私はいわゆるミーハー的興味や関心を馬鹿にする者ではないし、時にはそれを前提としたブログ記事を書くこともある。しかし、今日のこの記事は、そういう関心で読んでもらっても期待はずれに終わることを最初にお断りしておく。最高裁の裁判に関して幾つか解説を試みてきたが、今日は下級審の判決の中から解説してみようと思い、最近の判例というのを見ていたら、下記判決に遭遇した。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/702/086702_hanrei.pdf

平成29年4月13日東京高等裁判所第6刑事部判決1100号 わいせつ物陳列,わいせつ電磁的記録等送信頒布,わいせつ電磁的記録記録媒体頒布被告事件

これは、いわゆる「ろくでなし子」事件の高裁判決である。警察の摘発、検察官による起訴、地裁における審理などの段階まで世間やメディアを大きく騒がせた事件であるが、高裁の判決については報道されたのかどうか知らない。少なくとも私は、毎日ニュースに目を通しているのに、この高裁判決が出たことを知らなかった。高裁判決は、原審判決(地裁の判決)の判断過程についていくつかの誤りを指摘しているが、有罪無罪の判断結果としては変更していないために、メディアの関心を引くことがなかったのだろうと思う。

結論は要するに、性器をかたどって作った石膏アートについては、「性的な刺激を惹起させ得ること自体は否定できないものの,それぞれの性的刺激の程度は限定的なものにとどまり,それだけでわいせつ性を肯定できるほど強いものではないと認められる」として無罪とした。他方で、3D プリンターで再現できる性器部分のデータの頒布については、わいせつ電磁的記録等頒布罪で有罪とした。

自分の性器から実際にかたどって作った石膏に装飾を施したものについては猥褻性を否定して無罪としたのだが、この点は私の常識にも合致する。今時インターネットでは性器丸出しのビデオが溢れているのであり、仮令性器から実際に型取りして作った石膏であっても、それに装飾を施して性器それ自体とは別のものになっていると認められる状態に至っており、普通の人を興奮させるようなものではなくなっているなら、それを見て性的に刺激を受ける人がいくらか存在するとしても、それで猥褻だというのは世間一般の常識に反する。そして、ろくでなし子氏の作ったいわゆるアートなるものは、私にはアートと言うところまで昇華されているような作品には見えないが、さりとて依然として猥褻な生の性器の型取り物そのものであるようにも見えない。尤も私の家では、私の妻が私や子供の居るところで全裸になって、それから風呂場に向かうから、女性の性器に対する見方や考え方が、私は世間一般とは違うかもしれない。

つい昨日も、妻の裸を見て子供(6歳の男の子)が「オマンコ見えるよ」と実に嬉しそうに下から股を覗き込んで私に報告していた。「パパ、オマンコ好きでしょ」と言うから、「うん、大好きだよ」と言ったら「ミコも大好き」と言う。「学校で先生やレイナに、オマンコの話なんかするんじゃないぞ」と言ったら、とんでもないという顔をしていたから、息子はそれが公に話題とすべき「物」ではないことが分かっているのである。(レイナというのは教室で、息子の隣の席に座っている女の子である)

女性の性器がおおっぴらに語られるべきものではないことが分かっているのなら、私はそれで良いと思っている。つまり私は人間の体に猥褻なものなど無いという考え方である。貝のむき身を見ても猥褻だと思う人は猥褻だと思う。女性の股間を見ても猥褻だと思わない人は思わない。女性の性器は猥褻だからおおっぴらに語られてはならないのではなく、非公然としておくほうがモラルに合致するし、また他方で性の喜びを増すことになるからであると私は考えている。

3D プリンターは、現在のところはまだ非常に高価であり、一般には普及していないが、いずれは誰でも安価に求めることができる時代が来るに相違ない。それを考えると、性器の形状を再現することが出来るデータの頒布を無罪とする訳にはいかないだろう。データは、それ自体としては無味乾燥なもので、性的刺激を引き起こすものではないが、その点は以下のように考えるとわかりやすい。一見すると何の写真か全くわからないが、特殊なメガネを掛けてその写真を見ると、セックスしている裸の男女を撮影した写真であることが分かる。多分今の技術ではそういう写真を作ることは出来るだろう。その場合に、その写真を生の目で見ると何がなんだか分からないから猥褻ではないという主張が通らないことは明らかだろう。これは、性器を写した写真が猥褻であるとする現在の判例を基にした見解であり、上に記した「人間の体に猥褻なものなど無い」という私見は、判例の見解とは異なるものであることを注記しておく。

ところで、高裁判決が原審判決の判断過程についていくつかの誤りを指摘していると言ったが、例えば下記である。

本件各造形物に関するわいせつ性の判断は,本件各造形物自体について,それを見る者が視覚等でどのように捉え理解するかということを前提に検討すべきであって,視覚等では理解することができない制作者の意図や作品の制作過程等は,わいせつ性判断の基準外に置かれるべきものである。原判決は,原審弁護人の正当行為により違法性が阻却される旨の主張を排斥する理由として,わいせつ性判断において作品外の事情を考慮しないことの意義はわいせつ概念の明確化を図るためであって,正当行為の有無において作品外の事情を考慮すれば,結局その判断が主観的になり,表現の自由等に萎縮効果をもたらすおそれがあると説示しているが(前記イ),作品外の事情といっても様々なものがあり得るのであり,違法性が阻却される余地を一切否定することはできないというべきである上,表現の自由等への萎縮効果を理由に,かえって処罰範囲を広げるような結果を是認する説示とも受け取られかねず,刑法の解釈として極めて不適切といわざるを得ない。

猥褻性の判断において「作品外の事情」、例えば男性だけでは入店できない女性向けアダルトショップで展示したということを言うらしいが、男性だけでは入店できないという事情は、あまり本質的なことではないだろう。女性と一緒なら男性も入店できるのだから、あまねく一般客に開放されている店舗と特に異なるものと判断できないのは当然である。

また、例えば、弁護人は『最高裁は,いわゆるメイプルソープ事件判決において,「メイプルソープが写真による現代美術の第一人者として美術評論家から高い評価を得ていた」という作品外の属性や「写真芸術ないし現代美術に高い関心を有する者による購読,鑑賞を想定」していたという作者の主観面等,写真集の外にある事情も考慮してわいせつ性の判断を行っている。』と主張している。高裁判決はこれに対して直接答えること無く「作品外の事情といっても様々なものがあり得るのであり,違法性が阻却される余地を一切否定することはできないというべきである」と判示した。これはやはり原判決の物言い(外的事情は猥褻性判断に影響しないという言い方)が、最高裁判決に反するかのように読めるから、それを正しておく必要を感じたということなのだろう。

しかし、作者が芸術家として高い評価を得ていたというのは猥褻性を減じる方向に作用するのか?それじゃ、高い評価を得ているかどうかを裁判所が判断できるのかいね、そんな馬鹿な、ということになりはしないだろうか?裁判所が芸術家をランク付けすることが出来るみたいになってしまうではないか。裁判所は芸術性について判断できるものではない。法律について判断できるだけである。

「写真芸術ないし現代美術に高い関心を有する者による購読,鑑賞を想定していた」という事情も、だから猥褻性を減じる作用を果たすというのは大いに疑問である。作者の主観に左右される「猥褻性」など糞食らえだという人もいるだろう。仮令、そういう想定が推認できる形態で公表されたという外的事情を言うものだとしても、だから何?という人がいるだろう。私はメイプルソープ事件の最高裁判決を読んでいないが、弁護人は、作品外の事情を最高裁は猥褻性判断に取り込んでいると言っている。これに対してこの高裁判決はそれ(作品外の事情)によって違法性が阻却される余地を一切否定するものではないと言う。前者は猥褻性の判断について言い、後者は違法性の判断を言う。話が噛み合っていないのである。

要するに、芸術性やそれにまつわる諸事情(作品外の事情=例えば頒布形態)を猥褻性判断の中に取り込むか、それとも猥褻性判断には関係ないが、違法性を阻却する外的要因とするかという理論建ての違いがあるだけの話であるように私は思う。だから、どちらの考えをとっても有罪無罪の結果判断の違いとしては現れない。
 

私の本件に対する結論を言うと、そろそろわいせつ罪をなくしてもよいのではないかというのが私の結論である。児童ポルノや性的自由の抑圧(強姦や強制わいせつや盗撮)に対する可罰性を強めて、猥褻表現の制約は取り除くというのが時代の趨勢だろう。インターネットでモロ出しビデオがいくらでも見ることが出来る時代において、わいせつ罪というのはもう馬鹿馬鹿しい時代錯誤というしかないだろう。他方で痴漢のように電車の中で尻をさすったといった行為は必ずしも強制わいせつとするには困難がある。これを強制わいせつと同列に扱うような立法を考えるべきである。

http://www.sankei.com/affairs/news/170419/afr1704190022-n1.html

「同性愛者」アウティングは違法行為か 一橋大生自殺訴訟、原告側が争点・双方の主張説明

(原告の)長男は平成27年4月、友人だった法科大学院の同級生に「好きだ。付き合いたい」などとインターネット無料通話アプリ「LINE」を通じてメッセージを送った。同級生は「付き合うことはできないが、これからも良い友達でいたい」などと返信した。その後も長男は同級生を食事や遊びに誘った。同年6月、同級生が、長男もメンバーである友人同士のLINEグループに「俺もうお前がゲイであることを隠しておくの無理だ。ごめん」とのメッセージを投稿したため、友人内に長男が同性愛者であることが発覚。

原告の長男はゲイであるが、友人として付き合っていた男性(被告)にゲイであることを告白して、付き合いたいと言った。男性は、性的関係は嫌だが、今まで通りの友人としてなら付き合いたいと答えた。しかし、ゲイである長男は、自分の愛情を抑えることはできなかったのだろう。性的関係を求めなくても、それを望んでいることは隠しようもないはずである。普通の男女間の関係に置き換えて考えてもそれは分かる。

女性は友人として付き合っている男性から愛を告白された。女性は、そういう気持ちにはなれないので恋人同士になるようなことは御免こうむる。でも、今まで通り男性・女性の別を意識しない友人としてなら、お付き合いしたい。男性は、告白後も告白前と同じ態度でその女性と付き合っていけるだろうか?既に恋心を持っていることは告白したのである。細やかで暖かい愛情表現を続けていけば、いつか自分の気持ちを受け入れてもらえるはずと思いこんで、付き合うようになるのは、理の自然である。その結果女性は、以前の友人関係とは全然違ってきたといううっとおしさを感じて、別れを告げる。そういう成り行きはごく自然であり、良くあることである。

原告の長男と被告男性との間もそんな風に進展したのだろう。「俺もうお前がゲイであることを隠しておくの無理だ。ごめん」というメッセージに、上記のような進展が端的に表現されているように思う。もう、うっとおしくてたまらんという気持ちが表現されているように私は思う。

男女間に置き換えた上の話で、女性が別れを告げた後、誰か第三者(愛を告白した男性と共通の友人)に愛を告白された事実を告げたとしたら、そのことをどう考えるべきだろうか?モラルに反すると言う人もいるだろう。褒められたことではないが、モラルに反するとまでは言えないと言う人もいるだろう。いずれにしても、そうした暴露行為が損害賠償責任を帰結するような違法行為であると判断する人は、恐らく居ない。

従って、本件で損害賠償請求する原告は、暴露されたことが単なる愛の告白ではなく、ゲイであることの告白であるという特殊性を主張するしか無い。つまり、原告の請求は「ゲイであることは秘密であり、その秘密は一般に秘密にすることを要求することが正当であると言うべき内容なのである」と言わなければならない。

ゲイであることは秘密なのか?秘密として扱われるべき正当な事実なのだろうか?

仮に被告の男性が、原告の長男からの愛の告白に応じてゲイとしての付き合いを始めたと仮定してみよう。ライブドアブログには「ゲイです。ほぼ夫婦です」というタイトルの人気ブログがあるらしいが、私は気持ち悪いから読んだことがない。性的描写がなくても男同士の愛情交歓など知りたくもない。つまり私はゲイに対しては嫌悪感を持っている。そういう人間がこの記事を書いていることは基本的な前提事実としてインプットしておいて欲しい。

ゲイだって、互いに好きになれば一緒に住むようになるのは自然の成り行きだろう。そうなれば、いくら世間を欺いても、ゲイ同士であることが公知になるのは時間の問題である。つまり、ゲイの愛は、秘密として保護されるべきことだとは私は思わない。

相手がその気になって、ゲイとしての自分と深い仲になってくれるのなら、そいつからゲイであることの秘密が世間にバラされるのは良い。むしろ覚悟の程が示されたことになるから歓迎である。恐らくそんなことになるのだろう。すると、ゲイであることという秘密は、それを受け入れた男が世間にばらした場合には違法にならないが、それを受け入れなかった男性がバラす場合には違法な秘密の暴露になるという誠にわかりにくい論理になる。

ゲイである男性は、愛を告白するときには必然的に自分の性的志向、つまりゲイであることを告白することになる。男性に愛を告白することそのものがゲイであることの告白である。だから、もっと極端な言い方をすれば、愛を告白したことは秘密なのかと言い換えても、多分間違っては居ないように思う。だからこそ、男女間の関係で愛を告白されたことを誰かに告げたらそれは違法なのか、モラルに反するのかという問題を上に述べた。

今や、LGBTと言う語は社会的に認知されて、2番めのGに代表されるゲイは、弱者として差別されない自由、差別されない権利を主張している。そんな風潮を背景に考えると、この本件訴訟でも、ゲイであることをばらしたのはいけないことだったのではないかという声も上がりそうな昨今の社会的風潮である。しかし、自分がゲイであることは守られるべき正当な秘密であると言いながら、他方でゲイであることによって差別されてはならないと主張するのは自己矛盾ではないだろうか。権利主張する者は、何が故に権利を主張するのかを明示しなければならない。そこで明示された事実がゲイであるという事実である時に、それを他方で別の場面においてではあるが、守られるべき正当な秘密であると主張する。おかしくはないか?そういうのをダブルスタンダードと言うのではないか。

私はサディストではないが、女性を縛るのが好きである。裸の女性を縛るなんて素敵なことだ。今まで実際にそれをしたことは何度もある。今の妻を縛ってセックスしたことももちろんある。何でもやりたいことをやっていいよと言い、唯々諾々と縛られてくれる妻に私は無限の愛情を感じる。

しかし、誰でも縛らせてくれるなら歓迎するというわけではないし、妻とセックスする時に毎回縛るというわけでもない。実際の所、人を縛るのは荷物を縛るよりもずっと面倒なことだから、頭のなかで考えるだけにとどめておくほうが楽しい。

正常位が一番体の接触面積が多くて私には最も楽しく思えるが、たまには気分を変えて犬みたいなスタイルでやってみたいと思い、それをやることもある。私にとって裸の女性を縛るというのはそれと同じくらいの気分転換でしか無い。

しかし、あまり誰にでもそうしたことを言ったりしない。そういうことを言うのが不自然ではない状況であれば、言うかもしれないし、ブログでは顔を合わせたことのある読者は殆ど居ないはずだから、こんなことを書いている。何のためにそんなことを書いているかというと、もし仮に妻が、誰かに「私の夫は時々縛らせてくれと言う」ということをばらした場合に、私はどう思うかを言いたいからである。

夜の生活を人との世間話の題材にするのはあまり褒められたことではないと私は思う。しかし、私は家でもセックスなんてしたことありませんと取り澄ました人がいるとすれば、そのほうが馬鹿みたいで嫌である。そこら辺は感覚の問題だから、明け透けに言ってもいいじゃないかとか、夜の生活を喋るのはバカみたいとか、そういう感覚は感性の問題であると思う。感性の問題と言えば、ポール・ヴァレリーだったか、人の感性を批判することは誰にもできないと言った人がいる。五木寛之は、とある瞬間に都はるみの歌が頭の中に響いた。それは、例えばベートーベンやモーツアルトが頭に浮かんだと言えば、格好いいように聞こえるが、都はるみとベートーベンとどっちが高尚かを言うのは、間違っていると言った。それはその通り、夜の生活をあけすけに喋るのもその女性の感性、夜の生活は頑なに秘密にするのもその女性の感性である。どっちが高尚かを言うことは出来ない。

私は妻が自分たちの夫婦生活について第三者に喋るのは恥ずかしいと思うが、止めたりしない。それが妻の感性だから妻の感性を尊重するということではない。私は秘密を共有する人が秘密をバラすのは仕方のないことだと考えているからである。本当に秘密にしたいことがあるのなら、それは決して他人に漏らしてはならない。しかし、ゲイの愛とかSM志向とかは、自分ひとりの胸中に秘めていては、自分の性向を満足させることが出来ない種類の性向なのである。そうであれば、それは本来的に秘密ではありえないのではないか?
もっと本件に即した例を思いついたから、それを書いてみよう。私がある女性を口説いてホテルに連れ込んだとする。裸になった女性に「縛らせてくれないか?」といってロープを見せたら「キャー変態!」といって逃げ出した。そしてあいつは変態よとみんなに言いふらしている。私はそれを咎めて損害賠償請求の訴訟を起こそうとは思わない。そんな女を選んだ自分の不明を恥じて遺憾に思うことはあるだろうが、私の性癖をバラされたと言って憤慨したりはしない。「縛らせてくれ」と言った瞬間に私は自分の秘密を相手に告白したのであり、彼女と秘密を共有したのである。秘密を共有した者が、それを他に漏らしても、違法の問題は起きない。私はそう思う。 

令状なしに第三者間の電話を傍受したら、違法である。しかし、通話者の一方が傍受に同意していたらそれは違法ではない。例えば子供を誘拐された親が警察に通報すれば、警察は電話通信を傍受する設備1式を持参して被害者宅に乗り込む。犯人から電話がかかれば、それをその場にいる家族や警察官、警察の技師など、みんなして聞く。そうすることについて令状がなければならないという人は居ない。しかし、よく考えて欲しい。犯人は「警察に通報したら子供を殺すぞ」と言っているのである。それは、この電話の会話は絶対に秘密だぞと言っているに等しい。

法的には、秘密はそれをたまたま傍受した無関係の人が明かせば違法だが、もともと秘密を共有していた人が漏らせば、違法ではないのである。それでは困るからこそ、私人間の契約では「各当事者は、本件契約上の義務遂行過程で知りえた秘密を第三者に開示してはならない」という規定のある契約書をかわすのである。守秘義務条項という奴である。

ゲイは、好きな男を見つけて口説いたら、それをバラされたからと言って違法行為だと主張することは出来ないのである。それは私には当たり前すぎることなのだが、一般の人も、本件訴訟の原告の長男が自殺していない場合を考えるとわかりやすい。その場合には原告は、ゲイである長男その人ということになるが、ゲイである秘密をばらされたと言って損害賠償請求の訴訟を起こした場合を考えると良い。なるほど、この訴訟は理由ありだよな、そんなふうに思う人がいるだろうか?

http://news.livedoor.com/article/detail/12957318/

自民「2回生」またも不祥事に幹部も激怒! 失言、金銭トラブル、不倫… 今度は女性問題で中川俊直政務官辞任 二階俊博氏「日本の政治はひっくり返っちゃう」

中川俊直経済産業政務次官が週刊誌に不倫問題を報じられて辞任した。議員辞職ではなく政務次官を辞任した。

私は女で人生をしくじった男だから男女関係での問題に対しては甘い。育児休暇を取ってイクメンを誇示しておきながら、その間に不倫していた宮崎議員の場合は議員辞職にまで至るのは当然だろうと思ったが、それは不倫したからというよりも、育児休暇制度を愚弄したからである。中川氏の場合はそういったことがないから、政務次官を辞任するくらいで良しとしてやるところではないだろうかと思った。しかし、問題の詳細を知ると、宮崎議員が可愛く思えて来る位ひどいことをしている。

妻子がいるというのに不倫関係になった女性と海外で挙式したという。それはつまり、相手の女性は中川氏を独身だと思いこんでいたのだという意味になる。いくらなんでも妻の居る男であることを承知の上で結婚式を挙げる女性は居ないだろう。中川氏はそれだけでなく、別れ話がこじれて女性宅のドアを叩き警視庁にストーカーとして登録されていたのだそうだ。ストーカーとして登録されたくらいだから、「今晩は、話があるからちょっと入れてくれないか」とノックした程度ではないのだろう。騙されたと知って頭にきた女性が電話にも出ず、或いは電話番号も変えたのかもしれない。それで家まで尋ねてしつこくドアを叩いたに違いない。12回ドアをノックしたくらいで警察に電話する人は居ない。このままほうっておくと近所迷惑になるし、自分も近所の人に合わせる顔がなくなると思って警察に電話したのだろう。つまりそれくらい長時間しつこくドアを叩き続けたのだと思う。

私は女でしくじったと言っても、女を追いかけたことは一度もない。自慢にならないが、女に逃げられたことは何度もある。夢中になった女に捨てられれば、それはそれは辛い。でも、自分が好きになって選んだ女である。私を捨てたくなったのなら、そうさせてあげようと思うくらいでなければ、女を本当に好きになったとは言えないではないか。相手が喜ぶことをしてあげたいという気持ちが「愛」というものではないか。私はそう思う。自分が喜ぶことをしたいと思うのなら、それは「愛」ではなく、単なる執着である。おもちゃを好きになったり、ペットを好きになったりするのと同じである。人間相手の「好きになる」という気持ちは、それらとは違う高次のレベルの気持ちでなくてはならない。

そもそもという言葉は、初めからという意味と基本的にという意味があるそうだが、そもそも私は、この年になるまで不倫はたった1回しかしていない。1回もしていない人のほうが多いだろうから、1回しかしてしないというのは自慢にはならないが、何度もしている人よりはマシだろう。

私は家庭の平和を維持したまま他方で不倫を上手く楽しむという器用なことは出来ない人間なので、好きな女ができたからと言って妻子とともに住んでいた家を出て、女の家に転がり込んだ。以来5年くらい、或いはそれ以上だったか、その女性と一緒に過ごした。仕事も住まいも東京だったが、九州にある彼女の実家に二人で何度も遊びに行った。逆に私の実家の法事に連れて行ったこともある。休日に二人で歩いていたら次兄にばったり出くわしたことがあって「今一緒に住んでいる」と紹介したから、その後はその話が長兄や姉にまで伝わった。

私の母の7回忌が近づいて、主催者は勿論長兄だったが、父の21回忌だったか、それと併せてやることにして、それで我が家の法事は終わりということにするということだった。それで、みんな揃って墓参りした後、別に有名な店ではないが、料亭の1室を借り切って、そこで食事をするということだった。長兄の奥さんから私の職場に電話が来て(まだ携帯電話なんてない時代だった)、「その人も連れていらっしゃい」と言う。「でも……..」と考えていたら、洒脱な義姉は「いいから一緒に来なさい」と押し付けるように言って電話を切ってしまった。

実を言うと私は長兄とはあまり仲が良くない。と言うよりも非常に仲が悪かった。私が社会人になるまで同じ家に住んでいたのだが、互いに言葉をかわすことなどまったくなかった。しかし、これも勿論一緒に住んでいた、長兄の奥さんには随分世話になったという思いがある。あの難しい私の母と揉め事を起こすこと無く、自然体にのびのびと振る舞っている姿に、私は畏敬の念を感じた。悪く言えば天然ボケだが、良く言えば人間の出来た人である。母が死んで以来、親戚中で「この人には逆らえない」という思いを私に抱かせるのは、この義姉だけなのである。それで、当時同棲中の女性を連れて行くことにした。

「すごい美人と一緒に住んでいると聞いていたけど、本当にすごい美人ね」と私の実の姉が彼女の隣に陣取って、しきりに話しかけていた。私の姉は母から棘を除いたような人で、要するにあまりひどい言い方はしないが、思ったことを何の遠慮もなしに言う人である。母の場合は、思っていることをそのまま言うが、それが一言一言みな毒を含んでいた。姉の場合は毒がないけれども、毒がなくても言われれば不愉快になることはいくらでもあるものである。私は色々危惧したが、あまり問題は起きずに会はお開きになり、散開した途端、私の連れの女性は、トイレに行くと言って走り込んだ。緊張のあまり下痢をしたそうである。やはり、彼女は姉から相当辛辣なことを言われたらしい。当時の私の妻や子供に対してどう思っているのと言われたらしい。母ならば、糾弾の口調で言うことだろうが、姉は全くの好奇心で無邪気に聞く。そういう人なのである。私は、もっぱら長兄の奥さんと話していたというより、話しかけられていて、私の同棲相手と私の姉の会話を聞くことができなかった。

まあ、そんなふうに私は妻を裏切って不倫をしたことが有り、家庭の平和を維持しながら不倫するという器用さを持ち合わせなかった分だけ、当時の妻を深く傷つけたわけである。妻からは「家を売って、そのお金を全部彼女に上げてもいいからもう一度1から出直そう、ね?」と言われたこともある。飛び出した家においてきたあるものがどうしても必要になり、鍵を郵送で返してしまった私は、妻に連絡して家を訪れることを伝えたのである。そこで、出直そうということを言われた。

私は体が震えて言葉が出なかった。体が震えるという現象を体験したのは、実は長い人生でそれがたった1回きりである。人間は本当に思いの丈が詰まると、体がブルブル震えのである。私は長い長い沈黙の後で言葉を絞り出して、悪いけど、それでは彼女を泣かせてしまうことになるとだけ言った。

その何年も後になってからだが、結局同棲していた女性とは別れた。捨てられたと自分では思っている。詳しくは書かないが、先方は自分こそ捨てられたのだと思っているかもしれない。どちらでももう今になればどうでもいいことだが、私は自分が好きになった女性を捨てたりはしない。現に奥さんを捨てたじゃないかと言われそうだが、そう、そのとおりである。それがあるから、そしてその時の辛さを身にしみて味わったから、生涯女性を捨てることはしない、生涯不倫はしないと自分に誓ったのである。

だから私は女性に捨てられたことは何度もあるが、女性を捨てたのはその最初の妻を捨てたこと1回だけである。

私は不倫における自分の徹底した態度を誇っているのではない。家庭の平和を維持しながら隠れて不倫する器用さを持ち合わせている男の利口さを羨んでいる。それくらい利口であればこそ、宮崎議員の奥さんも、中川議員の奥さんもやり直すつもりになってくれたのだろうし、当人たちも、わだかまり無く妻とやり直すことが出来るのだろう。私は「それでは彼女を泣かすことになってしまう」と言ったけれども、既に泣かせてしまった妻とやり直すということが自分に許せないという思いがしていたのである。相手がそう言ってくれるからそれに乗じて「はいな、そうしましょう」と気軽に応じることが自分に許せなかったのである。

相手が許しても自分は自分を許せない。それなら、今同棲している女性とそのまま暮らす方がいいじゃないか、とそう思った。
何のつもりで同棲しているのか?私は、死ぬまでかかっても妻と別れてちゃんと結婚するつもりだった。妻のある男と深い仲になったのなら、それくらい辛抱強く待ってほしかった。しかし彼女はそれほど辛抱強くなかった。それで結局別れることになったが、相手は捨てられたと思っているのかもしれない。でも私は、私の方こそ捨てられたのだと思っている。だから、その別れは、その時には辛かったけれども、その辛い思いは尾を引かなかった。最初の妻との別れは、今でも彼女を好きなのかと聞かれればそんな気持ちはまったくないけれども、今でも昨日のことのように私の心に傷口が開いている。開いている傷口は、今でも疼く。それが女を捨てるということの罰である。

中川議員はストーカー登録されたというくらいだから、その女性を捨てたという思いはないのだろう。幸せなことである。

私は乙武氏のことを書いた記事に対して誰だか知らない人から「呆れた兄弟だ。親の顔を見たい」というコメントを貰ったことがある。この記事にもそういうコメントを書きたくなる人は居ることだろう。どうぞ遠慮なくなんでも書いて下さい。私は今まで、不愉快なコメントだからと言うので削除したことはありません。 

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