2回続けて体罰について書いたが、体罰と言えば、教師によるものの他に親によるものもある。その例で最近世間を騒がせたのは、このブログでも何度か書いたが、北海道で起きた事件がある。言うことを聞かない子を山中の道路で車から出して置き去りにしたという事件である。暫くして戻ると子供は居なくなっていて、数日後に自衛隊の基地の中の建物で無事発見保護された。それについて親を非難する私の気持ちは今でも変わっていない。

私は最近引っ越したが、引っ越しする前のアパートの近くで、子供の鳴き声を時々聞いた。ママーと泣き叫ぶ女の子の声で、様子からして、家から閉め出された子が中に入れてくれと泣いている図であることはわかった。上の北海道の事件の時に、躾のために子供を家から締め出すのはよくあることだし、悪いことではない。北海道の例はそのバリエーションにすぎないし、結果的に無事見つかったということを考えれば、親を非難するには及ばないという意見が少なくなかった。私はそういう意見に賛成することはできなかった。あの例では、無事に保護されたのは幸運だったし、言い方を変えれば運が悪ければ、餓死したり凍死したりする可能性もあった。また、それより以前の問題として、家を締め出す例も含めてだが、子供に恐怖心を与えるのは、躾として効果は大きいだろうが、私個人としては、叩くほうがよほどマシだと思う。

私も子供の親である。子供の教育が、綺麗事だけでは済まないことを身にしみて分かっている。子供を叩いたことも正直に言えばある。でも、子供が言葉を理解するようになってからは、一度も叩いたことはない。具体的に言えば、4歳位から後は、お尻を叩くということもしたことがない。

実は、昨日私は子供の態度にひどく腹を立てた。原因は宿題に対する子供の態度である。宿題を見てやるのは、うちでは、妻がフィリピン人で日本語を読み書きできない関係上、毎日私の仕事になる。私は何度も書いているが、人に何かを教えるというのが苦手である。だから、私が宿題を見てやるやり方は、正しいのかどうか良く分からない。それに勉強は自分でその気になった時に自分でやるものだという考え方だから、どうしてもお座なりと言うか、甘いと言うか、そんな感じになってしまう。

絵を見て5足す4の式になるような、お話を作ってみましょうという問題があった。算数の問題だが、明らかに国語の要素もある。絵の中には、木の枝に止まった5羽の鳥と、そこを目指して飛んでくる4羽の鳥が描かれている。その下には池があって、小島の上に5羽のアヒルがおり、そばの池面に4羽のアヒルが居る。右側には男女の子供が居て、女の子が花を5本持ち、男の子が4本持っている。さあ、それで5足す4になる「お話」を作ってみましょうというのは、どう考えても小学校1年生には無理である。悪戦苦闘の上に、私がお話を作って、それを息子に平仮名で書かせた。息子は、自分の姓名に出てくる平仮名は書ける。それ以外にも幾つかの平仮名は書ける。しかし、大部分の平仮名は、これだよと見本を示さないと書けない。

さらに、国語の宿題には、文字を覚えることが主目的だと思うが「くろくて、さきがとがったくちばしです。」「これはなんのくちばしでしょう」「これはかわせみのくちばしです」「かわせみは、くちばしでさかなをとって、たべます。」というのを、書かなくてはならない。まだ平仮名も一部の字しか書けないのだから、口で言って聞かせてそれを文字に書くというのは無理である。だから私が別の紙に書いて、「この通りに書きなさい」と言ったら、途中まではやったが、「それは違うだろ」と言ったら息子は突然切れた。「そんな厳しいと僕はこうするよ」と言って、鉛筆でぐちゃぐちゃに書いた。息子は近頃クラスメートに「ワタシと云うのは女だよ」言われて、自分のことをボクと言うようになった。

私も切れて、息子がグチャに書いた紙をひったくって「このまま出す。それで先生に見てもらおう」と言い、それを連絡袋の中に入れた。すると息子は一瞬考えていたが「やるから出して」と言う。黙って出してやると、グチャグチャに書いたところを消して、続きをやり始めた。

しばらくしてから私はタブレットでゲームをしている息子の後ろから、両肩にそっと手をおいて「さっきは、起こってごめんね」と言った。立ち上がって手を出すと抱きついてきたので、そのまま抱き上げて話をした。「パパとママは偶に喧嘩するけど、喧嘩しても二人はラブだから仲良しなんだよ。パパはたまにミコに怒るけど、ミコはパパの一番大事。ラブだから、怒ってもミコのことは大好きなんだ」と言った。息子は黙っていたが、嬉しそうな顔で抱きついていた。年だから、そうやって抱いているのは本当はしんどいのだが、嬉しいから30分位そうしていた。

何が言いたいかというと、宿題を見てやり息子が突然切れたのを見て、私は我を忘れたのである。かっとなって叩いたり怒鳴ったりはしなかったが、意地悪くそのまま提出すると言い放って袋に入れてしまったのだ。教育と貸付とか一般論として言う時は、私も偉そうに偉そうなことを言うのだが、いざその現場に立つと、自分をコントロールできていない。叩いたり怒鳴ったりしないというのは、それが私の性格だからというだけで、叩いたり怒鳴ったりするのは教育や躾には良くないことだという配慮が働いたというわけではない。

学校の教師が行う教育はプロとしての仕事かも知れないが、親が子供に対して行う躾は、意図的なものというよりも、子供との全人格的な対応にすぎない。私の人格が良ければ良い躾になっているだろうし、私の人格が悪ければ悪い躾になっているだろう。私は良い躾になったとは思わなかったから、後で謝った。私の態度は、子供に恐怖感を与えたり危険を与えたりしていないと思うから、北海道の置き去りの例とは違うと思うが、その点を除けば、私も偉そうなことは言えない。カッとなって、思いついたことを後先考えずにしたのだから。

つまり、教育とはこれこれである。躾とはあれそれである、などと一般論としていうなら誰でも一応のことを言えるのだが、実際にやるという段になると、そうした一般論などはどこかへ飛んでいってしまう。私が体罰をした先生に対して、必ずしも厳しい一報の態度をとることが出来ないのは、体罰を受けたのが自分の子供ではないという気楽なところがあるという点も勿論あるが、そればかりでなく、子供をしつける立場に立って、毎日日常的に問題に直面しているという経験が大きく作用している。言うは易く行うは難しと一言で言うことも出来るし、「体罰はいけない、話せば分かる」などという綺麗事は実際の場においては何の力も持たないのだということを理解してあげられるような気がしてきたからである。

最後に、体罰の問題とは関係ないが、福岡の母子3人殺害事件に触れたい。今、夫であり父である警官が被疑者として逮捕されているのだが、また、誰もが感じたとおり私も初めから夫の仕業ではないだろうかという疑いを持っていたのだが、本人は未だに否認しているということなので、仮に彼が犯人であるとしたらという仮定の問題として述べたい。

昇進試験に落ちたら、男は妻に慰めてほしいと思う。甘えていると言われそうだが、「あんな試験にも受からないのかよ」と世界中から馬鹿にされても良い。でも、独身なら母親から、既婚であるなら妻から、「試験に落ちて貴方が貴方でなくなるわけじゃないよ。私が貴方に惚れたのは試験とか昇進とは、なんにも関係ないよ」と言って欲しい。夫婦の関係というのは、そういうものではないのかと私は思う。仮令殺人事件を起こそうとも、妻は絶対的な擁護者であって欲しい。強姦したなら妻は擁護者になれないだろうが、母は擁護者であって欲しい。男は世界中を敵に回してもいいというくらいの強さがなければならないと思うが、それには、世界中で一人だけ絶対的な無条件の理解者・擁護者がいるという前提がなければ、そこまで強くなれるものではない。

逆に私の妻がなにか非常に悪いこと、或いは犯罪を犯したりしたら、私は絶対的に擁護する。彼女が誰かと喧嘩したら、仮令彼女の方に非があっても、私は絶対的に妻を擁護する。夫婦というのは、互いの審判者になることではない。互いの擁護者になることである。第三者が何かした時は、第三者的な立場で正邪を批評するが、夫婦は互いに第三者の立場になることは出来ないし、そんなことは許されないものである。

私はそういう考え方の持ち主である。だからといって殺人が正当化出来るものではないが、昇進試験に落ちて夫婦仲が悪くなっていたという話を聞くと、私としては同情したくなる。