フジサキブログ

思考が相棒、音楽は家族、アニメが恋人。
そんなフジサキのアフォブログ。
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お久しぶりです シンゴジラが面白いです

 何やら2年以上も記事を書いていなかった模様。
 ついったがお手軽すぎてそっちばっかやってました。
 年々加速度的に更新頻度が落ちるこのブログ。
 生きてますよ。

 先日放送されたシンゴジラ、公開当時劇場にも観に行って、テレビ放送も録画して。なんか気に入りすぎて、ゲームとかしながらだけど日に一回の頻度で毎日つけてる。
 多分7回くらいつけた後、そういえば専門用語だったり早口だったりで聞き取れてないとこがいくつかあるなと思って字幕つきで見てみたらまあ、色々発見があって面白かったんだけれど。
(例えば、泉さんが「君、なんで政治家になった」って言うところ、間違いなく「そこに燃えんとは」だと思っていたら、「そこに萌えんとは」だった。衝撃だった・・・漢字の違いで随分ニュアンス違うぞ?!って面白かった)

 制作されたのと同言語の字幕って目的としては、耳が聞こえない人が健常者と同じに映画を楽しむため、だよね。
 まあ今回の私のような用法もできるけれど、メインはそこではない。
 だけど、「同じように楽しむ」は本当に可能なのかな。

 例えば、生まれつきろうの人って、きっと「音」という概念も、「聞く」という行為も本質的には理解できないよね。
 外国語を勉強していると「知っている」を表す動詞が使用頻度高いものだけで二種類あったりして(大体が「知識として知っている」と「身をもって知っている」だったり)、或いは「わかる」「できる」も二種類に分けられるよね。生まれつきのろうの人は、「音」という言葉も、漢字も、その意味も知っているけれど、体感を伴った理解はできない。
 同じように、生まれつき全盲の人には、「見る」という行為も、「光景」という概念も理解はできないでしょう。
 で、そうなれば当然、同じ状況や同じものが目の前にあって同時に直面しても、感じ取るものは違ってくる。
 勇気をもって言うけれど、私は普通に目が見えて耳が聞こえる人と、生まれつきのろうの人が同じ映画を(ろうの人は字幕で)見ても、同じに感受できるとは思わない。ストーリーの理解はどちらも同じにできるでしょう。でももっと感性的な部分で、感じ取るものは違う(どっちが良い悪いではなくて)はず。
 言葉は強い力を持ってる。ろうの人が書いた文章を誰かが或いは機械が音声や点字にすれば、その二人はコミュニケーションがとれる。これはすごいこと。
 だけれど、同じものを同じように感受することは、きっとできない。
 ま、これは五感の能力が同じ人同士でもそうなんだけれど、程度の問題ね。或いは生まれた国や時代や地域や育った環境でも違うのだけれど。でもそういう違いとはレベルの違う「違い」が生じると思う、と言ってるわけです。

 で、言いたいのはここからなんだけれど、多様性の許容って、障害者が受け容れられる社会って、或いは差別をなくそう、って言う場合に、ひとつの名作映画があったら、字幕をつけて、音声解説をつけて、他言語に翻訳して、聞こえない人、見えない人、その言語をわからない人にも楽しめるようにしていこう、っていう方向に行きがちだし、この努力は間違っていないと思うんだけれど、本質的にはそうではないと思うんだよ。
 そうではくて、「同じものを同じように楽しめないこと」と、「同じものを同じように楽しめない人が隣にいること」を許容することこそが、多様性の許容なんじゃないの、と。

 例えば私は耳は普通に聞こえるけど弱視で、舞台芸術系を観に/聴きに行った場合、音は皆と同じにわかるけど、演者の表情や細かい動きは見えないから、周りのお客さんと楽しみを共有できない。コンサートのカーテンコールなんかで指揮者やソリストがちょっと面白い行動とったとして、周りが笑ってるけど私には何が起きたか、なんで皆が笑ってるかわからない、ということがよくある。オペラを観に行ったら、双眼鏡なり単眼鏡なりで歌手の動きや、時には字幕を見てる。それだと視界が狭いから、一人の登場人物が何かをしているとき別の人が別のところで何かやってたら気付けない。
 私はそれを寂しいと思うけれど、私が一部の楽しみを共有できないのは当たり前のことで、悪いことでもなんでもないと思うんだ。それでも私はそれだけの価値があると感じるからみんなと同じ額を払ってチケットを買う。そこを「間違ってる」って言って前の方の席を無理やり用意してくれるとか、何か横で解説してくれる人をつけてくれるとか、そういうのは「間違ってる」って私は言うよ。「ありがとう、でも要りません」って言います。ただしこちらから「可能であればできるだけ前の方に座らせて頂けませんか、こういう理由があります」ってお願いすることはあるかもしれない。けどそれが受諾されようと拒否されようと、どちらも良いとも悪いとも思わない。受諾されたら「ありがとうございます」と言って享受するし、「できません」って言われたら「わかりました、ありがとう」って言って普通に買える普通の席で双眼鏡なりで見るでしょう。
 この辺の感覚も、こういう立場になったことない人だと言葉では理解できても体感理解はできないのかな。別にそれでいいんだけれど。
「同じものに同じ価値を見出さない」「同じものを同じ条件で、他の人に迷惑はかけず違う楽しみ方をする」「同じものを同じように楽しめない」ということや、そういう隣人を許容することが、本当に多様性の許容、ということなんじゃないか、と字幕でシンゴジラを見ながら考えてみた、という話でした。
 これって逆に私のような少数派の立場からも言えることで、多数派から見た少数派も、少数派から見た多数派も、「同じものを同じように楽しめない相手」という意味では同じなんだよね。だからまずは私が、「同じオペラを聴きに行って私とは違うものを感受でき違うところで笑える周りの人」を「許容」するところから始めたいな、と思ったのでした。こんなこと書いてるけどまだ羨ましいしもやるもの。許容はしてるつもりだけど。
 後から同じものを聴きに行ってた人に「あそこで笑いが起きたけど、一体なにがあったの?」と聞くことはあります。それを聞かれたとき、悲しそうな顔をしないで欲しい。痛ましそうな顔をしないで。だってそれって、私が自分にとって「同じものを同じように楽しめない人」だと実感したからする顔でしょ。そういう人が同じ劇場にいたことが悲しいのでしょう。そういう思いは尊くもなんともないと私は思います。可哀想だとか思われたら屈辱です。そうじゃなくて、「ああ、あれはね、あの人がこんな行動をとったんだよ」と教えてくれればそれでいい。そうしたらあなたは面白かったことを思い出してもう一度面白がれるし、人に面白いことを教えることができるんですよ。それって楽しくない?私は誰かのフィルターを通した形ではあっても、そこで起きていた面白いことを教えてもらえるの。多少手間と時間はとるけど、これって双方にとっていいことじゃないかな?ちなみにこれ、何人かに同じこと聞くこともあります。眼前で起こっていた同じ現象について聞いているのに、聞いた相手によって表現が違ったりして面白いから。この楽しみ方、普通の人はできない(というよりもできるけどしないし思いつきもしない)でしょう。

 まあそれはそれとしてシンゴジラ面白いよね。時々かかるエヴァその他既存曲で笑います。
 庵野監督の既存曲をどんどん使っていくスタイル好き。お金はかかるだろうし許可取りもめんどいだろうけれど。
 それに作品全体の閉じたまとまり感は失われるけれど、逆に現実との繋がりや作った人を形作ってきたものを如実に感じるから。
 もちろんその作品の為に新しくつくられた音楽だけで構成された世界も好き。
 すべては作品として成立するか、面白いかでしかないからどっちも上手に使ってくれる制作者であれば構わない。
 これは音楽に限らないけれどね。
 既存のものをどういう風にうまく使うか。まあこれは芸術史で常にあるテーマでしょうね。
 違う人が再現すれば違うものになる。違う人が違う文脈で引用すれば違う役割を持つ。だから同じものが何度も使われる。何を選んでどう使うかが制作者の個性。それに技術も様式も全くのオリジナルなんて有り得なくて、皆最初は模倣から始める以上、模倣のレベルというか、原形をどの程度留めるかの差でしかないしね。
 細かく細かく砕いて再構築するという形で「オリジナル」で何かを作る人もいるし、比較的大きな塊をそのまま持ってきて使う「引用」「パロディ」、大きな塊の外側の形を使い内側には別のものを入れる「オマージュ」・・・

 まあそんなこんな、相変わらず考え事と二次元を愛し歌い続ける人生を目指して生きています。

時代劇の男尊女卑にイラッとするのはアリか、ナシか

 読んで下さってる方、どう思います?

 私は、時代劇(に限らずだけど)見てて、その世界の中での男尊女卑っぷりと、登場人物がそれを疑問に思ってなさそうなことにイラッとしてしまう。
 これは、アリか?ナシか?
 多分どっちが正しいかというよりは自分はどっちを正しいと思うか、という話なのだけど。

 前にこれを人に話したら、「当時はそういう時代背景なんだから、そういうものとして見ないと」的な内容のことを言われたことがある。それもまあ、納得はできる。当時の人のものの見方、考え方を想定して感情移入して見ないと、ドラマを享受できない。
 他国の歴史ものを見ても自国のそれほど潤滑には理解できないのはこの辺り。古い時代のものとはいえ、現代に受け継がれてる要素もある自国の価値観だからなんとなく理解しやすい、というのはあると思う。

 価値観の相違、という言葉で表せば、これは戦争が起きる理由と同じ問題になってくる。ような気もする。
 或いは、身近な人間関係の中で起こるトラブルの原因も。
 時代劇を見るのと違うところは、自分に現実の利害が生じてくるか否かというところ。
 ドラマはこっちが一方的に鑑賞する側だからね。相手に何を言えるわけでもない代わり、自分にもなんの利害もない。

 つまりこれは、異なる価値観を受け容れられない狭量さなのか。
 現代っ子にありがちと言われる、共感力(相手の状況や心情や価値観を慮る力)の欠如なのか。

 正直こういう理由で、世の多くの人が楽しめているものを楽しめないのはただただ勿体ないとしか思わない、という側面も自分の中にある。

 一方で、自分の正義観、価値観を信じている側面もある。

 時代劇で描かれるような時代に、どうして男女の服装も、役割も、言葉づかいも、髪型も、ああもはっきりと分かれていたか、というのは、多分「心」よりも「体」に重きを置く文化で、かつそうでなければ人が滅びかねない時代だったからだと思う。
 時代が新しくなるにつれて、人間全体(日本だけじゃなくて世界的に)で、体:心の比重が、圧倒的に体に傾いていたものから、少しずつ心の方へ移動していく、比重が変わっていく流れがあると思う。現代で、それがどういう比重になってるのか、どっちが重くなってるのかは私にはまだ解らないんだけれど。
 昔は、男女だけでなく、背丈、病気や障害の有無なんかの、体の要素が心を規定する世界だったと思う。現代に於いては、心に従って体を規定するということも、要素によっては可能になってきている。そして本能から理性、肉体から精神へ、ウェイトが少しずつ移動していっていると感じる。
 だからか、最近は例えば武士の中でも、戦う以外の役割を持ってた人たちのことが小説や映画になることも増えてきた気がする。(武士の家計簿とか、包丁侍?だっけ、あれとか)
 技術が色々と進歩して、世界的な人口も増えて、だから男女観だって変わってきている。多様性が、多少なりとも容認されるようになってきている。

 とかく私が、持って生まれたもの、選べなかったものの為に苦しんで、精神面を重視して人を見る、何かを考える性質を育ててきたからこそ、なおのことこの辺りが気になってしまうのだと思うけれど。
 体が心を規定する部分もあるのをここ数年はきちんと自覚しているし、もう少し体の面にも目を向けないといけないとは思っているけれど。

 多分ね、カテゴライズやブランド化が気に食わないところもあると思う。
 これによって差別されて、苦しんだ経験は割とある。
 ただ自分もカテゴライズに、ブランドに頼っている面も確かにある。日本人なのに見た目で、日本人から日本人と思ってもらえないのが辛い、というのは良い例。
 ある意味合理的だし素敵なシステムで、日本人の美徳であると私が考えるところの「謙虚さ」と「信頼の重視」の反映だと思うんだよね。ブランドに振り回されやすい国民性って。
 情報化社会で、多様化がものすごくて、摂取「しようと思えばできる」知識量、技術量が飛躍的に上がってるこの現代に於いて、昔以上に、自分の身の回り、生活にかかわることだけでも、全てのことを知ることも、全ての専門家になることもできない。だから、信頼できると思う人(専門家)が「信頼できる」と言った、発信した、保証したものを信用する。これは選択肢が多すぎる上に参考情報も多すぎて何かを「選ぶ」ということがとても難しい、大変な時代に、有効な手段だとは思う。
 これがマイナス方向に作用すると、人種とか、国とか、男女とか、性指向とか、障害とか、そういうものに関する差別になるわけだけど。
 つまりは自分の「目」(見る目がある、ない、とかの場合の「目」)をきちんと育てて、他の人の言うことに引きずられすぎず、きちんと自分で判断して好き嫌いを言える人間になればいいよね、って話なんだけど。
 そこに自信がないからこそ、私自身もブランドに、カテゴライズに縛られるんだろう。
 と同時に、自分がそういう人間になれたところで、世の中そういう人間ばかりじゃないし、そういう人間の有り様を良いと思う人ばかりじゃないということを痛いほど分かっているから。
 結局ここでも、「普通」じゃなくなるのが怖い、っていうのと、他人との価値観の相違、という問題になってくるんだけれど。

 自分と価値観、考え方が違う人と触れるとき、なにが正解なんだろう、って思う。
 自分はこう思ってますよ、ってことを、「提示」することはOKだし、大事。これは多分間違いじゃないと思う。
 そして、相手がどう見ているのか、考えているのかを知ろうとすること、知ること。そしてそれをもとに、この人はこう考えるかな?と想定すること、予想すること、これは人と関わることを円滑にする上で必要なスキル、だし道徳、だよね。
 つまりはその「行為(想定)」と、「相手の見方考え方についての自分の感想としての好悪」を、公私を分けるが如く分けるべきなのか。
 そして自分と相手とに現実的な(好悪という意味ではなく)利害が発生し得る場合には、まずは話し合いましょうよ、というスタンスでいく。これは大事なことだと思う。その為のスキルも必要だと思う。
 逆に言えば、互いに利害(あんまりにも不快すぎて精神的にめっちゃ辛い、とかも含め?)が生じない内は、相手の見方考え方に対しての自分の好悪を、いかなる形であっても示さないべきなのか。(感想を相手が求めるのならまだしも)

 ただ、個人的に、この原則(相手に自分の考えを押し付けない)を唯一崩し得る、崩していいかな〜と感じるのが、「家族(及び家族級にメッチャ仲良い友人)」と、あとは教育の場(教える側から教わる側への向きに限る)ね。家族は、それで多少の諍い(言い争い)が生じても壊れない心の繋がり、だと思っているし(度を越しては駄目だし個を尊重することも大切だけれど)、教育に関しては、押し付けなしには成立しないと思うし。

 いつもは何がしか結論が出たらブログに書いているけれど、今回は疑問を書いてみる。

障害者ってものについてつらつらと。

 久々に深夜に一人でつらつらいろいろ考えてた。

 今からちょっと、微妙っぽいかもしれないとこ切り込むよ。いち個人の、学術的後ろ盾もなにもないぽっと思いついた意見・考えだってことわかって読んで欲しい。あと日本語力的に正確に説明しきれなかったら申し訳ない。

 障害者差別について。
 私は多分、障害者の側でありながら(多分がつくのは、視力という面で見るとどうやら私、視覚障害者とそうじゃないの境界線上みたいだから)、差別する側の気持ちもわかっちゃう。不謹慎気味だけど。
 なんで差別されるかって、一言で言って、「普通じゃない」からだよね。日本で外国人差別がひどいのも、セクマイ差別についても、多分同じ。
 私の場合、高校くらいから弱視の人がいっぱいいる集まりにたまに行くようになったけど、それまでは周りに障害者って殆どいなかった。種類を問わず。で、弱視の人(アルビノが大半)と何人も喋って、見てきた。その内の数人とは、ちょっと深い話もした。
 で、今日思い返して思ったこと。差別される原因たる「普通じゃない」が、障害者(私が知ってる範囲では視覚限定だけどね)の場合、ひとつじゃないんじゃないか、ってこと。
 生まれ持った普通じゃなさ、これはもうどうしようもない。普通の人達の中で生活するにあたって、どうしようもないとこは手助けして貰うことが必要。これは当たり前。普通。(手助けしてもらってありがとうの気持ちはちゃんと持ってるよ。)てーかこれって、背が低い人が高い人に高いとこのもの取って貰ったり、足悪い人や体調悪い人や妊婦さんなんかに席譲ったりするのと同じだから、障害者に限った話じゃないよね。度合いが違うだけで。
 今回思ったのは、立ち居振る舞い、所作という面でも、「普通じゃない」ことになっちゃってる障害者が、一部にいるんじゃない?ということ。

 前にどっかで読んだけど、日本では、おいでおいで、って意味を所作で表すとき、掌を下にして指を動かすよね。でもこれは、アメリカ?だったかどこかでは、あっち行け、の意味になり、おいでおいで、の場合掌を上に向けて指を動かす、んだそうだ。
 そんな風に、体の動き、ってのは言語と同じように表現手段であり、それには地域性がある。で、これも言語と同じで、共通認識、共通了解で成り立つ、ということ。
 ここに関して、障害者に対しての「国語の教育」が足りてなくね?みたいなこと。
 人は言葉のみならず、体の動きでも表現をするけど、それがどういうものか、視覚障害者だと見えてない(見えにくい)から、相手からそういうものを受け取れないし、そもそもそれの存在すら知らなかったり、知ってても無頓着すぎたりする。
 これが、もうひとつの「普通じゃない」になっちゃって、「障害者って自分たちと違う、何考えてるのかわかんない、なんか気味悪い、近寄るのよそう」に拍車かけちゃってんじゃね?ということ。

 こっちの方の「国語教育」も、多分言葉と同じで、最初は周りの真似、間違ったら周りが逐一教える、って方式で成されて、習得していくんだと思うんだけれど。

 私はアルビノの中でも今まで会ってきた人の大半よりかなり視力良いみたいで、それ前提になっちゃうけど、普通学級で育つ、日常で自分以外の障害者に触れる機会が無いか少ない、ってなると、そういう教育、否応なく受ける。真似する相手がまずいわゆる「普通の」人らだし。まーそこそこは見えてるから見よう見まね成立するし。
 だけど、これが、普段から障害者ばっか(特別支援学校とか障害者団体とか)の環境に長くいることになると、その「教育」が成されないか、弱くなっちゃうんじゃないかと思う。その上見えにくい或いは見えないから、見て学びとる、も弱くなる。
 だから私が知ってる弱視の人のうち何人かは、一般人的な目で見ると、視力がどうの関係ない感じの「たまに挙動不審」になっちゃってると感じる。字読むのに極端に目近付ける、とか、そういうことは目悪いから必要な動き、だけど、そうじゃないところの話ね。
 すごく簡単な例えを一個出しちゃうと、会話の時の目線。普通、会話するときって相手の目見るよね。苦手な人もいるけど。それがまあ、礼儀、だよね。で、礼儀って何かって、自分の気持ち(主に相手への敬意)を形にしてあらわす共通認識、共通了解、だよね。多分。(辞書的な定義はわからんが) で、目悪い人の一部って、どうせ相手の表情見えてないからとか、単純に相手に目線合わせられる程視力ないからとか、まあ理由は色々あるんだろうけれど、相手の顔全然見ない人がいる。
 この辺の理由って、私だから想像つくけど、障害者に触れたことがない普通の人にはぱっと見わかんないよね?で、「目合わせない失礼な人/変な人」になっちゃう。認識が。
 障害者って生まれつき「普通じゃない」し、それを受け入れて生きていかなきゃいけないんだけれど、これが自分の中で悪い方へ拡大しちゃってる人がいると思うのね。こういう認識を持たれることそのものやその原因を理解できてない人、理解してるけどいいやってなっちゃって投げてる人、色々だろうけど。
 人は所作でも礼儀を表す、ってことそのものを「知らない」「わからない」人もいっぱいいるんじゃないのかな。で、それを教えることを知らない人や、諦めちゃってる人や、思い付きもしない人もいっぱいいいそう。
 わかってた上で信念持って「教えない」人と「やらない」人は別にそれでいいんだけど。その人の考えの下の行動だから。
 じゃなくて、教えて貰えなかったが為に損してる障害者とか、「普通じゃないんだからいいや」を悪用しちゃってる障害者とか、沢山いそうな気がしてる。
 前者は教えればいいんだけど、後者みたいな人がいると、正直障害者のイメージ悪くなると、思うよ。
 生まれ持った特徴故に「無理」なことは、しなくていいと思う。だけど、やればできることは、やった方がいいんじゃないかな、と思う。会話するときに相手の顔の方に顔を向けていよう、くらい、目線は上手く合わせられなくても(私も苦手)、やろうとすればできる人、いっぱいいるんじゃない?

 日本には、「郷に入らば郷に従え」という素敵な言葉(私はそう思っている)がある。
 なら郷に従って、言葉で敬語を使う(習得する)のと同じように、所作も普通の人に似せる努力、してみてもいいんじゃないのかな。もうちょっと。

 障害者の権利、って主張することは簡単だよ。でもそれが暴走しちゃってはいけないと思うんだ。
 障害者の側だって、普通の人らの中で仲良くルール守って暮らしてく意思ありますよ、って表明して、歩み寄っていかないと。それを「見える形」「形あるもの」にも、表していかないと。「無理に合わせる」と「歩み寄る」って違うと思うんだ。
 人生の中で深く付き合う、自分のことある程度知って貰える人って、人生の中で出会う人のウン百分の1、ウン千分の1、もしかしたらウン万分の1、だと思うから、その少数の人「以外の人達」、初対面の人、一回こっきりの人達に変に思われないような努力って、絶対無駄なこととか悪いことじゃないし、必要なことだと思う。だってそういう一瞬の関わりが、その人の人生に大きく関わっちゃうことってあるし。

 まあだからって髪黒く染めないと雇わないとかいうのを許すつもり、ないけどね?
 それはまたちょっと別問題。爪切れ髪長いなら縛れは従うけど髪染めろはなんか違うって感じる。
 この辺りは多分同じ立場の人でも考え方のかなーり分かれるところ。今日書いてるお前の主張に従うなら染めろや、って考える人も多分いる。

 私は多分普通学級で育ったせいもあって、なるべく「普通」に近付こうっていう強迫観念に駆られてた時期がある。から、主にその時期に、自分の動き変じゃないかな?周りと違わないかな?って、すごく気にしたんだと思う。
 でも今はそれで良かったなーと思う。
 まだ上手じゃない、周りと同じに動けてないとこって確かにあるんだけど、合わせようっていう努力が動きに透けて見えるみたいで、「合わせようとしてるけど視力故に下手な部分があるだけであって、精神的に基本普通の人」って、言わなくても分かって貰えるもの。これも、所作による表現、の内だよね。この場合私の方は無意識だけど。
 相手の方に、読み取る能力、があるということ。それが育っているということ。
 普通の人には、こんなに読み取る能力があって、動きには、自分が意図するしないに関わらず、それほど意味が「乗る」んだよ、ということ。


 これに気付けたのって、私が障害者とも健常者とも言い切れない微妙〜〜〜なところにいるからだと、思う。私って割と他のことでもそういう、真ん中と端っこの間、みたいなところに立ちがちで。昔はすごく苦しかったんだけど、どっかで「だったら、そういうところに立ちがちなところを武器にするしかない、そういう生き方しよ」って思い至った。
 東京喰種でマスターが割と最初の方にカネキ君に似たようなこと言ってたね。あれすごく感慨深かった。
 私の人生のキーワードのうち一つを挙げると「橋」なんだ。
 どっちの立場のこともちょっとずつ分かる。だからこそ橋渡しがしたい。そう思う。
 今回の気付きってのは象徴的だなーなんて、ちょっと思ってみたり。

大学最後の春休み

 ウワァァァ 投稿する度に前回との時間的開きがでかくなってる気がするゥー
 すいませんすいません生きています。比較的元気。

 どっから書いたものやら。
 とりあえず近況?

 卒業者発表まだだから断言はできないけれど、とりあえず3月で大学卒業見込みです。
 四年間音楽を勉強してみて、まるで潜れば潜るほど更に下にどれだけ深く広がっているかがわかってくる底なしの水に潜るようで、まだまだ足りん!と強く思ったのと、不登校で小6〜中3、通信制だった高校4年間の計8年間学生生活というものを送れなかったのが今さら寂しくなってきてもう少し学生でいたくなってしまったのとで、うちの大学院を受験し合格できましたので、四月から大学院生です。
 大学入学当初は金銭的に院は無理って母が言ってたので半分諦めつつ、でもやっぱり院に行きたいと強く思い始めていた時期に改めて聞いてみたら、意外と軽いノリで行きたければどうぞ的なことを言われたので甘えてしまいます。
 実技も上手くなりたいし、もっといろんな曲をやってみたいし、いろんなことをしてみたいし、研究もしてみたいし。とても楽しみです。メンバー的にちょっと荒れそうな学年なのがちょっとだけ不安ですが(笑)

 精神的には、なんというか、新しく知り合ったひとに慣れるのに3年くらいかかる人見知りな奴なせいもあるし、自分の精神が少し落ち着いてきたおかげもあるだろうけれど、四年に上がってから周りの友人と割と深い話をいろいろとできるようになった。
 自分のことを話すのもそうだし、特に相手の、闇というか。大変だった過去とか、隠しているマイノリティとかを聞く機会が恐ろしいほど増えました。友人の女性曰く、自分は「聞き出すのが上手」なんだそうで。「聞き上手」ではないところがミソ。
 教育実習の時も、普段も含め、周りにいる人たちの中でも特に精神的にちょっとだけ危ういかな?という人にとても好かれやすくて。そうでない人でも、最近仲良くなるとそういう話を聞くことが多い。
 これは別の方に言われたことと自分の見解を合わせたものなんだけれど、自分自身が過去、精神的にちょっと危うかった経験があり、けれど決定的に「壊れる」ところまでは至らず、踏みとどまり、今は少し回復した、と思っているし、それがある意味プライドでもある。そして生まれながらにちょっとしたマイノリティで、かつ精神的にもマイノリティな要素を持って生きてきたが故、マイノリティを多少なりとも、理解してあげやすい精神性は持っていると思う。だから、言い方が悪いけれど、今大変な人にも逆にポピュラリティにも理解を示しつつ、軸足は圧倒的に「まとも」な方にあり、理解しつつも「引きずられる」心配がなさそう、というところが、そのような特性を生んでいるようだ。
 かといってそれをメインにして職業に繋げようという気はないのだけど。まあこれから就くであろうなんらかの職業の中で、個人的な特性、としては生かしていけたら良いと思う。その為に、ちょっとだけ勉強もしてみた方が良いかなと。話を聞く機会が多いのなら、聞くスキルは高い方が良い。解決の手伝いはできないししないけれど、聞くだけならハイクオリティに聞きたいから。

 それから、具体的には書かないけれど、精神的に激動するイベントが二つあって、自分の演奏がちょっと変わってきました。
 今まで、しっかりと楽譜通りに演奏する、客観的に自分の演奏を観察する、ということは比較的できていたんだけれど、反面、感情を出して、表現するという方がとても弱くて。
 前に書いた気がするけれど、小学生時代辛かったのを、心を凍らせることで対応してしまって、それが大学生になって4年近く経っても、溶けはじめてはいても微々たるもので、自分の感情にも鈍感だったし、感情そのものも薄かった。
 それが、やっとここにきて、本番で一度、感情むき出し系の演奏ができた。いきなりのことではあったので今度は客観性の方が着いていかなくて、とっても雑な演奏になってしまったから全体としては余りいい演奏ではないのだけど、新境地だったことは確かで、それは周りも言ってくれた。
 これから、感情をもっと、かつもう少し恒常的に爆発させることを覚えつつ、両者のバランスをとれるようにしていくのが、現在の課題かなと思う。

 人は変われば変わるものだ。自他の経験を見ていて自分で驚いた。
 私は水のように器に合わせて変われる人間性でいたい、年をとっても精神的にいつも動いていたい、変動していたいと思っている人間ではあるけれど、そうは言っても思春期レベルの精神的激動などもう来ないと思ってた。けれど、この歳になってもそういうことはある。驚いたと同時に安心した。
 刺激を求めるのともまた違う、不思議なもんである。

 音楽も、クラシックに於いてもアニメ系に於いても、少しだけ前に比べて、理解できる、許容できる、興味を持てる範囲が広がったように思う。
 もっともっと広げていって、良いものならなんでも聴くよ!みたいになりたい。

 大好きなアニメについては、最近見る本数が減ったように思う。
 というのも、自分好みの作品が年々減っているんだよね。
 自分の好みは、簡単に言えばメッセージ性の強い作品や、何かが強烈に伝わってくる作品。
 そういうものが、どんどん減っているように思う。
 何かを上手に「表現」する作品は減らないし、一部ではクオリティは上がっているように思うけれど、表現と伝えることって微妙に違うよね、という話。
 最近だとPSYCHO-PASSと進撃とテラフォと東京喰種とFateのUBWくらいだろうか。
 何かを強く、強烈に主張したい人、言いたいこと、が減っているのかな、と思う。
 それはこの国が平和で安定していて悪いことや不幸が少ないという証拠な気もするので、そういう意味では安心するんだけれど。
 創作物ってのは無い物ねだりを叶えるという側面があるから、何が流行しているのか分析すると今の時代のこの国に「無い物」(「足りない物」ではない)がわかると考える。(一部で大変な事件もいくつかあるとはいえ)凄惨なものが流行るのは、ここが平和な国である証拠といえるんじゃないかな。

 また来ます。
 自分は過去ネット上でいろいろなことをやったけれど、ここまで一つのものが長く続いているのはここだけ。

朝が好き

 いつの間にか4ヶ月経ってたのか・・・お久しぶりです。
 生きてるよ。
 銀英伝にハマってる。

 私は、季節にしても時間帯にしても天気にしても、基本的に好き嫌いが薄い、と思う。それぞれに好き。

 朝が好き。
 静謐な空気や、不思議な色の空や、鳥の声や、夏なら蝉の鳴き始め。
 小さい頃は、夜明け頃の早朝って未知の、特別な時間帯だった。普通に生きるのがめんどくさくなって、だんだん朝起きて夜寝るってのに縛られなくなっていって、夜通し起きてた後に、近所の崖?斜面?の上にある公園に朝陽を見に行くのが好きだった。やがて生活時間はどんどんめちゃくちゃになっていって、夜通し起きてるのも特別なことではなくなって、普通、になった。
 朝が好き。
 夜が好き。夜は私の時間、そんな気がしてる。もともと日光と眩しいの、体質的に苦手なのもあって、精神的にかなり夜行性。落ち着くし、静かだし、お月様に会えたりするし。
 でも朝も大好き。夜の終わりの朝が好きなのか。朝の前の夜が好きなのか。朝が朝として好きなのか、よくわからない。

 昔から、二次元は私が世界や人間と関わる為に不可欠なものだった。アニメや小説や、そういったものを通して色々なことを知って、感じて、いろいろなものに興味を持って。今もきっとそうなんだと思う。
 もしかしたら、恋愛ものを好きな子らにとっても、そういう側面があるんじゃないか、なんて思ってみたりした。オンナノコは恋愛が好き。恋愛がしたい。そういう気分でいる為に、恋に憧れ続ける為に、恋愛ものを継続的に摂取したがるのかな?なんて、思ってみたりした。

 一方で、大学生にもなると周りが割と結婚願望を口にしたりする中、自分には正直そういう願望がかなり薄いなあ、と感じる。
 前の記事かなんかに書いたように、あんまり夫婦ってものを見慣れずに育ったから、かな。正確には、夫婦であることや、夫婦で居ることが幸せそうな夫婦を、かな。祖父母夫婦は見て育ってるけど、典型的な古臭い夫婦で、男尊女卑と古臭い形式が色濃くて、正直全く良いと思えない。両親は(手が出てなかったのがせめてもの救いだけど)家に揃ってれば毎晩喧嘩。母は小さなことでもいちいち文句を言うし、父親は母や私の言うことを所詮女の言うこと、という理由で真剣に取り合わない。やがて父親は海外長期赴任が恒常的に続いて、たまに帰ってきたときも多分喧嘩してたと思う。
 それでも父親は母親に、おはよう、いただきます、ごちそうさま、いってきます、ただいま、ありがとう、おやすみ・・・今思えばびっくりするくらいきちんと、挨拶をしていたように思うし、母親も、ものすごくおざなりで形式的でなんの気持ちもこもっていなかったけど、それに返答していたように思う。互いを呼ぶのだって名前だし。
 それに、経済的に苦労したことは一度もないどころか、かなり恵まれた環境だったと思う。母も、それにおそらくは父親も私をとても愛してくれているし、母は私がやりたいと言ったことはだいたいやらせてくれた。父親は、家にいない自分が何もできない、お金を稼ぐ以外できないときちんとわかってて、私が不登校しようが何しようが口を出さず、全面的に母に任せて、お金だけきちんと出していてくれた。
 だから私の歪みは、この程度で済んでいるのだと思う。十分に幸せな子供時代といえる。
 ただ、夫婦というものに幻想を抱けるような環境ではなかったのだけは確か。

 私は、主婦というのも職業のひとつだと考えてる。
 住み込みの家政婦兼娼婦兼秘書、子供ができれば+乳母、かな。そうやって働いて、お金を貰っている。或いは現物支給だったりする。
 いまどき、結婚相手や、結婚するか否かを本気で命に関わるレベルで、自分で選択できないことなんて殆どないことだろうと思う。少なくとも日本では。だとすれば今主婦をやってる人らはみんな自分の権利で、自分の選択で、自分の責任で主婦という職業を選択した筈で、お金を貰ってる以上、最低限プロ意識をもって、職務内容をこなして欲しいと思う。
 こないだ女性の友人にこう話したら、そこに愛があって、その人の為にやるか、それともお金の為にやるのかが違いで、そこが一番大事、というようなことを言われたけど。正直言って違いが余りわからない。
 つまり私にとって一番身近な主婦、母親は、そういう風に見えたんだろう。

 正直、まあ恋愛願望がないわけではない。というか、ある。一人でいるのは寂しい。それは身に沁みているつもり。
 ただ、出産する気はない。この国で私の子供として生まれた人間が、幸せになれると思えないから。子供の時の傷ってのはどんな些細でも一生モンになりかねない。辛いことがあるのに誰も怨めないのは辛いし、何かを憎むのも辛い。
 結婚には出産がセット、と思っている人が多そうなので、結果結婚も多分しないな、と思っている。
 そもそも、(今の時代はそうでもないんだろうけど)同じ相手と一生添い遂げるだとかいった考え方が受け容れがたい。人は変わっていくものなんだから、その時その時で適した相手は変わっていくと思うし。そうなると、子供が云々というのが絡まない関係なら、結婚というかたちにする必要を感じない。
 結婚は家族と家族の結びつき、という人もいる。実際、当人同士、その家族たちがそう望むのならそれも良かろうとは思うけど、そこには選ぶ権利があって然るべきだと思う。単なる個人間の結びつきだって別にいいんじゃないかな。
 家族とはいえど、血縁といえど他人。自分でない以上他人。他人の決断に、自分の選べない理由によって巻き込まれるのは間違ってる、と思う。そんなもんは怨恨もなんもない通り魔に襲われるのとなんら変わらん。

 自分のことわかろうとしてくれる、相手の事わかりたい、知りたいと思う、暫く一緒にいて、なにかを共有したいと思える、そんな相手がいれば、リア充してみてーなー、と憧れている。


(15.02.13.追記)
なぜかコメントがつけられなかったので、続きにてコメントのお返事をしています。

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久し振りに、生きてるなあ、と

 今日、久し振りに、本当に久し振りに、ああ、自分生きてるなぁ、と思った。

 夜、真っ暗な部屋で一人で布団に横になって布団をかけて、考え事するのが大好き。
 自分が人生について考えて何か答えを見つけるときっていつもそうだった。
 多分考え事するのに一番向いてる環境なんだろう。

 視界が開けてみると、開ける前に見えてた景色って割と思い出せないもので。
 今日、自分が抱える歪みや生き辛さには多分どれも根源があるんだろうなあ、って、ずっと分析してた。
 本当はそんなことしないでがむしゃらに生きたらいいのかもしれないけど、どうにも昔から、数学にしたって、仕組みの分からない公式は覚えたくない、使いたくない性分だった。なんかもうしょうがないんだろうと思って割り切って、とことん考えてた。
 そうしたら色々見えてきて、なんだか気持ちも楽になって。
 就職先を考えるときや就職面接を受けるときに必要なのは徹底的な自己分析だ、って前にどこかで読んだけど、その通りなのかもしれない。

 昔から、守られるより守る側になりたかった。
 だから女に生まれたことが嫌だった。男女差別は嫌いだとか言いながら、女は守られるもの、男は守るもの、そんな下らない固定観念、偏見に自分自身が一番縛られていたから。
 未だに自分の性自認がはっきりしないのも、それが原因のひとつだと思う。
 うちは父親が長期赴任や出張が多い家で、育った環境だけで言えばほぼ母子家庭状態だった。両親の仲も段々冷えていって、今では家庭内別居みたいな状態。それはもういい。別に。で、兄弟もいなくて、祖父母も同居してたわけじゃなくて、多分自分にとっては、結構大きくなるまで母親が全てだったんだと思う。
 父親が家に普段居ない以上、子供の親への気持ち、みたいなのが、普通は二人、祖父母なんかがいればそっちにも分散されそうなものが、母に一極集中してしまったんだと思う。要するに、自分を守り育ててくれているのは唯一母、という認識。幼少期は金銭的なことなんて分からなかったし、そういう認識だったと思う。そして憧れたのも多分母。だから、誰かを守るのが、憧れた人の姿で。
 だから、自分も誰かを守れる人間になりたいと思ったんだと思う。
 そうすると、それに合致するのは、テレビ(というかアニメ)のヒーローばかりになる。自然と男の子がメインターゲットなアニメを見ることが増えたんだと思う。

 多分人間が何かを好きになったり、嫌いになったり、トラウマがあったり、性癖があったりするのには、全部根源になる体験が存在するんだと思う。
 自分はずっと、生まれ持ったもののせいで辛い思いをするのが許せなかった。だからそういうものを取っ払ったプレーンな状態でありたいと願った。外見にコンプレックスがあったから、内面重視で人間を見るようになったんだと思う。例えば男性の肉体と女性の精神を持った人が男性(心身ともに)を好きになる場合、周りの子らは迷いなくゲイって言うんだが、自分は迷いなく異性愛者と答える。そういう違い。

 昔からずっと、所謂ジェンダーって神話みたいなものだと思ってた。なんだか昔から皆がそう信じているから誰もが信じている、でも実際はおとぎ話、そんな感じ。気付いちゃうと、そんなのは無いんじゃないか、と。
 多分それも母が関わってる。母も一般的な女性に比べれば余り女性であればこうあるべき、とか、こうでなければ、みたいなものを気にしない人で、その人「だけ」を見て、真似て育ったから、外見による差別への嫌悪が性別による差別への嫌悪に繋がったのと合わせて、あんまりそういうことを気にしなくなったんだと思う。
 例えばうちのじいさんが、赤い服を着てた叔父を「男の癖に」と言ったり、ネットなんかで「女性は化粧も服を着るのと同じようなもの」みたいな意見があったり、そういうのを見る(聞く)度にイライラしてた。そんなこと有り得ない、って。言葉遣いだったり、食べ物の好みだったり、服装だったり、なんでもいいんだけれど、そういうものが、生まれ持った性に縛られて制限されるのが我慢ならなかった。
 別に、本人が好きでかつ下品でなく、似合いさえすれば、誰が何着ようが、構わないと思う。

 ただ、これは前にここでも書いたかけっこに順位つけないのは個性の尊重でなく個性を殺すこと、という話と繋がるんだけれど、男性と女性で身体のつくりに違いがある以上は、得意不得意が男女で分かれることもあるのは事実。なので、そこは適材適所で、例えば重い荷物があって平均的な男性と女性がいるなら、男性が持つべきだと思う。

 恋愛についても意見は同様で、別に誰が誰を好きになろうが、性別を理由にそれを制限することはおかしい、と思っている。極論だけど、別に、皆が好きなひとを好きになって、それで人口が減って人類が滅びるっていうなら、それはそれでいいんじゃない?とも思う。

 何人かいる好きキャラが大好きな理由も今回、なんとなくわかった気がした。

 音楽やってる理由も。
 高校の頃だったかな。中学かな?ベートーヴェンの悲愴の2楽章を弾いてて、なんかこう脳内麻薬的なあれだと思うんだけど、ものすごい快感に襲われたことが2回だけある。それをまた体験したくて、音楽やってるんだった。と、思い出した。
 ただ音大に入るにあたって手段として声楽を始めたので、声楽ってものへの愛着とか最近まであんまりなくて、それで結構辛かったりもした。でも最近なんとなくわかってきて、なんとなくちょっと楽しくなってきて、やりたいことや、好きなものが見えてきて、声楽でもあれを味わえるかなあ、と夢見てみたり。
 演劇系の人に話聞いたとき似たようなこと言ってたし、芸術とか表現系って皆そうなのかなと思うんだけど、理性と感性の両方がせめぎあいつつ両方が究極に高まった時に、ああいう気持ち良さって生まれるのかなと思う。で、そういう演奏(表現)ってのは、お客さんにも届くのかなって。
 まあそれ差し引いても自分が音楽がないと死ぬ人間で、歌が大好きなのはわかってるので、やっぱ続けよう、続けるためにも頑張ろうと今日改めて思った。

 思えば、小さい頃・・・というか、中学くらいまでのことって、びっくりするくらい覚えていない。特に小学校辺りの、どうも精神的に辛かったと思われる時期の記憶が不自然なほど薄くて、これは辛くて記憶を封じちゃった感じなのかなーと感じる。でもそろそろいい歳でもあるし、いい加減受け止められるだろうし、受け止めて、整理して分析して、自分の人生を一本の連続したものとして体感してきちんと地面に立ちたい感じなので、そろそろ思い出したいなあ、とか。地元帰ったときに、思い出の地巡りでもしてみようかなあ。
 小さい頃、色々辛かったであろうと思われるんだ。だけど覚えていないってのは、なんかズルしとるみたいで気に食わん。辛かったことも全部希望の糧にしてこその自分かと思うし、その方がカッコイイ気がするので、向き合ってみたいなー。

 まあ何にせよ、色んな方面での「力」をつけて、誰かを守れる、カッコイイ人間になりたい。色々分析しても、やっぱりそこが揺らがないらしい。
 今までは基本的に一方的に守られるだけの関係性しか体験していないので想像がつかないんだけど、おそらく本当は、互いに互いのことを守れる、そういうのが人間同士の関係ってやつなんだろうと思うので、その辺を目指して、そういう関係になれる人を見つけたいなあ。
 自分のようななんかもう色々イレギュラーな人間性を受け入れてくれて、かつ自分のこと好きになってくれる人・・・そんなん見つかるかなあ。

人ってきっと

 人ってきっと、知らないうちに自分をたくさん縛っているなあ。
 それに気付いてぶっ壊せれば、生きるの結構楽になるみたい。
 ぶっ壊せてるのかどうか分からないけどね。

 ちょっとやる気出てきた、かも。
 自分が嫌悪しているもので、知らず知らずのうちに何より自分自身をがんじがらめに縛り付けていた気がする。
 きっとこれに気付いたところで、日常は何一つ変わらないんだけど、ちょっとでも楽になったらいいなあ。

 プロじゃなくても、アマチュアですらなくても、文章を書いて言いたいことはある。だからこのブログをやっているわけだけど、たまにはきちんと形にしてみようかなあ。文章の同人本って今、どれくらいで作れるんだろ。

 とりあえずバイトして自分でお金稼いでから考えるか。

やりたいこと、解ったかも

 考えながら書いてるから、まとまらなかったらごめんなさい。

 自分のやりたいことが、やっとわかったかもしれない。

 私は、金の髪と、灰色がかった青で、黒目の周りが黄色の濃淡のグラデーションっていう不思議な色の目を持って生まれてきた。ある時、空が好きだった私は、この色でいることが苦しかった私は、それは月と、夜明けの空の色だと思った。そして肌は白い。無垢で、まっすぐなものの色だと思った。
 昼と夜を同時にこの身に宿して生まれた、そう思った。だからこの身は、私は、橋、なんだと思った。悟った気がした。二つに分けられるものがある時、そのどっちでもあって、どっちでもなくて、どっちも知っていて、でもその境界線があるんだとしたら、それを跨ぐように立って、ふたつの橋渡しになる人間でありたいと思った。それが私の生まれてきた意味、使命だと思った。

 今から思えば、そうとでも思わなければやってられなかったんだろう。そのくらい辛かったんだろう。
 わかりやすい中二病。

 それでも、そうだとわかっても、その思いはどこかにずっとあって、長い間地味に持ち続けてるうちに、私の幹の一部になっていたんだろう。
 気がつけば、私はいろんな面で、多分そういう位置にいるか、そうあろうと心掛けているみたいだ。

 私はずっと、創作と表現に憧れていたし、憧れている。
 文章でも、絵でも、音楽でもいい。自分のオリジナリティとかパーソナリティとか、そういったものを表現して、それを人に見てもらうことを仕事にしたいと思ってた。思ってるかも。

 今夜、思った。「つなぐ」仕事がしたい。
 職業というものを考えるとき、就職を考えるとき、自分が何をしたいのか、その為にどんな職業を選ぶべきか、考えるべきだ。
 誰かと誰か、何かと何かを繋ぐ、そんな職業に就きたいと思った。

 そんな職業、なにかあるかな?

 私自身がなにかを作り出さなくてもいい。私自身が、素晴らしい成果を出すのじゃなくていい。私は誰かと何か、誰かと誰かを繋ぎたい。その結果として、いいもの、いい化学反応が起きたら嬉しい。

 だけど、こうも思った。誰もが、そういう仕事をしてるんじゃないか?
 どんな職業でも、何かと何かや、誰かと誰かを繋ぐ、繋げることなんじゃないだろうか。

 なら考えるべきは、次に思うべきは、探るべきは、何を繋ぎたいか。何を手段にしたいか。この二つ。
 前者はまだ、ぜんぜんわからない。結果としてどういうものが生まれて欲しいのかもよくわからない。
 でも後者はわかる。音楽。手段として歌うこと、を使いたい。
 歌は、何と何を繋ぐことができる?
 そこまで考えて詰まったから、これを書いてみてる。
 書いてるうちに頭の中が整理されて、新しい考えだとか、答えだとか、そういうものが見つかるのはよくあることだ。

 歌が繋げるものって何?
 たとえば時間。
 クラシック音楽は再現芸術がメインだから、大昔に作曲されたものを、時を越えてきたものを、現代に蘇らせることができるし、それがお仕事。過去と現在を、過去と現在の人と人を、昔いた作曲家と、今いる聴衆を繋ぐ橋渡しになることができる。
 たとえば場所。
 クラシック音楽はヨーロッパがメインだから、遠い異国の地で生まれたものを、海を越えてきたものを、この日本に咲かせることができる。言葉が違うけど、届くものは必ずある。それは結果として、外国の人と日本の人を繋げたりもする。
 たとえば、心?
 私のなかにあるものが、歌という橋を渡って聞いてくれる人の心に伝わっていく。それは多分もともとは作曲家のなかにあったもので、私はそれを頑張って考えて感じて少しでも多く取り出して、私という成分を加えて、聴いてくれる人に届けることができる。
 たとえば、感覚かも。
 楽譜は平面に書かれた線や点。視覚情報であるそれを実際の音にして、聴覚情報に変える。

 どれも多分、正解なんだけど、どれもなんだかぴったりしない。きっともっとこれだ、っていうふうに思える何かがなければ、私はクラシック音楽に対して本気になれないような気がする。

 私は何を繋ぎたい?
 それを見つけなくちゃいけない。
 それがよくわかった。
 何と何を、どんな人とどんな人を繋ぎたいのか、それがわかれば、やりたいことも自ずとわかるだろう。

 部屋のなかを見回して思った。世の中には、つなぐ役割ではないものもある。支える役割のものがある。つなぐことを支える役割のもの。だけどそのものも、場合によっては、つなぐものになる。2つの役割を同時にこなすものもある。

 簡単に答えとか、見つからないみたいだ。
 音楽以外も視野に入れつつ、やっぱり悩み続けるしかないんだけど、ひとつ前進はできた気がする。

 創作は、きっと結果でいい。
 私がなにかとなにかを繋げられたときに得られるもの、それを使って、結果として自然にあふれ出して、こぼれだしてくるものが創作だろう。それでいいや。それがいい。

 昔は、私自身が芸術になれたらいいなんて思っていた。
 私というちょっと特異な生き方が、私という人間が、それそのものとしてひとつの芸術であれたらと思った。

 私は自分の使命を、「橋」と自認している。

 最近ずっと思ってた。きっと2つのものがあるとして、私はどちらかに留まれないと。
 昔言われた。恩師に。自分の居場所を定めなければ、苦しいままだよ、と。
 でも最近思ってた。きっと一生定まらない。一生定めない。苦しいままで、生き辛いままで、私は生きていくんだろう。そんな風に感じてた。
 どっちかに寄り過ぎることなく、どっちかに定住することなく。できず。生きていくんだろうなと、感じる。
 どっちも知ってる。だけどそこの住人にならない。そんな居心地の悪いままで、いるんだろうと思った。
 それは或いは逃げかもしれない。何かからの。自分を規定し、自分の中にある可能性の大半を否定して消去することからの。夢見がちな子供の発想かもなあ。
 ただの欲張りなのかもしれない。
 でもだって、知ってしまったら、見てしまったら、感じてしまったら、知りたくならずにはいられない。私の本質は知的好奇心なのかもなあ。
 何かを繋ぐのも、そこから生まれる新しいものを見てみたいという好奇心なんだもの。

 そういえば、母親から、お前は一つの法則をミクロにもマクロにも適用しようとする、みたいなこと言われたことあったっけ。数学好きの、理系的な思考として、世の中には、どんな場面にもどんなことにも共通して適用可能な法則があると信じてるんだろう。そしてどんなことにも例外はあって、でもその例外が例外であることにも、きちんと理由があるんだって。きっとばりばり文系な母には、世界は小さなものの寄り集まりとして見えてて、ひとつひとつのものを全くの別物としてひとつひとつ観察していって、それを並べる感じに世界が見えてるんだろう。
 時々思うんだ。頭の回転が速い人、いわゆる脳みそのスペックのいい人ほど、世界がクリアに見えてるんだろうって。わからないことがより少なくて、いろんなことが見えてわかるんだろう、って予想する。頭の悪い奴ほどわかrないことが多くて、見えなくて、思考停止しがちなんだろうって。頭のいい人ほど何がわからないのかわかって、だから解決法も見つけられるんだろう。って思う。

 そういえば、何かを繋ぐ、ってなったときに、現代っ子っぽくコードだったり、或いは紐とかロープとかそういったものじゃなく、「橋」って思うのはなんでなんだろう。
 身近に川があって育ったとかいうわけではないんだけどなあ。
 手を繋ぐ、ってことなんだよね。私が誰かと誰かの手を繋ぐ。そうして私は手を離す。そして観察してる。
 橋になりたいのかな。橋を作る職人みたいなのになりたいのかな。設計者かなあ。全部かな。
 その橋を渡るのは別にたぶん私ではないんだな。
 橋を渡って、向こう側に行くひと、行ける人ができて、向こう側に移り住んじゃう人、行ったけど帰る、片側に定住の地がある人・・・それに、橋の上で出会う複数の人。その出会いが楽しくなって、話し込んじゃって橋の上に留まる人がいて、それが多くなっていったら橋は増築して幅が広くなって、気がついたらそれは端でもなんでもなくなってて、そうしたらそこは二つに分かれた土地じゃなく、真平なひとつの土地になるんだな、きっと。それは素敵なことだな。その最初の一歩になりたいんだ、きっと。

 橋って考え方は、私が世界を二元論で見てることの証左だなあ。まだグラデーションって見方ができてないのか、グラデーション部分の少なさを身をもって知っているからなのか・・・そういえば土手ってあるよね。狭いよね。

 久々に、本当に久々に、このブログで書きたいような、書きたかったような、このブログっぽい文章が書けた気がする。
 今気になっているものや、気に入りかけているもの。銀の匙と、鬼灯の冷徹と、VALSHEさんと、sekai no owariと、KERAと、マクニール著の世界史。
 人って人を写す鏡だなあ。自分を知りたければ、自分をつくりたければ、自分以外の人とたくさん関わらないとだめ。
 そういえば久々にARIAを見た。やっとあれを見られるくらい心が回復したっぽい。あれが直視できなくなったら、私は終わりだなあ、と常々思う。灯里ちゃん、小学校の頃なりたかった理想像そのまんまなんだもの。どこらへんから、不幸自慢野郎になってっちゃったのかなあ・・・
 ファッション誌だったりポピュラー音楽だったり実写ドラマだったり、ちっとは普通っぽい世事に興味を持ち始めたのは健康的?
 やっぱ夜行性だなあ自分と長期休暇が来るたび思う。夜のが元気。私の体を嫌ってる太陽さんに遠慮しなくて済むからなあ。太陽さんってでっけえ存在だな。
 ARIAと絶望先生って、方向性は真逆だけどやってること同じだと思うんだよね。
 あと最近は上手な雰囲気漫画が多くていいなあと思う。ストーリーものもいいし、人間は依然として今も昔もドラマ性の虜だし、結局のところ人間が一番興味を持っているのは人間なんだけども、鬼灯の冷徹だったり銀魂だったり苺ましまろだったり、ああいう短い話を積み重ねてひとつの世界や世界観や雰囲気や空気や、そういうものを表現していく小品集或いは連作歌曲或いはシリーズものの雑貨みたいな漫画、いいと思う。バトルやファンタジーのストーリー漫画や人間ドラマものが交響曲とかオペラだとしたら、ああいうのが小品集や連作歌曲集にあたると思うんだけど、いいと思う。因みに世界史だったり伝記だったりの勉強漫画みたいのは音楽でいうとハノンとかブルグミュラーとかバイエルとかエチュードにあたると思う。ギャグ漫画の質のいいのはやたら数のあるタイプの作曲家の歌曲(の中でもエンターテイメント系のやつ)とか舞曲とかにあたるかな。
 あとアニメって、なんかラノベ原作より漫画原作のがいいの、面白いのが多い気がする。漫画は元々静止画とはいえ絵があるから、アニメとの親和性が高いのかなあ・・・それとも、絵にしなきゃいけない関係上、その分必然的に作りこみがしっかりするのかな?

「本棚」の意義

 昨今私は、自分の本棚の存在意義について若干の疑問を持つようになっていた。
 三年弱前から私は一人暮らしをしている。大学に上がるにあたって上京してきた。その時、実家(この言葉を自分が実感を持って使う日が来るというのは、4年前には想像だにしていなかった・・・)の自分の部屋の本棚と、家族共用の本棚(こっちは親の許可を得て)から選んだ本を持ってきた。
 漫画が2/3位、後は小説やら、神話やら、かなり雑多。その中に「バカの壁」もあった。選んだ基準は、自分の身近に置いておいて、読みたいと思った時すぐ手に取って読む、ということをしたいと思うかどうか。
 でも、大学に入ってみたら予想外に忙しくて、時間はあれども、読書にまわす気力、精神的体力、のようなものが足りなくて、殆ど読めずにいた。結果、地元から持ってきた本のうち、ここ三年弱で開いて読んだものは恐らく1/4に及ぶかどうか。こんな状況じゃあ、持ってきた意味が無いんじゃないか、割と大きい本棚を買ってもらったけれど、その意味が無かったんじゃないか、と思うようになっていた。
 でも、そうでもなかった、と今日思った。

 何が切欠だったのか、2,3時間前のことであったにも関わらず思い出せないのだけれど、本棚に並んでいた「バカの壁」を手にとって、うっかり一冊読み終わってしまった。まあそんなに(内容の厚さ・偉大さに反して)文章量のかなり少ない(=密度がものすごいってことなんだろう)本なのでかかった時間はさほどでもないが。
 確かこの本は、こちらに来て一度も開いていなかったグループ。最後に読んだのは多分5年前くらい。その頃は、なんだかすごい本だということはわかったし、私はこの本をいずれ全て読まなければいけないという使命感に駆られながらも、内容が濃すぎて、受け止めるのが大変で、半分も読めずに栞が挟んであった。そういう実感があったからこそ、今の今まで読まなかったにも関わらず、今の今まで私の本棚に居たんだろう。
 この本の感想は省くけれど、読んで良かったと、本当に思った。少なくとも前に読んだ当時よりは、理解できたと思う。或いは読む際の真剣度のようなものは当時よりは多分低かったけれど、それでも読破できたことのほうが価値が大きいように思うし、受け取れたものは当時より大きいと思う。
 正直、当時この本をチョイスして持ってきて、本棚に置いていた過去の自分グッジョブ、と激しく思った。置いておくだけでも意味はある。読みたいと思うものや読まなきゃなーと思うものを本棚に並べておく、なんとなく日々視界に入れる、そうしてこういうぽっかり空いた時間や、なにかのきっかけや気まぐれで手に取って読む。それが数年越しでも、この先の人生、十年越しなんてことも起こるかもしれない。それでも、それを許すスペースがあるなら、読みたい本は持っておくべき。
 それは一度読んだ本も同じ。読む側の自分が変わり続ける以上、時間を置いて読めばそれは全く違う本になる。違う体験になる。
 私には、少なからずヘビーローテーションしてしまう作品というのが、音楽であれ、ドラマやアニメであれ、本であれ存在する。その頻度はそれぞれだいぶ違っていて、毎日というものから週一位、月一くらい、年一くらい、中には三年に一度くらいなんてものもある。しかもその周期も日々変わる。それでも繰り返すってことは、自分に必要なんだろう、と思うことにする。
 以前は、同じものを繰り返すよりも、常に新しいものを取り入れることが絶対必要なんじゃないか、同じものを繰り返すのは、それが安全だと解っているが故の臆病さなんじゃないかと思っていたし、今もそういう思いはあるんだけれど、それでも、繰り返すことを肯定できた気がする。繰り返すのなら、それは求めているからなんだろう。
 それに、繰り返していれば飽きることもある。それが新しいものへの億劫さや恐怖を上回ったとき、好奇心に変わって、新しいものに触れるモチベーションになる。繰り返すことも、久しく見なくなっても持ち続けることも、飽きることも、全て恐れないようにしようと思った。

 そうやって、何度も繰り返せるもの、時間を置いて見ると違う見方のできる、新しい発見が大きいものというのは、名作なんじゃないかと思う。
 ジブリ映画なんか、そういうものの代表格かな、と思ってみたりする。確かに子供向けっぽい体裁ではあるし、子供が見ても十分に楽しめるんだけども、それと同時に大人も十分に楽しめる。これは、違う世代が同時に見て楽しめるということであると同時に、一人の人間が時間を置いて複数回楽しめるということでもある。こういう作品にこそ、価値があるんじゃないかと思う。
 昨今では、アニメ界で、(上記は年齢に関してだけど)性別に関してこれと同様の現象を起こそうという動きが顕著だと思う。男女どちらでも楽しめる作品、どちらかをメインターゲットに据えてはいるけれど、同時に他方も取り込もうとする作品。中には、年代と性別のハイブリッドなんて例もある。プリキュアとかイナズマとかライダーとか。こういう風潮は、名作が生まれそうな気がして嬉しいし、実際生まれているんだろう。

 結局人生だったり経済だったり、色々な広いフィールドで見てみても、バランスが大切という話になるんじゃないかと思う。
 昔はきっと、バランスは勝手に取れるものだったんだろう。その結果として、様々な不平等や、不条理や、悲劇なんかも起こっただろうけれど。
 現代においては、バランスは取れるものじゃなく取るものになったんじゃないかと思う。それは人間の傲慢かもしれないけれど、色々なlこと、バランスを形作っている物事や、どの辺りが「バランスが取れている」と言えるのか等々、色々な事が解ってきて、解ってしまったものだから自然にバランスが取れる、というのに任せることはなんだかできなくなってしまって、結局、自分たちでバランスを取ろうとするしかない。きっと個人の範疇でも同じで、現代の都会人は(地方の方が車でドアトゥドアだから運動量が少ないってデータもあるようなので地方でも)意図して運動しなけりゃ運動不足になってしまうし、野菜ジュースは飲まないよりは飲んだほうが体にいいんだろう。なんだか、そうやってバランスを取ろうとした結果、別のところにアンバランスが生じてしまって・・・というループも起きてしまうけど。これは薬の話なんかとも共通するところだけれど。身内にそれで大変な思いしてる人がいるのでなんとなく解るんだけども。
 ただ、どんなにコントローラブルな領域が増えても、やっぱり耳を澄ますことはやめてはいけないし、大切な資料なんだろうといつも思う。最近見たアニメ・小説なんかでたまたま同時期に3つくらい、世界の均衡を保とうとする人ならざる力の恩恵を受けて強さを振るう、ってキャラを見たせいもあるけど、世界も、人も、常に均衡を求めて、声ならざる声を出していると思う。それに耳を澄ますことを、忘れてはいけないと。
 よく、欲望のままに食べてしまって太るだとかそういう話を聞くけど、それはバランスが崩れてしまっているからだよね。私の場合、なんだかぎりぎりその辺はバランスが取れているのか、それとも食への欲求が標準より少ないせいなのか、自分の体の求めるものが、なんとなく解るときが多い。炭水化物系が足りてないなー、とか、純粋に量、ガッツのつくもんが欲しいのか、とか、糖分をあとちょっと摂った方が動きやすいっぽいなあ、とか、時には、今ちょっとだけお酒飲んだほうが色々うまくいきそう、とか。で、そういうのが暴走して悪い結果になったことって、実は殆どない。他の人がどうなのかは、よく知らない。当たり前に皆そうなんだったら、ごめんなさい。
 まあ本当は、体がそんなサインを明確に出す前に気付くのが一番体には良いのだろうとは思うけどね。でも体がそういうサインを出せるうちって、まだぎりぎり不健康ではないから。健康、良好の範囲内っぽいので、多分大丈夫かな。
 しっかり知って考えて予測することと、きちんと耳を澄ますこと、それを信じること、この両方を上手に併用するのがベストかなーと思う。それもまた、バランスが大切、かな?

「いつ」の為に働くか、ということ。

 正反対に見えるものが、実は同一のものだったり、或いは表裏一体のものだったりというのは、私が常々思っていることではあるんだが。

 色々なことの為に働く人がいる。色々な人の為に働く人がいる。
 未来の為に働くひと、過去の為に働くひと、現在の為に働くひと。
 そして、自分より若い世代の為に働くひと、自分より上の世代の為に働くひと、同世代の為に働くひと。
 例えば、自分より若い世代の為に働く・・・つまり、今若い人たちが自分と同い年になる頃、或いはその先の為に働く、というのは、未来の為に働いているように見える。
 例えば、自分より上の世代の為に働くと、自分より上の世代に触れる機会が多くなる。それは間接的に、自分の未来を垣間見る、或いは予測することも多くなるだろう。
 そう考えると、もしかしたら、自分より上の世代の為に働くということは、未来、の為に働く、ということ、と、言えなくは無いのかもしれない。過去の為に働くということは、実は若い世代の為に働くということなのかも。

 そんなことを思った一日だった。
プロフィール
HN:フジサキ

1991年生まれ 声楽家目指して勉強している人でアルビノ当事者


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