***
累計: 検索エンジン登録
本日: SEO対策
昨日: メール配信

アクセスアップ
訪問者数

    思考・宗教

    2009年05月30日09:56宗教と人類、自他が尊重し合える相互世界とは?
    PermalinkComments(0)

    どこかの古典的な宗教、新興宗教などの経典で、「罪を犯したものも、改心すれば救われる(成仏)できる」というものがある。私が以前所属していた新興宗教の教えがそうだった。また、古典的な宗教であれ、「罪を償え(悔い改めれ)ば、寛容の法則で救われる」という法則を唱えているものもある。本当に罪を犯して、それがすべてゼロになるのなら、人は容易く罪を犯し続けるだろう。現在の世界情勢や、一部の国や地域で行われている紛争なども、ほとんどが宗教や部族間の価値観の違いから、永遠に繰り返される残虐な行為が続いている。それを救う人がいても、それを壊す人がいる。「罪を償えばすべてはまた救われてなかったものになる」、また「聖戦と証した、経典の誤った解釈による考え方」などが、ずっと終わりのない悲しみを生んでいるのだろう。

     

    誰かが生産しても、誰かが消滅させて、誰かが構築しても、誰かが破壊していく。この繰り返しで現在の世界は成り立っている。宗教や人類、核保有や戦争、国特にとのあり方などを、今一度、問い直すときがきているのかもしれない。しかし「人間のエゴ」というものがなくならない限り、この問題は永久に続くだろう。どうして人間は他人を変えることができないのに、無理やりでも自分の考え方に染めようとするのか。支配して、自分の思い通りにさせようとするのか。その他大勢の中に引き込み、自由を奪うような画一的な世界を作り出すのだろうか。いくら考えても、途方もない大きなものへの軋轢を感じ、何もできずにいる自分がもどかしい。聳え立つ壁の前で、身動きが取れない状態のまま、出口を探し続けている。

     

    しかし、私の人生は私が決めることであり、私の心までは奪われたくないと感じる。何かに拘束されても、心の中だけは、自分の世界を保っていたいものである。自分らしさが多少なりとも心にあれば、どんな状況下であっても、自分らしく生きていけるだろう。自分らしさや、自分を愛する気持ちがあれば、他人を愛する気持ちも湧いてくるだろう。自他共に愛し、理解しあえる境地になるためには、どれくらい学び、どれくらい成長すればよいのだろうか。よくわからない成長度合いに関して、いつも満足を感じていないから、私は常に学んでいる。それでもまだまだ未熟な面は否めない。だからこれからも、いろいろな分野について学んでいくのだろう。

     

    世界で起こっている悲しい出来事を、どれだけ助けることができるかという、人類が永遠のテーマとするもの。救済や癒しというものは、食料や生活の安定もあるが、「心の安定」も必要としている。まずは心を癒してあげないと、またもとの木阿弥に戻ってしまう。しかし、幼少期から刷り込まれた価値観を変えることは、かなり至難の業である。だが、誰かが間違いを正していかなければ、いつまでたってもこの物語は平行線を辿る。平行線を辿る道を選ぶか、一歩踏み出して介入する勇気を持つかは、その人自身にかかっている。本当に誰かを救いたいのなら、相手を心の底から理解し、心のつながりを持ってからでないと、何も伝わらないだろう。だから多くの活動家たちは、心のつながりを最優先し、与えるだけ、渡すだけの一方的な心の交流だけにとどまらないようにしている。相手をどこまで理解できるかが、この諸問題への解決を模索する近道であり、唯一の方法なのかも知れない。

     

    普段の生活でも、本当に心から打ち解けたい、自分が理解されたいと思うなら、相手をまず心の底から理解することから始める。それがとても許せないものでも、価値観の相違があったとしても、「まずは受け入れる」ことから始めたい。なぜなら多くの人は、「誰かから必要とされること」、「誰かと心から分かち合うこと」を欲しているからだ。深い心の交流を持てたときに、初めて真のつながりを持てる。本当に相手を理解して、自分も理解されるには、長い月日をかけてさえも、相手を根底から理解するしか方法はないのだろう。良好な相互関係ができてから、その先に真の援助や支援、癒しや助けというものが待っている。

     

    すべての人と笑顔のつながりを持ちたいのなら、自らが笑顔となる。誰かを助けたいのなら、自らが手本となる人間となる。それが誰かを救い、援助や支援をする根本的な考え方だろう。不動の自分、不動の魂、不動の信念や勇気を持てたとき、きっと相手にはインスピレーションで伝わるだろう。体の内側から発せられるものは、外見や肩書きに勝るものがある。それは人間はすべては同じ生物であり、優劣をつけるような存在ではないということだ。また外面より内面を重視すべきであり、取り繕われた外面にはない輝きが、内面には備わっている。目を凝らして耳を済ませないとわからないものが、人間の本質であり真実である。

     

    日頃の生活で、何を重視し、何を要に生きていくかは自分が決めること。自分の人生を生きるためにも、他人の人生も尊重するような生き方ができるように努力したいものである。何が正しくて何が間違っているかも曖昧なこの世界で、揺るぎない価値観を持つのはとても難しい。しかしどんなときにも、自分と他人、人類、世界、生きとし生けるものへの感謝と、同じ生物として尊重できる関係性を持てれば、容易く諍いや争いごと、悲しい出来事は起こらないだろう。



    2009年04月13日06:33異質な関係を認めながらも”拒絶”をしてしまう意味
    PermalinkComments(2)

    アクは必ず露呈する。
    お天道様は見ている。
    大いなる宇宙とのつながりを持ったものが、
    必ずや真実を導き出す。

    騙されることなかれ。
    自分の信念を貫き通したまえ。
    あなたの孤高が、いつか報われるときが来る。

    そのときまで、私と大いなるもの、
    生きとし生けるもの、
    人間真理を知る世界の偉大なる人たちとともに
    今日という日をかけがえのないものにしよう。

    彼らは、二つの仮面をかぶったものである。
    その手に落ちれば、這い上がることは難しい。

    自らと心のつながりを持ったものを信じよ。
    自らが見本となり、世界を導きたまえ。

    ゆるぎない信念を持ったものこそ、
    人間らしい人間である。

    今こそ立ち上がれ。
    真実に向かって歩みたまえ。

    大いなるものとつながるとき、
    あなたは、今まで感じたことのない、
    パワーと生きている感覚、
    心からの歓びと幸福を感じるだろう。


    --------------------------




    世界で宗教の価値観の違い、人種の違い、その他の原因で紛争や諍い、人を傷つけあう行為が続いている。そしてその行為を鎮めるべく、日本や世界各地の志し高き人たちが、紛争地域や貧困、環境破壊への改善や修復、問題の解決を試みている。しかし良く考えてみると、「その根本的な原因は一体どこにあるのか?」という疑問が沸く。誰かが誰かを受け入れられない、何かが何かを拒む。それにより摩擦が起こり、争い後と移行していく。争いや諸問題が起こる原因は、結局は同じ人間同士が、自分のことのように、相手を受け入れることができず、その人の個性を尊重できないから起こっていることが挙げられる。「自分だけが正しい」、「自分の信じる宗教が絶対である」、「自分のことのように相手を受け入れられない」、「自国が正しい」、「自分の人種が一番尊い」など・・・。とにかく自分と自国、自分が信じる宗教だけに固執している人が多いと感じる。

     

    私が所属していたS学会。私はどうしてもその宗教だけは受け入れ難い面がある。前職で知り合い、仲が良いと思っていた男性に、「アンケートに答えてほしい」と頼まれた。「私は宗教絡みの質問やアンケート、政治関係の協力はお断り」とはっきり言った。彼はその宗教を信じて活動しているけれど、私は以前、散々この宗教で傷つき、孤立無援の中でも、自分なりの答えを探して、納得して退会することができた。私は、「どんな宗教も尊重して受け入れたい」と思っている。しかしどうしても、以前所属していた宗教だけには、“嫌悪感”を感じることは否めない。私も心を持った人間であるから、傷ついたことや人間らしく扱われない現状、よくわからないことをされ続けたことによる憤りが、払拭できないときがある。

     

    「(敵対する出版会社・各個人などに)仏罰を!」と祈らされ、その宗教のトップとされる人の、内容がなくつまらないスピーチを聞かされた。そして、選挙活動に積極的に参加し、見ず知らずの人に選挙をお願いする。お布施を払う。お金がないにもかかわらず、新聞や各種雑誌や書籍を定期的に購入する。どれも内容がなくつまらないものであり、一般論からかけ離れた自己陶酔型のもであった。座談会なるものや、いろいろな会合に出席するなど・・・。すべて何の生産性もないことであり、自分を高められるような内容のものでもなかった。だから私は、徐々にこの宗教に猜疑心を持つようになった。この宗教に入っている友人が、「祈ればどんなことも叶う」と言っていた。この宗教に嫌悪感を持っていた両親に、「祈ってすべてが叶うなら、働かないで一日中祈っていろ。でも俺の知る人は、働かずに祈って、結局は死んでしまったけれどな」と言われて続けていた。「働かないで祈って収入になったり、自分が幸福になれるのなら良いが、今のあなたは幸福には見えない」とも言われたりもした。

     

    昨日、“誕生日の飲み会”のことについて、参加の有無を確認したときに、なぜか彼は、「もう私から連絡はしません」と言ってきた。この飲み会の計画が出る前には、散々、「特に用事はないけれど・・・」とウザイくらいに連絡してきた。留守電にメッセージを残したり、メールを送れば済むことを、わざわざ一度に何回も電話をかけてくる。正直それだけでウザイと感じていた。着信が何件も溜まっていっても、「どうして私があなたの電話にすぐ出て話をしないといけないのだろうか?」と思った。

     

    その行為が何回も続いていたので、「何か急用ですか?今体調が悪いので、急用ならメールでお願いします」と頼んだ。そして当然のことながら、言動に嫌悪感を感じていたので、アンケートというものにも答えなかったし、かなり冷たいような受け答えもした。「宗教がらみなら、はっきりいって電話に出て話をしたくないし、あなたは私と話がかみ合わない」と思っていた。今回の件の前も後も、何度も電話があったけれど、留守電もメール送らずに、ただひたすらに着信をされる状況に嫌気が差した。だからずっと無視をし続けていたら、「もう連絡はしません」と言われた。

     

    「私たちの心のつながりや関係は、そんなものだったのだろう・・・」と思い、彼から距離を置くことにした。以前の女性もそうだけれど、自分の都合が良いときだけ、そして何も用事がないときにも連絡してくる。私が忙しかったり、気分や体調の良し悪しで、すぐに電話に出なかったり、メール返信をしないと、彼らは不機嫌になり、“逆ギレ”をしてくる・・・。「私は一体何なのだろう」と思う。「都合のいい女?」、「都合の良い人間?」、「どうでもいい存在?」・・・。相手の状況は一切お構いなしで、私が少し意見をしたり、すぐに返信しないと怒り出す。引き寄せの法則だとしても、私は彼らに嫌悪感を抱かざるおえない。

     

    真の心のつながりや円滑な人間関係、ギブアンドテイクまではいかなくてもよいが、バランスの取れた関係が望ましい。しかし彼らは、自分中心で世界が回っている。私は、自己中心的な人、他者に思いやりや労わりを示せない人に、何の魅力も深い人間性も感じない。だからそういう人たちとは、距離をおきたいと思う。

     

    バッサリ切り捨てたり、冷たく「ノー」と言うことで、私のことを「サディスティック」だと思う人もいるかもしれない。でも人生には、「いるものといらないものの整理」は必要だと思う。PHP4の乃南アサさんの文章にもあったように、「人間関係の棚卸し」は必要不可欠である。それで誰かが嫌な思いをしたり傷つき、離れていっても、私は「どうでもいい人の括り」を設けることにした。それにより、最重要人物や準重要、中級のつながりなどを、最優先することができるようになる。「どうでもいい人は、ほんとうにどうでもいい」のである。私が生きようが死のうが、どうでもいいと思われている人が、「どうでもいい存在」である。自分は私に求めてばかりであっても、自分からは私には与えてくれない人、それが「どうでもいい人」である。

     

    S学会の人とは上手くやっていく自信がない。「変な固定観念や価値観、生まれたときからの刷り込み現象、他人を低く見る姿勢、押し付けがましいところなど」が激しく、高圧的な人が多いからである。どこの宗教に属していてもかまわないが、人に押し付けがましい行為はしてほしくない。ましてや、少し仲良くなった人、そして特に退会した私には、「宗教がらみのことに関わることや参加させること」は、絶対に止めてほしい。ますます彼らの胡散臭い活動で、私はその宗教を嫌いになる。その悪循環で今までは我慢してきたが、私はもう我慢をしたり、イエスマンになるほどお人よしではいられない。命に限りがあることを知ってしまったからである。

     

    どうして世界に宗教というものが存在して、それにより、摩擦や諍いが起こり、他者を傷つける行為を行う。考えても考えても日や時が経つだけで、答えも解決策も出ない。めちゃくちゃになった国や人、環境や貧困を助ける人がいるが、その人の行為も無駄になるような現状。当事者の心が変わらない限り、永延と続く果てしないほどの繰り返される諸問題・・・。

     

    宗教や誰かを崇拝するような組織はいらない。また、人を傷つける者だけはどうしても許せない。芸能界や政治の場、メディアなどに蔓延する新興宗教や黒いものを持った組織・・・。そんなものに頼らないと、彼らは活動できないのだろうか?仕事がもらえないのだろうか?そして自由に発言し、怒りを顕わにし、泣いたり喚いたりを繰り返す人たち。あなたはそこに属していないと、テレビやメディア、どこかに存在することが難しいのだろうか?存在価値を脅かされることがそんなに怖いのだろうか?恐怖を感じることに、何の生産性があるのだろうか?みんなが行っているから安心・・・そんな考え方で「誰かのために」ということを、安易に語らないでほしいと感じる。

     

    今日も明日もこの瞬間も、誰かが誰かを傷つけ、世界各国で紛争が起きている。同じ人間が同じ人間を差別し、傷つけている。この終わりなき問題、人類が抱えるものは、いつになったら解決するのだろうか。この疑問を今日も抱えながらも、私は私らしい人生を生きていく。背伸びもどこかに属すること、誰かを妄信的に信じることとは無縁の生き方・・・。疲労困憊や衰弱し、落ち込むこともあるけれど、なるべくこの瞬間に、「笑顔を保てるような人」を目指している。

     

    誰かから見て不幸であっても、私から見て私が幸福ならば、私は幸福なのだろう。どんなに否定されても生きる意味・・・それはその本人、そして大いなるものにしかわからない。自然の摂理や成り行きに任せる人生。いい加減な生き方と捉えられても、私は自分らしい人生、息のつまらない人生を選ぶだろう。そして疑問に答えが出るように、日々、すべての物事から学べる姿勢を保ちたい。それが私の成すべきことである。もう傷つきたくない。でも傷つかないと何も学べない・・・と言ったところが真実なのだろう。

     

    私は、“S学会”という新興宗教だけは好きになれない。どんなに仲が良くても、それに属している人の価値観が歪んでいることを知っているために、私は嫌悪感を拭うことができない・・・それが真実であり、心からの叫びと拒絶である。
    ------



    2009年02月22日12:35宗教の概念と心の在り方は比例するとは限らない
    PermalinkComments(2)

    私が以前入っていた新興宗教。4年くらい入って活動をしていたが、やめて正解だと思っている。そもそも宗教にすべて頼るような人生は、反吐が出る。しかしそれが良いと思っている人もいるだろう。昔から存在する宗教もあるだろう。自分が信じて、自他共の幸福を願えるものなら素晴らしいだろう。すべての宗教が間違っているわけではないが、「世界では宗教の派閥や違いで、紛争が起こっている事実を知るべきだ」と認識することが大切である。

    「自分の宗教だけが正しい。他の宗教は受け入れることはできない」という、他者を他宗を尊重しないエゴの塊のような人と宗教のあり方が、長い間、関係ない人も巻き込みながら傷つけ合っている。

    ------------------------------------------------------------------------

    私が入っていたものは、友人の進めによって活動をすることとなった。しかし実家にいた頃に、両親にずっと反対されていた。父と母は、その宗教で嫌な思いをしてきたからだ。「とにかくしつこい」、「自分たちの論理を永遠と主張する」、「祈っていればすべての願いがかなう」と言ったり、「ずうずうしい態度をされた」、「気分を害した」、「その宗教に入っている人自体、幸福そうではない」ということを私に語っていた。だから、「働かないで祈っているだけで、お金が入ってくるのか?」と言われたり、「俺の知り合いは、祈ってばかりいて働かない奴だった。結局、祈っているだけで、働かず病気で死んだけれど・・・」、「本当に勧誘が酷くて嫌気が差した。今はそうでもないけれど、昔は酷いやり方が横行したもの。だから入会するのは絶対に止めなさい」と言われたりした。

    でもその時の私は、心身ともに疲れきって弱かったために、「何かに頼りたい、救われたい」という気持ちが強かった。だから一人暮らしと同時に入会した。「やっと念願がかなった」、「これで幸福になれる」と高をくくっていたものだ。しかし後々考えれば、『幸福は自分の心で作り出すものであり、外のものから得られるものではない』と気づくことになる。

    彼氏と暮らし始めて、汚い私の借家から今のアパートに引っ越すこととなり、所属の地域が変るということに直面した。引越しから、私はこの宗教への疑問が大きくなっていった。とにかくあつかましい人が多い。冷たい人も多い。偏見や差別というものが横行していて、心身共に疲れきっていった。宗教の関連書籍や新聞などを、「彼氏の分も取ってほしい」、イラクの自衛隊派遣に反対していたときも、「このビデオを見れば、あなたの心は変わる」と説得に来た。彼氏もこの宗教が嫌いだったために、「どうしようもない宗教だな。もう止めたほうがいいのでは?君が幸福そうならいいけれど、とても幸福になっているとは思えない」と言った。

    疑問を持ち始めてから、いろいろな活動について詳細にチェックを入れた。そして人々がどういう思いで活動しているか、この宗教の本質は何かというものを、図書館に通いつめて、関連書籍を手当たり次第読んだ。その頃から次第に心は離れていった。そして決定的な出来事は、「この宗教を批判する他人や会社に対して、”仏罰”をと祈らされたこと」である。「仏教」という概念を覆すような行為に、心から嫌悪感と猜疑心が渦巻いた。個人の名前や出版者の名前を前に、「〜に仏罰を与えてください」と祈らされた。正直びっくりした。それを何の疑問も感じないでみんなが取り組んでいることに反吐が出た。

    「ああ、これがマインドコントロールや集団ヒステリーのような、どうしようもない状態なのだろう・・・」と心の底から思った。だから、彼らがお願い事をするだけに家に訪れる行為に腹が立ち、「私が本当に悩んで困っているときには知らん顔をして、自分たちの都合のいい頼みごとをするときだけに家に訪れるのはやめてくれませんか?!」とかなりの怒りを込めて言った。彼らはその言葉に驚いて退散したというか、「この人は何を言っているのだろう?」と思ったのだろう。

    その頃から、嫌がらせのような行為や冷たい態度も強くなり、一年に一度納める「献金」もお金がないから納めなかったら、こっぴどく怒られた。しかし私は、都内の本部まで通いつめて、そのときに何度も献金をしていた。そのことを友人に話したら、「本部で収めているのならそれでいいと思う」と言われた。

    でもその先も猜疑心や疑心暗鬼は続いていき、結局4年くらいの入会にピリオドを打った。「あそこは悪どいから、簡単に辞めさせてくれないのでは?」という親しい人の意見があった。だから私は訴えてもいいというくらいの勢いと、気が触れたような演技をした。だからすんなりと何事も無かったように辞めることができた。今となってはとても貴重な体験であった。

    ------------------------------------------------------------------------

    私の知り合いや友人でも、その宗教に属している人はいる。でも勧誘やしつこいことをしなければ、普通の友人として付き合っていこうと思っている。彼らの本質はとても良い人であり、「親が入会していたから」という理由の人もいるし、「病気や貧困を抱えている人」が多いからだ。だから、知り合いや友人になる人がどんな宗教に属していようが、私は気にしないようしている。

    両親や彼が、この宗教に反対しなければ、私は流されるままにまだ活動をしてたかもしれない。しかし周りの人たちが、私に苦言を呈してくれたから、止めたいという方向に気持ちが向かうことができた。また、自分で考えて疑問を解決したという経緯から、「揺るぎない自分の確信や信念の確立」ができたため、もうどの宗教にも心動かされることは無いと感じる。

    宗教でお金がかかる、普段の休日に活動ばかりをして自分の時間がなくなる。人を誘う。知らない人に選挙をお願いする。誤った経典の解釈、他人の幸福を祈れない人たちの集まりなど、私には個性がなくなるような宗教はいらないと心から悟った。

    やりたい人はやればいい。でもそれを人に押し付けたり、思想や人格をなくすような傍若無人な行為だけは止めてほしいと感じる。とにかく宗教によって、日々争いや戦争、関係ない人たちがなくなっていることを肝に銘じてほしい。

    ------------------------------------------------------------------------

    義父に散々言われた、「石のような固い人間になるな。バカになっていればいろいろな人が心を開いてくれる。ユーモアがある人にみんなは集まってくるし、親しくなろうと思うものだ。だから、心や頭が固い人間には絶対になるな」という言葉。今も時々思い出しては、肝に銘じるようにしている。「果たして自分は父親の言うとおりの人物になれているだろうか?」と問いかけている。でも以前よりは、彼の理想の人間に近づいていると感じる。

    彼がいろいろあったにせよ、努力を惜しまないで人を使えるまでになったことは尊敬している。それに学校もろくに出ていなくて字が書けないのに、人を使っていたという事実。3ヶ月もトランクの中に乗っての通勤を余儀なくされたことや、先輩のいうことは何でもイエスマンになり、すべてを受け入れていたようだ。それは「独立したい」という彼の強い意思がなせるものであった。

    母親も若い頃か働き、紆余曲折やいろいろなことがあったが、明るく前向きに生きている。彼女がほとんど落ち込まない人であったから、私たち娘や父親は救われるところがあったのだろう。義父も心から悪い人ではなかったから、信頼と尊敬を寄せている。母親も誰にでも好かれるという長所があるから、妹のだんなさんと一緒に同居できるという素晴らしい環境が用意された。一軒家で一人暮らしなんて、
    本当にさびしい人生の終焉だと思う。

    ------------------------------------------------------------------------


    人生は、本当にいろいろなことがありすぎるくらいにある。センターに通っていて分かったことは私も含めて、ほとんどの人は「完璧主義」の人が多い。人生設計をあらかじめ決めていて、それに少しでも反れたり、挫折というものを感じたときに、「もうすべてダメだ」という感情を持ってしまうようだ。私の知り合いにもそういう人がいる。引きこもりやうつ病などになっている人も多くいる。

    私に散々酷いことを言った友人のだんなさんもうつ病になった。とにかく誰にでもなりうる病や症状であり、『自分の心を変える努力と、周りにいる親しい人が、私のことを考えて助言をしてくれるという異論や異見をどこまで寛容になって聞けるかが、この病や症状の軽減や完治につながる』と思う。

    ------------------------------------------------------------------------

    これから、防衛大学で有名なNさんという医学博士の、「心の病について」の公演を聴いてくる。彼がこの症状に対してどういう見解を語るかが楽しみである。私よりも優れているか、ただの勉強不足のありきたりのつまらないものであるかを判断できる。話の中身と、周りの人の反応を詳細に観察しようと思う。

    ------------------------------------------------------------------------

    そう、私は非常識で一般の常識からはみ出ている。しかし、普通の人よりもたくさん勉強して、自らの体験を基にこういった記事を書いたり、今後の人生に活かせる生活を目指している。自他共に幸福になれる術を探して、誰にも気づかれないような陰徳のようなものを重ねていくだけのただの普通の人間である。

    ただトラウマなどがあるときに、鋭い刃の人間に対してだけ恐怖というものを感じてしまう。その症状を持っているだけで、普通っぽいのである。体調不良によって働くことが難しかったり、若気の至りでけんかばかりしてやめることも多かった。自分に合わない仕事をしたり、遠くまで勤めて心身ともに体調が悪くなり、長く続かなかったことも否めない。

    しかし、「たくさんの仕事を経験したことが今の私を作っている。オールマイティに何でもできるような、生活に直結して活かせるような人」になれたことは褒めたいと思う。また幼少から、母親から家事全般をまかされていたため、すべての家事はこなせるようになった。それが今役立っているから、彼氏が離れないでいてくれるのだろう。バカで何もできない人であったら、すぐにわかれるような都合のいい女になっていただろう


    人生は不思議で必然性を秘めている。この神秘的な人間と心というものをこれからも解明していきたい。バカになったふりをして(実際も相当抜けているが(笑))、いろいろな人を観察して域自分の生きる糧にしていきたい。幅広い知識を得るためには、いろいろな人と心から語り合うことが大切である。だから、書籍や普段の生活から常に学ぶ姿勢を持つことに重きを置いている。それが私が人間らしくよりよく生きるための、術と方向性という道しるべ、人生の指針である。

    『この私の体験から、誰か一人でも笑顔になれる人が現れたら、私はそれだけで生きている意味や価値を見出せる。身近な人を笑顔にすることが私のやるべきことであり、”実践してこその哲学”を追及して研究するためには、欠かせない行為である』

    今日も明日も、なんだかうだつの上がらないような人生を生きているようでも、少しずつ変化を遂げている自分を愛していこう。そして周りの人も、生きとし生けるものも愛していこう。動植物や地球や宇宙というものまでも含めて、愛せる境地になれたら素晴らしいだろう。私が生まれた意味なんて本当は無いのかもしれない。理由付けをしているだけかもしれない。しかし、人生に意味を見出せる人や信念を持つ人は強く生きられる。私は強く生きるために生まれた。自分らしく生きるために生まれた。そして自分を愛するように他人を愛するために生きている。それに気づいただけでも、素晴らしくてかけがえの無い毎日を送ることができる。私というものはたった一人である。だからこれからも大切にしていきたい。

    ------------------------------------------------------------------------

    PS:PMSで体調が悪いため、誤字・脱字が酷いデス。。。

    2007年07月13日18:54 思考と宗教のついて <?xml:namespace prefix = o ns = "urn:schemas-microsoft-com:office:office" />   
    PermalinkComments(0)

     

    世界各国に様々な宗教がある。

    それにより紛争が起こったりたくさんの人が犠牲になったりしている。

    どうしてそんな事が起こるのか?

     

    それはそれぞれの宗教を尊重しないからである。

    そして自分の宗教が一番正しいというエゴが働いている。

    そのエゴが人々の憎しみや対立を招くのである。

     

    私にもエゴがある。

    欲や煩悩に支配されていた時もある。

    だけれどたくさんの書物を読んで気づいた。

    「空(くう)」になる自分をつくろうと。

     

    *************************************************************************

     

    ガンジーは言う。

     

    「お互いの疑う心を捨て去って欲しい。恐怖を生むのは弱さである。

    誰か一人でも恐れる事をやめたなら、我々は争う事をやめるだろう。

    明日死んでしまうかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ。」

     

    ガンジーの影響を受けた人の中に、チャップリンやキング牧師、アインシュタインがいる。

    非暴力・不服従の闘争を貫いたガンジーは、人間を信じ人間の良心の可能性に賭けた。

    人間は、無抵抗の人間を果てしなく殴り、傷つけ、殺し続ける事ができるだろうかと。

     

    「人間性への信頼を失ってはならない。人間性とは大海のようなものである。

     少し汚れても、海全体が汚れることはない。」

    彼の思想と行動は、抑圧と戦う世界中の人々に勇気を与えた。

     

     *************************************************************************

     

    「しばしば、とんでもない悲劇がかえって笑いの精神を刺激してれる。」

    喜劇俳優チャップリンの言葉である。

     

    映画『独裁者』ではヒトラーを題材にする。

    このラストの演説シーンで彼は語る。

    「この瞬間にも、私の声は世界中の絶望の中にいる人々の耳にも達しているだろう。

     みなさん、絶望してはならない。」

     

    『殺人狂時代』では

    「世界は大量殺人を唯一の目的に武器を製造しているのです。

    夫人や子供たちを科学的な方法で抹殺してきたではないか。」と語る。

    「笑いとはすなわち反抗精神である」

    悲惨な現実からも笑いをつむぐ強さ、柔軟さを彼は生かしきったのである。

     

    *************************************************************************

     

    世の中には善人と悪人がいるというが、悪人は生まれた時から悪人ではなく

    育った環境もしくは愛情不足などから悪の道に進むという。

    出会った人や環境が明るい場所に連れて行ってくれるか

    光の差し込まない地下道のような暗くて寒い場所につれていくかによってその道は分かれる。

    しかし悪の道に進むのは「原因と結果の法則」の作用によるものも大きく

    自分の心がそうさせた部分も否めないらしい。

    自らが悪の道を選んだということもありうるのである。

     

    私がで出合った人の中で少年院に行き、その後ヤクザの道に進んでしまった人がいた。

    彼は「どうせ自分は少年院上がりだから・・・」ということを口癖にしていた。

    まだ若かった私は、彼を少しでも助けてあげることもできない

    無力な人間だと感じたことを思い出した。ただ見守ることだけしかできない。

    その後彼はまだその世界にいるのだろうか。明るい日差しの下を歩いている事を願った。

     

    酒がタバコがドラッグが人生を狂わせる事もある。

    でもそういった快楽物質が無くならないのは、それがないと世の中はおかしくなってしまうのからだろうか。ODやリスカなどを続けている人はも現実逃避と浮遊感にそして救済を求めている。

    それが悪いことだと思ってもつい繰り返してしまう。

     

    人生は夢だからだろうか。本当に生まれ変われるのかさえ疑問が残る。

    いろいろな宗教が入り混じっていてどれを信じれば救われるのかがまったく分からない。

     

    *****************************************************************************

     

          9a0855e9.jpg

     

     

    *****************************************************************************

     

    救いを求めて、ある仏教系の新興宗教に入っていた時期もあった。

    始めはたくさんの人が属しているという安心感と、信じれば救われるという安堵感

    私は毎日祈っているから凡人よりも偉いのだという優越感を感じていた。

    しかし何年か続けているうちに、始めは組織に属している事が安心だと思っていた事が

    逆に何かに閉じ込められているような感覚に教われ息苦しくなっていった。

     

    一人暮らしを始めて相当な貧乏だった私はその組織に納めるお金を切り詰めないと無かった。

    それにもかかわらず、いろいろな救われるというなものを勧められてひどく辛かった。

    でも一番辛かったのは、自分の思想が無くなるということ。

    組織のなかでは自分の考えはまず認められず

    トップに君臨する者の意向をすべて受け入れなくてはならかった。

    そしてたくさん勧誘した人、お金を寄付した人が地位が上がっていく仕組みであった。

     

    そのトップというのは月に一回スピーチをする。

    しかしその内容はほとんどが彼の言葉で表現ではない。

    「かのニーチェが・・・」「フランスの有名な〜が・・・」など

    本を読めば誰でもわかるようなことを延々と話す。

    仕事で疲れて眠いのに「知ってる・・・くだらない。それより休ませて」と思った。

     

    お金が無くても貧しくても、温かい気持ちで迎えてくれるのが信仰ではないか。

    「お金が無いとダメだ」と彼らは言う。

     

    その時、私の両親が「絶対に入るな」と言った意味が良くわかった。

    母親はその宗教の勧誘でひどい目にあったらしい。

    そして父親の知り合いの人も・・・。

    さらに両親ともに、取引先の社長から延々と何時間も勧誘の話を聞かされて苛立っていた。

    二人は私に「祈って稼げるなら、一日中祈っていろ」と言った。

     

    都合の良い時だけ、家に来て頼みごとをする。

    そして普段は何の音沙汰も無く、困っている時に相談に乗ってくれるわけでもない。

     

    おかしいと感じたのは、仏教は基本的に人を憎んだり、人に「罰を」と祈ったりしない。

    だけれどその団体は「〜に罰を」と祈らされた。

    本末転倒だ。人間を慈しむのが仏教ではないのか。

    人のための世ため、見返りを求めずに人のために与えるそれが「慈悲」ではないのか。

     

    しかし、その人が正しいと思っている事は誰もとめる事ができない。

    親友も親が信仰をしていたので考え方が偏っていた。

    そしてしまいには彼女に裏切られた・・・。

    その後、病院で親友夫婦を見かけた。

    親友の旦那さんがうつになったらしい。

    もう親友に会いたくないためいくつかの理由で私は病院を代えた。

     

    人の思考は変えることはできない。

    だから自分の思考を変えるしかない。

    確たる自分を作り出すためにも、日々学び、いろいろな人の考え方を習得する。

    そしてそれをどう判断するかは自分の思考にかかっている。

     

    「自分の心だけは、絶対に他人に支配されない」と誓う。

     

     

    ********************************************************************************** 

     

    どうして異教徒同士の戦争が耐えないのか?

    どうして他人の宗教を認めないのか?

     

    私は私なりに答えを出そうと思った。

    自分で本を買って読んだり、図書館でたくさんの本を読み漁った。

    その結果、私は組織に属することを辞めて、

    神様や仏様と、11で朝と晩に向き合うことで充分だと感じた。

    そして毎日、坐禅や瞑想をする。

    自分の思考と止めるためと、自分と深く向き合うためだ。

     

    **********************************************************************************

     

                                      9a0855e9.jpg

     

    **********************************************************************************

     

    真実は自分の心の中にある。

    「他人に与えることで喜びを得られる」

     

    『すべての物事を正しく、ありのままに見ることができるようになったとき

     人はこの上なく穏やかな心を手にし、 人生のあらゆる不幸せからかいほうされるのである」

     

    私はこれからも自分の心に正直に生きていたいと思う。