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本当の名前は菊子だけれど、太っているから皆が「肉子ちゃん」と呼ぶ。関西の下町で生まれ、16歳で大阪に出て、繁華街のスナックで働いて。男とくっついては男に逃げられ、流れ流れて北陸の漁師町にたどり着いた肉子ちゃんは、娘の「キクりん」(なぜか娘の名もキクコ―喜久子)とふたり、その町で暮らしはじめる。キクりんは色白で痩せていて目が大きくて。つまり肉子ちゃんとは正反対の美少女である。そのキクりんの視線で、物語は進んでいく。

ベティちゃんの(パクリみたいな)絵が描いてあるTシャツに蛍光のパーカーを羽織り、その上、唐草模様のリュックを背負って出かけようとする肉子ちゃん。『目が非って書いて、罪と読むのやから!』と意味もなく漢字を解体しては、ひとり喜ぶ肉子ちゃん。『世界にあるものを、テレビで言っていることを、糞男が言った嘘を、何も疑わず、38歳まで生きてきた』肉子ちゃん。

なんと賑やかな女であることか。こんな人がそばにいたら鬱陶しいだろうなぁ、とも思う。が、読んでいるうちに、その印象は少しずつ変化する。そんな母親と娘の物語なら、ドタバタと騒がしく陽気な小説になりそうなものなのに、キクりんの10歳の子どもにしては醒めた視線のせいか、物語のどこかにしんとした空気が潜んでいる。滑稽でありながら物哀しく、賑やかなのに寂しい。物言わぬ三つ子のおじいさんや、寂れた水族館のペンギンの話しなどは、ちょっと詩的で散文的でさえある。

そんな物語の最後に、いや、「あとがき」には、こう書いてある。
(本を読む前に「あとがき」を知るのは嫌だ、と思われる方は、ここで中断を)

『肉子ちゃん、喜久子ちゃん母娘が住んでいる漁港は、宮城県石巻市が、モデルになっています』
物語の設定上、日本海側の架空の町ということになっているけれど、元々は編集者の故郷である石巻市を旅したことで、この物語が生まれたのだという。でもそれは震災前のこと。書き上げて数ヶ月後、パピルスに連載中に、あの地震が起きたのだ。

『小説は、例えばひとつのおにぎりに、何を尽力したってかなわないのだということは、地震が起こる前から、分かっていました。いいえ、分かっていた「つもり」でした。ですがやはり、あの地震は、わずかでも残っていただろう、自分の作家としての何らかの嫌らしい自負を、打ち砕くものでした。』

それでも、「漁港の肉子ちゃん」という物語は残る。それが誰の力になるのかと考えるのはやめよう、と作者は言う。石巻のおかげで生まれたこの物語を、「私は慈しもう」と。この物語をいちばん愛しているのは、私。こんなに愛している作品を、自分以外の誰かが読むという『奇跡みたいなそのことを、知っていた「つもり」にならないで、私は誰かがページを繰る瞬間を、考えようと思います。』

この物語の舞台が石巻だと知った上で、あたしはこの本を読んだのだった。「店の前に猿がいるおもちゃ屋」はサルコヤさんだろうか、妖しげなスナック街はあの辺りかな。読みながらそんな事をちらと考えたりはしたけれど、でもそれよりもこの物語の中に生きる人々に心奪われた。誰が何をしたか筒抜けで、時には修羅場になったりするけれど、皆が知っているからこそ後腐れなく暮らしていけて、商店街のお茶屋さんの奥さんのお葬式には、わらわらと沢山の人が集まってきて。

そしてその町に肉子ちゃんがいてくれることが嬉しかった。目の前のことをすっぽりと受け入れて、何もかも全力で肯定し、全力で人を愛する肉子ちゃんが、そこにいてくれるだけでほっとした。最後に感情をむき出しにする母と娘に、救われたような気持ちになったのだった。

作者は、女川の漁港にある寂れた焼肉屋を見て、あそこに「すごく太っていて、とても明るい人」がいたらいいなぁ、と思ったという。その女の人を慕って、いろんな人が集まってきたらいいのにな、と。それが、肉子ちゃんとなったのだ。今、あの石巻に、そして被災地の其処此処に、肉子ちゃんみたいな人がいるといいなぁ、と思う。いてほしい、と、強く願う。



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