image   未曾有の大震災から3年8ヶ月が過ぎました。被災の実態はテレビ等で知るだけでしたが、この度、友人らと宮城県・南三陸町を訪れ、その惨状の一端を知ることができました。
  大きな被害をもたらした志津川湾は、カキの養殖等が行われ、早朝から漁船が行き交い、何処にもある海辺の風景でした。しかし市街地に目を向けると、道路以外は津波に流され、骨組みだけにされた「防災対策庁舎」が建っていました。そこは南三陸町役場が隣接する等、町の中心市街地であったそうですが、津波は時速40~50kmの速さで何度も押し寄せ、引く時は想像を絶する力と速さで志津川湾に向かって流れたそうです。その被災状況は死者566名、行方不明者310名、建物被害は3,311戸となり、中心部の約8割が流出される惨状でした。

私達は「防災対策庁舎」に向かって、亡くなられた皆さんに哀悼の誠を捧げると共に、南三陸町を始め被災地の一日も早い復興を心から祈りました。
  被災地の皆さんはチリ地震等で「地震と津波」の意識が高く、その上「防災対策庁舎」2階の危機管理課からは防災無線放送により、命懸けのアナウンスで住民に「津波が襲来します。高台へ避難して下さい。」と繰り返し避難を呼びかけ続けました。しかし、その呼びかけに従った人もいれば、そうでない人もいて、残念ながら多くの命と町は壊滅的な被害を受けてました。それは住民の誰もが3階建の庁舎屋上を2mも上回る大津波が襲ってくるとは思わなかったろうし、高台に避難した人達でさえ目を疑ったことと思います。

自らも被災された「語り部ボランティア」の方は、生々しい実体験と教訓を話してくれましたが、胸の詰まる思いで聞き入りました。その中で大地震の発生に伴い、何故もっと早く大津波警報が発令できなかったのか。また今の科学技術なら10m、いやそれ以上の大津波が予測できただろうに、その情報が町に入ればこの惨状を少しでも減らすことができたと、憤りを呑み込んでいました。また語り部は「災害は自助と共助が同時に遣ってくる。瞬時の決断で、人を助けられるか、自分の命を失う。その時の判断ほど残酷なものはない。」と話され、我が身を持って考えさせられました。「がんばろう!東北」を合言葉に、一日も早い復興を望み、災害のない、安全・安心の町づくりを願いながら帰路につきました。