである。作り話かもしれないが、ありそうな話ではある。私だって同じ立場になれば、眦(まなじり)決してリハビリに励む。数日前にエロスは文明の進化の原動力であると書いたが、生命力の源でもあるのだ。性欲を馬鹿にすることは出来ない。

 

ミニスカートは何歳までOK?投稿に容赦ない意見が集まる

http://news.livedoor.com/topics/detail/14161815/

先日のガールズちゃんねるでも「ミニスカート何歳まで?」というトピックが話題になっていた。「何歳でも似合えば大丈夫」「年齢より美脚かどうかが肝心」という声がチラホラと上がる中、やはり多くの人がミニスカートを違和感なく履くには年齢の壁があると感じているようだ。

この記事は「みゆくらけん」という人が書いたものだが、下記のような意見を紹介している。

「三十路付近でまだはいてる人見ると、いくらスタイル良くても痛いっつーか、ダッサと思う」

「どんなにスタイルよくて足がきれいでも、やっぱり若くないとなんか違和感あるんだよね、ミニって」

「スカート丈よりも形かも。フレアはいくらスタイル良くても(一定の年齢を過ぎた女性には)無理がある」

ざっくりいえば「アンダー30まで」が世間の認識なのだろうか。特にヤバイのは「生脚でミニスカ」で、タイツ着用ならアラサー以降でも問題ないとの声も多い。

「ミニスカート何歳まで?」というタイトルでテレビ番組を作れば、出席者は大体番組制作の意図を察して上に述べたような意見を言う人が多いことだろう。年なんか関係ない、似合えばいいという反対意見も少数意見として期待されていることを承知で明言する人が出てくる。それもテレビに出る人のお約束みたいなものなのである。こうした意見を論評するのは馬鹿みたいなことだろう。しかし、今40歳になる私の妻はスキニージーンズと言うタイツのようなジーンズを穿く時以外は、ミニスカートしか穿かない(店で着るロングドレスは別)から、やはり一言言いたくなる。私は屈んだら下着なんか見えてしまうくらいのミニスカートが好きだから、妻もかなりのミニスカートしか穿かない。買ったドレスが少し長いと短く詰めてから着たりする。高校生がやたらに短いスカートを穿くのは、それが男の目を惹くからというだけではない。スカートは短い方が美的に見えることを知っているからである。

30歳になったらミニスカートはどうもね、と実際考えている女性がいるなら、長いスカートを穿けばいい。モンペでもいいし、何ならイスラム女性の着るチャドルでもいい。好きなように体を隠せばいい。そんな精神の女性がミニスカートを穿いてもお洒落に見えるはずがないからである。

チャドルというのは全身を覆うマントのような服で色は黒以外は見たことが無い。日本人で実際にそれを着ている女性を見かけたことのある人は少ないだろうが、私はフィリピンに長年住んでいたので、しょっちゅうチャドル姿の女性を見かけた。フィリピンはカトリックの国だが、1割弱のイスラム教徒がいる。フィリピンで1割弱というと約1000万人だから、数としては少なくない。どの街にも必ずと言って良いほどあるマーケットにはたいてい食品以外の物を売る小さな店や屋台が集まっている。衣類やDVD、携帯電話関連の商品などが主である。それらの店はたいていイスラム教徒(フィリピンではムスリムと言っている)がオーナーである。彼らの店で働く人もたいていはムスリムである。そういう店で働く若い女性は服装に関しては開放的になってきて、チャドルを着ている人などいない。チャドルなど着ているとお客が寄り付かなくなるという配慮もあるかもしれない。しかしオーナーの奥さんが店にいるという場合は、チャドルを着ているから、やはり若い女性はそんなもの着たくないから着ないだけだろう。では全く区別がつかないかというと、そうではない。彼女たちは必ずスカーフをしている。とは言ってもスカーフでぐるっと顔を巻いているような人は殆どいない。ムスリムの戒律は守っていますよという印のようなもので、スカーフを猪木のように、あるいは貴乃花のように首にかけているだけである。もちろん彼らのものと違ってあんなに長いものでなく、普通にそこらで売っているスカーフである。色とりどりの柄模様の紗のような生地のあれである。黒いスカーフなど見たことない。

そういう若い女性も結婚すればチャドルを着るようになる。と言うか、夫からチャドルの着用を強制されるのだろう。もちろんキリスト教徒と結婚するムスリムもいるが、そういった女性はチャドルやヒジャブ(女性用のヴェール)を着用しないだけでキリスト教に改宗するわけではない。大体無宗教の日本人は改宗というのを軽く考えているが、外国では宗教というのは生まれついてのものと言う考えが強くて、物心ついてから信仰を始めた人など、準メンバーという扱いしか受けないのである。だから日本には結構クリスチャンがいるし、わずかながらイスラム教徒もいると思うが、彼らが本場に行けば全く同等にクリスチャン、ムスリムとしての扱いを受けるということは無い。彼ら自身はそんなことは有りませんよと言うだろうが、そんなことはあるのである。

ところでイスラム女性は自らの意思でチャドルを着るのであって、強制されているわけではない。ミニスカートとタンクトップを着れば女性が解放されるというのは馬鹿げたことであると言う。しかし、とは言いながら、チャドルの下にはびっくりするような派手な下着を着、ヒジャブの下には毒々しいほどの化粧をしている人が多いそうである。戦時中の物資欠乏の時代、お洒落することの出来ない日本の若い女性がモンペの腰ひもの色でおしゃれを楽しんだということがあったそうである。女性と言うのはそんな風に工夫してお洒落したい気持ちがある。それがない女性とは私は付き合いたいとは思わない。だからイスラム女性の多くはチャドルやヒジャブに隠れたところでお洒落を楽しんでいるという話は、非イスラム教徒の、為にする風説に過ぎないとは思わない。もしそれが当たっているなら、やはりチャドルやヒジャブは女性の自由を制約していることになる。正装はチャドルとヒジャブを着用するのだが、それは何かの儀式のときだけ要求され、そうでないときは下着の見えそうなミニスカートでも個人の自由だよ、という宗教の方が私には宗教らしくてよろしいように思う。こんなことを言うと、私が有名人ならイスラム教が暗殺者を送り込んでくるところだろうが、まさかこのブログを読むイスラム教徒がいるとは思わないので、心配する必要がない。それが売れないブロガーの強みである。

このところ雪がちらつくことが多い。それもこの地方は不思議なことに晴れているのに雨が降ることが結構あるのだが、雪も晴れているのに降ったりする。しかし、うっすら積もって翌日になると日陰にだけ残っているという程度の雪だから、例年に比べると雪が少ない感じがする。いつもは雪だるまが何とか作れるくらいの積雪があるのだが、この冬はまだそこまでの積雪がない。

金曜日の朝にいつもの通りに洗濯しようと洗濯機の置いてある3階の踊り場に踊り場に行ったが、栓をひねっても水が出ない。水道管は多分凍結防止のためだと思うが、ちょっと異常なくらい太いものなので、多分栓の所だけ凍っているのだろうと思い、家に戻って湯沸かしから湯を取って来た。ちょろちょろと掛けてみたが相変わらず水は出ない。分厚い靴下で小さめの突っ掛けを穿いているから足元がおぼつかなくて、ついホースを踏んづけてしまった。するとなんだか硬かったので、もしやと思いホースを外してみたら案の定ホースの中の水が凍っていた。それでホースを外して家に持っていき、湯沸かしの湯をかけた。詰まっていた氷が解けて水になるのではなくそのままぽこんと出てきたからもう大丈夫だろう。持ち帰ってつないだら今度は快調に水が出た。

今は洗濯機というと1槽式の全自動洗濯機しか売っていないそうだが、うちの洗濯機は昔ながらの2槽式である。中古を5000円で買ったのである。私は全自動洗濯機は使ったことが無いし、余り便利すぎるものに対してはいわれのない反感を抱く方なので、わざわざ昔の2槽式を探して買った。だから洗濯物が絡まる。それで洗濯の時とすすぎの時の2回、絡まりを手でほどかないといけない。それが冷たくて手が感覚を失うほどである。冬でなければ洗濯機のそばでタバコを吸いながら本を読むのだが、冬はこの場所は北向きだし風が吹き抜けるので、とても本を読む風情ではない。家に戻ってこたつに入る。こたつに入ってぼんやり時間を過ごすわけではなく、本を読んだりパソコンでニュースを読んだりするからつい時間を過ごしてしまうことが良くある。洗濯の時は時間を過ごしても15分で自動的に止まるから良いが、すすぎの時に忘れると気が付くまで水は流れっぱなしになる。相当長時間気が付かなかったこともあるが、有難いことに此処は水代がタダである。

最近はヒートショックとか言って、風呂に入ったり、朝寒い時間に薄着でごみを出しに外に出たときに、急激な温度変化のために死んでしまうことがあるのだと聞く。これは昔は聞いたことの無い言葉である。昔はヒートショックが無かったのではなく、そういう名前がなかっただけだと思うが、これはやはり人間が長生きするようになったことと無縁ではないだろう。近頃は、高齢者が自動車運転のミスで重大な事故を起こすというニュースに良く接するが、それもまた人々が長生きしすぎるからだともいえるだろう。年金の行き詰まりも勿論長生きと無縁ではない。昔は人生50年と言って50歳で引退して、引退すると急に老け込んで数年で死んでしまうのが普通だった。それがみんな長生きするようになって定年退職や年金支給開始がそれぞれずれてきたわけだが、医学の進歩と栄養に富んだ食生活のおかげで、長生きの度合いはそれらに増して伸長してしまったわけである。

かく言う私も今70歳なのだから、長生きは悪であるなどと言うつもりはないのだが、やはり人生50年、あるいは60年の時代とは考えを飛躍的に変えないと、様々な問題が噴出するのは避けることが出来ないだろう。私自身は幸いにも頭脳労働に従事しているから、80歳でも90歳でも頭がボケない限りは働くことが出来るのだが、普通の職業の人は、多かれ少なかれ体力を使う仕事をしている訳で、いくつになっても働けるという訳にはいかないだろう。

昔は銀行に行くと窓口にはずらりと若い女性が座っていたものだが、この頃では年配の女性が多い。マクドナルドでも事情は同じで、結構な年の中年女性が働いている。銀行などは、いろいろなものを読んでいると、時代の変化という波をもろにかぶる業種のようで、今に従来の形の銀行は大幅に淘汰にされるらしい。即ちインターネットバンキングと言うものがすごい勢いで発展してきており、従来型の銀行は採算が取れないことになるらしい。銀行は今、職員のパート化や口座維持手数料の新設とか、両替の手数料を1500円以上にしようとかいろいろ努力しているようだが、それらは従来型の銀行営業形態を維持には不十分だろう。手数料の新設などはむしろ逆に従来型の銀行の淘汰を促進するものになると私は考えている。なぜなら、インターネット銀行は口座維持手数料など取らないのである。つまり口座維持手数料を新設すれば、そういった支払に敏感な人はゆうちょ銀行かインターネット銀行に口座をシフトしていくことになる。

AIの進歩は人間から仕事を奪う面が確かにあるが、すべての仕事がAIに取って代わられるわけではない。例えば銀行の話が出たからそれについて考えると、ATMに現金を容れたり出したりするのは人間がやる以外にはないのである。また例えば私が昔やったことのある、ガードマンについて考えてみよう。工事業者について回って交通整理する仕事はAIで代替するわけにはいかないだろう。臨時の信号をつければ交通整理のガードマンは要らなくなりそうだが、移動式の臨時信号の費用とガードマンのコストの比較だけの問題ではない。ガードマンの交通整理は警官の交通整理とは違ってあくまでも自動車運転者の任意の遵守を前提としている。つまり強制力はないものであり、ガードマンの指示に従わなくとも違法の問題は生じない。実際にガードマンとして交通整理をすると、それに従わない乱暴な運転者は少なくないのである。そういう例外的な事態が起きても事故が起きないようにガードマンは交通整理するし、人間だからそれが出来る訳だが、AI組み込みの臨時信号ではそうした事態に対処できない。その結果として事故が起きた場合に、任意で従うことを前提とする信号に違反したことをもって、直ちに事故を引き起こした過失であると言うことが出来るのかは難しい問題をはらんでいる。

つまり、AI化はそれが技術的に可能かどうかという問題だけではなく、それ以外の要素も入ってくることがある。そういうことを考えると、AI化で無くなる仕事には限度がある。またAI化によって逆に仕事が増える面も当然あるだろう。例えば上に述べた例でいえば、AI組み込み式の臨時信号機を作るという仕事が新たに生まれるわけである。いずれにしてもいま世界で最大の企業は、アップルとグーグルが競っているわけだが、両方ともインターネット関連の会社である。アップルはスマートフォンを作って売っているだけではない。ゲームとか音楽の配信事業でも大きな利益を生み出しているのである。

近頃ではビットコイン長者と言う言葉も出来たくらいビットコインで大もうけした人が大勢出ているらしいが、これもインターネットなしには考えられないシステムである。

私が初めてパソコンを買ったのはもう20数年前になるが、その当時はインターネットというのはあるにはあったが、実際に実用的に使われていたのはパソコン通信と言われていた。つまり当時は、パソコンとパソコンを通信回線でつないでテキスト情報をやり取りするくらいのことしかできなかった訳である。しかしビデオプレーヤーやDVDプレーヤーがアダルトコンテンツで爆発的に普及したように、インターネットもアダルトコンテンツのために急激に進歩し普及した。エロを求める男の本能は、文明の動力なのである。

大昔の原始時代のことを言えば、エロが文明を発展させたということは無いように思えるが、そうでもない。今の現代人類にはネアンデルタール人のDNAが僅かながら入っているそうである。そのことが人類の新法に寄与したかどうかは私のような門外漢には具体的なことは言えないが、一般論としては多くの血が混ざりあうことによってさまざまなDNAを取得し、それがある種の病気や災害に強い人間を作ったということはありそうなことに思える。そして見かけや集団の全く違う別人種のDNAを取り込むというのは、やはりエロスを抜きにしてはあり得ないことだろうと思う。

一夫一妻制というのは大昔は無かったもののようで、昔は乱婚だったとは思わないが、仲が良い間は一夫一妻だが、飽きてしまえば別の異性と新たな一夫一妻を組織するという具合に、要するに相手を取り換えるのが不思議ではない時代が長かったのではないだろうか。男にとってはいい時代だったのだなと思ってしまうが、選ばれる立場に甘んじていたかに見える女性の方がむしろイニシアティブをとってパートナーの変更をしていたという研究もあるようである。それが本当なら私はそういう時代に生きていなくてよかったということになる。何しろ選ばれる要素をほとんど持っていないことは間違いのない所だと私は自覚しているのである。

ちょっと話がずれてきたのだが、私が言いたかったことは、人間が長生きするようになったというのは、あらゆることに関して質的な変化を必要とするような劇的な事態だと考える必要があるのでは無いかということである。どういうことかと言うと、今までは長生きしてきた年寄りを保護やケアの対象として考えていたように思うが、そうではなく、若者と同じく社会の役割や責任を平等に分担する成員としてとらえる必要があるのではないかということである。非常に大きな問題なので私にはその全体像は見えないが、例えば保育園や老人介護の仕事には、高齢者を積極的に大量に活用する必要があるし、その合理性が有るように思う。保育士が絶対的に不足しているのは保育士の待遇が悪いからだという意見に対してホリエモンが「保育士の仕事は誰でもできる(だから給料が安いのは当然だ)」と言って物議をかもしたが、あれはある意味で当たっている。高齢者をボランティアに毛が生えたような給料で活用するのにこれほど適した分野は無いのではないかと私は思う。高齢者の介護は、もうすぐ自分自身もそのお世話になるであろう高齢者がやれば、おざなりな仕事ぶりにはならないだろう。

これからは大人用おむつや介護用品の産業が伸びていくと言われているが、それは高齢者が増えた現代のほんの一部の断面に過ぎない。老人学と言っても高齢者学と言ってもいいが、老人の活用を含めた処遇全般をもっと総合的に抜本的に考え直す学問が必要な時代が来たと思う。少子化対策とか外国人雇用の問題などもそういう学問の中で考えると少し違ったアイディアが出てくるような気がする。

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