jyuusannya

早起きして、朝一番の映画を観て、終わってさっさと帰ってきて、
さ、仕事するぞ、と思ったのに、なんだか背中がぞくぞくする。
風邪かな、と思ったものの、喉も鼻もなんともない。
ただ寒気がして熱っぽいだけ。
ははぁ、と思った。
知恵熱だ。

映画は「エディット・ピアフ―愛の讃歌―」(http://www.piaf.jp/
伝説の歌手エディット・ピアフの壮絶な人生を描いたもので、
たしかにすごい映画だった。
晩年に出会う「水に流して」という歌を唄わせるがために、
神はあのような運命を彼女に与えたもうたのか。
そんなことさえ思うほど。

が、そんな観るのも聞くのも辛いような映画なのに、
見終わったあと、さほど「しんどい」とは思わなかった。
時系列がかなりあちこちと動く映画だったので、
のめりこんで観るというよりは、どこか客観的に観ていたからかも。
(あれがもし時系列順に進んでいく映画なら辛すぎて、
 途中で、もういいよ、と思ってしまうかもしれないから、
 あの構成は、あれはあれでいいのかも)
だから、さほど放心することもなく、すぐに席をたつこともできたのだ。
でも確かに、帰ってくるあいだ、からだの中を何かがぐるぐる回っていた。

20代の頃、瀬戸内晴海(後の寂聴さん)の小説にはまったことがある。
1冊読んで面白くて、2冊目、3冊目と買い集めて読んでいたら、
ある時から、本を読んだあとに背筋がぞくぞくするようになった。
一冊読み終えると、熱が出てしまうのだ。
知恵熱とでもいうような、熱が、必ず。
その小説も、やはりどこか破滅的な女の人生で、
(というか著者の人生でもあるのだけれど)
面白くて読んではいるのだけど、どこか客観的に眺めてもいた。
のめりこんで感情移入して放心する、というのではなかったのだ。
それなのに、なぜか熱が出てしまう。

その時、あたしは思ったのだ。
これはたぶん、ここに書かれている女の人生の澱(おり)のようなものが、
読んでいるうちに、からだのどこかに溜まってしまうのだろう、
それが出口を求めてからだの中をぐるぐると巡るから、
こんな熱が出てしまうのだ、と。
それ以来あたしは、瀬戸内晴海の小説を読まなくなった。
読めなくなってしまったのだ。
著者に責任があるわけではないのだから、申し訳ないような気もするのだけど。

今日の知恵熱も、それと似たようなものかもしれない。
それでもなんとか夕飯を食べたら、からだが暖まったせいなのか、
気分はすぅっと楽になった。
そうだ、今日は十三夜だ、とミメオが言うのでベランダに出ると、
澄んだ夜空に、溶けかけたアメ玉のような月が浮かんでいた。

月は潮の満ち引きだけでなく、女のからだにも影響する。
十三夜の日に、ピアフを観る。
そりゃ熱も出るはずだ、と、
月明かりに包まれて、ひとり呟いて、頷いた。


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十三夜の月見は日本独特の風習だとか。
十五夜に月見をしたら、必ず十三夜にも月見をする、というのは、
十五夜だけでは「片月見」といって嫌われていたからなのだそう。
写真はコンデジで撮ったもの。
三脚もなしに、これだけ撮れちゃうなんて、
コンデジもなかなか侮れないもんであります。

それにしても、この「知恵熱」というのは不思議なもので、
ものすごく入り込んで感情移入して、見終わったあと、読み終わったあとに、
ぼうっと放心してしまうようなものは、
(例えばクミコのライブとか、例えば小川洋子や川上弘美の小説とか)
熱が出たりはしないのだ。
心地好い疲れのようなものは残るけれど、
それが何かの「力」になって、よし頑張ろうと思えたりする。
ううむ。
我がことながら、よくワカラン(笑)