読んで下さってる方、どう思います?

 私は、時代劇(に限らずだけど)見てて、その世界の中での男尊女卑っぷりと、登場人物がそれを疑問に思ってなさそうなことにイラッとしてしまう。
 これは、アリか?ナシか?
 多分どっちが正しいかというよりは自分はどっちを正しいと思うか、という話なのだけど。

 前にこれを人に話したら、「当時はそういう時代背景なんだから、そういうものとして見ないと」的な内容のことを言われたことがある。それもまあ、納得はできる。当時の人のものの見方、考え方を想定して感情移入して見ないと、ドラマを享受できない。
 他国の歴史ものを見ても自国のそれほど潤滑には理解できないのはこの辺り。古い時代のものとはいえ、現代に受け継がれてる要素もある自国の価値観だからなんとなく理解しやすい、というのはあると思う。

 価値観の相違、という言葉で表せば、これは戦争が起きる理由と同じ問題になってくる。ような気もする。
 或いは、身近な人間関係の中で起こるトラブルの原因も。
 時代劇を見るのと違うところは、自分に現実の利害が生じてくるか否かというところ。
 ドラマはこっちが一方的に鑑賞する側だからね。相手に何を言えるわけでもない代わり、自分にもなんの利害もない。

 つまりこれは、異なる価値観を受け容れられない狭量さなのか。
 現代っ子にありがちと言われる、共感力(相手の状況や心情や価値観を慮る力)の欠如なのか。

 正直こういう理由で、世の多くの人が楽しめているものを楽しめないのはただただ勿体ないとしか思わない、という側面も自分の中にある。

 一方で、自分の正義観、価値観を信じている側面もある。

 時代劇で描かれるような時代に、どうして男女の服装も、役割も、言葉づかいも、髪型も、ああもはっきりと分かれていたか、というのは、多分「心」よりも「体」に重きを置く文化で、かつそうでなければ人が滅びかねない時代だったからだと思う。
 時代が新しくなるにつれて、人間全体(日本だけじゃなくて世界的に)で、体:心の比重が、圧倒的に体に傾いていたものから、少しずつ心の方へ移動していく、比重が変わっていく流れがあると思う。現代で、それがどういう比重になってるのか、どっちが重くなってるのかは私にはまだ解らないんだけれど。
 昔は、男女だけでなく、背丈、病気や障害の有無なんかの、体の要素が心を規定する世界だったと思う。現代に於いては、心に従って体を規定するということも、要素によっては可能になってきている。そして本能から理性、肉体から精神へ、ウェイトが少しずつ移動していっていると感じる。
 だからか、最近は例えば武士の中でも、戦う以外の役割を持ってた人たちのことが小説や映画になることも増えてきた気がする。(武士の家計簿とか、包丁侍?だっけ、あれとか)
 技術が色々と進歩して、世界的な人口も増えて、だから男女観だって変わってきている。多様性が、多少なりとも容認されるようになってきている。

 とかく私が、持って生まれたもの、選べなかったものの為に苦しんで、精神面を重視して人を見る、何かを考える性質を育ててきたからこそ、なおのことこの辺りが気になってしまうのだと思うけれど。
 体が心を規定する部分もあるのをここ数年はきちんと自覚しているし、もう少し体の面にも目を向けないといけないとは思っているけれど。

 多分ね、カテゴライズやブランド化が気に食わないところもあると思う。
 これによって差別されて、苦しんだ経験は割とある。
 ただ自分もカテゴライズに、ブランドに頼っている面も確かにある。日本人なのに見た目で、日本人から日本人と思ってもらえないのが辛い、というのは良い例。
 ある意味合理的だし素敵なシステムで、日本人の美徳であると私が考えるところの「謙虚さ」と「信頼の重視」の反映だと思うんだよね。ブランドに振り回されやすい国民性って。
 情報化社会で、多様化がものすごくて、摂取「しようと思えばできる」知識量、技術量が飛躍的に上がってるこの現代に於いて、昔以上に、自分の身の回り、生活にかかわることだけでも、全てのことを知ることも、全ての専門家になることもできない。だから、信頼できると思う人(専門家)が「信頼できる」と言った、発信した、保証したものを信用する。これは選択肢が多すぎる上に参考情報も多すぎて何かを「選ぶ」ということがとても難しい、大変な時代に、有効な手段だとは思う。
 これがマイナス方向に作用すると、人種とか、国とか、男女とか、性指向とか、障害とか、そういうものに関する差別になるわけだけど。
 つまりは自分の「目」(見る目がある、ない、とかの場合の「目」)をきちんと育てて、他の人の言うことに引きずられすぎず、きちんと自分で判断して好き嫌いを言える人間になればいいよね、って話なんだけど。
 そこに自信がないからこそ、私自身もブランドに、カテゴライズに縛られるんだろう。
 と同時に、自分がそういう人間になれたところで、世の中そういう人間ばかりじゃないし、そういう人間の有り様を良いと思う人ばかりじゃないということを痛いほど分かっているから。
 結局ここでも、「普通」じゃなくなるのが怖い、っていうのと、他人との価値観の相違、という問題になってくるんだけれど。

 自分と価値観、考え方が違う人と触れるとき、なにが正解なんだろう、って思う。
 自分はこう思ってますよ、ってことを、「提示」することはOKだし、大事。これは多分間違いじゃないと思う。
 そして、相手がどう見ているのか、考えているのかを知ろうとすること、知ること。そしてそれをもとに、この人はこう考えるかな?と想定すること、予想すること、これは人と関わることを円滑にする上で必要なスキル、だし道徳、だよね。
 つまりはその「行為(想定)」と、「相手の見方考え方についての自分の感想としての好悪」を、公私を分けるが如く分けるべきなのか。
 そして自分と相手とに現実的な(好悪という意味ではなく)利害が発生し得る場合には、まずは話し合いましょうよ、というスタンスでいく。これは大事なことだと思う。その為のスキルも必要だと思う。
 逆に言えば、互いに利害(あんまりにも不快すぎて精神的にめっちゃ辛い、とかも含め?)が生じない内は、相手の見方考え方に対しての自分の好悪を、いかなる形であっても示さないべきなのか。(感想を相手が求めるのならまだしも)

 ただ、個人的に、この原則(相手に自分の考えを押し付けない)を唯一崩し得る、崩していいかな〜と感じるのが、「家族(及び家族級にメッチャ仲良い友人)」と、あとは教育の場(教える側から教わる側への向きに限る)ね。家族は、それで多少の諍い(言い争い)が生じても壊れない心の繋がり、だと思っているし(度を越しては駄目だし個を尊重することも大切だけれど)、教育に関しては、押し付けなしには成立しないと思うし。

 いつもは何がしか結論が出たらブログに書いているけれど、今回は疑問を書いてみる。