何やら2年以上も記事を書いていなかった模様。
ついったがお手軽すぎてそっちばっかやってました。
年々加速度的に更新頻度が落ちるこのブログ。
生きてますよ。
先日放送されたシンゴジラ、公開当時劇場にも観に行って、テレビ放送も録画して。なんか気に入りすぎて、ゲームとかしながらだけど日に一回の頻度で毎日つけてる。
多分7回くらいつけた後、そういえば専門用語だったり早口だったりで聞き取れてないとこがいくつかあるなと思って字幕つきで見てみたらまあ、色々発見があって面白かったんだけれど。
(例えば、泉さんが「君、なんで政治家になった」って言うところ、間違いなく「そこに燃えんとは」だと思っていたら、「そこに萌えんとは」だった。衝撃だった・・・漢字の違いで随分ニュアンス違うぞ?!って面白かった)
制作されたのと同言語の字幕って目的としては、耳が聞こえない人が健常者と同じに映画を楽しむため、だよね。
まあ今回の私のような用法もできるけれど、メインはそこではない。
だけど、「同じように楽しむ」は本当に可能なのかな。
例えば、生まれつきろうの人って、きっと「音」という概念も、「聞く」という行為も本質的には理解できないよね。
外国語を勉強していると「知っている」を表す動詞が使用頻度高いものだけで二種類あったりして(大体が「知識として知っている」と「身をもって知っている」だったり)、或いは「わかる」「できる」も二種類に分けられるよね。生まれつきのろうの人は、「音」という言葉も、漢字も、その意味も知っているけれど、体感を伴った理解はできない。
同じように、生まれつき全盲の人には、「見る」という行為も、「光景」という概念も理解はできないでしょう。
で、そうなれば当然、同じ状況や同じものが目の前にあって同時に直面しても、感じ取るものは違ってくる。
勇気をもって言うけれど、私は普通に目が見えて耳が聞こえる人と、生まれつきのろうの人が同じ映画を(ろうの人は字幕で)見ても、同じに感受できるとは思わない。ストーリーの理解はどちらも同じにできるでしょう。でももっと感性的な部分で、感じ取るものは違う(どっちが良い悪いではなくて)はず。
言葉は強い力を持ってる。ろうの人が書いた文章を誰かが或いは機械が音声や点字にすれば、その二人はコミュニケーションがとれる。これはすごいこと。
だけれど、同じものを同じように感受することは、きっとできない。
ま、これは五感の能力が同じ人同士でもそうなんだけれど、程度の問題ね。或いは生まれた国や時代や地域や育った環境でも違うのだけれど。でもそういう違いとはレベルの違う「違い」が生じると思う、と言ってるわけです。
で、言いたいのはここからなんだけれど、多様性の許容って、障害者が受け容れられる社会って、或いは差別をなくそう、って言う場合に、ひとつの名作映画があったら、字幕をつけて、音声解説をつけて、他言語に翻訳して、聞こえない人、見えない人、その言語をわからない人にも楽しめるようにしていこう、っていう方向に行きがちだし、この努力は間違っていないと思うんだけれど、本質的にはそうではないと思うんだよ。
そうではくて、「同じものを同じように楽しめないこと」と、「同じものを同じように楽しめない人が隣にいること」を許容することこそが、多様性の許容なんじゃないの、と。
例えば私は耳は普通に聞こえるけど弱視で、舞台芸術系を観に/聴きに行った場合、音は皆と同じにわかるけど、演者の表情や細かい動きは見えないから、周りのお客さんと楽しみを共有できない。コンサートのカーテンコールなんかで指揮者やソリストがちょっと面白い行動とったとして、周りが笑ってるけど私には何が起きたか、なんで皆が笑ってるかわからない、ということがよくある。オペラを観に行ったら、双眼鏡なり単眼鏡なりで歌手の動きや、時には字幕を見てる。それだと視界が狭いから、一人の登場人物が何かをしているとき別の人が別のところで何かやってたら気付けない。
私はそれを寂しいと思うけれど、私が一部の楽しみを共有できないのは当たり前のことで、悪いことでもなんでもないと思うんだ。それでも私はそれだけの価値があると感じるからみんなと同じ額を払ってチケットを買う。そこを「間違ってる」って言って前の方の席を無理やり用意してくれるとか、何か横で解説してくれる人をつけてくれるとか、そういうのは「間違ってる」って私は言うよ。「ありがとう、でも要りません」って言います。ただしこちらから「可能であればできるだけ前の方に座らせて頂けませんか、こういう理由があります」ってお願いすることはあるかもしれない。けどそれが受諾されようと拒否されようと、どちらも良いとも悪いとも思わない。受諾されたら「ありがとうございます」と言って享受するし、「できません」って言われたら「わかりました、ありがとう」って言って普通に買える普通の席で双眼鏡なりで見るでしょう。
この辺の感覚も、こういう立場になったことない人だと言葉では理解できても体感理解はできないのかな。別にそれでいいんだけれど。
「同じものに同じ価値を見出さない」「同じものを同じ条件で、他の人に迷惑はかけず違う楽しみ方をする」「同じものを同じように楽しめない」ということや、そういう隣人を許容することが、本当に多様性の許容、ということなんじゃないか、と字幕でシンゴジラを見ながら考えてみた、という話でした。
これって逆に私のような少数派の立場からも言えることで、多数派から見た少数派も、少数派から見た多数派も、「同じものを同じように楽しめない相手」という意味では同じなんだよね。だからまずは私が、「同じオペラを聴きに行って私とは違うものを感受でき違うところで笑える周りの人」を「許容」するところから始めたいな、と思ったのでした。こんなこと書いてるけどまだ羨ましいしもやるもの。許容はしてるつもりだけど。
後から同じものを聴きに行ってた人に「あそこで笑いが起きたけど、一体なにがあったの?」と聞くことはあります。それを聞かれたとき、悲しそうな顔をしないで欲しい。痛ましそうな顔をしないで。だってそれって、私が自分にとって「同じものを同じように楽しめない人」だと実感したからする顔でしょ。そういう人が同じ劇場にいたことが悲しいのでしょう。そういう思いは尊くもなんともないと私は思います。可哀想だとか思われたら屈辱です。そうじゃなくて、「ああ、あれはね、あの人がこんな行動をとったんだよ」と教えてくれればそれでいい。そうしたらあなたは面白かったことを思い出してもう一度面白がれるし、人に面白いことを教えることができるんですよ。それって楽しくない?私は誰かのフィルターを通した形ではあっても、そこで起きていた面白いことを教えてもらえるの。多少手間と時間はとるけど、これって双方にとっていいことじゃないかな?ちなみにこれ、何人かに同じこと聞くこともあります。眼前で起こっていた同じ現象について聞いているのに、聞いた相手によって表現が違ったりして面白いから。この楽しみ方、普通の人はできない(というよりもできるけどしないし思いつきもしない)でしょう。
まあそれはそれとしてシンゴジラ面白いよね。時々かかるエヴァその他既存曲で笑います。
庵野監督の既存曲をどんどん使っていくスタイル好き。お金はかかるだろうし許可取りもめんどいだろうけれど。
それに作品全体の閉じたまとまり感は失われるけれど、逆に現実との繋がりや作った人を形作ってきたものを如実に感じるから。
もちろんその作品の為に新しくつくられた音楽だけで構成された世界も好き。
すべては作品として成立するか、面白いかでしかないからどっちも上手に使ってくれる制作者であれば構わない。
これは音楽に限らないけれどね。
既存のものをどういう風にうまく使うか。まあこれは芸術史で常にあるテーマでしょうね。
違う人が再現すれば違うものになる。違う人が違う文脈で引用すれば違う役割を持つ。だから同じものが何度も使われる。何を選んでどう使うかが制作者の個性。それに技術も様式も全くのオリジナルなんて有り得なくて、皆最初は模倣から始める以上、模倣のレベルというか、原形をどの程度留めるかの差でしかないしね。
細かく細かく砕いて再構築するという形で「オリジナル」で何かを作る人もいるし、比較的大きな塊をそのまま持ってきて使う「引用」「パロディ」、大きな塊の外側の形を使い内側には別のものを入れる「オマージュ」・・・
まあそんなこんな、相変わらず考え事と二次元を愛し歌い続ける人生を目指して生きています。
ついったがお手軽すぎてそっちばっかやってました。
年々加速度的に更新頻度が落ちるこのブログ。
生きてますよ。
先日放送されたシンゴジラ、公開当時劇場にも観に行って、テレビ放送も録画して。なんか気に入りすぎて、ゲームとかしながらだけど日に一回の頻度で毎日つけてる。
多分7回くらいつけた後、そういえば専門用語だったり早口だったりで聞き取れてないとこがいくつかあるなと思って字幕つきで見てみたらまあ、色々発見があって面白かったんだけれど。
(例えば、泉さんが「君、なんで政治家になった」って言うところ、間違いなく「そこに燃えんとは」だと思っていたら、「そこに萌えんとは」だった。衝撃だった・・・漢字の違いで随分ニュアンス違うぞ?!って面白かった)
制作されたのと同言語の字幕って目的としては、耳が聞こえない人が健常者と同じに映画を楽しむため、だよね。
まあ今回の私のような用法もできるけれど、メインはそこではない。
だけど、「同じように楽しむ」は本当に可能なのかな。
例えば、生まれつきろうの人って、きっと「音」という概念も、「聞く」という行為も本質的には理解できないよね。
外国語を勉強していると「知っている」を表す動詞が使用頻度高いものだけで二種類あったりして(大体が「知識として知っている」と「身をもって知っている」だったり)、或いは「わかる」「できる」も二種類に分けられるよね。生まれつきのろうの人は、「音」という言葉も、漢字も、その意味も知っているけれど、体感を伴った理解はできない。
同じように、生まれつき全盲の人には、「見る」という行為も、「光景」という概念も理解はできないでしょう。
で、そうなれば当然、同じ状況や同じものが目の前にあって同時に直面しても、感じ取るものは違ってくる。
勇気をもって言うけれど、私は普通に目が見えて耳が聞こえる人と、生まれつきのろうの人が同じ映画を(ろうの人は字幕で)見ても、同じに感受できるとは思わない。ストーリーの理解はどちらも同じにできるでしょう。でももっと感性的な部分で、感じ取るものは違う(どっちが良い悪いではなくて)はず。
言葉は強い力を持ってる。ろうの人が書いた文章を誰かが或いは機械が音声や点字にすれば、その二人はコミュニケーションがとれる。これはすごいこと。
だけれど、同じものを同じように感受することは、きっとできない。
ま、これは五感の能力が同じ人同士でもそうなんだけれど、程度の問題ね。或いは生まれた国や時代や地域や育った環境でも違うのだけれど。でもそういう違いとはレベルの違う「違い」が生じると思う、と言ってるわけです。
で、言いたいのはここからなんだけれど、多様性の許容って、障害者が受け容れられる社会って、或いは差別をなくそう、って言う場合に、ひとつの名作映画があったら、字幕をつけて、音声解説をつけて、他言語に翻訳して、聞こえない人、見えない人、その言語をわからない人にも楽しめるようにしていこう、っていう方向に行きがちだし、この努力は間違っていないと思うんだけれど、本質的にはそうではないと思うんだよ。
そうではくて、「同じものを同じように楽しめないこと」と、「同じものを同じように楽しめない人が隣にいること」を許容することこそが、多様性の許容なんじゃないの、と。
例えば私は耳は普通に聞こえるけど弱視で、舞台芸術系を観に/聴きに行った場合、音は皆と同じにわかるけど、演者の表情や細かい動きは見えないから、周りのお客さんと楽しみを共有できない。コンサートのカーテンコールなんかで指揮者やソリストがちょっと面白い行動とったとして、周りが笑ってるけど私には何が起きたか、なんで皆が笑ってるかわからない、ということがよくある。オペラを観に行ったら、双眼鏡なり単眼鏡なりで歌手の動きや、時には字幕を見てる。それだと視界が狭いから、一人の登場人物が何かをしているとき別の人が別のところで何かやってたら気付けない。
私はそれを寂しいと思うけれど、私が一部の楽しみを共有できないのは当たり前のことで、悪いことでもなんでもないと思うんだ。それでも私はそれだけの価値があると感じるからみんなと同じ額を払ってチケットを買う。そこを「間違ってる」って言って前の方の席を無理やり用意してくれるとか、何か横で解説してくれる人をつけてくれるとか、そういうのは「間違ってる」って私は言うよ。「ありがとう、でも要りません」って言います。ただしこちらから「可能であればできるだけ前の方に座らせて頂けませんか、こういう理由があります」ってお願いすることはあるかもしれない。けどそれが受諾されようと拒否されようと、どちらも良いとも悪いとも思わない。受諾されたら「ありがとうございます」と言って享受するし、「できません」って言われたら「わかりました、ありがとう」って言って普通に買える普通の席で双眼鏡なりで見るでしょう。
この辺の感覚も、こういう立場になったことない人だと言葉では理解できても体感理解はできないのかな。別にそれでいいんだけれど。
「同じものに同じ価値を見出さない」「同じものを同じ条件で、他の人に迷惑はかけず違う楽しみ方をする」「同じものを同じように楽しめない」ということや、そういう隣人を許容することが、本当に多様性の許容、ということなんじゃないか、と字幕でシンゴジラを見ながら考えてみた、という話でした。
これって逆に私のような少数派の立場からも言えることで、多数派から見た少数派も、少数派から見た多数派も、「同じものを同じように楽しめない相手」という意味では同じなんだよね。だからまずは私が、「同じオペラを聴きに行って私とは違うものを感受でき違うところで笑える周りの人」を「許容」するところから始めたいな、と思ったのでした。こんなこと書いてるけどまだ羨ましいしもやるもの。許容はしてるつもりだけど。
後から同じものを聴きに行ってた人に「あそこで笑いが起きたけど、一体なにがあったの?」と聞くことはあります。それを聞かれたとき、悲しそうな顔をしないで欲しい。痛ましそうな顔をしないで。だってそれって、私が自分にとって「同じものを同じように楽しめない人」だと実感したからする顔でしょ。そういう人が同じ劇場にいたことが悲しいのでしょう。そういう思いは尊くもなんともないと私は思います。可哀想だとか思われたら屈辱です。そうじゃなくて、「ああ、あれはね、あの人がこんな行動をとったんだよ」と教えてくれればそれでいい。そうしたらあなたは面白かったことを思い出してもう一度面白がれるし、人に面白いことを教えることができるんですよ。それって楽しくない?私は誰かのフィルターを通した形ではあっても、そこで起きていた面白いことを教えてもらえるの。多少手間と時間はとるけど、これって双方にとっていいことじゃないかな?ちなみにこれ、何人かに同じこと聞くこともあります。眼前で起こっていた同じ現象について聞いているのに、聞いた相手によって表現が違ったりして面白いから。この楽しみ方、普通の人はできない(というよりもできるけどしないし思いつきもしない)でしょう。
まあそれはそれとしてシンゴジラ面白いよね。時々かかるエヴァその他既存曲で笑います。
庵野監督の既存曲をどんどん使っていくスタイル好き。お金はかかるだろうし許可取りもめんどいだろうけれど。
それに作品全体の閉じたまとまり感は失われるけれど、逆に現実との繋がりや作った人を形作ってきたものを如実に感じるから。
もちろんその作品の為に新しくつくられた音楽だけで構成された世界も好き。
すべては作品として成立するか、面白いかでしかないからどっちも上手に使ってくれる制作者であれば構わない。
これは音楽に限らないけれどね。
既存のものをどういう風にうまく使うか。まあこれは芸術史で常にあるテーマでしょうね。
違う人が再現すれば違うものになる。違う人が違う文脈で引用すれば違う役割を持つ。だから同じものが何度も使われる。何を選んでどう使うかが制作者の個性。それに技術も様式も全くのオリジナルなんて有り得なくて、皆最初は模倣から始める以上、模倣のレベルというか、原形をどの程度留めるかの差でしかないしね。
細かく細かく砕いて再構築するという形で「オリジナル」で何かを作る人もいるし、比較的大きな塊をそのまま持ってきて使う「引用」「パロディ」、大きな塊の外側の形を使い内側には別のものを入れる「オマージュ」・・・
まあそんなこんな、相変わらず考え事と二次元を愛し歌い続ける人生を目指して生きています。