昨今私は、自分の本棚の存在意義について若干の疑問を持つようになっていた。
 三年弱前から私は一人暮らしをしている。大学に上がるにあたって上京してきた。その時、実家(この言葉を自分が実感を持って使う日が来るというのは、4年前には想像だにしていなかった・・・)の自分の部屋の本棚と、家族共用の本棚(こっちは親の許可を得て)から選んだ本を持ってきた。
 漫画が2/3位、後は小説やら、神話やら、かなり雑多。その中に「バカの壁」もあった。選んだ基準は、自分の身近に置いておいて、読みたいと思った時すぐ手に取って読む、ということをしたいと思うかどうか。
 でも、大学に入ってみたら予想外に忙しくて、時間はあれども、読書にまわす気力、精神的体力、のようなものが足りなくて、殆ど読めずにいた。結果、地元から持ってきた本のうち、ここ三年弱で開いて読んだものは恐らく1/4に及ぶかどうか。こんな状況じゃあ、持ってきた意味が無いんじゃないか、割と大きい本棚を買ってもらったけれど、その意味が無かったんじゃないか、と思うようになっていた。
 でも、そうでもなかった、と今日思った。

 何が切欠だったのか、2,3時間前のことであったにも関わらず思い出せないのだけれど、本棚に並んでいた「バカの壁」を手にとって、うっかり一冊読み終わってしまった。まあそんなに(内容の厚さ・偉大さに反して)文章量のかなり少ない(=密度がものすごいってことなんだろう)本なのでかかった時間はさほどでもないが。
 確かこの本は、こちらに来て一度も開いていなかったグループ。最後に読んだのは多分5年前くらい。その頃は、なんだかすごい本だということはわかったし、私はこの本をいずれ全て読まなければいけないという使命感に駆られながらも、内容が濃すぎて、受け止めるのが大変で、半分も読めずに栞が挟んであった。そういう実感があったからこそ、今の今まで読まなかったにも関わらず、今の今まで私の本棚に居たんだろう。
 この本の感想は省くけれど、読んで良かったと、本当に思った。少なくとも前に読んだ当時よりは、理解できたと思う。或いは読む際の真剣度のようなものは当時よりは多分低かったけれど、それでも読破できたことのほうが価値が大きいように思うし、受け取れたものは当時より大きいと思う。
 正直、当時この本をチョイスして持ってきて、本棚に置いていた過去の自分グッジョブ、と激しく思った。置いておくだけでも意味はある。読みたいと思うものや読まなきゃなーと思うものを本棚に並べておく、なんとなく日々視界に入れる、そうしてこういうぽっかり空いた時間や、なにかのきっかけや気まぐれで手に取って読む。それが数年越しでも、この先の人生、十年越しなんてことも起こるかもしれない。それでも、それを許すスペースがあるなら、読みたい本は持っておくべき。
 それは一度読んだ本も同じ。読む側の自分が変わり続ける以上、時間を置いて読めばそれは全く違う本になる。違う体験になる。
 私には、少なからずヘビーローテーションしてしまう作品というのが、音楽であれ、ドラマやアニメであれ、本であれ存在する。その頻度はそれぞれだいぶ違っていて、毎日というものから週一位、月一くらい、年一くらい、中には三年に一度くらいなんてものもある。しかもその周期も日々変わる。それでも繰り返すってことは、自分に必要なんだろう、と思うことにする。
 以前は、同じものを繰り返すよりも、常に新しいものを取り入れることが絶対必要なんじゃないか、同じものを繰り返すのは、それが安全だと解っているが故の臆病さなんじゃないかと思っていたし、今もそういう思いはあるんだけれど、それでも、繰り返すことを肯定できた気がする。繰り返すのなら、それは求めているからなんだろう。
 それに、繰り返していれば飽きることもある。それが新しいものへの億劫さや恐怖を上回ったとき、好奇心に変わって、新しいものに触れるモチベーションになる。繰り返すことも、久しく見なくなっても持ち続けることも、飽きることも、全て恐れないようにしようと思った。

 そうやって、何度も繰り返せるもの、時間を置いて見ると違う見方のできる、新しい発見が大きいものというのは、名作なんじゃないかと思う。
 ジブリ映画なんか、そういうものの代表格かな、と思ってみたりする。確かに子供向けっぽい体裁ではあるし、子供が見ても十分に楽しめるんだけども、それと同時に大人も十分に楽しめる。これは、違う世代が同時に見て楽しめるということであると同時に、一人の人間が時間を置いて複数回楽しめるということでもある。こういう作品にこそ、価値があるんじゃないかと思う。
 昨今では、アニメ界で、(上記は年齢に関してだけど)性別に関してこれと同様の現象を起こそうという動きが顕著だと思う。男女どちらでも楽しめる作品、どちらかをメインターゲットに据えてはいるけれど、同時に他方も取り込もうとする作品。中には、年代と性別のハイブリッドなんて例もある。プリキュアとかイナズマとかライダーとか。こういう風潮は、名作が生まれそうな気がして嬉しいし、実際生まれているんだろう。

 結局人生だったり経済だったり、色々な広いフィールドで見てみても、バランスが大切という話になるんじゃないかと思う。
 昔はきっと、バランスは勝手に取れるものだったんだろう。その結果として、様々な不平等や、不条理や、悲劇なんかも起こっただろうけれど。
 現代においては、バランスは取れるものじゃなく取るものになったんじゃないかと思う。それは人間の傲慢かもしれないけれど、色々なlこと、バランスを形作っている物事や、どの辺りが「バランスが取れている」と言えるのか等々、色々な事が解ってきて、解ってしまったものだから自然にバランスが取れる、というのに任せることはなんだかできなくなってしまって、結局、自分たちでバランスを取ろうとするしかない。きっと個人の範疇でも同じで、現代の都会人は(地方の方が車でドアトゥドアだから運動量が少ないってデータもあるようなので地方でも)意図して運動しなけりゃ運動不足になってしまうし、野菜ジュースは飲まないよりは飲んだほうが体にいいんだろう。なんだか、そうやってバランスを取ろうとした結果、別のところにアンバランスが生じてしまって・・・というループも起きてしまうけど。これは薬の話なんかとも共通するところだけれど。身内にそれで大変な思いしてる人がいるのでなんとなく解るんだけども。
 ただ、どんなにコントローラブルな領域が増えても、やっぱり耳を澄ますことはやめてはいけないし、大切な資料なんだろうといつも思う。最近見たアニメ・小説なんかでたまたま同時期に3つくらい、世界の均衡を保とうとする人ならざる力の恩恵を受けて強さを振るう、ってキャラを見たせいもあるけど、世界も、人も、常に均衡を求めて、声ならざる声を出していると思う。それに耳を澄ますことを、忘れてはいけないと。
 よく、欲望のままに食べてしまって太るだとかそういう話を聞くけど、それはバランスが崩れてしまっているからだよね。私の場合、なんだかぎりぎりその辺はバランスが取れているのか、それとも食への欲求が標準より少ないせいなのか、自分の体の求めるものが、なんとなく解るときが多い。炭水化物系が足りてないなー、とか、純粋に量、ガッツのつくもんが欲しいのか、とか、糖分をあとちょっと摂った方が動きやすいっぽいなあ、とか、時には、今ちょっとだけお酒飲んだほうが色々うまくいきそう、とか。で、そういうのが暴走して悪い結果になったことって、実は殆どない。他の人がどうなのかは、よく知らない。当たり前に皆そうなんだったら、ごめんなさい。
 まあ本当は、体がそんなサインを明確に出す前に気付くのが一番体には良いのだろうとは思うけどね。でも体がそういうサインを出せるうちって、まだぎりぎり不健康ではないから。健康、良好の範囲内っぽいので、多分大丈夫かな。
 しっかり知って考えて予測することと、きちんと耳を澄ますこと、それを信じること、この両方を上手に併用するのがベストかなーと思う。それもまた、バランスが大切、かな?