2013年06月29日

南会津の戊辰戦争 その5

遅ればせながら、南会津の戊辰戦争その1その2その3その4に引き続き、その5を…。
今回も季節感を分かってもらうため、本文中の年月は新暦で書いておきます。

八重の桜ポスターさてNHK大河ドラマ「八重の桜」では、遂に会津戦争に突入。
山本八重や白虎隊の活躍がいよいよ登場して面白くなってきました。
主人公新島八重の生涯をテーマとしたドラマではありますが、これまで戊辰戦争がなぜ起こったかを知ってもらえるドラマが少なかったので、会津の歴史を分かってもらうためにも是非皆さんに「八重の桜」を見てもらいたと思っています。

世良修蔵さて、
最初から新政府に逆らうことなく恭順の意を示した会津藩でしたが、仙台藩、米沢藩による会津救済の嘆願書を
奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵(長州藩)が拒否。
それどころか「
奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する
」とする世良の密書が明るみになり、仙台藩士等に襲われ福島市で処刑されます。
これをきっかけとして新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まり、
会津戦争は避けられない状態に…。

<風覧坊>


奥州街道沿いを進軍してきた新政府軍は、白河城、二本松城を落とすと1868年10月6日(慶応4年8月21日)いよいよ会津総攻撃を決行、母成峠に攻め入ります。
母成峠古戦場跡会津藩は主戦力の大半を日光口や越後口等の各国境を守っていたため、この時攻め込まれた母成峠
を守っていたのは、日光口から南会津を通って転戦としてきた土方歳三の新撰組や、大鳥圭介率いる旧幕府軍を中心とした800人余りでした。
土方歳三大鳥圭介それに対し、板垣退助ら率いる新政府軍は約3000人余り。
母成峠は広大で防御には困難な地形である上、圧倒的な兵力差に、大鳥らの奮戦も空しく次々に敗走し、遂に母成口を突破されてしまいます
会津藩が降参して開城するちょうど1ヶ月前の話です。

新政府軍による会津総攻撃の命は同じ日に各地に伝えられ、日光口の今市周辺にいた新政府軍も会津へ向けて北上し始めます。
一方の日光口の五十里宿を本営として残っていた会津藩の山川大蔵の下にも
「速やかに帰城すべし、但し途中如何の戦闘を避くべし」
との会津からの知らせが届き、急遽田島から若松に慌ただしく引き上げ
ます。

(南会津の戊辰戦争その1参照)

危機が迫った若松城下では、翌10月7日(旧暦8月22日)には
15歳以上60歳以下の藩士に総登城の命令が出され、白虎士中一番隊、二番隊の少年たちも登城します。
滝沢本陣この日、会津藩主松平容保は自らが陣頭指揮をとるために滝沢本陣に出陣。
そして遂に白虎士中二番隊にも出陣命令が出され、容保公の前後を守りながら家族に見送られるのです。


十六橋会津藩では迫り来る新政府軍に対し、猪苗代湖から流れる日橋川の十六橋(じゅうろくきょう)を破壊し、なんとか敵の侵入を防ごうとします。
鬼官兵衛こと佐川官兵衛が白虎士中二番隊や奇勝隊等を率いて十六橋に当時の十六橋向かいますが、当時は右下の写真のように強固な石橋であったために、先に到着した奇勝隊が破壊に手間取り、その夕方に橋げたを1枚落とたところで新政府軍に追いつかれ、最後の砦を遂に突破されてしまう。

こうなると、新政府軍はなだれ込むように若松城下に攻め込んできました。
戸の口原古戦場白虎士中二番隊37名が戸ノ口原で戦ったのは10月8日の早朝5時頃と言われていますが、新政府軍は午前9時過ぎにはもう城下へ突入しています。
戦いで傷を負いながら離れ離れになってしまった白虎隊士の内戸ノ口堰洞穴20名は、戸ノ口堰洞穴を通ってなんとか飯盛山にたどり着きますが、この頃若松城下は既に炎と黒煙に包まれていました。
その光景を見た白虎隊士は、「もう城は守れない」と涙し、覚悟を決めて次々と自刃します。
白虎隊士自刃の跡涙する白虎隊士自刃跡から見た鶴ヶ城白虎隊士の墓












はぐれた白虎隊士16名(蘇生した飯沼貞吉を除く)は、なんとか自力で生還。

滝沢本陣が危うくなると、会津藩主松平容保公もやむなく帰城します。
この日、山本八重が弟三郎の男装でスペンサー銃を担いで入城。
いよいよ籠城戦です。
鶴ヶ城城門は閉ざされ、逃げ遅れた会津兵と新政府軍の間で戦闘が繰り広げられて城下は混乱。
遠雷のような銃砲火の音が鳴り響き、あちこちで火煙が上がり約1000戸が焼失しました。
会津藩士の家では、婦女子も籠城して戦おうとしますが、老人のいる家では入城しても戦力とならずに兵糧を消費するだけで足手まといになりたくないと自決。
また、入城に遅れ、門を閉ざされて入城を果たせなかった婦女子も、
敵に捕まれば辱しめを受けると次々に自決していきます。
この日に自決した婦女子の数は233人にもなります。
一般領民にも数百名の死亡者が出て、10月8日の会津側の戦死者は殉難者も含めて600余名にも及び、戊辰戦争の中でも最も悲惨な一日となったのでした。

新政府軍が若松城下に攻め込んだ時、城を守っていたのは白虎士中一番隊と老幼婦女の100人程度でほとんど空虚だったと言うから驚きです。
このように早く新政府軍が城下に突入してくるとは全く予期していなかったため、籠城の準備は皆無だったのです。
国境の兵が帰還を始め、会津兵がようやく城に戻ってきたのはこの日の夜からでした。

籠城初日、いつ破られてもおかしくない危険な中、敵の侵入を防ぐことが出来たのは、実のところ八重さんを初めとして白虎士中一番隊や老人たちが決死の戦いで守り抜いたからなのです。

山本八重山本八重






会津城1ヶ月の籠城戦はドラマでもCGでその様子を再現していますが、実際には想像以上に惨たらしいものであったよう。
1
日に8000発の砲弾や銃弾が撃ち込まれる中、子供たちが弾薬を運び、婦人たちは負傷者を手当し着物を濡らして屋根の火死体を投げ込んだ井戸を消す、目の前では肉片が飛び散り壁に着く、負傷兵は唸っているし、横たわった死骸は葬る暇もないので空井戸の中に泣く泣く埋葬するなど…。
それは籠城戦で実際に戦った婦女子たちの手記を見るとよく分かります。
(会津籠城戦の三十日 星亮一 を読んで下さい)

あれれ、長くなりすぎた(^_^;)

南会津の話はどこ行った???

このつづきの南会津の話はその6で…。

あしからず<(_ _)>

いよいよこの次の八重の桜では、「八重決戦の時」で籠城戦の様子が放送されます。

「会津は負げねぇ、会津はこの手で守る」
八重さんたちの活躍に期待しましょう!


(おまけ)

八重さんは北出丸から狙撃して戦っていました。

城内の図面

鶴ヶ城には銃口の突き出た銃窓(鉄砲狭間)が1箇所だけあります。
さて、何処でしょう?

銃窓スペンサー銃






鶴ヶ城を訪れた時に是非探してみてください。


fuuranbow at 02:25│Comments(0)TrackBack(0)南会津の歴史 

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