映画庭園
2.辻斬り山の秘密
*
私の目指す女学園があるのは、五駅離れたのどかな田舎町。
今、列車は手前の駅を発ったところだけれど、ここまでくるともう、人工物の合間に確かな緑が混じるようになっていた。
窓から吹く風もまた、新鮮な木々や湿った土の匂いを、どこか生き生きと運んでくる。
相変わらず、世間話に毒花を咲かせるおばさんたちのほうからくる風だと思うと、どうにも微妙なものがあるけれど。
*
たどり着いた目的地。
列車を降りると私はすぐさま、おばさんたちの座る席の前まで移動。
開け放たれた窓の前に、しばらく立ちすくんでいた。
憂い顔でうつむくのは、通り過ぎる人たちに〈ちょっと気分が悪いのかな〉と思わせるため。
私には、するべきことがあった。
おばさんたちの話題はすっかり、ママ友への愚痴にすり替わっている。
「ここだけの話、山田さんちって一家そろって付き合い悪いわよねぇ」
とか、
「あなたと二人きりだから言うけど、ゆうちゃんママがあなたの悪口言ってるの聞いちゃったのよ」
とか、そんな類のもの。
そして発車のベルが鳴るタイミングで、私はボイスレコーダーを掲げて無邪気に笑ってみせた。
「今のお話、ぜーんぶ録音させてもらいましたよっ!」
こっちを振り向いた二人は当然、陸に出された魚になる。
ただ口をパクパクさせて、私を指差したりお互いを見つめ合ったり。
これは、今までの人生経験から、常にボイスレコーダーを携帯することにしている私だけにできる芸当だった。
ドアが閉まるのを合図に、私はとっておきの一言を投げかける。
「この音声、SNSにアップさせていただきますわ!」
SNSはママ友界の断層。
地下に張り巡らされていて、ズレが起これば一つの人間関係が崩壊する。
「やめてぇーっ」
「依里夜ちゃん、私たちなんでもするから堪忍して」
どうにかしようにも、私はもう車外の人。
手も足も出ないというのは、まさにこのことでしょう。
ドアを閉めた列車は、二人の絶叫を車輪のリズムに乗せて、彼方へ遠ざかって行く。
テールランプを鈍く光らせるその顔は、私の無様なたしなみを哀れんでいるようだった。
ひとり虚しく立ち尽くす、ひなびた灰色のホーム。
列車を降りた人々はみんな、目的地へ向かって洪水のように流れて行った。
小さな中学生の不穏な行為に気を留める人なんて、どこにもいはしない。
そう。
どこにも……
「見ーてーたーよっ!」
──いた。
たぶん、〈彼女〉に違いない。
「虹子(にじこ)?
どこにいるの……出てきなさいよ」
きょろきょろする私をからかうように、錆びた柱の陰からすとんと、少しだけ見慣れた人物が飛び出す。
「えへへへーっ!
私、見ちゃったもんねー。
相変わらず趣味悪いんだから依里夜ちゃんったら!」
整った美顔を毒っぽい笑みで飾りながら、大空(おおぞら)虹子が跳ねるように駆けてきた。
その羽根が生えたような人柄とは裏腹に、彼女の風体からは若さというのが微塵も感じられないから不思議なもの。
とはいっても、老けているというのとは全然違っていて、それどころか、ほんの少し大人びてすらいないものだから奇妙でしかたない。
年齢を感じさせない顔。
というのは普通、〈年をとったことを感じさせない〉意味で使われるけれど、虹子の場合は文字通り、年齢そのものを感じさせない。
「見てたなら、どうして注意しなかったのよ?」
彼女に対する私の態度は、いつもよそよそしい。
まあ、最初に母と学園を下見に来た日、〈ワケありらしい〉私をなにかと気遣ってくれた虹子。
それからの付き合いだから、よそよそしくても不思議ということはない。
つまりは、虹子のほうが異様に馴れ馴れしすぎるということ。
「いやぁ、ヤバいなぁって思って、まじまじと観察させてもらっちゃったわけよ」
そこからは、二人でゆっくりと歩きながらの会話になる。
「ヤバいって……あなたも楽しんでたんでしょ?」
「あー、そういう意味じゃなくってさ。依里夜の趣味がヤバいなってのよ」
「どういう意味」
「大人には強気ってこと」
聞き捨てならない指摘に、私はズザッとアスファルトを鳴らして立ち止まった。
「そのしたたかさを同年代にも向けろ、っていう成長催促?」
私が睨みつけても、虹子は〈置いていくよ〉とばかりに、歩いたままこっちを振り向く。
「うわ、ひねくれてるなー相変わらず。
そういう意味じゃなくって、大人に対しては強気な奴が、ガキだけのコミュニティでは一番イジメられやいすいってこと。
実際、年上の私に対しては物怖じしてないじゃない?」
虹子は私より二学年上ということになるけれど、敬語を使ったら〈よそよそしい〉って渋い顔をされたから、しかたなしに友達言葉を使っている。
それにしても──追いかけるように虹子に続かなければいけないのが、どうにもイライラした。
ところで、今みたいに図星を突かれた場合は、真っ向から否定しても、卑屈に肯定しても、ただ自分がみじめになるだけ。
変化球を打ち返すのが一番無難なことが、私にはわかる。
ママ友の世界を渡っていく義母を目の当たりにしてきた、私には。
「へぇ。あなたもそうだったのね。だから私の状況がわかるんだ?」
「思いっきり違うしぃ~。役者やってるとね、色んなことが見えてくるのよ」
虹子は若干十六歳にして女優活動に花を咲かせる才女。
最初に会ったとき、あの義母は虹子を見て驚いたものだったけれど、テレビをあまり観ない私には知る由もなかった。
テレビを観るくらいなら、映画の一本でもDVDで観たほうが有意義だと思うから。
「見えてくる?
なら女優じゃなくて超能力者として活動すれば?」
「んーーー、依里夜さん、あなた地獄へ落ちるわよ?」
おそらく、誰か有名な超能力者の真似をしているんだろうけど、テレビを知らない私には元ネタがわからない。
どちらにしても、私は「どうしてよ?」と真面目に返すだけだけれど。
すると意外なことに、虹子も真面目に私の顔をのぞき込んでくる。
「依里夜、自分でさ、こういうタイプが嫌い、ああいう人は苦手、ってさ、決めつけてるところ、あるでしょ?
それって、自分で自分を狭めてない?」
教え諭すような口調に腹を立てた私は、とびきりの黒い笑顔を返してあげた。
「視野を広く、っていう、お決まりのお説教ね。
善処するわ」
「うわっ、黒っ」
駅を出ればそこは、ありふれた風景画をリアライズしたような田舎道。
左右に田んぼが広がっていて、その向こうには薄っすらと、眠たそうな山々が並んでいる。
ただ正面にそびえる山に限っては、生い茂る木の一本一本が鮮明に見えるくらいに近い。
私はすっと、その正面の山を不機嫌に指差してみせる。
「山を一つ越えて、いったん谷に降りて、次の山を少し登って、その中腹に学園と寮……ずいぶん不便よね。
他に近道とかないの?」
「これでいいんじゃないかしら?
山っていうのはベルリンの壁よりもずっと、〈向こうの空気〉を遮断する効果があるからさ。
乙女だけの秘密めいた空間にはそれが相応しいって、粟辻家の意志なのよ」
「詳しいのね」
虹子は突然「えっ!?」と戸惑ったふうを見せたかと思うと、まるでなにかをごまかすように、東の彼方にある眠そうな山を指差す。
「あの山を一つ越えれば大きな街なんだから。
私のよく通うテレビ局のスタジオとかもあってさ。
ていうか、だからつまり、山っていうのには、世界を区切る効果があるものだってこと」
「…………?」
のどかな田園の匂いはいつしか、胸を刺すような自然のとばりにすり替わっていた。
日本の山の湿った空気には、どこか容赦なく、人に畏れを強いるようなトゲがあると思う。
山を登る階段の前には、
〈ここより先、関係者以外の立ち入りを禁ずる 粟辻〉
という立て札が。
そして異様に目を引くのは、山のふもとの土臭さにまみれて建つ、古びた石の慰霊碑。
プリンタで刷った印字とは根源的に違う、悼みをもって掘られたような文字は、いつ見ても強く胸を締めつけてくる。
「ねえ虹子、ここで山崩れでもあったの?
それとも事故とか?」
なぜか学園やら粟辻やらに詳しい虹子。
彼女を試す意味でもこれは合理的な質問だと思うし、実際、彼女はとても神妙な面持ちで説明をしてきた。
「この山、辻に、気象の霧って書いて、辻霧山(つじきりやま)っていうでしょう?
でも、昔は辻斬りが相次いでね。
誰もが〈辻斬り山〉って呼んでたのよ」
「こんな山の坂で辻斬り?」
石の階段で山を登りながらの会話。
虹子は複雑な思惟が織り交じった表情で、脇に広がる密林を見つめた。
「この膨大な木々が、粟辻の原動力になっていることは知っているわよね?」
「母がよく言ってたわ。
椅子とかテーブルとかは、〈粟の実マーク〉の入ったものを買えば、来客時に胸を張っていられるって。
まさかその粟辻が運営する学園に自分が入るなんて、思わなかったけど」
母に対する私の嘲笑を吹き飛ばすように、虹子がいつにないシリアスさで語ってくる。
「この山は大正時代、大麻のワンサカ生える禁忌の地だったのよ」
「えっ!?」
そう言われて森のなかを見渡すと、何気ない雑草の数々がみんな大麻に見えてきてしまう。
そしてそれに拍車をかけてくるような、虹子のホラーがかった語り。
「大麻でオカシくなった人間が、道に出てきてバッサリ……! よ」
「ちょっと……」
これからこの付近で暮らすというのに、それはあまりにも空恐ろしい事実。
私の戦慄を汲みとるように、虹子はからかいの笑みを浮かべた。
「あはは。
もう大丈夫。
看板見たでしょ?
このあたり一体は粟辻の領地になったから。
関係者以外が無断で入ったら罰せられるしね」
「私、大麻の近くで暮らしたくないわ」
身も蓋もない断言。
でも、暮らしたくないといっても、他に私を受け入れてくれるような場所は……ない。
虹子は私の心うちを察するように、その口調に少しの憐れみを含ませだす。
「大丈夫っ。
確かにここは大麻の山だった。
でもそれと同時に、家具として利用できる類の木々も数多く生えている……
初代の粟辻天人(あまんど)は、なんとかこの木々を有効利用したい一心だったんでしょうねえ。
仲間を募って、山に生えていた大麻を一掃してみせたのよ」
靴に砂が入ったような感覚に陥って、歩調を緩める私。
「大麻、ホントに全滅したの?」
それを訊かれると虹子はガックリうなだれて、呆れたように手で頭を抱える。
こういうリアクションのオーバーぶりが、実に役者らしいところ。
「全滅させたと見せかけて、実はこっそり所有するに決まってるでしょう?
そして、時代は昭和へ。
世界は戦火に覆われた……もう、わかるわよねぇ?」
「隠し持った大麻を軍に流してた、とか?」
「ビーンゴっ」
戦争中に兵隊さんたちが麻薬を打っていたという話は、授業で聞いたことがあった。
あれを打てば殺すのも殺されるのも怖くなくなるとか。
特攻隊員がアヘンをあおっていたというのも有名な話。
ああ虹子のおかげで私は、初日にして、粟辻の闇の面を知ってしまった。
それを意識してかしら、虹子はなだめるように、困ったような顔をして前に立ちはだかる。
「まあさ、あくまでも、〈そういうことなら粟辻がこれだけの財を築いたのも理解できるよね〉っていう話。
どっちにしたって、もう何十年も前の話よ。
詮索しても意味なし!」
軽妙な態度でフワリ、とセミロングの髪を舞わせながら、虹子は先を急ぐ。
ここから逃げても私には安息の地なんてないし、今聞いたのは全て過去の話。
そうよ。
これから粟辻家の養女になりにいくわけでもあるまいし、私には関係のないこと……
とは自分に言い聞かせるものの、なんとなく階段を上るのが億劫になって、ふっと横を向く。
すると、木々が少し途絶えた細長い空間に、つぅーと黒い蜘蛛が下りてゆくのを見た。
「あ、蜘蛛」
入って行くとそこは、細長いどころか、曲がりくねった横道のようになっていて、その気になればどこまでも歩いて行けそうだった。
手に取って遊ぼうと、蜘蛛に手を伸ばしたそのとき──
「行っちゃダメ! そっちへ行ったら……いけないわ!」
虹子がその七色の声を駆使して警鐘を鳴らした。
無味無臭な私の心がこんなにも震えたのは、その声の抑揚があまりにも悲壮だったから。
それはまるで、悲痛な演劇のクライマックスを演じるように……。
「行かないわ。蜘蛛を見つけただけ」
あまのじゃくな私も、さすがに立ち止まって蜘蛛を手の上で遊ばせ続ける。
ところが、それでも虹子の警鐘は鳴り止まなかった。
「今すぐこっちへ戻るの!」
理由もなく事を強いられるのが大嫌いな私は、
「どうしてよ?」
少し、声に苛立ちの色を添えだす。
虹子はしびれを切らしたのか、私めがけて駆けてくると、この腕をつかんで階段へ連れ戻してきた。
「友達の言うことが聞けないの!?」
友達……
その一言で、〈比較的しおらしい私〉は姿を消した。
手近な枝に蜘蛛を着地させると、私は虹子をぎりっと睨みつける。
「たった数回会って、少し私に親切にしたからって、もう友達のつもり?」
「悪い!?
私が友達と思った子はみんな友達なの!」
「なにそれ!
女児向けアニメのヒロイン気取り!?
そっちの勝手で決めることじゃないでしょ!?」
「でも放っておけないのよ!
あんたのことっ!」
──事情を知りもしないで、調子よく近づいてくる輩が、私はいちばんキライ。
なぜなら、そういう人に限って、事情を知ったとたん、さり気なく距離を置いてくるから。
だから、ここで終わらせようって、思った。
「私はねぇ、人を殺したの。
だから家族は、厄介払いのために私を寮に入れることに」
言い終わる前に、虹子が人懐こい笑顔で食いついてくる!
「え、なにそれすごーい!
撲殺、絞殺、刺殺!?
え、友達に殺人者がいるとかエキサイティン……グァーッ!
なにすんのよっ!?」
私の小さくて冷たいビンタが、虹子の張りのいい頬を直撃していた。
彼女の頬の痛みと、私の手の痛み。
そして、その衝撃を演出するように、漂ってくる煙の臭い。
どこかで焚き火でもしているんでしょう。
私は戸惑いつつも、手探りの冷静さで言葉を紡ぐ。
「そ……う…やっって!
〈殺人者をも受け入れる寛容な自分〉に酔ってるわけね!」
虹子もいよいよ堪忍袋の緒を切断。
「ぎゃーっ!
どこまで人を〈ネガ視〉する女なのよ!?
そんなんじゃお先真っ暗!
いいわ、私がその腐れ根性、叩き直してあげる!」
「私はあなたの勝手にはならない!
いつもいつも、こんな感じで多くの女の子を自分の信者にしてきたんだろうけど、私はそうはいかないわ!」
怒りに任せて火を吐き続けると、虹子が急に咳き込みだした。
「ゴホッ、私、煙臭いの苦手だから早くこの山を下りたいの。
コンッ、早く折れてよ」
折れてほしい相手に、じかに〈早く折れてよ〉。
この人にはついていけない。
私は虹子から逃げるように、行くなと釘刺された横道を走り出す。
邪魔なスカートを片手で束ねて、白いドロワーズが露出するのも構わずに。
あまのじゃくな私。
虹子の意志に反することならなんでもしてやろうって、そんな気分だった。
「こら待てっ!」
「犬じゃないっ!」
その鋭い皮肉が虹子に届くころにはもう、私は彼女の追いつけない位置まで来ていた。
というのも、道が細くて私が小さいから。
虹子のような〈標準サイズ〉の少女だと、枝が邪魔してスムーズに走れないはず。
木の根が凸凹にしている足場も、私は反射神経の良さでスタスタと駆け抜けて行った。
私の目的はたった一つ。
虹子のいる道へ戻らずして、目指す場所へたどり着くこと。
その一心で、曲がりくねった道なき道を、不安にかられながら走り続けていた。
私の息が異様に荒れているのは、どうやらこれは山を横切るだけじゃなく、登ってもいるようだから。
やがて、狭い狭い木々の洞窟が途絶えて、向こうに白と緑のまだらが見えてくる。
近づくにつれて、それは異様な高さをみせる白い壁と、そこにまとわる無数のツタだってことがわかった。
たどり着いたのは、飾りひとつ花ひとつ見当たらない、細長くて殺風景な庭。
広さは学校の廊下程度。
左右どちらを見ても視界の果てが軽くかすむことが、敷地の広さを物語っている。
「はぁ……はぁ」
いつにない疲労にガックリと崩れ込むと、ぽたり、ぽたりと、顔から垂れた汗が、黒いスカートをより黒い水玉で飾っていった。
体勢を整えて見上げると、木々の隙間から垣間見えていた壁は、四階建て以上ある洋館の一部だったことがわかる。
学園の隣りの山に、こんな大それた邸宅。
これは、
「ふぅ…………もしかして、ここ、粟辻家?」
そう考えるのが妥当だと思う。
それにしても、巨大な洋館がこうも余裕たっぷりに建っているということは、頂上まで来てしまったに違いない。
斜面をどんなに削ったとしても、ここまでのスペースは生まれないだろうから。
汗が引いて息が整っても、生々しい山林の空気に支配された肺が、どうにもヒリヒリとむず痒い。
再び森のなかへ戻るのが少しだけ億劫で、しばらく庭の彫刻になっていると──
「どんな焚き火よ?」
さっきから漂う香ばしい煙の匂いが、大自然の蒸れた空気を中和するほどに強くなってきた。
そしてそれと同時に!
「あ、あのぅ……」
匂いの漂ってくる方角を眺めていた私の頭上に、消極的な、それでいて凛と透きとおった、甘い女声が降ってくる。
その生温かい驚きに、ためらいながらも顔を上げると、──天使か、あるいは幽霊かが、洋館のバルコニーから私を見下ろしていた。
ゆるりと羽衣のようにまとったネグリジェの白さに、目をくらますような肌そのものの白さ。
けれども、山風になびく長い黒髪は伸び放題だし、黄色いはずの日本人の肌がああも真っ白いのは、よくよく考えてみれば穏やかなことじゃない。
私はとっさに、〈あなた、粟辻家の娘?〉と訊こうとするけど、彼女が再び口を開くほうが先だった。
小さく開いた口から踊り出たのは、耳を疑うくらいに面妖なつぶやき──
「あ……あなたが、私を迎えに来た、シロウマの王子様でらっしゃいますか?」
「──はい??」
シロウマ……は多分、白馬のこと。
それもおかしいし、私のことを王子様とか言っていること自体も変。
よくよく彼女の姿にピントを合わせてみれば、その華奢な体は葉っぱや土らしきもので汚れてもいた。
あの葉はそう、屋敷にまとうツタのものと同じ……。
特徴的な、ハートに近い三角形をしているからよくわかる。
「こんな朝にナニしてたんですか?」
わりと率直に疑惑を口にしてしまうけれど、彼女はすんなりと答えを紡いできた。
「今日、待ち焦がれたシロウマの王子様のお迎えがあるって、ゴンヅテがありまして。
屋根の上から小鳥のように様子をうかがっていたのです」
「言づてね。
誰からの言づて…な──って、煙!?」
煙たさがやけに増してきたかと思ったら、とうとう私の目の前まで、尋常じゃない勢いで灰色の煙が流れてきた。
バルコニーの女にサヨナラを告げて走って行こうとするけれど、彼女のほうが先に口を開いてしまう。
「あれは──ヤマタノオロチ!
きっと封印が解かれてしまったんです!
地の底から蘇ったヤマタノオロチにより、地球は炎に包まれ人々はもがき苦しみ、そして」
慌てて見上げると、呑気な晴れ空におどろおどろしく、黒い煙幕が八方に分かれて噴き出していた。
「はいはい噴煙ね!
私見てくるわ!」
「私も行きます!」
「邪魔!」
噴煙のほうへ走るのはたやすかった。
私が走ってきた木々の隙間と違って、質素な石の道がしつらえられていたから。
煙の立ちのぼる方角へ向かうほど、コゲ臭さが強まっていくのは当然のこと。
ただどういうわけか十数秒くらい前から、草木が燃えるのとは違う、生々しい恐ろしさを伴った異臭が鼻をひん曲げてくる。
「なにこれぇっ、死臭?」
これまでの日々のなかで、死臭〈らしきもの〉を感じたことは、たった一度だけあった。
それはもちろん、くだんの洪水に巻き込まれたときのこと。
もちろんあれは、街を砕いていく汚水の匂い、あるいは単に、強い南風の妖しげな香気だったのかもしれないけれど。
〈グレーアウト〉でもしそうな煙たさのなか、ふと、極限まで細めた視界の右下に、木の根にしてはやけに垂直な物体が。
「ゴホッ……あれ、刀?」
それは、これ見よがしに木の幹へ突き立てられた、えらく立派な木刀だった。
まじまじ見つめていると、ずんと、心が鉛色に重くなる。
「これって……血!? まさか……ね」
なんらかの赤い液体が、醜いまだら模様を木刀に描いていた。
ところが、よく確かめる間もなく火の勢いは増して、命を持たないホタルたちが足元に舞い始める。
五感で危機を察知して、ケータイで119を押しながら、元来た道を引き返す私。
──鼻をつんざいてやまない異様な臭いが、忌々しい死臭そのものだったと気づいたのは、それから数十分後のことだった。
<3に続く>
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