2017年05月24日

郷人2017始動 会津魂〜想〜

5月21日()に茨城県大子町で行われた第14回常陸国YOSAKOI祭りで、郷人(下郷町)の今年の新曲が初披露されました。
今年のテーマは「会津魂〜〜」(おもい)
中野竹子像
「もののふの 猛(たけ)き心にくらぶれば 数に入らぬ我が身ながらも」

会津人なら写真とこの句を見れば誰のことか直ぐ分かりますよね。

そうです。
戊辰戦争で娘子隊(じょうしたい)として戦ってりっぱな最期を遂げ 涙橋で戦う婦女隊 た中野竹子です。                
籠城戦になり、照姫をお守りするために鶴ヶ城に入場しようとして、湯川に架かる柳橋(別名、涙橋)のたもとで新政府軍と戦った際に銃弾を胸に受けて倒れました。
その時、竹子の薙刀に結ばれていた ドラマ「八重の桜」での一コマ のがこの辞世の句です。

「立派な武士に比べれば、かよわい女でも少しでも役に立ちたい」
と、会津のために死を覚悟して戦うことを決めた、そんな女たちの想いが今年の踊りに取り入れられています。

         〈風覧坊〉     


郷人3 さて、その楽しみな今年の踊りはどんなでしょうか?
今年の郷人は女子力アップ。
着物の上に袴を履き、襷をあげ、薙刀を握りしめる女子たちの踊りは実にかっこいいです。
勇ましき現代版中野竹子がいっぱいいます。
YouTubeに当日の動画がUPされていますのでご紹介します。
  【メインステージ】
https://youtu.be/Za52p7jUfSk
                                                     【流し踊り】
           https://www.youtube.com/watch?v=ibZZJZ1RfAQ&t=11s

いかがですか?
ことしの曲も気迫のこもった踊りで、独創性、パフォーマンス度も申し分ない素晴らしい仕上がりです。
正直、郷人の会津魂を毎年楽しみに来ている観客も少なくないと思います。
アウェーでの成績は、残念ながら大賞(水戸藩YOSAKOI連)、準大賞(常陸國大子連)に次ぐ優秀賞でしたが、次の札幌よさこい祭りでは期待できますね。

さて、ここで感動ヒストリーです。
この日、郷人の曲の音源にちょっとしたハプニングがありました。
上の流し踊りの時もそうですが、曲の途中で音が途切れてしまって聞こえ難いというトラブルです。
そしてピンチが訪れます。
駅前通り第一会場の流し踊りでは、途中から完全に音楽が聞こえなくなってしまいました。
その時、郷人メンバーがとった行動は‥?                             
                                        【駅前通り第一会場】
           https://www.youtube.com/watch?v=xfzPeeU5JF4&t=18s

音楽が止まってしまったので、普通ならここで踊りも止めてしまうのでしょうが、とっさに判断したリーダーが「1.2.3.4‥‥」と声を掛け、それに続くようにメンバー全員が声を掛け合ってリズムを取りながら踊りを続けたのです。
そして、これに呼応して沿道で見ていた観客も手拍子でリズムを取って応援してくれます。
ハプニングの中、踊り手と観客が一体となって踊りきることができました。
見ていて感激、会場からも大きな拍手が送られました。
郷人の渡部代表が
「こういうこともあるんですよ。いいじゃないですか!」
と一言。
一番感動したのは渡部代表かも知れませんね。

(おまけ)
中野竹子のお墓は会津坂下町の法界寺にあり、竹子が愛用していた薙刀も法界寺の寺宝として残されています。
法界寺 辞世の句碑 中野竹子の墓 墓石












慶応4年8月23日(1838年10月8日)、新政府軍がいよいよ会津城下に攻め入ってきた時、中野家では竹子とその母の孝子、妹の優子の三人が、それぞれ長い黒髪を切り落とし、定紋付きの袷(あわせ)に袴をはき、頭には白羽二重の鉢巻きをしめ、たすきを十字にかけて、まさに家を出ようとしていました。
会津戦争記聞「ここで自害して果てるより、照姫様をお守りするために戦いましょう。」
母、孝子が発したこの言葉に、中野家の三人は、薙刀を手に持って照姫のいる鶴ヶ城に向かったのです。
その途中、依田まき子ら数名の女性たちと出会い、「照姫様は坂下へ避難された」との噂を聞き、竹子たちは合流して一路坂下へと向います。
ところが不運にも照姫は坂下にはおらず、既に籠城戦に入った鶴ヶ城にいることを知り、竹子たちは愕然とします。
やむなく法界寺に一泊し、翌24日の朝
「こうなれば、城内に入城して藩士達に混じって戦おう。」
と20人ほど婦女隊(ふじょたい)を結成。
参加したのは、
  ◇ 中野孝子(こう子) (44歳、竹子の母)
  ◇ 中野竹子 (19歳)
  ◇ 中野優子 (16歳、竹子の妹)
  ◇ 依田まき子 (依田源治の妻、35歳)
  ◇ 依田菊子 (18歳、まき子の妹)
  ◇ 神保雪子 (神保修理の妻、23歳)
  ◇ 岡村すま子 (30歳位)
  ◇ 平田小蝶 (竹子の義妹、18歳)
  ◇ 平田吉子 (小蝶の妹、16歳)
など20余名。   
中野竹子 竹子たちは、越後から退却してきて近くに布陣していた家老の萱野権兵衛に従軍を頼み込みますが、
「会津藩には婦女子を戦わせる習わしはない」
と認められませんでした。
それでも
「願いが叶わねば自刃する」
との竹子たちの熱意に負け、萱野は入城を果たすまでとの条件で藩兵の一隊に加わることを許可します。
そして、迎えた運命の8月25日。
城に向か途中、湯川にかかる柳橋(別名、涙橋)付近で長州と大垣藩の兵と激突します。
娘子隊 竹子は幼少の頃から鍛え上げた薙刀の腕で奮戦し、女と侮った敵兵を次々に切り倒しました。
恐れをなした敵兵の射撃で銃弾が竹子の胸を貫き、中野竹子はその場に崩れ落ちるように倒れました。 
中野竹子22歳の若さです。
妹の優子が、首級を奪われてはならじ 落城後の写真 と介錯し、首は白羽二重に包んで回収したとされています。 
孝子や優子たち残る婦女隊一行は退却してこの場を逃れ、後に入城を果たして、山本八重たちと籠城戦を戦い抜きます。
婦女隊の別名「娘子隊(じょうしたい)」は   、あまりの勇敢・奮戦ぶりに恐れ慄いた新政府軍が付けた隊名です。

今回の常陸国YOSAKOI祭りに参加した郷人の女子メンバーは約20人。
戊辰戦争時に戦った娘子隊とは、人数も年齢も同じような人たちだったのですね。

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